どうして、こういう時に限って、と自嘲してしまった。
コンクリートに着いた手と膝がジンジンと痛い。首筋に打ちつける冷たくも温かくもない雨が重い。
早く、荷物を集めて立たないと。
濡れた髪が視界の輪郭を覆う中、地面に転がるポーチ、財布、ハンカチ、ティッシュと手早く集めて鞄にしまう。そして、立ち上がろうとして、こういう時に限ってマキシ丈のワンピースなんて着ているから、踏んでしまった自分のワンピースに引っ張られて、地面に座り込んでしまった。水溜りはコンクリートの熱を全て吸収してしまったのだろうか。お尻が生ぬるい。ぼんやりと、地面に張り付く円形状に広がったワンピースのスカートを眺める。まるでお姫様のドレスのよう。
なんだか、立ち上がるのも疲れちゃった。なんて、空を見上げると、重たそうな雲から無数の雫が落ちてくる。雨が目に入ってきそうで怖くて、目を瞑ると、行き交う人々が水を踏む音がよく聞こえた。
私ってば、超痛い人に見られているんだろうなぁ。誰も声をかけてこないのは、誰もこんな奴と関わりたくないからだ。私だって、大雨の中座り込んで空を見上げている人なんていたら、近づきたくない。
おでこに打ちつける雨が張り付いていた前髪を左右に分けていくのを感じながら、いい加減そろそろ立たないと、と思った瞬間だった。額に感じていた雨に叩かれる感覚がなくなり、赤ん坊が片手に持つような太鼓がばらばらと鳴る音がする。そっと目を開けると深いブルー。
「何してるんですか?」
懐かしい声に後ろを振り返ると懐かしい顔が見下ろしていた。彼に会うのは何年振りだろうか。
大人になっても君は、そういう泣きそうな顔をして私を見るんだね。
「五色くんこそ、こんな所で何してるの?」
深いブルーの傘を全て私に預けた五色くんがそこに立っていた。
さっきまで彼はちゃんと傘をさして歩いていたのだろう。サラサラの髪がどんどん重たそうに沈んでいき、着ていたモスグリーンのTシャツは肩から色を変えていく。
私はもう濡れ鼠だから傘なんてさしてくれなくていいよ。それよりちゃんと五色くんにさしてあげて。
そう言おうと思って口を開けば、口がわなわな震えだす。鼻の奥がつんと痛いのは、鼻を啜った時、雨水まで吸い込んでしまったからだろうか。
「ほら、早く立ってくださいよ」
目の前に差し出された輪郭が揺れる大きな手。私なんかがこの手を取ってもいいのだろうか、と、触れる直前で手を止めると、その手を強引に捕まれ、引っ張りあげられた。
家まで送りますよ、と感情の読めない声色で五色くんに言われ、いいよ、と断ろうとして頷いてしまった。もう、家まで歩いてすぐなのに。
帰りの道は、二人で傘に入って歩いた。私はもうびしょびしょだから、傘なんてさす必要がないのに五色くんは傘を私に傾けて、肩を濡らしている。なんで、私なんかにそこまでしてくれるのだろう。黙って歩く五色くんを見上げると、五色くんは澄ました顔でただ前だけを向いており、やはり、その表情を読み取ることはできなかった。
私が住む一人暮らしのマンションの前に立つ。屋根の下に入って、そのままマンションの中に入ろうとするが、着いてきてくれていると思っていた五色くんの気配が後ろに無い。振り返ると、五色くんはマンションに踏み入れることなく、激しく降る雨の下、傘をさして立っていた。
「何してるの?」
「俺、帰るんで。さよなら」
「ま、待って!」
五色くんが行ってしまいそうになったので、慌てて声をかけると、泣きそうに笑う顔だけこちらに向けられる。
「体拭いていきなよ」
「別にいいですよ。もう帰るだけですし」
「でも風邪ひいちゃうよ」
「これくらいで風邪引きません」
「でも、そんなに濡れてたら電車に乗れないでしょ」
「電車に乗らないので大丈夫です」
「で、でも……」
こんな状態で五色くんを帰すなんてできない。五色くんが濡れてしまったのは私のせいなのだから。これでもし、五色くんが風邪でもひいてしまったら私はどうすればいいの。
「そんなに俺に帰らないでいて欲しいんですか?」
私の言い訳全てを粉々に砕く言葉。返す言葉が何も出てこなくて、胸の前で握った両手は震えてしまった。
「ナマエさんは相変わらずですね」
穏やかにそう言った五色くんは、長い足をゆったりと動かしながら水を踏んで近づいてくる。屋根の下に入ると畳んだ傘をブルブルと振って、またこちらに向かって歩いてくる。傘の先から水がポタポタと絶え間なく落ちていくのを眺めていると、五色くんのサンダルを履いた両足は私の前で止まった。
「また男に捨てられたんですか?」
またって。やっぱりあの時気づいていたんだ、と悟って顔が熱くなる。
「まだ、捨てられては……」
街で手を繋いでいた女の人は誰? とあの人に聞かない限りは、まだ。
「まだ?」
優しく問われて、ますます顔に熱が集中した。この子はいつからこんなにも大人のような喋り方をするようになったのだろうか。
「と、とにかく、風邪ひいちゃうから、早く部屋に上がって」
五色くんがどんな顔をしているのか見ることができず、俯いたまま、マンションの中へと向かった。
太陽のように眩しい笑顔が五色くんから消えてしまったのはいつからだっただろうか。いや、これは正しい表現ではない。正確に言えば、私の前でだけ、無くなってしまったのはいつからだっただろうか。
そんなことは考えることもなく思い出すことができる。笑顔が消えた瞬間の五色くんの瞳の色と共に。
私が高三、五色くんが高一の時のことだった。五色くんは私の両手を固く包み込みながら言ってくれたのだ。
『ナマエさんが俺だけを見てくれるなら、俺はナマエさんのものになりますよ』
五色くんは真剣な眼差しで私を見つめてくれていたのだけど、私はいつも無邪気に笑ってくれていた後輩の物とは思えないその全てを見透かしたような瞳が怖かった。
きっと、その感は間違っていなかったのだろう。
あの時、五色くんは、どうして私が五色くんと一緒にいたのか全て分かっていて私のそばにいたのだ、と先程五色くんに“また男に捨てられたんですか”と聞かれた今なら分かる。
『何ふざけてるの? 冗談でしょ』
それが私のかつての答え。その瞬間だった。五色くんの瞳からふっと光が消えたのだ。
『そうですね。冗談です』
五色くんは、深い闇のような瞳をしたまま、ニコリと笑って私から去っていったのだった。
それから五色くんとは関わっていない。
濡れた手で、鍵を回して、部屋の扉を開く。入って、と言えば、開いた扉に私の後ろから手をかけた五色くんは困ったような顔で笑った。何も見なかったことにして、靴を脱ぎ、廊下を進む。べちゃ、べちゃと、濡れた足で廊下を踏み、時折滑りそうになりながら、廊下の先にあるリビングへと向かおうとして、いつまで経っても五色くんが後ろをついてくる気配がないので振り返ると、五色くんは、玄関で靴も脱がずに立っていた。
「そんな所で突っ立ってないで上がってよ」
「いえ、ここでいいです。濡れてるし」
「別にいいよ、私も濡れてるんだから」
「いえ、大丈夫です」
「なんで?」
「なんでって、ナマエさんは本当に分からないんですか?」
あ、男の人の目だ。
あの日と同じ、真っ直ぐに私を見ている先の見えない深い黒の瞳が、そこにあった。少し、怖い。暗い廊下がそう思わせるのか。慌てて隣にあった廊下の照明のスイッチを押した。オレンジの光が濡れた五色くんの髪を反射する。電気をつけたせいで、五色くんの顔に落ちる影は余計に際立ってしまったようだった。
「タオル、取ってくる」
声が少し震えてしまった。
リビングの先にある脱衣所の棚から清潔なバスタオルを二枚掴み、玄関へと戻る。持っていたバスタオルの一枚を五色くんに渡した。
「ありがとうございます」
タオルを受け取った五色くんは顔を拭いた後、広げたバスタオルを片手で掴み無造作に頭をガシガシと擦る。
「お洋服どうしよっか。洗濯する? それともドライヤーでかわか――」
「それ、本気で言ってるんですか?」
「え? ドライヤーはまずかった?」
五色くんの髪を拭いていた手が止まる。
もしかして、五色くんは怒っているのだろうか。五色くんの口調が強い。俯いているせいで五色くんの表情は見えないのだけど。
いい加減にしてください、と言った五色くんはバスタオルを持っていた手をだらりと下ろした。
いい加減に? なんのこと?
「ナマエさんはそんなに俺を家にあげたいんですか? あげてどうしたいんですか? またあの頃みたいに俺を利用したいんですか?」
ぎくりと震えてしまい、バスタオルで顔を押さえていた手に力が入る。
顔を上げた五色くんは、辛そうに顔を歪めてそれでもヘラリと笑って私を見た。
“またあの頃みたいに”。
当時付き合っていた彼氏に浮気をされ、いや、あの時は私が浮気相手だったのか。今回もそうかもしれないけど。
そして、その彼を失った寂しさを埋めるため、いや、彼への当て付けのためだった。彼はバレー部であり、強豪校の白鳥沢に来ておきながら三年間公式戦に出ることのできなかった選手だった。だから、同じバレー部で、しかも、レギュラーを獲得した子のそばにいれば、彼への当てつけになると思ったのだ。
きっと、五色くんじゃなくても良かった。たまたま、そばにいてくれたバレー部の子が五色くんだったから、あの時、五色くんに縋ったのだ。
今回も、街で彼氏が他の女性と歩いている姿を見てしまった私は、あの時の私と同じように惨めな女を演じることとなる。
だから、また、あの頃みたいに、自分を慰めるために五色くんを利用しようとしているのだろうか。
「そんなつもりじゃ……」
「そうですよね、自惚れてました。すみません」
五色くんはあっさりとそう言って、暗い瞳をしたまま綺麗に笑った。胸の内側をぐちゃぐちゃにかき混ぜられたような気がした。
「やっぱり帰ります。タオル、ありがとうございました」
タオルを差し出され、受け取らずにいると、五色くんはタオルを綺麗に畳んで廊下に置いた。そして、背中を向けて、扉に立てかけていた傘を取り、ドアノブに手をかける。
持っていたタオルを床に落としてしまった私は、そのまま靴も履かずに、玄関に足を踏み入れ、大きな背中にしがみついた。
「待って! 帰らないで!」
「なんでですか?」
「……わからない」
濡れた背中に体を寄せると、じんわりと五色くんの熱を感じた。そういえば五色くんの匂いはこんなだった。おひさまに包まれている時みたいに心を穏やかにしてくれる匂いだ。
「ナマエさんは、相変わらずですね」
五色くんが振り返ろうとするので、背中を掴んでいた手を離す。私の正面を向いた五色くんは、眉尻を下げて笑った。本当に、随分と大人のような表情をするようになったと思う。五色くんのこめかみからは、雨なのか、汗なのか、わからないが雫が伝っていき、顎までいくと、玉になって滴った。
「もう、俺だけを見てなんて言いません」
静かにそう言った五色くんの大きな片手が私の頬に伸びる。その手に頬を触れられてしまうと、体が強張った。まるで怖がらないで、とでも言うように優しく頬を包まれる。
「ナマエさんが俺を求めるなら、今度こそ俺はナマエさんのものになりますよ」
あの日と違って、随分と丸みのある声で言われ、胸が締め付けられた。どうして彼はこんな大人になってしまったのだろうか。きっと、それはお互い様なのだろう。
はい、とも言えず、だからと言って、いいえとも言えないでいると、おでこにおでこをくっつけられた。
「キス、してもいいですか?」
頷けない代わりに目を瞑る。
「好きです、ナマエさん」
熱い唇で口を塞がれた。