薬の服用について賛否などの主義主張をする意図はありません※
最近、ナマエさんは俺の前で良く笑ってくれるようになった。セックス以外の時も俺の体に触ってくれるようになった。
きっと、俺はその華奢な腕を掴んだつもりでいたんだ。
だから、聞いてしまった。だって可笑しいじゃないか。今日行ってもいいですか、と聞いて、断られたことは今まで三度しかない。一つは出張で、二つは体調不良だ。それ以外の日は三日と明けずに通い、ナマエさんに受け入れてもらっていた。そんなことあるだろうか。夜を断られる日だってあっても良かった筈だ。だから、もしかしたら、ナマエさんは何か、深刻なことを抱えているんじゃないかって。心配になってしまっただけなんだ。
いつものように自分でナマエさんの部屋の鍵を開けて部屋に入ると、ナマエさんは丁度洗い物をしている最中だった。後にした方がいいだろうか、と少し迷ったけど一度気になってしまうと、一刻も早く真相を知りたくて、ナマエさんの隣に立ち、女性にこんなことを聞くのは失礼かもしれませんが、と前置きをした。あまりに低い声を出してしまったせいか。いつもだったら洗い物をしたまま話を聞きそうなナマエさんだったが、わざわざ手を洗い俺の方を見てくれた。
水を止めた蛇口から雫が、ぽちゃん、と水の溜まった皿に落ちる音を聞いて、口を開く。
「ナマエさんは、その……生理、ちゃんと来てますか?」
口ごもりながら聞いてしまったが、あぁ、と軽く言ったナマエさんはこう言う質問を今まで何度もされてきたのだろうか。事もなさげに続けた。
「ちゃんときてるよ。ピル飲んでるから出血量が少ないだけで」
え? と一瞬自分の耳を疑ってしまった。
「なんでピルなんて……」
「子どもできたら困るし」
「じゃあ、子ども作るようなことしなければいいじゃないですか!」
思わず下ろしていた手に拳を握って声を荒げれば不満げな顔が返ってくる。
「五色くんがそれ言う?」
「そうじゃなくて!」
キョトンとした顔で俺を見上げるナマエさんには全く話が通じていないようだった。
なんで、あなたはいつもそうなんだ。
そう思うと、どうしてか、俺の方が泣いてしまった。
自分が傷つけられるよりも、辛いからだ。柄のないナイフを握りしめて、自分自身も傷つけていることに気づいていないあなたを見るのは、何よりも辛い。
俺が泣く姿を見て、困惑するような顔をした彼女はそっと俺の頬に手を伸ばしてくる。その手をきつく掴んでやった。やっぱり細くて、華奢な手だ。
「どうしてあなたはそうやって自分を蔑ろにするんですか!」
「別に蔑ろになんて――」
「してますよ! ちゃんと避妊してくれるような人を選んでくださいよ!」
ナマエさんの手を掴んでいた手に力を込めると、あの日の苦い記憶が蘇った。
『ナマエさんが俺だけを見てくれるなら、俺はナマエさんのものになりますよ』
それはナマエさんの中で自分は何者でもなかったことを知らず、俺を選んで、と思いぶつけた言葉だった。
あの時は薄く笑った彼女に逃げられてしまったが、あの時と違って深く時を共に重ねた今なら、彼女は自分を選んでくれるかもしれない、という淡い期待があった。
今度こそ、俺を選んで。
祈る気持ちでいたが、ナマエさんに顔を背けられてしまった。彼女を掴んでいた手からひんやりと冷たいものが体に流れ込んでくる。
「最近は選んでるよ……そういうのちゃんとしてくれる人……」
臆する事なく生理はちゃんと来ていると言ったさっきとは打って変わって口ごもりながら呟いた彼女は、まるで何も知らない少女のように顔を赤らめた。
なんだよ。その顔。
高校生の時すら見たことがない彼女の初心な表情に先程まで抱えていた、血が煮えたぎるような怒りや悲しみがすっと消えていった。
どうして、彼女のプライベートに踏み入ってしまったのだろうか。
ただ、心配になってしまっただけなんだ。
もし、彼女が何か抱えているのであれば、今までと変わることなく、全て受け入れてあげよう、と独りよがりに誓っていた。とんだピエロだ。
知りたくなかった。俺以外にもいるんだってこと。
ナマエさんを大切に思う人がちゃんと。俺以外にもいてくれてるんだってこと。
「なら……良かったです……」
良くなんかねーよ。
途端に足元が崩れていくような感覚に襲われた。目の前のナマエさんは相変わらずのナマエさんではなかったのだ。
「ピルは避妊目的のためだけじゃないよ。もともとは私、生理不順だったから、規則的に生理を来させるために飲み始めたものなの」
「そうだったんですか……」
それは、これからも服用するから文句を言うなと言うことだろうか。
血の気がどんどん引いていき、頭がガンガンと痛い。掴んでいたナマエさんの手を離してしまい、なんの役にも立たない俺の手はもう何もしたくないとでも言うようにぶらりと肩から垂れ下がるだけだった。
「それに避妊のためにピルを飲むことは別に悪いことじゃないよ」
「分かってます……」
分かってますけど、あなたの場合は違うでしょ。あなたの体のことなんて、考えないような男とばかりしていたから、あなたはそれを服用していたんでしょ。
そんなことを言えるような元気はもうなかった。
そういえば、昔、避妊しなくていい、とナマエさん、俺に言ったことがあったな。あれは、そういうことだったのか。あの時、受け入れてもらえたんだと思った自分が酷く愚かで滑稽だ。
体がふらついてしまい、ナマエさんの肩に顔を突っ伏した。
あなたの華奢な腕を掴んだつもりでいたのは俺の勘違いだったんですね。こんなにも泣きたい気分なのに、涙は出てこない。息をすることで精一杯だった。
「どうしたの?」
「いえ、なんでもありません……」
俺だって考えないわけではない。
ナマエさんへの想いを捨てれば楽になれるのだろうか、と。
でも、それができれば初めからこんなところに来たりしていない。ナマエさんに再会した日に、もう、こうなることは分かっていた。ただ、彼女の吐く息に蝕まれることを甘んじて受け入れるしかないのだ。
彼女の肩に体を預けていると、まるで恋人に触れるように優しく頭を撫でられる。どうしてナマエさんは、最近、セックスの時以外でも俺の体に触れてくれるようになったんだろう。嬉しい反面、辛い。
そうやって中途半端に求められるから、なおさらナマエさんから離れられないんだ。この人はそれを分かっててやっているのだろうか。
本当にあなたは、ずるい人ですね。
顔を埋めたナマエさんの首筋を噛む。ナマエさんは痛みに耐えるかのような呻き声を漏らしたが、抱き寄せるように俺の頭を掴んだままだったから、血の味がするほど噛みしめてやった。