首筋に盛大な噛み跡をつけられてしまった。流石にカサブタの混じる噛み跡はコンシーラーを使っても隠せないから、キスマークはこうやってつけるんだよ、と五色くんの胸に一つ跡をつけて教えてあげた。すると、何が起こったのか分からないとでも言いたげな顔をした五色くんは泣いてしまった。最初は私の顔を見てポロポロと大粒の涙をこぼしているだけだったけど、すぐに嗚咽を混じらせるようになった。なんで泣いてるの、と聞いても五色くんは答えてくれず、俯いて、ただ、苦しそうにしゃっくりをあげながら、拭っても拭っても止まらない涙をひたすら拳で擦っているだけだった。
 昔、噛んで、とまで言ってくれた五色くんにキスマークをつけてあげれば喜んで貰えると思っていたのに、それは思い違いだったようで、私はまた五色くんを傷つけてしまったようだ。今回は何がいけなかったのだろうか。ピルを飲んでいることを心配に思ってくれているのか、と思い、飲んでいる理由は話した。飲むきっかけも話した。五色くんも納得してくれたようだったのに。
 キスマークをつけたとこと自体がダメだったのだろうか。なんで?
 きっと五色くんは一度裏切った私を信じていないから何も教えてくれないのだ。
 五色くんの、溜め込んでいたものを全て吐き出すように涙を落とし続ける姿を見ていると胸が痛くて、つい、五色くんを抱きしめてしまった。余計に泣かれてしまった。私は五色くんを泣かせることしかできないのだろうか。
 その日から私の体には沢山の赤い印が付けられるようになった。昔はキスマークの意味なんて全く分からなかった。つけたければつければという程度。つけて欲しいならつけてあげるという程度。どうせ、すぐに消えてなくなるんだし。
 でも、五色くんに前につけてもらったものが消える前に新たな印を刻んでもらえると、不思議と満たされた気になってしまう。
 五色くんと繋がった、ほつれていく糸が、いつか切れる日が。少し怖い。

 キスマークをつけてあげた日から暫く暗い顔をしていた五色くんだったけど、時の流れというものは便利なもので、私が何もしなくても五色くんはいつもの五色くんに戻ってくれた。
 リビングに顔を出し、柔らかな笑顔を向けてくれることに安心する。特に会話をすることもないけど、隣にいてくれることに安らぎを覚える。少し窮屈なベッドはいつも温かい。

 五色くんとの間に流れていた気まずい空気が完全にどこかへ行ってくれたある日のこと。朝起きたつもりでスマホの時計を覗いたら正午を回った頃だった。
「起きて! 五色くん!」
 慌てて隣で眠る体を揺らす。すぐに唸り声を上げた五色くんはびっしりとまつ毛の生えた目をゆっくりと開けて私を見上げた。
「どうしました?」
「遅刻だよ! 遅刻!」
「え!?」
 五色くんは勢いよく体を起こしたが、あっと言って首を傾げた後、俺は大丈夫です、と笑った。
「俺、今日休みです。ナマエさんには申し訳ないですけど」
「私も休みだよ」
「え……?」
「なんだ、じゃあ良かった」
 今日は土曜日で普通に休みなのだ。だから、私の目覚ましは鳴らなかったのだ。
 五色くんは私が仕事の日は私と同じ時間に起き、私が休みの日は一人で都合のいい時間に起きて、勝手に部屋を出て行く。五色くんの日常に関与しない私は五色くんがいつ休みなのか、毎日何時に起きなくちゃいけないのか、把握していない。五色くんも同じように私の日常には関与しておらず、五色くんも私の日程を知らない。さっきの口ぶりを見るに、私の週末は固定して休みだということも知らなさそうだ。私にも週末仕事に出たり、平日代休を取ったりと不規則な部分があるからだろうか。
 五色くんとはもう、一つの季節くらいは一緒にいることになるのだけど、私たちのお付き合いは再開した頃と変わらず夕方から朝までという限定された関係だった。だから、こうしてお昼に共にいることは新鮮だった。
「お休みの日が被るのって珍しいね」
 そうですね、と言いながらホッとした様子であくびをする五色くんはあくびを終えると眠そうな目のまま提案する。
「じゃあデートでもします?」
「デート?」
 いいよ、と返すと、自嘲に似た笑みを浮かべて発せられた、いえ、冗談です、という言葉と重なった。
「え、冗談?」
「あ、え? いえ! 冗談というのが冗談です!」
 さっきの寝ぼけ眼はどこへ行ったのか。五色くんは驚いたような顔をした後、慌てた様子で両手を振ってくる。
「冗談というのが冗談? じゃあ、冗談じゃないってこと?」
 ややこしいな、と思いながら返すと、もう、冗談の話はいいじゃないですか! と返ってくる。五色くんが冗談なんて言いだしたんじゃん。
「それより、どこ出かけましょう!」
 リードを咥えてご主人様を見上げるワンコのようなキラキラの眼差しを向けられて、どこに行きたいかを考えると、すぐに答えは浮かんできた。
「食器買いに行きたいかも……」
 男が変わるたびに捨てては買ってを繰り返してきた食器と箸。
 夜にしか来ない五色くんは恋人でもなんでもないから五色くんには買わなくていっか、と思っていたけど、最近、五色くんは夕方に来て一緒にご飯を食べるようになったし、なんだかんだで五色くんとの付き合いも長くなってきたしで、五色くんにも買っていいかなと思ったのだ。
 今までは私が使っていた食器で回していたけど、カレーのお皿に魚の煮付けを入れるのもなんだか見栄えが悪いし、うどんの食器にサラダを入れるのも変だしと。
「ナマエさん眉間に皺よってる。そんな顔になっちゃいますよ」
「ならないよ」
 私の眉間に置かれた長い人差し指を取ると、明るい笑顔が返ってきた。
 眉間に皺を寄せてまで色々と食器を買う理由を探してみたものの結局のところ。どうせ、また、今日買った食器はすぐに捨てることになるんだろうけど、それが今日でないなら、今日のために買ってもいいかな、と思っただけなのだ。
「じゃあ、お昼も外で食べましょう!」
 元気にベッドを出る五色くんを見ると、苦しくなる胸は少しだけ温かみを帯びるのであった。

 手持ち無沙汰にテレビを見ている五色くんを置いて、薄くメイクをして、なんとなくクローゼットの真ん中にかけてあったワンピースを手に取り袖を通す。残暑厳しい時期であるが、室内はどこに行ってもクーラーがキンキンで寒いので、袖が五分丈のこのワンピースは出かけるのに丁度いい。
 支度終わったよ、と五色くんに声をかけると、五色くんは、そのワンピース、と言ったきり固まってしまった。
「どうしたの?」
「いえ、お姫様のようで素敵です」
「なにそれ」
 眉尻を落として笑う五色くんは困っているようにも、泣いているようにも見えたけど、穏やかだった。
 確かに、マキシ丈のスカートってドレスみたいだなぁと思いながら、端を摘んでスカートを広げていると、肩に腕を回され覆い被さられるように抱きしめられた。
「どうしたの?」
「いえ……大好きです。ナマエさん」
 ありがとう、とだけ返して、丸まった背中に手を回した。

 電車で近くの繁華街へと向かい、高架下に並ぶレストランで食事を取った後、雑貨屋が沢山入るショッピングモールを目指す。
 休日の昼間。駅前の混雑する人混みをかき分けながら、五色くんと並んで歩くのは不思議な気分だった。やっぱり五色くんには、眩しい太陽が似合うなぁ、と思いながら青空を背景にする五色くんを見上げると私の視線に気づいたのか、見下ろす五色くんと目が合う。
「どうしましたか?」
「なんでもないよ」
 優しく細められた瞳とずっと目を合わせることなんてできなくて、前を向いた。

 雑貨屋のペアで並ぶ食器を見ていると、買いたくなってしまう。同じ形をした白いお皿に、淡い赤で花があしらわれたものと、淡い青であしらわれたもの。薄い緑のマグカップに薄い桃色のマグカップ。
 並んで置いてある、濃い赤で梅が描かれたお茶碗と濃い青で梅が描かれたお茶碗を見て、あっ、と思う。これ昔買ったことあるやつだ。これは絶対買わない、と思っていると、五色くんがそのペアのお茶碗をじっと眺めていた。
「五色くんこういう柄が好きなの?」
「好きというわけではないんですけど、綺麗だなって思って見てました」
「私はこういう柄はあまり好きじゃない」
「そうですか……」
 肩を落とした五色くんには悪いけど、この柄を五色くんとは使いたくなかった。とまで、考えて自分の頭がお花畑になっていたことに気づく。
「ペアの食器を買いに来たんじゃないよ! あっちの方の見よ」
「え、違うんですか?」
「そうだよ。五色くんの食器を買いに来たんだから」
「え! 俺の!?」
 そうだよ、と言うと途端に顔が熱くなったので、五色くんから顔を背けて、ペアの食器ゾーンから離れようとしたら腕を掴まれ、振り返る。
「俺の買いに来たんだったらペアでもいいじゃないですか!」
「私の食器はあるから、ペアはいらないの」
 えー、と言う五色くんは私の腕を離さないので、そのまま引きずるように五色くんを連れて、ペアゾーンから抜け出した。

 所狭しと食器が並ぶ店内で、この食器可愛いよね、とか。お茶碗はこれでいい? とか話しながら歩いていると、まるで私たちってカップルみたいだなぁ、と思う。実際周りから見たら私たちはカップルに見えているのだろう、と思い、前を向いたらドキリと胸がなった。
 前を歩く、私たちよりも少し若い男女。指を絡めて手を繋いでいるというのに、体を寄せ合いながら、顔を向かい合わせて微笑み合っている。この食器可愛くない? とか。お茶碗はこっちの方がいいんじゃない? とか。話している内容は私たちと全く同じなのに、紡がれる単語一つ一つが丁寧で、私たちが交わした言葉とはまるで違う意味を持っているかのように思えた。きっと、彼らが本物だ。
「どうしたんですか?」
「あ、や、えと……お箸を! お箸も買わないといけないと思い出して!」
 ぼうっとしてしまっていたせいか、五色くんは心配した様子で顔を覗き込んでくる。なんでもないよ、と微笑みかけると伸ばした下唇がピリッと裂けてしまった。そろそろ乾燥してくる季節か。血の味が口に広がり地味に痛い。舐めたところで唇の乾燥は酷くなると知っているのに、切れた下唇を口に含んでお箸を探した。
 気がつけば、私の腕を掴んでくれていた手はもう、五色くんの足の横で垂れ下がっていた。

 ショッピングモールを出ると、日は沈みかけ、空の青には闇が溶け込んでいた。買った食器の入った紙袋は五色くんが持ってくれていた。俺のだから、と言って私の部屋まで持ち帰ってくれるみたいだけど、今日はもう自分の家に帰ってしまうらしい。着替えがないとかなんとかで。
 駅につくと、クラシックな雰囲気漂う洋館のような駅はオレンジの光でライトアップされていた。西洋にあるシンメトリーの城を思わせるこの駅では、たまに、撮影の現場に遭遇する。今日もその日だったらしい。駅前の広場で、白いドレスに身を包んだ女性と、黒のタキシードを着た男性が向かい合っていた。瞳を閉じた彼らは額と額をくっつけ合い、静かに佇んでいる。
 その周りではカメラを持った人や花嫁の後ろに長く伸びるドレスを整える人など沢山のスタッフ達がいたが、遠巻きでは立ち止まった通行人が新しい門出に向かう二人を祝福するように温かな眼差しで彼らを見守っていた。五色くんも例にならって足を止めるので私たちもその一員に加わってしまう。
「綺麗ですね!」
「そうだね」
 穢れを知らない純白のドレス。刻々と空の色は黒く染まっていくと言うのに、ドレスは白く輝いたままだった。
 眩しすぎるそれは私には似合わない。似合わないからきっと、誰も着せてくれない。
 羨望や後ろめたさ。そういう決して綺麗とは言えない感情で、幸せを見てしまう自分が嫌で俯く。早くこの場を立ち去りたくて、五色くんの服を引っ張ろうとした瞬間だった。
「ナマエさんのウエディングドレス姿……素敵なんだろうなぁ……」
「え?」
「あ、すみません。俺なんかが……」
「そうだね」
 見上げると、しゅんとした様子で首を垂れる五色くんがいた。
 もっと早く彼と再会していたら、あんな変な始まり方はしていなかったのに。そうすれば、きっと。なんて、高校生の時、五色くんに対して酷いことを言った私にそんなことを思う資格はない。
 私が失った信頼は二度と取り戻せないんだ。いつか離れていく君に、好きだ、なんて言えない。でも、これくらいはいいかなと思って、ありったけの勇気を拳に込めて言ってしまった。
「工くん、今日はありがとう」
「いえ、こちらこそ……え? 今なんて言いました?」
「ありがとうって」
「その前!」
 五色くんはさっきまで口をへの字に曲げてまで泣きそうな顔して俯いていたくせに、子どものように興奮した顔で私を見下ろしてくる。
「聞こえなかったんだったらいいよ」
「聞こえたから聞いてるんです!」
「聞こえたならいいじゃん!」
 まるで、ここにも幸せがあるとでも言うような会話。そう思うと、駅の方から届くオレンジの光が玉ボケしてしまった。これ以上視界がぐちゃぐちゃになる前に早くこの会話を終わらせなければと思い震える口を開いた。
「だから……工くんって……」
 キョトンとした後に顔をクシャッとして笑った彼は、私の肩にいつもやるように突っ伏した。
「やっぱり……今日も泊まっていい?」
「いいよ」
 泣き虫、工くん。
 唇を噛むと、さっき割れたところから血が滲む。舐めると悪化すると分かっているのに、下唇を口に含んで震える背中を抱きしめた。