最初は体調の異変を風邪だと思っていたのだ。寒い日々が続いているし、仕事は忙しいし。体がだるいのも、吐き気がするのも、風邪によく見られる諸症状だ。これらの症状が一ヶ月以上続くことも良くある。特に気にすることもなかった。
五色くんから病院に行った方がいいのでは、と言われて、初めて病院に行くという発想になった。でも、こんなにも軽症で病院に行くのはなぁ、と思った時、いつもお世話になっている婦人科が頭を過ったのだった。
ピルを処方しもらっていた婦人科で、話をしやすいおばあちゃん先生がいるところだ。産科がないため、患者さんは少ない。何かあればおいで、と言ってくれた先生に甘えて、よく体調の相談に乗ってもらっていた。
仕事が早く終わった日に、婦人科に向かった。
受付で、今日はどうなさいましたか? と言われて、体調が優れないので先生に相談したいんです、といつものように返せば、問診票を渡される。暖房の音だけが聞こえる誰もいない待合室。ソファーに腰掛けて、問診票を記入していく。最後に来た月経日を記入するところにきて、ようやく、生理が一ヶ月以上来ていないことに気づいた。心臓の音が近づいてくる。頭の中が真っ白になってしまい、しばらく掛け時計の時を刻む音を聞いていたが、持っていたボールペンが床に落ちた音で我に帰った。同時に、何かがストンと胸に落ちてきて、変な納得をしてしまった。そっかぁ、そうだったんだ。その程度だった。落ちたボールペンを拾い、再び問診票を記入していった。
ピルはやめていた。ピルを服用していると五色くんに言った時に、五色くんに泣かれてしまったからだ。そんなことで自分の選択を変えるなんてどうかしているとは思った。でも、ピルをやめることで五色くんの涙が一つでも減ってくれるなら、と幼稚な考えが過ってしまったのだ。なんで五色くんが泣いていたかも知らないくせに。よく尽くすことと縋ることを間違えてしまうのだ。
五色くんのためにピルをやめたつもりだったのに、ピルをやめたことを五色くんに言えなかったのは、五色くんが避妊をしなくなったからだ。
ピルをやめたから避妊して。
ベッドで私を組み敷く五色くんを前にして、その言葉が口から出てこなかったのは、嫌われたらどうしよう、と思ってしまったからだ。五色くんがこんなことで私を嫌うわけがないのに。
一回だけなら大丈夫。すぐに掻き出せば大丈夫。すぐに掻き出せなくったって大丈夫。今までだって妊娠したことはなかったのだから。
根拠のない話だ。恋は盲目。なんて言葉で片付けられるものではない。でも、五色くんに嫌な顔をされたくなかったのだ。それに、何よりも五色くんと隔たりなく繋がれたことが嬉しかった。いい年をして、とは思いつつも、きっと、懐かしくも感じる恋に酔っていたのだろう。
婦人科を出て、ふらふら、と夢見心地で家に帰った。玄関の扉を閉めると、パンプスを履いたまま座り込み膝を抱えた。
婦人科の先生から想定外のことを言われることはなかった。先生の説明に対して、はい、はい、と相槌を打っているうちに診察は終わった。これからは、産科のある病院に行かなければならない。肩にかけっぱなしのトートバッグには先生に書いてもらった紹介状が入っている。
正直、困ったな、とか、やってしまったな、とかいう感想はあった。でも、これからどうしよう、という迷いはなかった。抱えた膝は暖かかったのだ。コートを着ていたが、お尻がひんやりとしてきたので、立ち上がる。体を冷やしたらまずいだろう。立ち上がれば、重かった体が嘘のように軽く思えた。しかし、パンプスを脱ぐとやっぱり体が軽くなったのは嘘だったと悟る。走ってトイレに向かった。
五色くんに妊娠のことは話せなかったし、話すつもりもなかった。いつか世界に羽ばたく人に、勘違いのような恋を背負わせたくなかった。これはちょっとカッコつけすぎだ。話せなかった理由はもっと子どもっぽいものだった。
でも、さよなら、を言う勇気までは持てなかった。適当な理由をつけてここに来ないように言うことで精一杯だった。
そうして、五色くんと向き合うことを避けていたある日のことだ。五色くんが部屋に来てしまった。もたもたしていたから先延ばしにしていた日が向こうからやってきてしまったのだ。
正面に座る五色くんを前にして、自分に言い聞かせた。
言わなくちゃ。ちゃんと、さよならを言わなくちゃ、と。
もう一人ではないのだ。勇気をください、と下腹に手を当ててお願いをすれば、口を開くことができた。
一度、話したいことがある、と切り出したら、きちんとお別れまで言えた。お礼まで言えた。本当はもっと沢山言いたいことがあったんだけど。
私も五色くんのこと好きだったよ。これからも応援しているよ。本当はまだ好きだよ。
でも、これらの言葉は、前に進まなければならない五色くんにとって不要な言葉だ。全部飲み込んだ。
「こちこそ、今までありがとうございした」
五色くんにそう言われて、ちょっと泣きそうになってしまった。自分から別れを切り出しておいてなんなのだけど、そんなにあっさり引かれるとは思っていなかったのだ。なんだ、五色くんも結局はその程度だったんだ。そんな勝手なことを思っていたら、五色くんは、でも、なんて言い出しちゃう。
「最後にナマエさんに触らせて」
泣きそうな顔がこちらを向いていた。
そんな、縋るような目で見ないでよ。最後だなんて、言わないでよ。
落としてしまった涙は止まらなかった。
五色くんは、私が口を開けないでいることをいいことに、一方的に主張した後、またね、と言って部屋を出ていった。
毎日看病しにここにくるって、何言ってんの。私の話なんて全然聞いてないじゃん。全然分かってないじゃん。でも、そういう一生懸命でいてくれるところ。本当に好きだったよ。
最後に触らせて、かぁ。妊娠してもセックスできるんだろうか。机に伏せていたスマホを手に取り、調べようなんてしてしまっている私がいる。でもなぁ。できたとしても、五色くんのセックスはしつこいからなぁ。思わず笑ってしまった。手に取ったスマホを机に伏せる。一緒に顔も突っ伏した。キッチンから聞こえて来る冷蔵庫の音がうるさい。なんだか、寒いし。五色くんがいなくなると、狭かった筈の部屋は途端に広くなってしまうのだ。引っ越そっかな。そう思った時、机に伏せたスマホが振動する。なんだろう、とほっぺを机に乗せたまま片手でスマホを拾い上げた。バックライトが点灯したスマホには五色くんからのメッセージ通知が表示されていた。通知をタップして現れたメッセージはアルファベットばかり。それはhttps から始まるURL だった。なんのページかな、とリンクをタップすると、一番上に太字で日本バレーボール協会。下には、数行の文章。なんで、こんなページ送って来たんだろう、と思いながらなんとなく、数行に渡る文章を読むと、今年度の日本代表選手が決まったことが書かれていた。さらに、スクロールしていけば、牛島くんの顔写真。相変わらず、彫刻のような凛々しい顔をしているなぁ、と思いながら、スクロールを続けて、テレビで見たことのある顔ぶれを辿っていく。あるところでピタリとスクロールしていた親指が止まった。伏せていた体を起こして、両手でスマホを抱える。さっきまで、正面に座っていた人が画面の中で笑っていた。
そういえば、五色くん話したいことがあるって言ってたな。このことだったんだ。なんだ、私がお別れを言わなくても別れの日は来ていたのだ。夢を叶えた五色くんはもう俯かない。つまりは私を必要としないということだ。めでたく、お払い箱となってしまったということに胸が締め付けられ涙が滲んでしまったけど、画面の中にある眩しすぎる笑顔を見ていると、頬は緩んでしまった。
“もう来なくていいよ”
五色くんへのメッセージを打ち込むと、簡単に送信ボタンを押せた。
背中から爽やかな風が吹き込む。そういえば、後ろにある窓を開けっ放しにしていたんだった。だから、寒かったんだ。窓を閉めようと、スマホを机に置き、立ち上がった。膨らむカーテンへと手を伸ばすと、窓から一片のピンクの花びらが舞い込む。ヒラヒラと踊るピンクは、机に置いたスマホの横に着地した。つまみ上げたそれは、とっても小さいけど、とっても綺麗。
一人で進む先はきっと多難であるけど、幸せに満ちたものにしたいなぁ。