※本編で飛ばしたところや後日談など。
引っ越しはダンボールに荷物を詰めて終わりではないことがなんとも酷な話だと思う。
1LDKのリビングは四つずつ積まれたダンボールで敷き詰められていた。それは、二人で住む新居へ引っ越してきた日のことだ。五色くんが日本代表選手が集まるという合宿を終え、私の部屋に来てくれたあの日、もしくは口論をしたあの日と言った方がいいだろうか。その日から一ヶ月ほどが経っていた。私も五色くんも今日引っ越してきたのだ。
一緒に住むなら早い方がいい、というのが五色くんの意見だった。五色くんは、ただ単純に一緒に住みたい、というような口ぶりだったのだけど、これから出産にまつわることで忙しくなりそうだったので、たしかに引っ越しは早い方に越したことはないと五色くんに賛同した。
私の職場からの距離や五色くんの活動拠点などを考慮しながら、二人で新居を探し、仮住まいにするにはちょうどいい物件が空いていたので、引っ越しすることを決めてから一か月も経たずして新居の契約をした。
そして、本日無事に、新居へ引っ越しをすることが叶ったのである。
平日の方が引っ越し料金が安いということもあり、五色くんの休みの日、つまりは火曜日である今日に私も休みをとり、引っ越し業者に五色くんと私それぞれの部屋から、荷物を詰めたダンボールを運んでもらった。現在、十三時。二人の荷物が全て運び終わり、私たちはダンボールの山の前で二人して立っていた。
私が前に住んでいた部屋で自分の荷物が詰まったダンボールが胸の高さくらいの山を成している姿も凄かったが、二人分のダンボールの山ともなると、その光景は圧巻だ。山の高さは胸くらいの高さであることには変わりないのだが、裾野が広い。なんたって二人で住む部屋のリビングを埋め尽くすほどなのだから。山というよりは世界の中心とも言われた岩のようだ。永遠に荷解きが終わらないのではないかとまで思ってしまう。
何から手をつけようか。日常生活で必要なものからだろう。私も五色くんも明日から、仕事ないしは練習に行かなければならないのだ。日常生活で必要なものは今日中に救出しておきたい。
洋服は衣装ケースのまま運んだからすぐに取り出せる。キッチンか、洗面所あたりだろうか。五色くんはキッチン出来なさそうだから、五色くんに洗面所を担当してもらって、私はキッチンの荷物を解いていこう。
「じゃあ、そういうわけでよろしくね」
隣で私と同じようにダンボールの山に圧倒されていた五色くんに、各担当を伝えて、キッチン、と書かれたダンボールをキッチンへ運ぼうとする。すると、五色くんは私とダンボールの間に分け入り、両手を広げて私からダンボールを守った。いや、ダンボールから私を守ってくれたのかな。
「俺が全部荷解きやりますからナマエさんは寝ててください!」
「そんな、病人じゃないんだから……」
「でも、転んだりとかして何かあったらダメでしょ」
私のお腹は少し膨らんできた程度だ。身重ではあるけど、まだ、身はそれ程重たくなっていないのだった。荷造りは殆ど自分でやれたわけだし。
五色くんは、ナマエさんの荷造りも俺がやります! と言ってくれていたけど、そういうわけにも行かないから、オフシーズンに入ったとはいえ日本代表選手として五色くんが忙しくしている間にちょっとずつ荷造りをしていった。そして、五色くんが張り切って腕を捲って私のお部屋に来てくれた日には、もう、九割方荷造りを終えていたのだ。その時の五色くんの落ち込み具合と恨めしそうな顔は今思い出しても笑ってしまう。全部私のためを思ってのことなのだろうけど。
そうやって一生懸命やってくれるところが、やっぱり、好きだと思うのだ。
「何笑ってるんですか?」
「なんでもないよ」
「絶対、今、俺のカッコ悪いところを思い出して笑ってたでしょ」
「そんなことないよ」
五色くんは訝しむように私を見るので、また、笑ってしまった。
「怪しい……」
「怪しくない、怪しくない。それより、荷解きは大丈夫だよ。私もやる」
五色くん一人だと、どこに何をしまうかとか、わからないことだらけだろうし。
「今、心の中で俺を馬鹿にしたでしょ」
「え、馬鹿にまではしてないよ」
「馬鹿にまでは?」
「あ、えっと……」
五色くんがジト目で見てくるので、思わず目を逸らした。
「それより、荷解き。荷解き。重たいものを運んだりはしないから。それならいいでしょ?」
「わかりました……でも、絶対無理はしないでくださいね」
「うん、わかったよ。ありがとう」
五色くんはまだ心配そうに私を見ていたけど、五色くんを押し退けて、ダンボールに手をかける。
「俺が運びますよ!」
「じゃあ、お願い。キッチンに持っていってね」
五色くんが、キッチン、と書かれたダンボールをキッチンへ運んで行ってくれたことを見届け、私は、調味料、と書かれたダンボールに手をかける。少し持ち上げてみたが、重たいかも。前の部屋で使っていたお醤油とかみりんとかがぎっしり入っているのだ。重たいダンボールを胸の高さから下ろすのは少し怖い。
「五色くん、このダンボールもキッチンに運んでくれる?」
「わかりました! 任せてください」
五色くんは運んでいたダンボールをキッチンに下ろすと、こちらに戻ってくる。その途中で、何かを思い出したように、あっ、と声を上げた。どうしたのだろうか、難しい顔をして私の前に立った。
「ナマエさん……」
私も、あっ、と気づく。このやりとりは、最近よく行われているのだ。
「俺は五色ではありません」
「五色くんでしょ」
五色くんが何を言いたいのか分かっていたけど、つい、そうやって誤魔化してしまった。
「ナマエさん!」
五色くんは頬をリスのようにパンパンに膨らませた。
「ナマエさんは俺のお嫁さんになるんでしょ」
「そうだけど……」
「じゃあ、ナマエさんも五色になるんだから、ちゃんと名前で呼んでくれなきゃ、五色って呼ばれても俺のことだって分からないです」
「分かるでしょ」
「分かりません!」
「でも、今はミョウジだし、ここには五色は五色くんしかいないんだから私が五色くんって呼んだら五色くんだって分かるよ」
自分でも可愛くないなぁ、と思いながらも、ぼそぼそと呟いた。
五色くんと口論をした時、もっと、五色くんに甘えようと思ったのだけど、こういう生き方が板についてしまっているようで、なかなか自分を変えられないのだ。五色くん相手じゃなければ、もっと可愛くやれたんだろうけど。実際、今まで男の人を喜ばせようとしてちゃんとやれていたと思うし。でも、五色くんを好きになれば好きになるほど、一途に向けられる思いに心がこそばゆくなって、こそばゆさに耐えようとするあまり、心が伝えたい思いを閉ざしてしまうのである。
今もその困った症状が出てしまっているようで、伝えたい思いに反して、まだ言い足りない、と口が勝手にくだらない言い訳を連ねていく。
「それにこの部屋には二人しかいないんだから、私が五色くんの名前を呼ばなくても、ねぇって呼んだ時点で五色くんって分かるよね。なんなら違う名前で呼んでも、あ、今呼ばれたかな? って思うよね……」
「ナマエさん!」
「はい……」
「頭がいいのか悪いのかよく分からない屁理屈はやめてください」
五色くんには言われたくない。
そっちが先に五色じゃない、みたいな変なことを言いだしたんだから、と思っていると、五色くんは私の心を見透かすように目を細めた。
「俺に言われるのは心外みたいな顔もやめてください」
心外とまでは思っていないけど。
でも、どうして、五色くんは私の考えていることが分かったのだろう。最近こういうことが多いのだ。五色くんばっかり、私の心の声を聞いているような気がして、ちょっとずるいと思う。唇を尖らせると、五色くんはふっと笑った。
「最近、ナマエさん表情豊かですよね」
「元からこうだよ」
「そうでしたね。あなたは元から可愛い人でした」
そういうことを軽々しく言わないでよ。五色くんだから許されるような甘いセリフに顔が熱くなる。顔を背けてしまうと、こっちを見て、というように顔を大きな両手に挟まれた。
「ほら、ナマエさん。ちゃんと俺のこと名前で呼んでください」
呼んでください、と言われて待たれると、ますます呼びづらい。でも、私と五色くんしかいないここで意地を張ってもしょうがないことは分かっている。
意を決して口を開いた。
「……む、くん」
「ナマエさんのそういうところも好きですけどね」
五色くんはぷっと吹き出した。口論をした日から、五色くんからは随分と余裕を感じるようになった。まるで、私が年下になってしまったみたいだ。
今まで五色くんが張り詰めていたのは、きっと、私が他の人と関係を持っていると思っていたからだろう。ちゃんと好きだという気持ちを言葉にして行動で示すことは大事らしい。だから、もっと甘えると決めたのだ。これからも五色くんとずっと一緒に生きていくのだから。五色くんがまた心配してしまわないように。そして、もっと好きになってもらえるように。
五色くんは私の顔を両手で包んだまま、背中を丸めて、おでことおでこをくっつける。
「俺のお嫁さんになるんでしょ。俺はナマエさんの旦那さんです。名前で呼んでくれなきゃ寂しいです」
五色くんは切なげに笑って、幼子に諭すように続けた。
「ほら、ナマエさん。あなたの旦那さんの名前教えてください」
ここで呼べなきゃ、一生、呼べない気がする。今度は、しっかりと最初の文字を音として紡ぐため、口の形を作った。
「つとむ、くん……」
「可愛い……好きです」
工くんは泣きそうな顔で笑うと、柔らかな唇で私にそっと触れた。
何度か啄むようなキスを繰り返され、私も工くんの唇を咥えては、離れてを繰り返した。熱い舌が口の中に入ってくる。口内で唾液の絡む音が響き、舌は深く絡まっていった。
「ん、つと、む……くん、はなし、て……」
情熱的なキスに涙が滲んでくる。工くんの胸を押しても、キスを続けられた。工くんが顔の角度を変えて、舌を伸ばすたびに、好き、好き、好き、と伝わってくる。それは、とっても嬉しいのだけど。
「もう! こんなことしてたらいつまで経っても荷解き終わらないよ!」
工くんが少し舌を引いた隙に、叫んだ。
「このダンボール運んで! 運んでくれないなら私が自分でするよ!」
「待ってください! それはダメですよ! 俺が運びますから!」
私がダンボールへと手を伸ばすと、工くんは奪うように、そのダンボールを持ち上げた。いそいそと、ダンボールをキッチンへと運んでいく。
その背中を見ていると、彼を突き放そうとしてしまったときに感じた息が詰まるような苦しさとそんな私を彼が包み込んでくれたときに感じた温かな愛おしさが胸にあふれてくる。
「ダンボール、ここでいいですか?」
「うん、大丈夫。ありがとう……その、工くん……」
「いえ! どういたしまして!」
ダンボールを置いた工くんは眩しい笑顔で笑ってくれた。