よく、俺の言っていた言葉だ。出会った頃のナマエさんは、きっと、相変わらずだったのだろう。でも、ナマエさんのことを知ったつもりでいたせいで、何もナマエさんのことを理解してあげられていなかった。
ナマエさんには、別に男がいるのだ。
一度、ナマエさんの首につけられた印を見てから、ずっと囚われていたことだ。
『毎日仕事で忙しい中、毎日のように五色くんと会ってるのに、いつ、その別にいるっていう好きな人と会うの』
ナマエさんが普段俺に見せる行動は分かりにくい。俺が話しかければそっぽを向いて、素っ気ない言葉を発してくる。きっと、不器用な人なのだろう。ナマエさんの言った通り、毎日俺に会ってくれていることが、ナマエさんの気持ちの全てだったのだ。
そう思えば、ナマエさんの今までの態度は随分といじらしいものに見えた。一度名前で呼んでくれたかと思えば、また苗字呼びに戻ったナマエさん。再び、名前で呼んで、とお願いしたら、嫌、と素っ気なく言ってきた。俺に興味がないから、そんな態度を取るのかと思っていた。でもあの人はそういう人なのだ。恥ずかしいとすぐに目を逸らすのだ。初めて、名前で呼んで、と言った時だってそうだったじゃないか。嫌、と言って、背けた顔を真っ赤にしていた。あの時は分かってあげられたのに、なんで、今まで何も分かってあげられなかったのだろう。
『俺はナマエさんのものになりますよ』
盲目的にあなたを愛して、あなたのものでいることがあなたの幸せだと思っていた。だから、あなたと向き合うことをしてこなかったのだ。
いや、でもナマエさんも悪いよな。一言、恥ずかしいから、とか言ってくれれば、俺だって察してあげることはできたんだ。
きっとナマエさんはめんどくさい人なのだ。俺の食器を買いに行く、と言った時も、眉間に深い皺を寄せていたじゃないか。そんな顔して言うことじゃないでしょ。そういう上手く生きられないところも好きだとは思いますけど。
でも、そんなツンの塊みたいなナマエさんはすっかりどこかへ行ってしまったようで。隣には、白いドレスに身を包んだナマエさんが慎ましやかに立っていた。こじんまりとした礼拝堂で、俺たちは司式者を前に結婚の誓約を行い、指輪を交換したのだ。
俺たちの子どもが一歳を迎えるのを機に挙式を上げることにした。子どもは俺の母親に預けてある。今、泣き声が聞こえてこないのは、俺の母親の腕の中でいい子に眠っている証だろう。よく寝る子なのだ。
挙式は親族のみで取り行うことにした。披露宴から友人やお世話になった人たちが加わる予定だ。ナマエさん側のゲストがとても少なく、俺が呼びたかったゲストの数を鑑みた時にバランスが悪くなることが気になり、挙式は身内だけで気兼ねなくしようということになったのだ。ウエディングプランナーとこの話をしている時に、ナマエさん友達少ないですもんね、と言って頬をつねられたことは記憶に新しい。
知っている顔しかいない中で行われる挙式はとても和やかなもので、本番の今よりもリハーサルの時の方が緊張していたように思う。リハーサルの時は、先に入場する俺が祭壇に向かってロボットのようにカクカクと歩いてしまい、後ろでナマエさんに笑われた。ナマエさんだって緊張していたくせに。無様な俺のおかげですっかり緊張が解れてしまったナマエさんは流石としか言いようがないほど全てをそつなくこなしていて少し悔しかった。
そうして、順調にリハーサルを終えて、本番の挙式もスムーズに進んでいき、司式者に誓いのキスを促されナマエさんと向き合った。
目の前に立つナマエさんを天窓から差し込む光が、まるでスポットライトのように照らしていた。天使が舞い降りたようだ。そんなことを言えば、ナマエさんは、きっと、大袈裟だよ、と言って軽く流すのだろう。でも、俺にとってあなたは天使だった。黒い羽が生えていたかもしれないけど。届くかどうかも分からない場所で一人寂しく座っているナマエさんは、ただの人である俺からすると、眩しすぎて、ナマエさんに手を伸ばすことは、焼かれる覚悟で光の中に手を伸ばすことと同じだったのだ。
こうして純白のドレスに身を包んだあなたを見ていると、涙ぐんでしまう。今まであったことをなかったことにすることはできない。勿論なかったことにする気はない。それは不恰好であっても確かに自分達が歩んできた道なのだから。でも、ようやく向かい合うことができた俺たちが、共に進んでいく道は真っ白で何も描かれていないのだと思うと、心が弾むと同時に感極まってしまうのだ。これからは、共に素敵な絵を描いていきたい。
ナマエさんの顔を覆うベールを上げれば、ナマエさんの潤んだ瞳は真っ直ぐに俺を見つめた。目が合うと、パールのような輝きを灯した唇は優しく弧を描く。思わず喉を鳴らしてしまい、彼女の肘に添えた手は震えてしまった。顔を近づけると、目を伏せるナマエさん。キスの場所は額だと、事前の打ち合わせで決めてある。どうしても人前でキスをするのは嫌らしい。大胆な性生活を送っていたくせに、普通の人が平気なところで恥ずかしがり屋を発揮するナマエさんらしいですよね。俺は口でもいいのに。今、口にキスしたら、怒られるかな。怒られるんだろうなぁ。きっとナマエさんは、この場では澄ました顔でやり過ごして、裏に下がった途端に真っ赤な顔でぷいってやるんだ。でも、最後には笑ってくれるんだろうな。最近はいつもそうだ。
ナマエさんの艶やかな唇をじっと見つめる。悪戯心をくすぐられたけどやめてあげた。唇で額に触れる。俺が離れると、ナマエさんは小首を傾げて微笑んでくれた。
披露宴は俺の関係者ばかりでやっぱりバランスの悪い感じになってしまった。でも、ナマエさんは全く気にする素振りもなく、憑き物が落ちたかのように楽しそうに笑っていた。
披露宴を終え、ゲストを見送った会場で、ナマエさんと二人残される。丸テーブルが並ぶ会場は閑散としており、祭りの後に感じる物悲しさを感じた。
やはり気を張っていたようで小さなため息をこぼせば、隣でも似たような音が聞こえてきた。ナマエさんを見下ろすと、ナマエさんも見上げており、どちらからともなく笑ってしまった。
毎日のように、飽きもせず、俺の名を呼び、好きだと言ってくれるようになったナマエさん。
でも、昔、ナマエさんが言っていたナマエさんを大切にしてくれている人って誰のことだったんだろうか。あの時、ピルを飲んでいると教えてくれたナマエさんに、ちゃんと避妊してくれる人を選べ、と言ったら、ナマエさんは俺から視線を逸らし、初めて恋を知った少女のような顔をして言ったんだ。
最近はちゃんと、選んでいるよって。
つまりはナマエさんを大切に思う人が俺以外にもいるんだ、ということだ。
あの時のナマエさんの顔は衝撃だったなぁ。ナマエさんも恋する乙女みたいな顔するんだって。それで、ナマエさんには別に好きな人がいるんだって勘違いするに至ったわけだけど。
あの時のうぶな表情を思い出すと、ナマエさんと結ばれた今でも、胸が苦しくなってしまう。
『ピル飲んでるって言った時、五色くんが泣いたからやめたの!』
ナマエさんの言葉が頭を過ぎる。
あれ? ナマエさん、俺のためにピルをやめたってことだよな。つまりどういうことだ? もしかして、ナマエさんあの時から俺のこと好きだったの? ということは――
え? 俺? 俺のためにナマエさんあんな顔してくれたの?
やば。顔が熱くなる。なんだよ。可愛いじゃん。出会った時からずっと、可愛い人でしたけど。
「何赤くなってるの?」
「何でもありませんよ」
隣に立っていたナマエさんに声をかけられ思考を中断する。意識は披露宴の終わった会場に呼び戻された。
もし、今ここで、ことの真相をナマエさんに確かめようものならナマエさんはまた怒ってしまうだろう。そして、きっと、口論をした時みたいに泣いてしまう。ナマエさんが、あんな風になりふり構わず泣きじゃくる姿はもう見たくなかった。
「それより、幸せになりましょうね」
「もう幸せだよ」
ナマエさんは目尻を下げて笑う。随分と柔らかな笑顔を浮かべるようになったなぁとも思うし、最初からこんな風に笑っていたかもしれない、とも思う。でも、そう言うことはどちらでもいいのだ。今、ナマエさんが俺に向かって笑いかけてくれていることが大切なのだと知っているから。
ナマエさんの頬に手を伸ばす。猫のように擦り寄ってくる姿が愛おしい。
「大好きです。一生離しません」
口にした誓いを永遠に体の中に閉じ込めることができるように、ナマエさんの唇にキスを落とした。
永遠を誓う特別な日は終わり、日常は淀みなく始まった。
ナマエさんはまだ育休中である。俺も一日中ナマエさんと子どものそばにいたいのは山々だったが、職業柄そういうわけにもいかず。今は大切な時期なのだ。ずっと立ちたかった舞台でなおも戦っている。
そんな日常の中で一番幸せを感じる時はやっぱり、自宅に帰った時だと思う。
毎日繰り返す練習が終わって、今日の戦果を片手に持ち帰る時もあれば打ちのめされて帰ってくる時もある、自分で鍵を開けて開く扉。光が灯された部屋から聞こえてくる、おかえり、を聞くと、今日一日何があったとしても、靴を脱ぎ捨て、馬鹿みたいに大切な人の名を呼び、光の元へ走って、迎えてくれた人を好きだと言いながら抱きしめるのだ。そして、思うのだった。
いつかは時が止まってしまえばいいのにと思ったこの時間をずっとあなたと過ごせますように、と。
きっと今までの俺であればそう祈るだけに留まっていたのだろう。
でも、これからは、二人で向き合って、その道を共に作っていきましょうね。