工くんと一緒に住み始めて一ヶ月が経った頃のことだ。
 工くんと過ごす二度目の夏が始まっており、日は傾いてきたというのに外では蝉が鳴き声を重ねていた。家に帰るとすぐにクーラーをつけてしまう季節の到来だ。
 先に仕事から帰ってきた私が夕食を作っていると、ただいま、の声と共に工くんが帰ってきた。おかえり、と玄関の方へと返せば、工くんが廊下から顔を出す。もう一度、おかえり、といえば、工くんは未だに泣きそうな顔で笑って私に抱きつくのだった。
 汗と制汗剤の香りに包まれ、その奥にあるお日様の匂いに安心して目を細めてしまう。
「ただいま。大好き」
「私も好きだよ」
「じゃあナマエさんも俺のこと抱きしめて」
「今、手が濡れてるから」
「別にいいですよ。すぐ着替えますし」
 そうは言ってもなぁ、と思い、濡れた手がつかないように腕を工くんの背中に回す。すると、また、大好き、と言われたので、私も、大好きだよ、と返した。もうすぐ晩御飯だというのに、甘い生クリームのような時間を毎日のように過ごしている。
 ぎゅっと抱きしめ合いながら工くんの穏やかな心音を聞いていると、工くんは、あっ、と声をあげた。
「どうしたの?」
「実はですね……」
 工くんは肩から斜めにかけていたボストンバッグをガサゴソとかき混ぜた。中ではジャージやTシャツが渦を巻いている。
「洗濯物はちゃんとかごに入れといてね」
「分かってますよ」
 いつも工くんはちゃんと洗濯物を出してくれるけど、三日に一回くらいの頻度で、一着か二着かがボストンバッグに置き去りにされている。朝、工くんのボストンバッグを覗いて、まだ、残ってたよって言いながら洗濯機を回すのが習慣だ。工くんは、すみません、確認したつもりだったんですけど、と項垂れ、耳の垂れたわんこのように毎回しょんぼりとするのだけど、その姿を見るとつい笑ってしまい、いいよ、と返してしまうのも、また、習慣だった。きっと、工くんが家に帰ってきて、洗濯物をかごにいれているときに、晩ごはんだよって声をかけてしまうことが置き去りの衣類を作ってしまう原因なのだと思う。晩ごはんだと聞いて、分かりました! と浮かれ顔でリビングに戻ってくる工くんは、晩ごはんという単語で洗濯物のことを忘れてしまうのだろう。
 話は戻り、ボストンバッグをかき混ぜていた工くんは、あった、あった、といってクリアファイルを取り出した。中には二つ折りの紙が入っており、工くんはその紙を宝物に触れるようにそっと取り出すと、私に広げて見せた。その紙にはクルミ色の文字が並んでいた。
「婚姻届、取ってきちゃいました」
 工くんは照れくさそうにしながらも、幸せそうに笑った。
「え、あ、そうなんだ……ありがとう……」
 私はそっと、ダイニングテーブルに手を伸ばし、工くんが手にしているクリアファイルとは別に、テーブルに置いてあったクリアファイルを回収して、背中の後ろに隠した。
「ナマエさん? 何してるの?」
「ううん、なんでもないよ」
「それ、見せてください」
「あ! 返して!」
 呆気なく背中に隠していたクリアファイルを工くんに奪われてしまった。工くんはそのクリアファイルに入っている二つ折りの紙を取り出し広げる。
「あれ? これ……」
「今日たまたま暇だったから役所に行って取ってきたの」
「ナマエさん……」
 私が隠そうとしたそれもクルミ色の文字が並ぶ紙だった。
 もう互いの両親には挨拶を済ませており、工くんの誕生日までには籍を入れたいね、と工くんと話をしていたのだ。しかし、これといって何も行動を起こすことなく、引っ越しの荷造りや荷解きで忙しくしていたら、あっという間に七月に入ってしまった。きっと、工くんの誕生日が来るのもすぐのことだろう。そう思ったのが七月初旬の今日のことだった。そういうわけで、今日、仕事からの帰りに婚姻届を取りに行ったのである。
 私が取ってきた婚姻届を丁寧にクリアファイルに戻した工くんはうるりと瞳を揺らした。
「俺、嬉しいです……ナマエさんが俺と同じことを考えてくれてて……それにナマエさん、普段こういうのあまり積極的にやりたがらないのに、俺と結婚するためにわざわざ役所まで行ってこの紙を取りに行ってくれてて本当に嬉しいです……」
「大袈裟だよ」
 たしかに、工くんが手にしているものは心がこそばゆくなりながらも一生懸命取りに行ったものではあったし、それを取りに行ったのは工くんが喜んでくれたらと思って行動を起こしたことではあったけど、そんなに大袈裟に喜ばれると、ちょっと恥ずかしい。
「今日たまたま暇で仕事の帰りに寄っただけだから……」
「分かってますよ……役所がナマエさんの職場から家とは反対方向にあることはちゃんと分かってます……」
「役所の方に買い物する予定があったの!」
「だからちゃんと分かってるんで大丈夫です……俺だって今日役所に行ったんですから、役所が俺たちの住んでいるような町にあることも分かってますし、わざわざそこに行って何か買うようなものなんてないこともちゃんと分かってます……」
「買うものくらいあるよ!」
「じゃあ何買ってきたんですか?」
「……いろいろ」
 私がもごもご言うと、工くんは、にっと笑って、再び、私を大きな体で包み込んだ。
「好き。分かりにくくて、分かりやすいあなたが大好きです」
「分かりにくくも、分かりやすくもないよ!」
「そうですね。ナマエさんはただ、可愛いだけです」
 ちゅっと額にキスをされ、つい、頬を膨らませてしまう。するとまた、可愛い、と言われ、甘い甘い生クリームの海に溺れてしまいそうになるのだった。
「でも、婚姻届二枚もいらないよね。もったいないけどこっちは捨てちゃうね」
 私が取ってきた方を工くんの手から攫って処分しようとしたら、工くんに攫われ返されてしまった。
「こっちで提出しましょう! 捨てるなら俺が取ってきた方で!」
「いいけど、どっちでも変わらないよ」
「いえ! ナマエさんが取ってきてくれた方の方が愛を感じます」
 そう言ってもらえるのは嬉しいんだけど、また、その話を蒸し返すのか、と唇を尖らせてしまう。でも、真剣な瞳をした工くんからは私をからかうという様子は感じられなかった。もしかしたら、工くんは本気で言っているのかな。
 どちらかが取ってきた婚姻届で出しても、何かが変わるわけではないし、こんなことで何かが変わってしまったらたまったものではない。だけど、新しい門出に願掛けしたい気持ちは私もあった。
「工くんが取ってきてくれた方の方が縁起がいいような気もするけど」
「確かに……」
「なんで確かになの」
「ナマエさんが自分で言ったことでしょ」
「そうなんだけど……」
 工くんに言われると、なんだか不服って思いながら工くんを見ると、工くんがふっと表情を緩めるので私も笑ってしまった。結局、どちらで出すかは決められなかったけど、間違えたときように二つとも取っておくこととなった。
「じゃあ、晩ごはん作るから待ってて」
「俺も手伝います!」
「手洗ってからね」
「分かってますよ!」

 後日、戸籍謄本(婚姻届と一緒に提出しなければならない戸籍が書かれた書類だ。婚姻届を書く際にもこの書類を参考にして書いていった方が間違いがないらしい)を取り寄せ、婚姻届を記入していく。二人で向かい合ってダイニングテーブルに座るけど、どちらの婚姻届がどちらが取ってきた方か分からなくなってしまった。と思ったのは私だけだったようで、全く同じ二つのクリアファイルを持った工くんが絶対こっちがナマエさんがとってきた方です! というのでそちらに、記入していくことにした。片方の婚姻届を端に置いて、工くんから書いていく。
「間違えるとしたら工くんの方だから」
「流石に間違えませんよ!」
 工くんは、そろそろとボールペンを動かしていく。氏名の欄に五色工の五という字を縦枠全てを使うような元気な線で書いていくが、一角一角が丁寧で、できあがっていく文字の一つ一つに工くんの思いが詰まっているようだった。ここの住所は、今住んでるところの住所だよ、とか、ここは戸籍謄本見て書いた方がいいよ、とか言いながら左側の枠が埋まっていく様子を見守る。静かに文字を紡いでいく工くんはどこか儀式的でピンと張った糸のような緊張感があった。工くんが、ふぅ、と一息吐くと、左側の欄――夫となる人が書く欄は全て埋まった婚姻届ができた。工くんは、安心した顔で持っていたボールペンと婚姻届を私に渡す。
 私も一角一角に工くんへの思いを込めて残りの右半分を埋めていった。全て書き終えると、工くんのように、ふぅと息を吐いた。あとは互いの親に、証人となる人が書く欄を埋めてもらえば完成だ。
 文字が詰まった婚姻届を両手で持った工くんは、感慨深そうにそれを眺めながら瞳を揺らした。
「泣くのは提出してからにしてね」
 工くんは婚姻届を机に置くと、片手で涙を拭って微笑んだ。
「俺知ってます。あなたがそうやってドライに見える時は一生懸命照れを隠してる時なんですよね」
「隠してない!」
 可愛い、と工くんは余裕を滲ませてばかりだ。
「俺もうナマエさんが照れ屋さんなことは知ってるんで大丈夫です」
「だから、照れてないって」
「ナマエさん顔真っ赤。好きです」
「だから、照れてないんだってば」
「はいはい。好きですよ」
 軽くそう言った工くんだったけど、机の上に置いていた私の両手に手を重ねると、真っ直ぐに私を見つめた。
「幸せになりましょうね」
 もう、十分すぎるほど幸せだよ。
 そう思ったけど、頷くだけになってしまった。でも、いつかはちゃんと伝えようと思う。思いを口にすることは大切なのだ。今はそれをできない代わりに、工くんの手を力いっぱい握り返した。すると、工くんは、それで十分ですよ、というように笑ってくれた。