いつも俯いている彼はこういう大人になってしまったのだと思っていたけどそうではなかったらしい。

 五色くんがいる夜が私の日常に溶け込んできた頃。私の髪の毛を乾かすのがすっかり習慣化した様子の五色くんは、お風呂から上がった私がドレッサーの前に腰掛けると、当然のように私の後ろに立ちドライヤーを手にした。
「今週末この近くの体育館で交流戦があるんですよ」
「この近くに体育館なんてあるの?」
「ナマエさんは、相変わらずですね」
 正面にあるドレッサーの鏡を見ると、鏡の中では私の髪へと視線を落とした五色くんが穏やかに笑っていた。ドライヤーのスイッチが入れられると、クーラーで冷えかけた首筋に熱風が当たる。
「その交流戦って今からでもチケット取れるの?」
「と、取れます! 取れますよ! ナマエさん見にくるんですか!?」
「熱っ、熱っ! 熱いよ、五色くん」
 ドライヤーの熱風で火傷しそうなくらい熱くなった後頭部を押さえながら五色くんを見上げると、慌てた様子でドライヤーを私から引き離した五色くんだったが、目には星の輝きを宿らせていた。
「チケット取りましょうか!?」
「え……? いいの……?」
「いいですよ! 髪乾かしたらすぐに手配しますね!」
「あ、うん……ありがとう……」
 私にとって、それはただの気まぐれだった。暇だし、バレーは別に嫌いじゃないし。近くで試合があるなら観に行ってもいいかなって。ただの孤独な時間を潰す一つの手段に過ぎなかった。
 そうして、迎えた週末。五色くんが取ってくれたチケットを携えた私は、体育館の客席に座っていた。
 熱気溢れる歓声の中、その他大勢に混じって、コートに立つ五色くんを見下ろす。バレーボール選手としての五色くんは高校生の時と何も変わらず、汗をキラキラに反射させて、常に上を向く眩しい人だった。
 その日から、五色くんが俯いているのは私の前でだけなのだろう、と思うようになったけど、それも私の勘違いで自惚れだったのだということを久しぶりに青空が広がる季節に知った。

 今日も五色くん来るのかぁ、と思いながら夜の食事を取っていると、玄関の方から鍵の回る音がした。五色くんだ。この部屋の鍵を持っているのは私と鍵を渡してしまった五色くんだけだから、今鍵を外から回した人物は五色くん以外ありえないのだ。
 五色くんがこの部屋の鍵を持つことになったのには、ちゃんと理由がある。
 先日、私がお風呂で頭を洗っているときにインターホンが鳴ってしまったのだ。いつものように、五色くんからその日来ることを知らされていたので、インターホンを鳴らした人物が五色くんだということはすぐに分かった。
 頭は泡だらけだったけど、慌てて頭に泡を乗せた状態でお風呂を出た。早くマンションのオートロック解除ボタンを押してあげないとインターホンの電源が切れてしまうからだ。インターホンの電源が切れてしまえば、こちらからマンションのオートロックは解除できない。疲れた五色くんを外で待たせるなんて、流石に申し訳ないと思ってしまったのだ。
 バスタオルを体に巻くこともせず、健気にインターフォンへと向かおうとしたところまでは良かった。しかし、お風呂マットから足を一歩踏み出した瞬間に足を滑らせ転びかけたのだ。危うく間抜けな姿で救急車に乗るところだった私はその日の内に四本あるスペアキーのうち一本を、いいんですか、と戸惑う五色くんに押し付けたのだった。
 五色くんの言葉を借りていうと、ただ”利用しているだけの人”に、鍵なんて渡してどうするんだ、と渡した瞬間にやってしまったと後悔したけど、嬉しそうに自分の鍵を通している輪っかに私の部屋の鍵を繋げている五色くんを見ると、やっぱり返してとは言えず。その日以来、五色くんは勝手に鍵を開けて部屋に入ってくる。
「お邪魔しまーす」
 玄関から聞こえて来る声は最近なんだか明るい気がする。なにか、嬉しいことでもあったのかな。調子がいいとか? ボーナスが出たとか? ちゃんと他に好きな人ができたとか?
 それでも五色くんの私に対する態度はいつもと変わらず。俯きがちで、ただセックスをして帰るだけ。
 別にそれで良かった。一人の時間が少しでも潰れ、眠れない夜が一つでも減ってくれるなら、他に何もいらなかった。
 彼の私生活に興味なんてないし、足を突っ込む気もない。五色くんの優しさに付け入っている私の立場でそれをしてはいけないのだということも分かっている。だから、何かいいことがあったの? なんて聞いたりはしない。
「今日来るの早いね」
 いつものジャージ姿でリビングに顔を出した五色くん。
「まぁ……」
 私から視線を逸らした五色くんの歯切れが今日は、なんだか悪い気がする。
「ご飯もう少しで食べ終わるから」
「大人しく待ってまーす」
 最近五色くんはご機嫌を滲ませるように語尾を伸ばすようになった。今日は歯切れがなく元気ないのかなとは思ったけど、語尾を伸ばすところを見るにやっぱりいつものやや明るめになった俯きがちの五色くんらしい。
 背負っていたリュックを下ろした五色くんは、私が座るダイニングテーブルの横にひいてあるアイボリーのラグの上で宣言通り大人しくお座りをする。
「お風呂は?」
「入ってきました」
 俺にお構いなく食事の続きを、と付け加えた五色くんは前方にある真っ暗のテレビ画面をぼーっと眺める。手持ち無沙汰にしている五色くんが不憫でテーブルに置いていたリモコンの電源ボタンを押した。
 シンとした静かな部屋に響いたのは男性アナウンサーの興奮した声とシューズが床を擦るキュッとキュッと言う音。テレビ画面には赤いユニホームを着た選手たちが映る。丁度、ネット側に高く上げられた黄色の目立つボールが赤いユニホームを着た選手によって打ち落とされた瞬間だった。ボールは目にも止まらぬ速さで相手コートを裂き、床に落ちる。
 そういえば、オリンピックの真っ只中だった。ネットニュースは読むが、普段テレビは全く見ないので全然実感がなかった。
 今日男バレあったんだね、と隣でお座りをする五色くんに言ってあれ? と気づく。
「五色くんちゃんと見てないでいいの?」
「帰ってからちゃんと見ます」
 こちらを見ることなく、だからといってテレビに真剣に食いついているという様子でもない五色くんはテレビ画面から視線を下げる。
 この部屋で五色くんが俯きがちなのはいつものことか、と思いテレビに視線を戻すと、よく見知った顔が映った。思わずテレビに向かって声を上げる。
「あれ! 牛島くんじゃん! 今の牛島くんだよね!?」
「そうですね」
「へー、流石牛島くん。高校生の時から世界の牛島くんだったけど、今も世界の牛島くんなんだね」
「そうですね」
 隣に座るノリの悪い人を見て、あぁ、こういうことだったのかと悟る。ますます視線を下げる五色くんの膝の上には硬く握られた拳が乗っていた。
 なんだ、ちゃんとギブアンドテイクができていたんだ。
 どうやら、私だけが与えられていたわけではなかったらしい。きっと、私の前でだけ五色くんが俯いていたのは、俯きたいときに五色くんがここに来ていたからだ。
 なんだ。そうだったんだ。そっかぁ。そういうことだったんだ。
 私は五色くんが疲れた時にたまたま目の前にあった止まり木に過ぎなかったのだ。何が好きだ、私のものになるだ。五色くんの言葉に嘘はなかったのだろうけど、結局はそういうことだったのだ。
 人は一人では立てないもんね。
 じゃあ、きっと、五色くんは夢を叶えたらこの部屋に来なくなる。私から離れて行く。その前に五色くんとの関係は終わる可能性はあるけど、五色くんが夢を叶える日が確実に来る私たちの関係に終止符が打たれる日だ。私が言えた口ではないことは分かっているけど、五色くんのいない日常が見えてしまうと少し寂しいな。
 でも仕方がないか。心で深く繋がっていたはずの相手ですら永遠に縛り続けることはできない。そういう人たちはいっぱいいるのだから。
 食事を終えた私は重ねた食器をシンクに運びに行くついでに隣で座る五色くんの丸まった背中を膝でこづく。
「なんですか?」
「私は五色くんを信じてるよ」
 いつか、こんな狭い部屋を出て、世界に向かって飛び立つことを。
 私を見上げた目は薄ら涙の膜を張り、照明の白色光をキラリと反射させた。もしかして泣かせちゃった? と思ったら、部屋の照明よりも、夏の太陽よりも、何よりも眩い光を放つ笑顔が私に向けられた。
「はい! 俺、頑張ります!」
 あーあ。離れて行く背中を押してしまった。でも、こんな笑顔を私に向けてくれたのはいつ以来だったか。なんて、思うと、締め付けられる胸を少しだけ穏やかにしてくれる素敵なお土産をもらえた気分だった。