結婚をしたことはないけど、付き合うのと結婚は違うという言葉はよくわかる。
 今まで付き合ってきた人と、ずっとそばに居たいと思ったことはあったけど、結婚したいと思ったことはなかった。恋焦がれるこの人と結婚し生活を共にすると、この人に対する激情に自分自身が疲れてしまうか、激情自体が冷めてしまうかのどちらかだということが分かっていたからだ。
 今まで付き合ってきたタイプとは違う、私だけを大切に思ってくれそうな五色くんと穏やかな日々を過ごすことはきっと、幸せなのだと思う。
 でも、時間をどんどんと飛び越えていき、激しく身を焦がしていたいのだ。そういう生き方が性に合っている。他人から見たら幸せとは無縁の生活かもしれないけど、満たされた生活なのだ。

 いつも夜を連れてくる五色くんは、その日初めて、紅い西日が部屋に差し込む時間帯にやってきた。晩御飯を作ろうと覗いていた冷蔵庫の扉を閉めて、部屋に入ってきた五色くんへと視線を移すと、五色くんは嬉しそうにニマニマ笑って、お邪魔します、と言ってくる。
 なんだか最近ますますここにくる五色くんが明るくなっている気がする。嫌なことがあったからここに来てたんじゃないの?
 これはお別れの日は近そう。
「なんでこんな時間?」
「遅い時間に来てそう言われるならまだしも早い時間に来てそう言われるのは心外です」
「そうかもしれないけど……」
 慣れた様子でリュックを床に置いた五色くんは唇なんて尖らせて本当に随分と私に色々な表情を見せてくれるようになった。再開した頃はぱっつん前髪の下にある眉尻を下げてばっかりだったのに、最近はキリッと上げてばかりだ。
「私夜ご飯まだなんだけど」
「俺もまだです!」
 そんなこと、自慢げにフフンと鼻を鳴らして言うことじゃないよ。
「今度からは食べてから来てね。スポーツ選手に食べさせるようなものなんてうちにはないから」
「別にナマエさんに、野球選手の奥さんがSNSに載せるようなご飯なんて期待してませんよ」
 そりゃあ、野球選手の奥様方のような色彩豊かでバラエティ豊富なお料理を食卓に並べることはできないけど、これでも彼氏には尽くす系だからそれなりに料理はできますよ、と心の中でぶつくさ言いながら部屋の隅に置いてある鞄の中から財布を取り出す。
「あれ? ナマエさん、どっか行くんですか?」
「サラダのお野菜が一人分しかないの」
 目に見えて顔を輝かせた五色くんは、ナマエさんは財布置いていっていいですよー、と歌うように言いながら床に置いたばっかりのリュックを肩にかけた。

 近くのスーパーで買い物カゴを持ちながら、隣を歩く五色くんに何を食べさせたらいいかを考える。今日は豚の生姜焼きにしようと思っていたから豚肉は家にある。あと、家にあるのは作り置きしておいたきんぴらごぼうと高野豆腐。それに加えて、サラダを作って、何かもう一品お野菜のおかずが何か欲しい。野菜コーナーで大根を見て、ふろふき大根でも作る? と思って、いやいやいや、今から一時間も煮込んでいられないと思い、隣の里芋を見る。煮っ転がしなら生姜焼き作っている間にできるか、と手を伸ばそうとして今日の献立を頭の中でテーブルに並べた瞬間、あまりの茶色さに伸ばしかけた手を止めた。赤いニンジンであっさりとしたナムルでも、と思いかけ、ようやく、なんで私五色くんのご飯でこんなに悩んでるんだ、と頭を抱える。別に茶色くてもいいよ。ニンジンなんて細く切るの大変なんだし。五色くんに茶色いご飯しか出さない女だって思われたっていいんだ。五色くんは私の好きな人でもなんでもないんだから。
 でも、一応五色くんの好きな食べ物くらいは聞いておこうかな。
 そう思い、隣でニコニコ頬を緩ませている五色くんを見上げた瞬間だった。
「工くん?」
 鈴が鳴るような可愛い声が後ろから聞こえた。振り返った五色くんは驚いたような顔をした後、キリッと眉を上げて彼女のものと思わしき下の名前をさん付けで呼んだ。
「こんなところで偶然ですね!」
「そうだね。工くんもこの辺に住んでるの?」
「いえ! 今日は、その……」
 気まずそうに五色くんが私を見ると、五色くんに釣られたように、彼女も私を見る。
「工くんのおねえ……さん?」
 普通大人の男女が並んで歩いていて姉弟に間違うわけがない。不安を滲み出しながら私を見るこの子は五色くんのことが好きなのかな。五色くんからは彼女はいないって聞いているのかな。
「姉ではないですけど、親戚なので姉のようなものですよ。だから安心してください」
 ほっとしたような顔。女の子の顔だ。可愛いなぁ。
 私まで胸がドキッとしてしまった。きっと五色くんの隣を歩く女の子は、こういう女の子なんだ。
 なんだか五色くんを見上げることができなくて、両手で持った空っぽの買い物カゴを眺めながら、ここから立ち去る言葉を五色くんに送る。
「じゃあ、私は一人で買い物して帰るから。またね、ごし……」
 五色くんといいかけて、はっと気づく。私は五色くんの親戚なのだ。
「またね、工くん」
 私もたまたまここで五色くんと会った五色くんの親戚なんですよ、と自分に言い聞かせて、きっと、もう、お野菜は必要なくなっちゃうんだろうけど、ニンジンをカゴに入れて彼らに背を向けた。焦った様子の五色くんの声が、私の名を呼ぶのが聞こえたけど、聞こえなかったふりも見なかったふりもするのが得意な私には、五色くんの声はやっぱり聞こえなかった。

 お部屋に帰って、ニンジン買っちゃったよー、と思いながらニンジンの皮をピーラーで向いていると、玄関の方から鍵が回る音がする。
 あれ? 五色くん結局ここに来ちゃったの?
 その言葉が口から出てこなかったのは、リビングに顔を出した五色くんがあまりにも生気のない顔で俯いていたからだ。
 あれ? 五色くんあの流れで振られちゃったの?
「ナマエさん……」
 呼ばれたので、ニンジンとピーラーを置き、キッチンのカウンター越しに五色くんと向き合う。
「なんで親戚だって嘘ついたんですか?」
 もしかして、そのことに怒って五色くんはこんなにも暗い顔をしているのだろうか。
 確かにスーパーでは軽率なことをしたとは思う。嘘がバレて困るのは五色くんなのだから。
「ごめんね、いつかバレちゃうよね。でも、高校の時の先輩って言うよりはましかと思ったの」
「なんで?」
「なんでって、五色くん気づいてないの? あの子五色くんのこと好きだよ」
「じゃあ、尚更なんで!」
 俯いたままの五色くんに大きな声を出されて体がビクリと震えてしまう。
「だからごめんって。嘘だとバレても遠い親戚とか、誤魔化しようはいくらでもあるし、なんなら、私が誤解されないように勝手に嘘ついただけって言えば大丈夫だから」
「大丈夫じゃないですよ!」
 確かに、大丈夫ではないことは良く分かる。もし、好きな人に、連れている女性は親戚だと嘘をつかれたと知ったら、私でなくとも皆、全てが疑心暗鬼の対象となるだろう。嘘をつくということは、そういうことだ。五色くんはスーパーで会ったあの子に対して、大きな信頼を失うというリスクを今日負ってしまったのだ。
 声を張り上げるほどに五色くんが怒っているということは、五色くんは下の名前で呼んだあの子のことがやっぱり好きだったのだろうか。そうやってちゃんと好きな人ができたから、最近、明るかったのだろうか。
「ごめんね……」
 俯いた五色くんの頬からポタポタと水がフローリングに向かって落ちていく。五色くんを気の毒には思うけど、泣くくらいあの子が好きなら最初からこんなところに来なければ良かったのに、と思わずにはいられなかった。
「本当にごめんって」
 何も言ってくれずに涙を流す五色くんを前にして、女の人に泣かれる男の人の気持ちが少し分かってしまったような気がした。
 どうしたらいいか、わからないのだ。
 だから、今まで、男の人は私の前でただ狼狽えてばかりいたのだろう。
 謝るしかない私は慌てて五色くんの前に駆け寄る。
「本当にごめんって。だからもう泣かないで」
 涙を拭いてあげればいいのだろうか。でも、泣かせた本人がそんなことをする資格があるのだろうか。それに五色くんにとって用済みの存在となった私は五色くんの涙に触れるよりも先にしなければならないことがあるのではないだろうか。
 次から次へと新たな涙を生み出す五色くんの頬に手を伸ばそうとしたり、引っ込めたりしていると、目の淵に沿ってたっぷりの涙を蓄えた瞳に映される。
「ナマエさんは、本当に相変わらずです!」
「だからごめんね」
「相変わらず何も分かってないです!」
「だから本当にごめんって」
 自分が何をしたか全く分かってないことはないよ。と言えば火に油だということは分かっていたので謝るしかない。
 握った拳で乱暴に涙を拭いた五色くんが鼻を啜るので、急いで後ろにあるダイニングテーブルに乗った箱ティッシュを掴み、五色くんに差し出す。ありがとうございます、と控えめに言った五色くんは盛大に音を立てて鼻を噛んだ。
 もう、落ち着いたかな、とちょっと安堵するが、五色くんの足の横にある鼻を噛んだティッシュを固く握る拳を見て、まだ怒られ続けるのか、と覚悟する。
 もう、ここに来なくていいよって。言ってあげたら私は許してもらえるのかな。
 それはきっと、五色くんにとっていらない存在となった私が、今五色くんにしてあげなければならないことだ。
 私は五色くんの優しさに甘えていただけの存在だ。五色くんの優しさを正しく向けるべき人がちゃんとできたのなら五色くんを手放してあげるべきだ。それくらいは、性根の腐った私でもやってあげられる。
 手のひらに食い込む爪が痛い。大きくなっていく胸の音が苦しい。好きな人でもなんでもなかったのに、愛着ぐらいはあったのかな、と浅くなっていく呼吸に自嘲した。
 五色くんみたいに床に涙を落としてしまう前に早く終わらせなければ。
「ごし――」
「なんで、俺をナマエさんのものにしてくれないんですか?」
 え、とだけ口から溢れ、しばらく私の思考は停止してしまった。
 五色くんの拳から五色くんの顔へと視線を移せば、五色くんは何を見ているのか。斜め下を向き、悔しそうに唇を噛んでいた。
「ナマエさんが俺だけを見てなくてもいいです。でも俺をナマエさんのものにしてくださいよ!」
 叫ぶと同時に私と充血した目を合わせた五色くんは突然、何の話をしているのだろうか。私は今までどうして怒られていたのだろうか。スーパーで、五色くんの好きな子に余計な勘ぐりをされるような嘘をついたからではなかったのか。
 どうしてまだ胸が締め付けられるのだろう。涙が溢れそうになるのだろう。
 まだ、五色くんは私のことを求めてくれてるんだって、安心してしまう。
「俺を噛んでください」
「え? なんで?」
「ナマエさんセックスのとき爪もたててくれないでしょ。俺にナマエさんの跡残して」
「無理だよ」
 そんな事、できるはずがないよ。
「なんでですか! 俺はナマエさんのものだって安心させてくださいよ!」
「だって噛んだら五色くん痛いじゃん」
 それは建前だ。
「別に痛くてもいいです」
「む、無理……」
 だって、恥ずかしいもん。五色くんの綺麗すぎる首筋に、自分のものですよって主張するようなものなんて、付けられない。どうせ、五色くんとは今だけの関係なんだし。ただの埋め合わせなんだし。そんなことしても虚しいだけ。
 本来、私は五色くんの横にいていい人間じゃないんだし。
「してくれないなら俺がナマエさんに跡つけますよ」
 五色くんは拗ねたように赤くなった頬を膨らませた。
「別にいいよ」
「え……いえ、いいです……冗談のつもりで言っただけなんで……」
「別にいいよ。それで五色くんが安心するなら」
 戸惑う様子の五色くんの首の後ろに手を回して、自分の首筋に抱き寄せる。ひんやりとした五色くんの唇があたり、ゾクリとした感覚に唇をキュッと結んだ。
 こんなことを五色くんにしてしまったのは、多分泣かせてしまったことへの贖罪だ。
「じゃ、じゃあ、キスマークだけ……」
「いいよ」
 横を向けばすぐ近くに、まとまった前髪を垂れ下げながら遠慮がちにこちらを見る五色くんの涙が輝く瞳が見えた。
「でもここにキスマークつけたら見えちゃいますけど」
「いいよ、別に。コンシーラー使えば隠せるし」
 柔らかい五色くんの唇が首筋に当たる。
「それにキスマークなんてすぐ消えるんだしそれで安心してくれるなら気が済むまで付けて……って、いたっ、いたっ! え、何?」
 覚悟していた痛みよりも遥かに大きな痛みが走り、五色くんが離れた首筋を見ると、レモンの形をした歯形がくっきりと残っていた。
「えー……すごい歯形……五色くん、キスマークの付け方知らないの?」
 また膨れっ面になった五色くんはそっぽを向きながら答えた。
「知りません! だから教えてください!」
 なんで、怒ってるの?
 泣いたり、怒ったり五色くんは忙しいなぁ、と思うと胸がじんわりと温かくなる。
「ほら! ナマエさんはキスマークの付け方知ってるんでしょ! 俺で教えてください!」
 屈んだ五色くんはここにつけてくれ、と言わんばかりに伸ばした首筋を私の目の前に差し出した。ぎゅっと、拳を握り、その白い肌に吸い付こうとしたけど、触れる直前で顔がかーっと熱くなっていき、後ずさって五色くんから距離を取った。
「わ、私もキスマークの付け方知らないから教えられない」
「えー! それ絶対嘘です!」
 頬をぷりぷりさせて、唇を尖らす五色くんはまるで駄々っ子のようで、その姿を見ていると、視界がだんだんぼやけていき、震えそうになる唇は噛まずにはいられず、苦しくなっていく胸にはむず痒いような、こそばゆいようなずっと昔に経験したことがあるような変な感覚が渦巻いていた。

 なんだか、時間がやたらゆっくり流れているような気がする。

 その夜。結局五色くんと一緒にご飯を食べた。きっとあまり料理をしていないのであろう五色くんは簡単な料理にも関わらず、美味しい、美味しいと言ってそんなに褒めても何も出ないよと言わざるを得ないくらいの大袈裟なリアクションを取りながら私の作ったご飯を食べてくれた。
 そして、いつもシャワーを浴びてきていた五色くんは今日初めてうちでお風呂に入った。一番風呂は入れません! と言って私の後にお風呂に入り白いTシャツと紺のハーフパンツを着てお風呂場から出てきた五色くんにドレッサーの椅子に座るように促す。
「今日は私が髪乾かしてあげる」
 時が止まってしまったかのように目も口も開けっぱなしにした五色くんは顔をクシャっとして笑った。
「ありがとうございますっ」
 まるで水彩絵具で描かれたように見え始めた私の世界は、やっぱり減速してしまっているようだった。