ナマエさんは大人しい顔をして手にはサバイバルナイフを持っている。ただ苦しそうに顔を歪めて、振り上げたナイフで俺の胸を何度も何度も突き刺すんだ。そんな顔するくらいなら、突き刺すのを止めてよって思うんだけど、それが性癖なのか止められないらしい。変な人。そんな変な人に全部を捧げてしまった俺は多分。頭がおかしい。

 いつものように”今日行ってもいいですか?”とナマエさんにメッセージを送る。鍵を貰ってからも、続けている習慣だ。何も言わずにナマエさんの部屋に行って他の男とばったりというのは、流石にごめんだからな。
 昼間に送ったメッセージだったが、夜になってもナマエさんから連絡は返ってこなかった。こんなことは初めてで、なんだか胸がざわつく。もし、メッセージを返せないほどのような重大なことがナマエさんの身に起こっていたらと思うと練習に身が入らなかった。
 大抵の場合、こういう勘は杞憂で終わるんだ。自分のやるべきことをきちんとやれないでどうする。
 まとわりつく嫌なイメージを首を横に振って掻き消し、目の前のプレーに集中した。
 練習が終わり、汗を拭きながら祈る気持ちでスマホのバックライトを点灯させたが、ナマエさんからのメッセージの知らせはなかった。なんで返してくれないんだという苛立ちはあったが、本当にナマエさんの身に何か良からぬことが起こっていたらどうしようと心配になる。体育館から走ってナマエさんの家へと向かった。
 ナマエさんの部屋の鍵を開け、扉を開けると、しんと静まり返った空間に迎えられる。薄らと廊下の輪郭だけが見える真っ暗闇の空間。電気が付いていないことにますます不安を煽られた。
 もし、ナマエさんが部屋で一人倒れていたらどうしよう。だとしたら、いつからだ。大丈夫だろうか。ナマエさん、ナマエさん、と胸の内で何度もその名を呼び、歩き慣れた廊下を進んで、リビングの電気をつける。ナマエさんの姿は見当たらない。トイレ? 洗面所? お風呂場? と確認したが、ナマエさんはいなかった。
 頭を掻きむしって、自分の立ち位置を知る。ナマエさんに何かあろうと、俺のところに連絡など入ってくるわけがないのだ。誰も俺たちの関係を知らない。俺たちの関係は人に言えるような関係ではないからだ。
 時計の針の音がやたら大きく聞こえる部屋でため息をこぼすと握りしめていたスマホが揺れた。
 スマホを覗くと待ちに待った人の名前。顔認証の時間すら焦ったくようやく開いたナマエさんとのトークルームでは俺の送ったメッセージの下に”だめ”の二文字が加わっていた。ナマエさんから連絡が来たということは、ひとまずナマエさんは無事だと言うことだ。少しだけほっとする。でも、どうして今日来てはいけなかったのだろうか。ナマエさんにとってなんでもない俺は理由をナマエさんに聞いてもいいのだろうか。迷いに迷った挙句、スマホの”な”の文字を押そうとした瞬間ナマエさんから新たなメッセージが届く。
“今、出張でいないから”
「はぁあー!? ほんっと、相変わらずですね!」
 普通そういうことは行く前に教えといてくれてるもんでしょ! 俺が遠征行く時はいつもそうしてますよね!
 さっきの心配や遠慮する気持ちは吹っ飛びスマホのキーを叩いていく。
“今どこいるんですか?”
“ドイツ”
「はぁあー!? それ絶対男と旅行じゃん!」
 スマホをナマエさんのベッドに投げ、ついでに体もナマエさんのベッドに投げ入れた。ふかふかの掛け布団が一気に全身から力を奪い取っていく。
 ナマエさん。最近は一緒に食事をしてくれたり髪を乾かしてくれたりとしてくれたから少しは俺に心開いてくれてるのかなって思ってたのになー。そういえば、こないだナマエさんの首筋につけた歯形。すぐに綺麗さっぱり無くなってしまったんだよな。まぁ、あの人のことだから、歯形が付いている状態でも男に会いに行きそうだけど。
 また、ナマエさんの鋭利すぎる刃物で胸に穴を開けられた。傷口からだらだら血が流れていくのを感じる。
 仰向けになり、ナマエさんの部屋の天井を眺める。白い天井。まだ染みという染みが一つも見当たらない。ナマエさんらしい部屋だ。この部屋であの人が一人過ごす時間は短いのだろう。
 はぁ、と今年一番と思えるほどのため息が溢れた。
 いつか俺は出血多量で死ぬ。前の傷が塞がる前に何度も何度も穴を開けられ、止めどもなく溢れていく血が原因で俺は死ぬんだ。
 家に帰らなきゃとは思ったが、体があまりに脱力してしまい帰る気が失せてしまった。今日一晩部屋を借りてもいいだろうか。寝るだけだし。
 いつもナマエさんを組み敷いているベッド。今晩も彼女を犯すつもりだった。
 なんだか、体が熱くなってきたな。部屋に染みつくナマエさんの匂いに包まれてしまったからだろうか。
 俺の下で白い肌を露わにしたナマエさんを思い出す。頭の中で描いたナマエさんはトロけた顔で俺を見上げていたが、俺が犯し始めるともういいよ、と俺を拒絶する言葉を吐いた。他の男に抱かれている時も、こんな風に言うのだろうか。
 もういいよ。もういいよ。
 段々と語気を荒げるナマエさんのその言葉を沢山聞きながら、ナマエさんの曲線をなぞっていく。頬、肩、腰と指を這わせていけば、もういいよ。もういいよ。いつか、そういう風に俺のことはもういいよ。いらない、とあの人は言うのだろうか。
 そう思った瞬間に、頭の中で描いた絵は崩れ去り、体の熱は散っていった。しかし、体は溜め込んだ熱を必ずどこかから放出しなければならないらしい。
 腕で、目元を覆った。耳の上を熱いものが流れていくのを感じる。
 いつか必ず来るその日が怖い。
 俺を捨てるくらいならいっそ、その切れ味の良すぎるナイフで俺を殺してくださいよ。
 結局、呼吸が落ち着くのを待ってから自分の部屋へと帰った。

 ナマエさんがドイツから帰ってくるという日。疲れているだろう時に、部屋に行ったら悪いかなぁとは思ったけど、ナマエさんから他の男の匂いを一刻も早く消し去ってやりたいという思いが勝ってしまい、ダメ元で”今日行ってもいいですか?”とメッセージを送ればいつも通り”いいよ”と返ってきた。
「え……いいんだ……」

 いつもしているように、自分の鍵と繋いだナマエさんの鍵を鍵穴に挿す。ナマエさんの部屋の扉には鍵が二つ付いている。二つともきちんと閉めているくせに、いろいろとガバガバなナマエさん。なんて口が裂けてもいいませんけどね。
「今日来るの遅くない?」
「そうですね」
 ラグの上に座るナマエさんは、ローテーブルに置いたノートパソコンを覗いていた。彼女を尻目にいつもリュックを置く場所。ラグの横に下ろしたリュックを置く。
「それ、お土産」
「どーも」
 男と行った旅行の土産なんていらねーよ、と思えば酷く素っ気ない返事になってしまった。ナマエさんが見た先にあるダイニングテーブルの上にはチョコレートの写真が並ぶ正方形の薄い箱。
 ナマエさんに向き直ると、目を合わせたナマエさんは困ったような顔をして笑った。
「やっぱりスポーツ選手にチョコレートはまずかった?」
 俺の適当すぎる返事をそう解釈したらしい。
「ナマエさんは相変わらずですね」
 俺の気持ちを知っていながら、俺の気持ちを分かろうとしないずるい人。
「でも、物よりマシだと思って……ごめんね……」
「本当に相変わらずですね」
 いらなかったら置いといて、と苦笑するナマエさんはどこまで俺をイラつかせれば気が済むのだろうか。
 そもそもそういう問題じゃないんだけど、俺はきっといつまでもナマエさんを忘れることはできないのだろうから、ナマエさんが与えてくれるものなら消えるものであろうと、残るものであろうと、なんでもいいんですよ。
 やることもなく、どかりとナマエさんの隣に座る。
「何してんすか?」
「議事録の確認」
「え?」
「だから、議事録の確認だって。会議の発言とかをまとめた資料があるの。それが議事録。ドイツに行っても会議ばっかりで……」
 ナマエさんはあくび混じりに続けた。
「昼間は時差ぼけで寝ちゃって最終日の会議分がまだ終わってないの。忘れないうちにやっとかないと」
 難しい顔をしてパソコンの画面と睨めっこしているナマエさんは、コロコロと音を立てながらマウスのホイールを回す。
「ちゃんと確認しとかないと、あとで言った言わないになったときにこれを持ち出されるから大事なの」
 そう言いながら片手で頭を掻きむしるナマエさんは本当に議事録とやらを確認しているようだ。
 いや、でも本当か? 旅行中に溜まった仕事をやってるだけなんじゃねーの?
 ナマエさんの隣から画面を覗くと、びっしりとアルファベットが並んでいた。
「あ! 見ちゃダメ! 社外秘なんだから!」
 ナマエさんは慌てた様子で画面を俺から隠すように、パソコンを抱き寄せる。
「そんなことしなくても俺、英語読めないんで大丈夫ですよ」
「そうなの? そんなんじゃ、世界に羽ばたけないよー」
 そう言って再び画面と格闘し出したナマエさんはいきなり何の話をしてるのだろうか。
 世界? あぁ、”世界の牛島さん”のことか。
『私は五色くんを信じてるよ』
 まるで、姿勢を正せ、とでも言うように背中を小突かれ言われた言葉。
 俺は自分はまだまだこれからだと思っている。誰に言われなくても目指す場所は決まっているし、何があってもそれは変わらないだろう。
 でも、たまに。
 目指す先にいる彼らから自分はどの位置に立っているのだろうか、と少しの不安を覚えることはある。ひょっとして、すぐに追い着いてやると思っていた場所はずっとずっと遠い先にあるのではないかと。
 ナマエさんのあの言葉が気まぐれで発せられたものだと言うことは分かっていた。ナマエさんはそういう人だ。でも。
 何も信じられないとでも言うような虚な目をしたあなたが気まぐれであろうと、信じると言ってくれた俺を、俺は信じます。
 もう終わるからちょっと待ってて、と言うナマエさんの肩に後ろから抱きつく。
「ちょっと待っててって」
 怪訝な顔で振り返るナマエさんからは、いつものいい匂いがした。香水の匂いがしそうなナマエさんからはどうしてかいつも石鹸のような優しい香りがするのだ。
 もう、ナマエさんのドイツ旅が出張でも男との旅行でもどうでも良かった。
「チョコレート。ナマエさんと一緒に食べたいです」
「いいよ」
 あ、笑った。懐かしい笑顔だ。夏の朝に咲く青い花みたいな。穢れを知らなかった頃のナマエさんの笑顔。まだ、そうやって笑えんじゃん。
 胸に空いていた穴がどんどん塞がっていく。まぁ、すぐにまたブスブス穴を開けられるんだろうけど。
 ドSでドMなナマエさん。きっと、あなたに貰う痛みさえもいつかは愛おしくなる。
 そんな俺はやっぱり頭がおかしいんだろな。