今日が土曜日で良かった、なんて思うようになってしまった私はもう立派な社畜なのかもしれない。最近忙しかったからなぁと思いながら脇に挟んだ体温計を見ると40℃。こんな数字久しぶりに見た。朝起きると激しい倦怠感に襲われ、熱を測ってみたのだ。
 体温計を薬箱にしまい、スマホで近くの病院を調べる。病院が開く八時半までにはまだ一時間近くあったので、もう一眠りしよう、と、一時間後にアラームが鳴るようにして、ベッドに戻った。

 アラームで起きて病院へと向かう。ただの風邪だそうだ。点滴を打ってもらうと、それだけで随分と体調が良くなった。
 病院の帰り道にゼリーとスポーツドリンクを買って家に帰った。

 家に帰ると、病院に行く前に炊飯器にセットしておいたお粥が炊けていたのでお茶碗によそって、遅めの朝食をとった。40℃くらいまで熱が出てしまうと、頭がボーっとして37℃近辺よりも体が楽な気がするのは気のせいだろうか。味気のないお粥に塩を振って、食べ終えたら貰った薬を飲んでベッドにもぐった。使った食器は洗わずシンクにおいたまま。しょうがないよね。風邪ひいてんだから。
 
 目が覚めると窓から差し込む光は黄色く見えた。ベッドに入ったまま床に置いたスマホに手を伸ばし、画面を覗くと15:42。その下にはもう見慣れた文字、五色工という表示があった。タップをすると、いつも通りの文章が来ていたので”だめ”と返す。そのままスマホを握ってベッドを出た。
 今朝炊いたお粥はまだ大量にある。一合しか炊いていないのに随分と膨らんでしまったのだ。
 お椀によそったお粥に塩を振って食べて、今朝買ったゼリーを食べながらワイドショーを見ていると、テーブルに置いていたスマホが振動したので手にとる。
 五色工の文字。
“なんでですか?”
“風邪引いちゃったから”
 暫く待っても返信はなかった。案外五色くんも薄情者なんだなぁ、と思いながら薬を飲んでベッドに入った。
 食器は今朝と同じでシンクに置いたまま。今朝使ったお茶碗にお粥のノリがカピカピにこびりついてたのが気になったけど、水を張って放置した。しょうがないよね。風邪ひいてんだから。

 こうやって一人でいざるを得ない時、昔は、ベッドに転がり放置していたトークルームの一覧を眺めていた。そして、面倒見が良さそうなのを適当に選んで、風邪ひいた、と言うメッセージと涙を流す可愛いスタンプを共に送りつけていた。弱ってますアピールだ。
 私の呼びつけに、スポーツドリンクなどの何かしらの差し入れを持って、遠足にでも行く子どものように喜び勇んでくる人の中には愛おしいと思う人もいた。下心があって優しくしてもらっていることは分かっていたけど、そんなものはお互い様だ。そのまま付き合った人もいたし、セックスだけして終わった人もいた。
 なんで、五色くんは返事を返してくれないんだろ。
 そう思ってベッドからスマホをラグの方に投げ捨て、瞳を閉じた。

 再び目を覚ますと窓から差し込む光は赤色に変わっていた。スマホ、と思い、スマホをいつも置いているベッド横の床に手を伸ばすけど、なかなか手にスマホが当たらない。なんでだろ? と思いながら、体を起こしてベッドから床を見下ろすとスマホが随分とベッドから離れたところに転がっていた。そういえば、寝る前に投げ捨てたんだっけ。ベッドから出ると、今朝よりも体は楽になっていたけど、歩き始めれば平衡感覚があやふやになった。
 スマホを拾うのに、しゃがみ込むつもりで膝を曲げたけど、体を支えきれず座り込んでしまう。拾ったスマホを覗くと、17:23。その下に期待した表示は無かった。なんで、五色くんはメッセージを返してくれないのだろう。ただでさえ熱っぽい体が、熱くなっていく。鳥肌が全身に広がるのを感じながら、滲み出た涙を擦った。
 少し早いけど、晩御飯を食べるか。
 そう思って立ち上がった時だった。玄関の方から扉の鍵が回る音がする。
 え? なんで? 五色くん?
 二つ目の鍵穴に鍵が刺さる音。
 え? 入ってくるつもり?
 慌てて、玄関まで走って、開きかけた扉のドアノブに掴まり、全体重をかけて扉を閉めた。
「ちょ! ナマエさん! なんで! なんで閉めるんですか!」
 ドアの向こうから五色くんの叫ぶ声が聞こえる。そんなに大きな声を出したら近所迷惑だよ、と思いながらも私も負けじと叫んだ。
「帰って!」
「なんでですか! もしかしてこんな時に”また”男を部屋にあげてるんですか!?」
 扉の先にある五色くんの声が一段と大きくなった気がする。
 今五色くん、また男を部屋にあげてるって言ったよね。
 私がいつ五色くんの前で男の人を部屋に上げたの。しかも、五色くんがこの部屋に来るようになってから、他の男の人なんて一度も入れたことがないのに。またって言われると、なんだか、鼻の付け根が熱くなってくるし、鼻水が垂れてくる。唇を噛めば涙が滲み出てきた。
 なんで私はこんな大袈裟なリアクションをしているんだろう。
 きっと、風邪が私の体をおかしくしているんだ。瞬きをした瞬間に目から涙がこぼれ、気がつけばまた、帰って、と叫んでいた。
「なんでですか! 開けてください!」
「帰って! 五色くんに風邪移したくないから帰って欲しいの!」
「またそんなこと言って!」
 どうして五色くんは信じてくれないのだろうか。
 なんで私はそんなにも信頼がないのだろうか。
 考えていたら、重ねてきた過去の言動がなんでわからないのと尋ねてきた。
 そういえば、五色くんが遠征に行っている間、他の人と関係を持った。さらには、キスマークをつけて帰ってきた。キスマークを見つけた五色くんが傷ついていると知っていながら、平気な顔で、怒っているのか、と聞いた。私は悪くない、とでも言うように。実際その時、私は悪くないと思っていた。もっと遡れば、高校生のとき五色くんの気持ちを冗談でしょと笑った。もっともっと遡れば、自分の取るに足らないプライドを守るために五色くんを利用した。
 そっか。これら全部が五色くんの中にある私なんだ。
 一度してしまったことは無かったことにはできない。口にしてしまった言葉は取り消せない。
 五色くんに信じてもらえなくて、当たり前だ。どうして信じてもらえないの、なんて一人前に思う資格すらないのだ。
 理解すれば、疑問は悲しみに変わって胸を締め付けてきた。涙はぼろぼろ溢れてくるし、しゃっくりまで出だして、うまく息ができない。苦しい。酸欠のせいで、頭もくらくらしてきて立っていられず、扉の取っ手を掴んだまま、玄関に膝をついた。お尻がひんやりとしたけど、立ち上がろうとする気にもなれない。
 もう全部、全部、全部、投げ出したかった。
 五色くんにした過去の言動も。自分の気持ちも。五色くんも。
 そう思った瞬間、景色が反転した。目の前には暗い廊下の天井。天井と壁が作る直線はぐにゃぐにゃと曲がって、段々と離れていった。
「ナマエさんっ!?」
 扉が開く音と同時に、五色くんの叫ぶ声が聞こえる。五色くんが何度も私を呼んでいた。
 そんなに耳元で大声出さないでよ。耳が壊れちゃう。

 なんで、ナマエさん泣いてたの? 辛いことがあったの? 俺だったら、ナマエさんを泣かせたりしないのに。
 宙に浮いているような心地で黄色に煌めく光に包まれていると、五色くんの声が耳の奥でこだました。額にかかる前髪を後ろへ梳かされていく感覚が酷く心地良かった。
 ねぇ、ナマエさん。俺じゃダメなの? なんで俺じゃダメなの? 俺はこんなにもナマエさんのことが好きなのに。
 控えめのリップ音と共に額に触れる柔らかな感触。
 ナマエさん、好きです。本当にどうしようもなく俺はどうしようもないあなたが好きです。
 ちょっと待って。どうしようもない私って何よ。
 そう言い返したいのに、口が動かない。まるで人形になってしまった気分だった。すると、ぽつり。ぽつりと。顔に雨が降ってくる。そういえば、五色くんと再開した日も、顔に雨が打ち付けてきてたな。こんなに優しい雨では無かったけど。

 目を覚ますと、涙が目の端を伝っていた。なんで、泣いていたんだろ。思い出そうとすれば、胸が苦しくなった。それなら、無理して思い出す必要もないだろう。
 今何時だろうか。見上げる天井は薄暗い。スマホを探してベッドから床に手を伸ばしたけど、なかなか手にスマホが当たらなかった。もう。と苛立ちながら体を起こすと、キッチンの方だけ電気が付いていることに気づく。電気、つけっぱなしにしてたんだっけ?
「あ、ナマエさん起きた!」
 カウンターキッチンのカウンターからひょっこりとおかっぱ頭が現れびくりと体が震える。
「五色くん……?」
「はい! 五色です!」
 やたら元気な五色くんはなんでここにいるの?
「今日来ちゃダメだって言ったじゃん!」
「ごめんなさい。でも、ナマエさん倒れてたし、俺がいなかったら大変だったんじゃないですか?」
 五色くんは大きな身長を持っているくせに、わざわざ俯いて上目遣いで私を見てくる。
 倒れた? そうだっただろうか。今日一日の記憶が夢であったかのようにあやふやだった。でも、一人で病院に行って帰ってこれたし、ちゃんと寝ていたのだ。倒れたくても倒れようがない。
「私倒れてなんていないよ」
「倒れてましたよ! ナマエさんをベッドに運んだの俺なんですからね!」
 今度は頬をぷりぷりさせてくる五色くん。
 五色くんが不必要に嘘を吐く子ではないと分かってはいるけど、未だ熱っぽい頭の中にあるふわふわとした思考ではピンとこなかった。
「それより、風邪移しちゃダメだから帰って」
「大丈夫ですよー。俺、健康には気を使ってるんで。ちょっとやそっとじゃあ、風邪なんて移りません」
 五色くんはフフンと自慢げに鼻を鳴らせた。
「その自信どこからくるの……」
「経験談です!」
「一番ダメなやつじゃん」
「ダメじゃないです! 一番正確なやつです!」
 このやりとりは埒があかない。流石に五色くんも今日はセックスをしたくて来たわけじゃないだろうし、要件だけ聞いて帰ってもらおう。そう思った時、五色くんは目を輝かせながら、お腹空きませんか? と聞いてくる。
「空いたけど、なんで?」
「我ながらうまくできたと思うんです! 味もとても美味しくできたんです!」
 リビングの電気をパチンとつけられて、目が眩んでいると、リビングのテーブルに湯気のたつお茶碗が置かれた。
「ベッドで食べますか?」
「え……何を?」
「お粥です!」
 ベッドから出ると、ふらりと体が倒れそうになり、五色くんが慌てた様子で私を支えようと来てくれたけど、大丈夫と言って五色くんを離して、リビングの椅子に腰掛ける。
「炊飯器にあったお粥に、ネギと生姜とササミを入れました! 美味しくできたし、栄養もありますよ!」
 きっと、初めてお使いから帰ってきた子どもはこんな顔でお母さんを見上げるんだろうなぁと思いながら目の前にある顔を眺める。
「食べてもいいの?」
「もちろんです! ナマエさんのために作ったので!」
「五色くんは食べないの?」
「俺はすぐ帰るんでいいです」
 なんだ。帰っちゃうのか。
 そう思いかけて、いや、それでいいんだ、と思い直し、お茶碗を手に取る。温かい。手にとったお茶腕は昼間に使ったもので、シンクに放置していたものだった。
 五色くんが洗ってくれたのかな。
 対面に座った五色くんをみると、満面の笑顔でこちらを見ている。そんなに注目されると食べずらい。でも、早く食べてくれ、とキラキラの瞳が言っているので、お茶碗と一緒に置いてあったレンゲを使ってお粥を掬い、ふぅふぅと湯気を散らして、口に含んだ。
 優しい生姜とネギの味。ほのかに感じる鳥の出汁が食欲を掻き立てる。
「五色くん、お料理できたんだ……」
「俺も一人暮らしなんで」
 へー、五色くんも一人暮らしだったんだ、と今更ながらにぼんやりと思いながら、またお粥を口に含む。細かく裂かれたササミを噛んで飲み込みまたお粥を口に入れると、目の縁が熱くなっていき、そういえば、なんだか瞼が腫れぼったいなと思う。パッと前を向いたら、待ってました、と言わんばかりに明るさが増す笑顔。
 そうだ。これをちゃんと言わなくちゃ。
「ありがとう。すごく美味しい」
「良かったです!」
 釣られて笑うと、涙が溢れそうになった。でも、私に涙を流す権利はない。
 あれ? なんでそんなこと思うんだろう。
 考えると、胸がもやもや。
 まぁ、いっか。今はこの幸せに浸っていたい。