ナマエに再び会う気はなかった。きっと、ナマエの名刺をなんとなく机の上に置いていたのがいけなかったのだ。
 ナマエと出会った日から一週間ほど経った頃のことだった。風呂から上がった後、ソファーに転がってSNSを眺めていたら元カノの投稿が目に入ってしまったのだ。慌てて飛び起き両手で持ったスマートフォンを覗いた。
 写真の中の彼女は楽しそうに笑っていた。座っている彼女は一人で写真に映っているが、彼女の前には白いクロスが敷かれたテーブルがあり、机の上には上品な肉料理が置かれている。横には玉ボケする光にまみれた美しい夜景が広がっていた。
 明らかに、写真に映っている場所は一人で食いに行くようなところではなかった。彼女の前にはきっと、誰かがいるのだ。
 唇を噛めば彼女の笑顔が滲んでいった。スマホの画面にはポタポタと涙が不規則な水玉模様を作っていく。本来なら彼女が投稿した写真は侑が撮るはずだったのだ。元カノの名前を呼べば、ブーンという冷蔵庫の音が大きくなったような気がした。うるさい心臓の上に手を置き、着ていたスウェットごと拳を握る。こんなことをしたって胸にできた傷は塞がってくれない。酒でも飲むか、とスマートフォンから顔を上げたときだった。ふ、と目に入ったものがナマエの名刺だったのだ。ソファーの前に置かれたテーブル。所狭しとビールの空き缶が並ぶ中で、異様な白さを放ったカード。ナマエが侑に残したそれを拾い上げた。
「ナマエちゃん……」
 トークアプリ上で名刺に書かれているアルファベットを打ち込んでいけば、ナマエのものと思われるアイコンが現れた。時間も確認せずに、会いたい、と送れば、すぐに、いいよ、と返ってくる。彼女をこの部屋には入れたくなかったので、前回使ったホテルでいいか、と落ち合う場所に前回使ったホテルを指定した。前回使ったホテルは気安く使うホテルではなかったが、年に二回もらえるホテルの宿泊券はまだボストンバッグに残っていたのだ。疲れた体で部屋から出るのは少し面倒であったが、寒々しい部屋で一人過ごす方が心も体も弱ってしまう。スマホ、宿泊券、ゴムと必要なものだけショルダーバッグに入れて部屋を出た。

 ナマエの連絡先が連絡リストに入ってしまってからは、好きなときにナマエを呼びつけた。寂しいとき、性欲を持て余したとき。やはり寂しいとき。
 呼び出す時間帯は毎回夜だったし、夜の深い時間もあったが、侑が会いたい、と一言送ればナマエは必ず笑顔と共に来てくれた。内心、デリヘルか、とは思ったが、都合が良かったので、なにも言わずにホテルでナマエを迎え、好きに抱いた。

 その日はチームの飲み会でたらふく食って、しこたま飲んだ日だった。気分が良かったので、ナマエに電話をかけてやった。
「ナマエちゃーん、もうすぐ飲み会終わるねん。迎えにきてやー。俺一人じゃ帰られへーん」
 穏やかな声が、いいよ、と言ってくれた。

 店の前で自分より身長の低い日向の肩に腕を回して立っていると、人混みの中で、スマホを片手にキョロキョロ首を振っているナマエを発見する。
「おー、ナマエちゃん、こっちやー」
 手を振ってやると、こちらに気づいたナマエは花が綻ぶような笑顔をこぼして駆け寄ってきた。
「ナマエちゃん、来てくれてありがとーな」
「うん、いいよ」
「か、彼女さんですか!?」
 さっきまで疲れた様子で立っていた日向の背筋が伸びる。
「ちゃうちゃう、セフレや」
「せふ、れ!」
 そう言った瞬間にガチリと固まった日向であったが、慌てた様子で顔を侑に向けると、侑の耳元でヒソヒソ声を使って叫んだ。
「侑さん! そんなこと言っていいんですか! 彼女さん悲しそうな顔してますよ!」
 どうして日向は声を落として話すのだろうか。夜の繁華街。そんなに小さな声では人混みのざわめきにかき消されて聞こえないだろう。侑は日向に聞こえやすいように大きな声で言ってやった。
「だから彼女とちゃうって言うとるやろ!」
 酒を飲んでいたせいか、思いのほか大きな声になってしまい、通行人から注目を受けたが、気にしなかった。
「なー、ナマエちゃん、ナマエちゃんはセフレやんなー?」
 前に立つナマエに尋ねると、そうだね、と柔らかな笑みと共に返ってきた。
「ほらなー、言うた通りやろ」
 日向に向き直ると、日向は片手で顔を覆って、あぁ、とため息混じりに情けない声を出していた。なんやねん、その反応。
 腑に落ちなかったが、日向とは逆隣に回ったナマエが侑の腕を肩にかけてくれたので、侑は日向に預けていた体重をナマエに移した。
「ほな、またな。翔陽くん」
 夜でも眩しいオレンジの頭にぽんぽん手を置いてやれば、日向はなにか恐ろしいものを見たかのような真っ青な顔で見上げてきた。だから、その反応なんやねん。
 納得がいかなかったが、日向に礼を言ったナマエを連れて、タクシーを拾いに大通りへと向かった。


* * *


 空っぽの胃をくすぐるようないい匂いがしたので目を覚ます。視界には見慣れた天井が広がっており、それは自室の寝室で眠ったときに起きたらいつも見る光景だった。どうやら自室のベッドの上にいるらしい。今日も無事に朝を迎えることができたようで、遮光カーテンの隙間からは眩しい光の帯が伸びていた。ベッドから体を起こす。頭がぐらぐらと揺れるのは二日酔いのせいだろう。これも普段通りであり、一見したら、いつも通りになんの変哲もない朝を迎えたように思えたのだが、先程から鼻を通る匂いだけが日常と違った。実家に帰ったかのような感覚になる。なぜ男の一人暮らしにあるまじき匂いが部屋を漂っているのだろうか。そういえば、少し前にもこんなことがあったような気がする。いつのことだっただろうか、と頭を悩ます前にそのときのことを思い出した。そうや、あの子が部屋に来てくれたときもこんなんやった、と。
 先日別れを告げてきたあの子も一度だけ朝にこうして腹をすかせる匂いをこの部屋に充満させてくれたことがあった。あのときの幸せな記憶が蘇ると、さっきまで重たかった体が宙に浮かぶような心地になる。きっと、彼女は侑の元に戻ってきてくれたのだ。朝に押し掛けて侑のために朝食を作ってまで、侑と仲直りがしたいのだろう。
 可愛いやつやな。
 キッチンが併設されたリビングへと走る。未だ忘れられない彼女の名を呼びリビングを覗いた。朝日を浴びて立つ後ろ姿。舞う埃はキラキラと輝いており、眩しさに目を細めた。しかし、振り返ってくれた彼女は期待した人ではなかった。先程抱いた温かな気持ちはスッと消え去ってしまい、リビングの入り口で肩を壁に預けた。思い出したかのように頭痛が酷くなってきて、立っているのもだるくなったのだ。
「なんで、お前がおんの」
「だって昨日……」
 キッチンに立っていたナマエはそう言ったきり黙り込んでしまった。初めて会ったときのように胸の前で手を組み心細そうに眉を寄せてこちらの顔を覗いてくる。
 昨夜なにがあったというのだろうか。ワックスがついたままの硬い髪の毛をぐしゃぐしゃにしてみたが、昨夜のナマエに関する記憶は一切なかった。よくよく部屋を見渡してみれば、綺麗になっている気がする。床に脱ぎ捨てられていた洗濯物はどこかに消え失せ、テーブルの上で所狭しと並んでいた空き缶も綺麗さっぱりなくなっていた。ナマエが片付けたのだろうか。
「こういうの迷惑やねんけど」
「ごめんなさい」
「こういうことしたら、俺がホダされるとでも思ったんか?」
「ごめんなさい」
 はい、とも、いいえ、とも言わずにただ謝り続けるナマエは俯き、垂れ下がる前髪で顔を隠した。侑の頭痛は酷くなる一方だ。
「もうええわ。はよ帰って。知らん女を家にあげたないねん」
「うん、ごめんね……」
 沢山の女と付き合ってきた侑はよくこうやって女を責め立てて、泣かせてきた。ナマエも例に従い、涙を落とすのだろうと思ったのだが、顔をあげた彼女は泣くどころか、力なく笑うだけだった。本当にごめんね、という言葉を残して早足で侑の隣を通り過ぎていく。侑はナマエを見送ることなく、ダイニングテーブルの椅子に腰掛けた。玄関の方から扉が閉まる音が聞こえてくる。
「なんやねん……」
 すでにボサボサになっているだろう頭をもう一度かき混ぜる。泣いてくれればこっちもスカッとしたのに。なぜ、ナマエはいつも笑みを絶やさないのだろうか。
 目の前のテーブルには湯気のたつ朝食が並んでいた。白飯に目玉焼きに味噌汁。きゅうりの漬物まで添えてある。確か、冷蔵庫は空だったはずだ。侑が寝ている間に、わざわざ買ってきて作ったのだろうか。いつまでもいい匂いを嗅いでいると、早よ食わせろと言わんばかりに腹が鳴る。
 食ってやってもいいか、と飯の前に置かれた箸を拾った。飯にはなにも罪はないのだから。
 茶碗を片手に目玉焼きの黄身に箸を入れると、薄い膜がぷつりと裂け、黄色い液体がだらりと溢れ出た。黄身がかかる白身を一口大に割って口に入れる。白飯も口の中に掻き込んだ。目玉焼きの下にベーコンが敷かれていないことは不服だったが、掻き込んだ飯は美味かった。