侑は寂しい夜が来るたびに、ナマエに会いたい、と送ろうとした。しかし、ナマエが部屋を去る前に見せてきた、ごめんね、と言ったときの笑顔が頭をチラつき、どうしてかスマホのキーをタップできずにいた。
「あー、もう、なんやねん!」
部屋のソファーで頭を掻きむしる。結局、溜まった欲を自分で処理した。
そもそも、ナマエは侑が好きではなかったのだろうか。おにぎり宮で人目も憚らずに侑に告白をしてきたくせに、どうしてこうも受け身なのだろうか。ナマエの方から、会いたい、とまでの言葉でなくとも、この間はごめんね、のような言葉を送ってくれれば、ええよ、と言ってやれたのに。そうすれば、簡単にまた、会いたい、と送れたのだ。
何日かテッシュに欲を吐き出す日々が続いたが、募りに募った苛立ちに任せて酒を飲むと、今まで硬直していたトークルームは嘘だったかのように、動かせた。勿論、謝罪などは送っていない。今までしてきたように、なんの前触れもなく、飾らない言葉だけを送ったのだ。すぐに簡潔な返信が送られてきた。
いつも使っているホテルでナマエを迎える。いつもと変わらない笑顔を向けてくれたナマエに少しホッとした。
誰にでも不調なときというものはあるらしい。指にボールが馴染まないのだ。乾燥する季節がやってきたからだろうか。一度、馴染まない、と思ってしまうと、そればっかりが頭の中をいっぱいにしてしまい、練習に集中できなかった。
こういう日は、好きに飯を食って、酒を飲んで、女を抱いて、寝てやればいい。夕方、練習が終わると、ロッカールームで、むしゃくしゃする気持ちに任せてスマホのキーをタップしていく。
“今日もええ?”
メッセージの送り先はナマエだ。
すぐに、いいよ、と返ってきたので、ロッカーに入れてあるボストンバッグを片手でガサゴソしながら、いつものホテルを指定しようとしたが、バッグの中にはもう例の宿泊券が入っていなかった。なくなってしまったのだろうか。十枚前後はあったはずなのだが、そんなにも使ってしまったのだろうか。はて、と首を傾げ、今晩はどうしたものか、と思案する。いつも使っているホテルはなんでもない日に実費で泊まるには高すぎる。そもそも普段使いするようなホテルではないのだ。そういえば家から最寄りの駅近くに使いやすそうなビジネスホテルが新しくできていた。ホテルの名前はなんと言っただろうか。調べるのがめんどくさかったので、ナマエに電話をかけた。直接、ホテルの場所を伝えた方が早いと思ったのだ。
三コールもせずに出てくれたナマエは、困惑した様子で、どうしたの? と聞いてくる。
「あんな、今日は別のホテルにしよと思ってんねん」
「うん、いいよ」
「ホテルの名前はよーわからんねんけど――」
そう言って、家の最寄りでもある駅を指定する。
「正面出口出てまっすぐ行ったらでかいショッピングモールがあんねん。ほんで右に曲がって……あれ? そっからどうやって行くんやったっけ?」
頭の中で、駅から歩いてみたが、以前、見つけた新しいホテルへとは到着できなかった。
「まぁ、ええわ、その辺で待っとって。十時くらいには行くから」
「わかったよ」
電話越しに聞いた声は、母のような姉のような、優しい声だった。侑の母はこんなにも穏やかではないし、姉はいないから良くはわからぬのだが、安心して、好き勝手やってもええんやな、と思えるような声だった。
シャワーを浴びてスッキリした侑は体育館を出る。分厚い雲が空を覆っているのだろうか、夜の帳が下りた空に月は見当たらなく、輝く星も見えなかった。
冷たい風が吹き抜け、侑は背中を丸めながら震え始めた体を抱きしめる。
「さむっ……」
どこから飛んできたのだろうか。目の前で転がる茶色い枯葉がますます体を冷やしていった。そろそろコートが必要やな、と心の中でぼやていると、背中をバシンと叩かれる。
「お疲れぃっ」
振り返れば、寒さを微塵も感じさせない晴れやかな笑顔。シャワーを浴びて、逆立てていた髪はすっかり大人しくなってしまったようだが、その男は、普段通りハツラツとした様子で、侑の丸まっていた背中を真っ直ぐ伸びるほどに何度も叩いてきた。
「今日のツムツム、全然ダメダメだったなー」
「痛いねんけど」
「飯でも行くか!?」
「ええけど……」
痛い、と言ったことに関しては無視なのだろうか。日向も行くだろ! と言った木兎の後ろには、行くっす! と目をキラキラに輝かせる少年、のような男。その後ろにいた佐久早は木兎が声をかける前に、俺は行かない、と言って帰っていった。
「なんだよ、連れねーなー」
「臣さんはしょうがないですよ」
「で、どこ行くよ!?」
佐久早の背中を見ながら一瞬はしょぼくれた顔をした木兎だったが、すぐにいつものテンションに戻った。忙しいやっちゃな、と思いながら、サムのとこでえーんとちゃう? と返した。
侑と木兎、日向、三人でなんの話をしただろうか。時折、治を交えながら、楽しくときを過ごした侑は夢見心地でタクシーに乗っていた。店を出たときにはもう降っていた雨がタクシーを激しく叩き、いいBGMを奏でている。
今日あったむしゃくしゃすることは全て酒で洗い流した。あとはもう、瞼を閉じるだけだった。なにか大切なことを忘れているような気がしたが、迫り来る睡魔に任せ瞼を落とすとすぐに微睡に落ちていった。
「お客さん、お客さん、起きてください」
運転手から声をかけられ、薄ら目を開く。
「もうすぐ、お客さんが言わはった駅なんですけど、ここからどうやっていきましょう?」
もうそんなに走ったのか、と窓の外を覗く。雨水が流れていく窓からは静まり返った商店街が見えた。時折、通り過ぎていく、オレンジの灯りを煌々と放った店舗は飲食店だろう。しかし、店内に客の姿は見えない。店じまいの時間は近そうだ。
「もうすぐ行ったらでかいショッピングモールがあるんで、そこの信号を右に曲がってください。そこからまた案内するんで」
「承知しました」
座席の背もたれに体を預けた侑はまだ夢を見ているような気分だったが、前方から助手席側にショッピングモールが現れると、氷水をぶっかけられたかのように一瞬にして目が覚めた。通り過ぎていく景色がまるでスローモーションのようにゆっくりと見え始める。今は何時だろうか。少なくとも約束の時間だった十時はとうの昔に過ぎているはずだ。食事をしている間やタクシーに乗ったとき。ふとした瞬間に心を引っ掻いた、なにかの正体――ナマエは、灯りを灯さず静かに佇むショッピングモールの前で傘も持たずに立っていた。彼女が両手で抱える端末から淡い光が放たれると、彼女の額に張り付いた前髪が白く輝く。彼女の前を通り過ぎた瞬間に、侑が見ていた映像は再び元の速さで動き出した。
「運転手さん、止まって! 止まってください!」
「あ、はいっ!」
タクシーはショッピングモールを過ぎたあたりで止まった。支払いは電子交通マネーを指定したが、ちょっと待ってくださいね、と言われた、ちょっとの時間が随分と長く感じ、財布から現金を取り出した。
「釣りはいらんから!」
メーターの赤いランプは六千円ちょっとを示していたが、一万円札を置いて、自分で扉を開けてタクシーを出た。
タクシーを出ると、降りつける雨が首筋を刺してきた。冷たいのか痛いのかよくわからない。指先は凍りつき、息を吐いた口は震えた。雨水が服の中に入り込んでくると、濡れた服は体に張り付き、全身を氷漬けにされるような気分だった。
侑は川のように水が流れる歩道を、力一杯足を伸ばして、ショッピングモールを目指した。煩いほどの雨音が彼女の耳を覆っているからだろうか。髪を重く張り付けた横顔は近づく侑に全く気付く素振りもなく、ただ前方の道路を眺めていた。
「お前なんでおんねん!」
侑が叫ぶと、目に見えてびくりと震えたナマエはようやく侑の方を向いた。
「侑くん! 良かった……なにかあったんじゃないかって心配したよ」
ナマエが力なく笑うので、握った拳が震えてしまった。もう、寒さなど感じなかった。
「そんなことよりお前なんでこんなとこにおんねん!」
「なんでって、侑くんが会いたいって言ってたから……」
「そういう話とちゃうねん! 普通、時間通りにけーへんかったら帰るやろ!」
「そうかもしれないけど、侑くん、来てくれたじゃん……」
「そうやけどっ! あーもうっ! そういう話とちゃうやろ!」
眉を寄せて笑う彼女は泣いているようにも見えたがきっと、泣いてなどいないのだろう。彼女の頬を流れるものは、ただの雨粒だ。
「そもそもなんで、雨に濡れとんねん! ちょっと行ったらコンビニあるやろ! 傘買う金もないんか!」
「傘買いに行ってる間に侑くんが来てくれたらって思うと買いに行けなくて……」
ごめんね、と謝る彼女は一体なにに対して謝っているのだろうか。なにか謝らなければならないことを侑にしたのだろうか。
「あーもう、なんやねん! お前は俺のためやったらなんでもできるんか!」
「そうだね、できるよ」
間髪入れずにサラリと言ってのけられ、体から力が抜けてしまう。急に寒さが体を包み込んだ。相変わらず首筋には剣山が刺さっている。
侑たちが向かい合って雨に打たれていると、隣を一台の車が噴水を作りながら走り去っていった。
「せやな……お前は俺のために股開ける女やもんな……」
だから、この女を好きに使ってやればいいのだ。好きなときに呼びつけ、好きに抱いて、要らなくなれば捨てればいい。
そういった自分勝手なことが頭の中で渦巻くと、まるでそれら全てを肯定するかのように、彼女は、そうだね、と言った。彼女は笑顔を崩さない。青く見える伸ばされた唇は少し、震えていた。そうまでして笑う必要が彼女のどこにあるのだろうか。
「もう、なんやねん!」
一度地面を踏みつけると、地面を流れていた水が弾ける。跳ねた水がナマエの足にかかってしまったが、ナマエは避けることをしなかった。
「ほら、行くで!」
掴んだ腕は折れてしまいそうなくらい細かった。
「え? 行くって? どこに?」
もう、ナマエと言葉を交わすのがめんどくさかった。黙ってナマエの腕を引いて、どんどん進んでいく。
「え? 侑くん? ねぇ、侑くん? ねぇ、侑くんってば! 行くってどこに――」
「俺の家や!」
ナマエがやかましいので、振り返って答えてやった。
「家に行ってもいいの?」
「しゃーないやろ! こんなみっともない女をホテルに連れていくわけにもいかんからな!」
「ごめん……」
「謝んな、ボケっ!」
「ごめん……」
しつこいので睨んでやったら、彼女は困った様子で微笑んだ。
「ありがとう……」
「傷ついてるときに笑うな、ボケっ!」
そう言っても彼女は笑みを浮かべている。話の通じないイカれた女とはいくら話をしても時間の無駄のようだ。侑は黙ってナマエの腕を引っ張っていく。視界を白く濁らせるほど、雨は激しく降っていたが、もう雨粒が体を打ちつける感覚は微塵も無かった。手の中に収めた腕の細さだけが気になって気になってしょうがなかった。