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 朝練を終え、昇降口へ向かうと、下駄箱の前でナマエと鉢合わせた。昨日、衝動的にナマエへ手を伸ばしかけたことを思い出させられる。しかし、ナマエはまるで昨日は何もなかったというように、おはよう、と微笑みかけてくれた。実際何もなかったのだから、五色も普通に挨拶を返せばよかった。しかし、五色は挨拶を返すことなくナマエの前を素通りした。
 すぐに後悔した。
 ローファーからスリッパに履き替えている時も、教室へ向かって廊下を歩いている時も、ずっと、早く引き返せ、と心臓が激しく警鐘を鳴らしていた。きっと、今ごろ下駄箱の前で一人残されたナマエは傷ついた顔をしているのだろう。その姿を想像すると、今すぐ戻って謝りたかった。でも、戻ってしまえば、昨日のように取り返しのつかない間違いを犯してしまいそうな気がして戻れなかった。拳を握りしめながら、廊下を歩いていく。
 一度ナマエを無視すると、もう話しかけられなかった。でも話しかける必要なんてなかった。今日返された小テストは一つしか間違っていなかったのだ。その間違いも、教師の回答を聞けば難なく答えを導き出すことができた。それは今日に始まったことではない。近頃はナマエに教えてもらっていたおかげか、ずっと五色の小テストは好調だったのだ。それにも関わらず昨日まで、わざわざナマエに話しかけ何を教えてもらっていたのだろうか。不思議でならなかった。
 翌朝、教室に行けば、隣の席にはもうナマエが座っていた。五色が自分の席へ歩いて行けば、顔を上げたナマエがおはよう、と笑う。ナマエがいつも通りでなんだかホッとした。しかし、何をホッとしているんだ、と頭を振る。ナマエとはもう関わりたくないのだ。五色はナマエに挨拶を返すことなく目を逸らし、席についた。
 机に突っ伏す。強い鼓動が胸の内側から五色を責め立てていた。
 うるさい。うるさい。
 目を閉じ、歯を食いしばった。
 その翌日も、その翌々日も暫くは、朝登校してくると、ナマエは挨拶をしてくれたが、五色は一度も返さなかった。そうしているうちに、ナマエから挨拶をされることもなくなり、やがて目が合うことすらなくなった。

「うーん……」
 放課後、誰もいない教室で五色は一人シャーペンで額を叩いていた。五色の険しい横顔を映した窓からは暗雲が見える。夕方の時刻だったが外はもう薄暗かった。
 五色の目の前には、今日の一限目に提出しなければならなかった数学の課題があった。ついやってくるのを忘れてしまったのだ。これを完成させなければ、部活に行ってはいけない、とお達しを受けていた。
「うーん……」
 どうしても問五が分からない。ここだけ空白で出してしまおうか。いや、空白のままだと教師に提出する際にご丁寧に解説されてしまうかもしれない。そんないらない配慮のために部活の時間を削られるのは避けたかった。どうせ、明日の授業で解説してくれるのだし。
 適当に埋めてそれっぽくしておかなければ。しかし、どう解けば良いのかも分からないので、一行も書けない。
「うーん……」
 シャーペンの芯先で問五の空白をトントン叩いていると、雨がパラパラ窓を叩き出す。もう諦めるか。五色がシャーペンを置こうとした時だった。ガラッと音を立て教室の扉が開かれた。反射的に顔を上げると、扉のところではナマエが立っていた。久しぶりにナマエと目が合う。
「ミョウジさん……」
「あ、えとね、忘れ物しちゃって……」
 そそくさとナマエは五色の隣の席へ駆け寄り、机の中を覗く。あったあったと言ってナマエは机の中から英語の参考書を取り出した。
「何してるの?」
 ナマエが課題を覗き込んでくる。懐かしい香りがし、ドキッとした。
「数学の課題?」
 ナマエがますます身を寄せ、花の香りが容赦なく五色の脳を侵食し始める。それは大切な人と重ねた記憶までをも蝕んでしまいそうだった。
 外では雨の勢いが増していく。
 やめろ。近づくな。
 シャーペンを握っていた手が震え出す。
 しかし、ナマエはそんな五色に気づくことなく、課題に目を落としたままだった。そして、問五の解答が書かれる筈の場所にいくつも黒ゴマが落とされているのを見ると、クスッと笑う。
「ここはね。求める図形が、この図形と相似だからこっちの図形を先に求めるといいよ」
 ナマエは楽しそうに続ける。
「この図形なら、辺の長さが分かってるから求められるでしょ。この問題みたいに、図形の中に求めないといけない図形がある時は、相似の図形を探してみるといいよ」
 課題から顔を上げ、ナマエが笑った。
 まるで、今まで五色との間に何もなかったかのようだ。
 今まで散々無視をしてやったのに、どうしてそんな顔ができるのだ。
 ざぁざぁと鳴る雨音が大きくなっていく。
「あと、ここ、間違ってるよ。ここは引っ掛けになってて――」
「うるさいんだよ!」
 雷のように響いたそれは口をついて出た言葉だった。ナマエの課題を指差していた手はビクッと震え固まる。
 ここでやめておけば良かったのに、濁流のように流れていく感情の堰き止め方なんて知らなかった。
 椅子が倒れるほど勢いよく立ち上がり、さらに捲し立てた。
「教えてくれなんて誰も頼んでないだろ! お節介なんだよ! やめてくれよ!」
「ごめん……」
 ナマエは項垂れ、小さな肩がさらに小さくなる。
 胸がじくじく傷み出し、今すぐ謝り、その頼りない肩を抱きしめてやりたくなった。
 でもそんなことは許されないのだ。
 窓に黄色い閃光が走り、少し遅れて轟音が腹を揺らす。その音に被せ五色は叫んだ。
「もう俺のことなんかほっといてくれよ! 俺はミョウジさんと関わりたくないんだよ!」
 蛍光灯がチカチカ点滅する。息を荒げていた五色だったが、蛍光灯の光が元に戻ると、諦めたように項垂れ、垂れ下がった前髪が五色の顔に影を落とした。
「頼むからもうほっといてくれ……これ以上ミョウジさんと関わりたくないんだ……関わって、ミョウジさんのことを好きになりたくないんだよ……」
 本当は、ナマエを抱きしめようとした日から、ずっとナマエのことばかりを考えていた。いくら無視しても、ナマエのことばかりを思い出していた。数学の課題をやり忘れてしまったのもそのせいだ。
「俺には他に好きな人がいるのに……」
 その人は五色を愛してはくれないけど、その人を忘れられるなんて到底思えなかった。今だってその人を思えば、息が詰まりそうなほど苦しい。
「それなのに、ミョウジさんを好きになるなんて、こんなのどっちに対しても失礼だろ……」
「――いいよ」
 ナマエは静かに言った。
「え……?」
 ちゃんと聞こえていた筈だったが、何を言われたのかよく分からなかった。
「私はいいよ」
 恐る恐る顔を上げれば、瞳を揺らしたナマエが弱々しく笑っていた。
「私を少しでも特別に思ってくれるなら、五色くんはその人を好きなままでいていいよ」
「だめだろ……そんなの……」
「いいよ。だって私、その人が好きな五色くんを好きになったんだもん。私が告白した時、はっきりと好きな人がいるって言う五色くんが素敵だと思った。きっと真剣にその人を好きなんだろうなって。そういう五色くんだからあの時五色くんのことをもっと好きになっちゃったの。だから、その人のこと、好きなままでいていいよ。でも、私ともちゃんと向き合ってよ」
 無視なんて、しないでよ。
 ナマエは消え入りそうな声でそう付け加えると、さらに目を細めた。すると、ナマエの目に張っていた膜が目尻から膨らみそれはついに涙となって一筋、つぅっと頬を伝う。ナマエは笑っているのに、確かに泣いていた。
 五色は大きな手に胸を鷲掴みにされたように息が詰まった。
「ごめんっ……」
 何に対して謝ったのか、自分でもよく分からなかった。でも、もう体を突き動かそうとする衝動を抑えることができなかった。とうとうナマエを抱きしめる。ナマエの体を自分の胸に押し付け覆いかぶさるように腕の中に閉じ込めた。
 抱きしめた体はやはり華奢で簡単に折れてしまいそうだった。ナマエは今までこの頼りない体で一人どれほど傷ついたのだろうか。
「ごめんっ……ミョウジさんっ……」
「いいよ……」
 ナマエの腕が躊躇いながらも五色の背中へ伸びる。そして、五色の背中へ届くと、その手はひしとブレザーを掴んだ。
 雨が乱暴に窓を叩く。稲妻が空を裂き、豪たる地響きが蛍光灯を揺らす。
 五色の腕の中ではナマエが子どものように泣きじゃくっていた。五色は腕の力を強める。
「好き……俺、ミョウジさんが好きだ……」