
祭りが終われば、また新たなイベントがやってくる。
春高予選だ。
といいたいところだったが、その前に乗り越えなければならない山があった。
「うわっ……」
思わず口から漏れてしまった。五色は返却されたばかりの数学の小テストと対面していた。十点満点の筈なのだが、五点満点なのではないかと思えてくる。
やばい。
このままでは、白布に殺される。
昨夜、夕食を終えた後、動画でも見るか、と思いタブレット片手に鼻歌混じりで談話室へ向かっていたら、たまたますれ違った白布に言われたのだった。
「お前、随分余裕だな」
「余裕? 何がですか?」
「今月、中間テストあんだろ。ちゃんと勉強してんのか?」
していなかった。でも、中間テストは二週間後だ。そんなに急いで準備を始める必要もないだろう。そう言いかけたのだが、怖い顔をしている白布を前にすると、口が思ったように動かなかった。ぅ、とか、でも、とか、まだ、とか、核心となる言葉だけは言えず、だけど、気持ちだけは立派に抗議しているつもりでいると、舌打ちをした白布は苛立たしげに言った。
「お前、次の中間テストで赤点取ってみろ。どうなるか分かってんだろうな」
どうなるかは分からなかったが、白布のこめかみに見える青筋に、背筋が凍り、慌てて部屋に戻って、勉強机で教科書を広げたのだった。
これまで決して勉強をサボっていた訳ではない。毎日キチンと課題をこなし、授業も眠らずに聞いていた。たまに授業中に意図せずうとうとすることもあったが、そのまま寝てしまったことはほとんどなかった。それでも、苦手というものはできてしまうようで、それが数学だった。
まずはこの小テストをなんとかしないと。
席につき、魂まで抜け出そうな深いため息をこぼせば、隣から、どうしたの? と声がかかった。ナマエだった。ナマエも小テストを返却され、ちょうど席についたところらしかった。
教壇に立っている教師は生徒の名前を呼び、呼ばれた生徒は、はい、と返事をして小テストを取りに教壇へ歩いていく。
「いや、その、小テストが……」
ブリキの人形のようにカクカク震えながらナマエの方を見ると、ナマエの小テストがチラッと目に入った。
「ミョウジさん満点じゃん」
「あ、えと、得意なところだったから」
ナマエはハニカミながら、丸ばかりの小テストを机に伏せた。
「じゃあ、答え合わせするぞー」
教師から声がかかり、じゃあと言って、五色たちは前を向いた。
「うーん……」
休み時間に入ったが、五色は未だ小テストと向き合っていた。握っていたシャーペンを額に当てながら考える。
「大丈夫?」
隣に座っていたナマエが心配そうに覗き込んでくる。
正直、大丈夫ではなかった。満点のナマエに声をかけてもらえ心強い。
五色は問四をシャーペンで叩く。
「ここ、どうしても答えが合わないんだよ。授業では、この公式使えって言われただけだったろ。それでこの公式を使ってみたんだけど、なんでか答えが合わないんだ」
「見てもいい?」
「おう……」
十問しかないテストだったため、一目見たら何点か分かってしまうのだが、点数のところをペンケースの下に潜り込ませ、ささやかな抵抗をする。しかしナマエは五色の点数に全く関心がないようで、ただ問四を眺めていた。
「あ、ここ」
ナマエが声を上げる。
「ここ、公式の当てはめが間違ってる。aは4じゃなくて、-3だよ」
「え? あ、ほんとだ……」
4を消しゴムで消し、そこに-3と書いて、計算していく。いくつかイコールで結んでいけば、期待していた数字にたどり着いた。
「助かった。ありがとな」
「いいよ」
「あの、他のところもいいか?」
「いいよ」
ナマエが笑ってくれたので、今度は、プリントの一番下にある問十をシャーペンで叩く。すると、ナマエが身を乗り出してきて、その拍子に花の香りがふわりと鼻孔をくすぐり、思わず椅子ごと飛びのいた。
「どうしたの?」
「あ、いや、えと、問十が……」
「問十……あ、これ計算間違いだよ。ほら、ここ」
「お、おう……」
ナマエが指差してくれたところに印をつける。後で計算し直そうと思ったのだ。今は花の香りが脳の全てを占領し、正しく計算できそうになかった。
「ありがとな」
「どういたしまして」
微笑んだナマエは離れていったが、花の香りはまだ五色に何かを囁いていた。
この日から小テストが返却されるたびに、ナマエに教えてもらうということが習慣となった。ナマエの席が隣だったため、声をかけやすかったのだ。女子に教えてもらうのは少し気恥ずかしかったが、背に腹は変えられない。初めは数学の小テストだけだったが、どうやらナマエは成績優秀らしく、聞けばなんでも答えてくれたので、それに甘え、数学の課題で分からなかったところも聞くようになり、そのうち、古典や化学と聞く科目も増えていった。
「もう、お前ら付き合っちまえよ」
六限目の数学が終わった時のことだ。ホームルーム前に、いつものように小テストの分からなかったところをナマエに聞いていたら、前の席の男子生徒が椅子の背もたれに手をかけ、こちらへ振り返りながら揶揄うように言った。さっきまでザワザワしていたのに、嘘のように教室はシンと静まり返り、五色たちにいくつもの好機の眼差しが向けられる。
さっきまで優しく講師をしてくれていたナマエは途端にしどろもどろになった。
「あの、えとね、私たちはそういうんじゃなくて……」
「いや、お前ら見てたらこっちが焦ったいんだよ」
「だから……そういうんじゃ……」
ナマエの顔がみるみる赤く染まっていく。
それが話しかけてきた男子生徒の目には随分面白く映ったようで、彼はやらしい笑みを浮かべた。
「そういうんじゃないなら、なんなんだよ。お前ら毎日楽しそうに話してんじゃん」
「だから、その……違って……そういうんじゃ……」
電波の悪いラジオのようにそう言ったが、とうとう耐えきれないと言わんばかりに俯いた。ナマエのスカートを掴む小さな拳は震えているように見える。
相変わらず、クラスメートからは無遠慮な視線が注がれていた。
五色のシャーペンを握る手には力がこもる。
「余計なお世話なんだよ」
五色はなるべく感情を抑えて言ったつもりだったが、男子生徒は、あーあ、というようにため息を吐いた。
「五色がいつまでもそんなんだから、お前ら全然進展しないんだろ」
「だからそんなんじゃねぇって言ってんだろ」
「そんなんも何も、お前らお似合いだよな」
男子生徒がクラスメートに同意を求め、彼らは続々と呼応し出す。
「そうだよ、早く付き合っちまえよ」
「お似合いだよね」
「俺らは応援すんぞー」
男子も女子もみんな身勝手なことを言う。しかし、彼らに悪気がないことは重々承知していた。もう半年も時を共にした仲間だ。彼らはきっと良かれと思い五色たちを応援しているのだろう。それでも、やっていいことと悪いことがある。五色が握っていたシャーペンがミシミシと変な音を立て出した、その時だった。
「私振られたの!」
ナマエの声が響き、再び教室がシンとした。
「夏休み前のことだから。五色くんとはもう普通に友達だよ」
顔を上げたナマエは、へらっと笑ったが、明らかに教室の空気は凍りついていた。さっきまでニタニタ笑っていた男子生徒も顔を真っ青にしている。
「ごめん……俺何も知らなくて……」
「いいよ。もう平気だから」
ナマエはなんでもないように微笑んだ。
すると、教室の扉が開かれ、担任が入ってくる。いつもは騒がしい教室が冷え切っているのを見て、彼女は、あれ? と間抜けな声をあげた。
「なんか、気まずい空気? ホームルーム始めて大丈夫?」
誰も答えずにいると、ナマエが軽やかに言った。
「大丈夫です」
「私のせいで迷惑かけてごめんね……」
クラスメートがそそくさと帰り、教室には五色とナマエだけが残されていた。五色も部活に向かおうと教室を出ようとしたのだが、背中からナマエにそうやって謝られ、なんだか腹が立った。
振り返ると、力なく笑ったナマエが立っていた。
「謝るなよ」
「でも……」
ナマエは萎れるように首を垂れた。その丸まった肩は小さくて、頼りない。
「ミョウジさんは大丈夫なのかよ」
「大丈夫だよ」
弾かれたように顔を上げたナマエは即答して微笑む。そのくせ、スカートを固く握っており、その手を震わせている。
目の前の女子生徒が踏みつぶされた花のように酷く哀れで、どうしてか五色の方が泣きたくなった。衝動的にその肩に手を伸ばす。
瞬間、遠くから女子たちのガラスを割るような笑い声がし、ナマエに触れる前にハッとした。
五色は伸ばされた自分の手をまじまじと見てしまう。
今、自分はこの手で何をしようとしただろうか。
ナマエの肩を掴み、そのまま抱きしめようとした。
ありえない。
そんなことをしようとした自分が信じられなかった。
どうして、ナマエを抱きしめようとしたのか。あの人が好きなのに。今でも大好きなのに。
それなのに、ナマエを抱きしめる、なんて、そんなことをしていいわけがなかった。
ナマエに触れようとした手に拳を握る。ナマエは不思議そうな顔をしたが、五色は彼女を置いて教室を飛び出した。
肩から下げたスポーツバッグを踊らせながら、一目散に走る。
早く部活へ行こう。今日も一番乗りだ。そして、あの背中に挨拶をするのだ。
五色の日常はこれからもきっと変わらない。