
アスファルトに座り込んだ。お尻が冷たい。ストッキングも破けちゃって酷く惨めだ。それでも、啜り泣くのをやめられなかった。五色くんの前なのに。近くには五色くんのチームメートもいるのに、みっともない。
五色くんが慌てた様子で私の名前を呼ぶのが遠くで聞こえた。だけど、両手で覆った顔は上げられないし、何も返せなかった。
すると、五色くんが、すみません、先に帰っててもらえますか、なんて言っているのが聞こえる。きっとチームメートに向かって言ったのだろう。
いいよ。私なんかほっといてよ。
そう言おうとしたけど、しゃっくりが邪魔をして言葉を発せなかった。
五色くんは私の前にしゃがみ込む。
「ナマエさん、大丈夫ですか? 具合悪くなっちゃったんですか?」
五色くんの大きな手が肩に触れる。その手についたシルバーが視界に入ってしまい、反射的にその手を叩いた。
胸が潰れてしまいそうだ。
息を大きく吸って、触らないで、と叫ぼうとした。その瞬間、友人の言葉が体の中で反響した。
――幸せは、口にしないと手に入れられないんだよ。
開いたままの口はわなわな震え出す。
口にすれば、それは手に入るのだろうか。
口にさえしていれば、それは手に入っていたのだろうか。
私の中で何かが壊れる音がした。いや、五色くんの前で情けなく座り込んだ時点で、私が後生大事に抱いていたそれはもう壊れていた。さっき聞こえた音はきっと僅かに残っていたそれが跡形もなく弾けた音だったのだろう。
「……いて」
「え? なんですか?」
「一度でいいから抱いて!」
一度言葉にしたら止まらなかった。
「五色くんのことがずっと忘れられなかった! 好きだったの! 高校の時からずっとずっと五色くんが好きだったの! でももう忘れるから! ちゃんと忘れるからっ……! だから一度でいいから抱いてっ……」
五色くんは不愉快そうに顔を歪ませる。
「なんだよ、それ……」
下品な女だと失望されただろうか。
今までそうなることを避けて五色くんの前ではずっとカッコつけてきたけど、今はもうどうでもよかった。いっそ気持ち悪いと引いてくれたら、今度こそ私も諦めがつくだろう。冷たいアスファルトに置いていた手に拳を握った。
「なんで……もっと早く……」
「え?」
「困った人ですね」
五色くんは泣きそうな顔をして笑った。
「とにかく立ってください」
そう言うと、私の二の腕を掴んで無理やり私を立たせた。私が立ち上がると、私の腕を掴み人混みの中を早足で進んでいく。私は転けそうになりながらも引っ張られるがままに、五色くんの背中についていった。
「あの、五色くん? 五色くん?」
五色くんは振り返ることなく進んでいく。
大通りに出ると、片手を上げた。目の前でタクシーが止まる。
「あ、あのっ……」
「今日だけあなたを愛させてよ。あなたもそれを望んでるんでしょ」
五色くんは私を見ることなく言った。酷く強張っている横顔に何も返せなかった。
タクシーの扉が開かれる。五色くんに、乗ってください、と促され、座席の奥へと進んだ。
タクシーで五色くんが指定した行き先はここからほど近いところにあるホテルだった。名前は知っているけど一度も行ったことはない。普通に生活をしていたら、まず泊まることのないほどの高級ホテルだったからだ。
車内ではお互い無言だった。窓から見える景色を眺めていると涙がこぼれる。通行人もネオン輝く夜景もみんな後ろに流れていった。
私たちはこうして前に進むことしかできない。どんなに後悔して、どんなに願っても過去には戻れないのだ。沢山のものを後ろに置いて、両手で持てるだけのものを持って、ただ、進んでいくことしかできない。
もし、このまま五色くんに抱かれてしまったら、五色くんへの思いも執着も今胸に渦巻くこの痛みまでも後ろに置いていくことになるのだろうか。
期待と恐怖に座席に置いていた手が震えてしまった。すると、その手に無骨な手が重なる。指輪がはめられていない五色くんの右手だった。
また涙がこぼれた。嗚咽までこぼれて、寒い体を抱きしめてはもらえなかったけど、手だけは固く握ってもらえた。