
尾ひれの代わりに願ったもの
ハイボールを一気に煽った。汗をかいたそれをテーブルに置くと、カランと氷が音を立てる。
「すいません、ハイボールもういっぱい……」
「あ、いえ! お水で! お水! お水をお願いします」
店員さんは私の注文を横取りした友人を見て、次に友人の正面に座る机で溶けている私を見ると、再び友人へ視線を戻した。
「お水をお持ちいたしますね」
愛想笑いをして、去って行った。
「別にまだ大丈夫なんだけど……」
大した量を飲んでいないのに友人は大袈裟なのだ。
彼女とは大学からの付き合いだった。宮城から遠く離れた場所にある大学に、彼女も私と同じく田舎からはるばる進学してきた子で、私たちは出会ってすぐに意気投合した。卒業し就職先は別れたものの、就職してからも実家から遠く離れて生活をしているため、互いの就職先が近くであることが幸いして、独身生活の寂しさをこうしてたまに会うことで紛らわしている。
「大丈夫なのは分かってるけど、そういうお酒の飲み方は良くないよ。一回お水挟んで休憩しな」
そう言った彼女は、店員さんが持ってきたお水を私の前に置くようにジェスチャーをする。私の目の前に、お水の入ったグラスが置かれた。冷たいそれを一口飲むと、また机に突っ伏す。心なしか吐く息の温度が少し下がったような気がした。
「で、どうしたのよ。これ聞くの百回目なんだけどさ」
「別になんでもない……これ言うのも百回目だよ……」
友人は、やれやれと言いたげに肩を上げた。
「あのさ、なんでもないことはないでしょ。急にご飯行こって言われて来てみれば、ナマエ、ずっとお通夜状態なんだもん。なんでもないって言うけど、ナマエのその態度、どうしたの待ちにしか見えないからね」
「ごめん……そういうつもりはなかったんだけど……」
「別にいいよ。で、どうしたのよ」
百一回目のそれに促され、昨日天童くんからきたメッセージを思い出す。
“工、結婚したんだって!”
それは、私たちの代がメンバーとして入っているグループに宛てられてきたメッセージだった。なんで、海外にいる天童くんがいの一番にそれを知らせてくるのか、謎だったけど、天童くんだから、と思えば不思議と納得がいった。それ以降、通知が鳴り止まないので、今はそのグループ宛にくるメッセージの通知を切ってある。
「なんでもない……」
「やっぱり言ってくれないんだ。昔からナマエはカッコつけだよね」
「別にカッコつけなんかじゃないよ」
「じゃあ何?」
「慎ましいの……」
「自分で言うな」
はは、と自嘲にも似た笑いをこぼせば、友人は眉尻を落とす。
そんな母親みたいな顔しないでよ。同い年でしょ。
とは言っても、私も今年で二十五なんだし同い年でも早い子はもう母親やってるんだろうな、とぼんやり思っていると、指でおでこを弾かれた。痛い。
「たまには甘えなよ。別に無理に話してとは言わないけどさ」
友人は、自分が飲んでいたグラスの口を慈しむようになぞり、切なげに笑う。
「幸せは、口にしないと手に入れられないんだよ」
悟ったようにそう言った彼女は不倫でもしているのだろうか。少し心配になった。
すると彼女はじっとりした視線を寄越してきた。
「大丈夫。今のナマエに心配されるようなことはしてないから」
心の中を読まれてしまったようで、思わず笑ってしまった。
「なんで私の考えてたこと分かったの?」
「そりゃ分かるよ。もう六年の付き合いになるんだからさ」
彼女も私に釣られたように笑った。
そうして、彼女と声を上げて笑っていると、心の中の陰鬱としたものも一緒に外へ出ていくようだった。
昨日、会社を出た後、天童くんからのメッセージ通知を見たけど、そのメッセージ通知をタップすることなくスマホをカバンにしまい、帰路についた。いつものようにスーパーに寄って、豚肉が安かったから豚肉を買って帰り、家で、生姜焼きを作って一人で食べた。それから、片付けをして、お風呂に入り、寝るまでの時間は、勉強をして、いつも寝ている時間にベッドに入った。だけど、頭は冴え渡っており、寝れそうになかった。しばらくベッドの中で粘っていたけどやはり眠れない。今何時だろうか。時間を確認しようとしてスマホを覗けば大量のメッセージ通知。通知をオフにしよう。そう思ってメッセージアプリを開いた時、たまたま目に入ったものが画面の下の方に表示されていた友人のアイコンだった。気がつけば、そのアイコンをタップして、いつでもいいからご飯行こ、とだけ送っていた。すぐに、いいよ、明日は? と返ってきた。
“いいよ”
“いつもの場所でいい?”
“いいよ”
リズム良く会話が流れていく。
その画面を見ながらうつらうつらしていたら翌朝を迎えていた。
土曜日の今日、仕事は休みだった。夕方、この居酒屋に行ってみれば、困った顔で迎えてくれた彼女は、席につくなりなんなり、飽きもせず何度もどうしたの? と聞いてくれて、でもそれ以上は聞いてこない。お酒を好きに飲ませてもらえないことは少し気に入らないけど、それも彼女の優しさなのだろう。そして、ついさっきまでもう一生笑えないとまで思っていたのに、気づけば今、ケラケラと笑っている。
今日はぐっすり眠れるような気がした。
「そういうことするとしたら、カッコつけのナマエの方なんだからね」
「流石にしないよー」
そんな軽口まで叩いて、一通り笑うと、友人は安心したような顔をした。次何飲む? とメニュー表を見せてくる。飲んでもいいんだ。
一応メニュー表を眺めてみたけど、それを見る必要はなかった。
「ハイボール」
「ナマエ、そんなにハイボール好きだったっけ?」
「ダイエットにはハイボールがいいって聞いたから最近はずっとハイボールなの」
「ダイエットなんてしてたの?」
「気持ちだけ」
お互いにぷっと笑って、じゃあ私もハイボールと言った友人は店員さんに向かって手を上げる。店員さんにハイボール二つ、と注文している友人を眺めながら、私は友人の言葉を心の中で、復唱していた。
――幸せは、口にしないと手に入れられないんだよ。
例えば、五色くんに彼女ができたと聞いた時に、意地なんて張らずに五色くんに好き、と伝えていたら。
例えば、五色くんに告白をした時に、カッコなんてつけずに、俺も本当は、と思いを伝えようとしてくれた五色くんを受け入れていたら。
私は幸せを手に入れられていたのだろうか。
今更、そんなことを考えても遅いのに。
じわりと目の縁が熱くなって、下を向けばテーブルにポタポタ涙が落ちていった。
「うわっ、大丈夫!?」
「大丈夫……」
「大丈夫じゃないでしょ。まぁ、でも泣けるなら泣いときな」
そう言って、ハンカチを渡してくれた友人に、自分の持ってるからいいと言えば、本当に甘えベタだよね、と呆れたように言われた。
駅に向かって一人で歩いていた。友人とは路線が違うのだ。駅まで見送るよ、と言われたけど、流石に大丈夫と言って店の前で別れた。
目が腫れぼったい。お化粧も落ちて酷い顔をしているのだろう。
人混みの中を、俯き、暗いアスファルトを見ながら歩いた。すると、突然、おでこに軽い衝撃が走り、誰かとぶつかったのだと悟る。すみません、と反射的に顔を上げて、冷水を頭から被ったように酔いが覚めた。同じく、すみません、と謝ってきた人物は、この六年、会いたくても会えなかった人物だったからだ。
高校を卒業してからは、なんでもない平日や休日に行われる母校の試合をわざわざ見に行ったりしていなかった。でも、実家に帰った時は、バレー部の集まりがあればちゃんと顔を出していた。もしかしたら、彼に会えるかもしれない、と思って。いや、会えると思っていた。かつて両思いだった私たちは運命で繋がっているのだから、とさえ思っていた気がする。劇的な再会を果たし、そこから物語が始まるのだと夢を見ていた。
もちろん、その間彼氏がいなかったわけではない。だけど、片時も彼のことを忘れたことはなかった。彼氏がいようといるまいと、常に彼を傍に抱きながら日々を過ごしていた。
ただ、バレー部の集まりに私が顔を出した時には彼はいなくて、私がたまたま行けなかった時には彼は来ていたらしい。そうやってすれ違ってばかりいたせいで、ついに夢は悲しい結末で終わりを迎え、ようやく前を向かなければと思っていたというのに、その人は今私の目の前で立っていた。私を見下ろして目を丸くしている。
「ナマエさん?」
「五色くん……? なんでこんなところに?」
五色くんのホームはここからずっと離れたところだ。それこそ飛行機に乗らないと行けないようなところにある。地元でもないこの土地で、間違っても偶然会える筈がないのだ。
「試合でこっちに来てたんですよ」
五色くんの周りには、五色くんと同じく身長の高い人たちがいた。五色くんのチームメートだろう。彼らが口々に、知り合い? 誰? と五色くんに聞いている。五色くんが、高校の時の先輩です! と元気に答えているのを見ながら、あぁ、神様はいるんだな、と思った。
だって、今まで会いたくても散々会えなかったのに、一番会いたくない時に会える筈のない場所で偶然ばったり会うなんてこんな意地悪、神様ぐらいしか思いつかない。
両手で顔を覆って、私は泣き崩れた。