ネットの向こう側では、バレーボールが幾つも転がっていた。こちら側にも、ネットを越えなかったボールがいくつか転がっている。
息を荒げた五色は、両手を膝につき、腰を折り曲げた。足元へ影が落ち、床に向かって汗がポタポタと落ちていく。夜のしんと静まり返った体育館には五色しかおらず、自分の呼吸音しか聞こえなかった。
もう、何本サーブを打っただろうか。わからない。
サーブトスは乱れるし、空中ではフォームが崩れるし、精度も下がってきている。集中力が明らかに低下していた。これ以上やっても意味はない。その上、体に負荷をかけ過ぎだ。怪我をしてしまっては、元も子もない。
仙台市体育館で試合をこなし、その足で走って帰らされ、それからずっとここ、白鳥沢学園の体育館でサーブを打っていたのだ。
しかし、動き足りなかった。
インターハイ予選を三回戦で敗退した日のことだった。
監督に走って帰るように言われるほど、不甲斐ない試合をした自覚はあった。
一セット目はこちらが取ったのだが、二セット目はすんでのところで掠め取られた。三セット目は勢いに乗った向こうが最初から優勢だった。追いつけそうで追いつけない。そうしているうちに、じわじわと点差を離されていった。
そして、相手チームに二十点台が見え、自分たちはまだ十点台に乗ってからなかなか点を重ねられないでいた頃、ふと思ってしまった。
決勝でもなく、準決でもなく、こんなところで、この白鳥沢が負けるのか、と。
すると、みぞおちのあたりがきゅっと締め付けられた。
これまでも、五色がエースで五色が引っ張っていたチームが負けそうになったことはあった。小学生の頃からバレーを続けているのだ。そういう場面に直面することは、取り立てて珍しいことではない。でも、今直面している危機はかつて直面したそれよりもはるかに大きいような気がした。
だって、このチームは、あの大エースから託され、受け継いだチームなのだ。こんなところで無様に負けていいはずがなかった。
心臓の音が迫って来ているのを感じた。
いつもどうやって体を動かしていたのだろうか。
急に、自分の体が他人のもののように思えてきて、無理やり動かそうとすれば、関節からギシギシと歪な音が聞こえてきそうだった。一歩一歩が重く、水の中にいるように動きにキレがなくなっていく。次第に、同じコートに立つチームメートの声も観客席から聞こえてくるはずの声援も遠ざかっていき、一人で戦っているような気分だった。
それでも、走って、跳んで、自分に向かって上げられたトスを思い切り叩いたのだが、今までだったら、決まっていたのだろうストレート方向に打ったスパイクがアウトになり、それを機に、コースが甘くなったのかブロックに捕まるようになり、やがて、白帯を弾いてネットを超えなくなった。そうして、体の横に落ちたそれが、試合終了を決める最後のボールとなった。
自分たちではない勝者を讃える歓声が空気を震わせ、それは試合を終えてから半日が経っても、未だ肩に重くのしかかっていた。跳び続けれていれば、いずれその重しを跳ね除けられるだろうと思い、白鳥沢の体育館に帰ってきてからは、何かに取り憑かれたようにずっとサーブを打っていたが、跳べば跳ぶほど、地面はどんどんと沈んでいき、体育館の天井が遠く離れてくような気がした。
試合を終えて、監督から出された指示は、仙台市体育館から走って帰れ、ただそれだけだった。しかし、部員は皆走って帰っただけで、帰宅するものはいなかった。誰に言われるまでもなく、ネットを張り、それぞれに課題を見つけ、練習をしていた。ただ、試合後ということもあり、日が暮れる頃には皆帰って行った。五色に、ほどほどにしろよ、という言葉を残して。
ほどほどで、帰れるかよ。
このままじゃだめだ。あの日、あの人に、頼むぞ、と言われたのだ。このままじゃ、自分はこのチームのエースでいられない。あの人のように、チームを勝利に導くエースにならなくては。
五色はキュッと拳を握り、顔を上げた。隣にある籠からボールを一つ取り、エンドラインから歩数を数えながら歩いていき、いつもサーブを打っている位置に着く。そして、ボールを両手で挟み、コートを見据え、窄めた口から息を細く吐いていく。息が切れる頃には、乱れていた集中力が弦のように張り詰めた。
まだまだやれる。
ボールを上に向かって投げ、エンドライトに向かって助走した。そして、両足で踏み切り、高く跳ぼうとした、その時。体育館の扉が開かれる大きな音が鳴り、ビクッと震えて固まった。すると、頭頂部にボールが落ちてきて、切り揃えられたおかっぱが弾み、いてっと声を上げる。
「やっぱりまだいた」
そう言って体育館に入ってきたのは、先ほど白布や川西たちと一緒に体育館を出た人物だった。彼らが帰ってしまったため、五色は一人体育館に残されたのだった。
「おつかれー」
「ナマエさんっ!」
五色の背筋が伸びる。それはナマエが先輩だからというのもあるが、やはり異性だからということが大きいだろう。ナマエとの付き合いはもう一年以上になるが、ナマエと会うと、はっとして妙にドキドキしてしまう。
「頭、ボール落ちて来たの大丈夫?」
クスクスと笑われ、あの間抜けな瞬間をこの人に見られてしまったのかと思うと恥ずかしくなった。
「大丈夫です……」
ブルブルと首を振り、乱れた髪を整えた。
それにしても、どうして、ナマエは戻って来たのだろうか。忘れ物だろうか。いや、やっぱりまだいた、というナマエの口ぶりからして、帰れと言いにきたのは明白だ。五色もオーバーワークだという自覚はあった。でもまだ帰りたくないのだ。握った拳に力が入る。
「これ、差し入れ」
「へ?」
ナマエは三角の形をした白いレジ袋を五色に掲げてヒラヒラとさせた。
「俺を帰らせに来たんじゃなかったんですか?」
「帰らせに来て欲しかったの?」
「そういうわけじゃないですけど……」
近づいてきたナマエは、袋から何やら取り出すと、はい、と渡してくる。パウチに入ったゼリーだった。栄養補給できるようなものだ。
ナマエは、ちょっと休憩しようよ、と言い、自分用に買って来たのだろうゼリーも袋から取り出す。そちらは、ゼロの文字が目立つカロリーゼロのものだった。
ナマエが床に座り、せっかく先輩が差し入れまでして促してくれたのだから、と五色も座る。三角座りをしたナマエと隣り合い、ゼリーの蓋を開け、ゼリーを口に含んだ。冷たいそれはやたら甘く感じた。もぐもぐ弾力を歯で潰していると、瞳を流してこちらを見てきたナマエは、ふふっと笑う。
「たしかに先輩だったら、普通、帰れって言いに来るよね。ごめんね」
「あ、いえっ、謝っていただくようなことではっ……」
謝られてしまい、こちらが恐縮してしまう。なんだか落ち着かず、頬を窄めて口いっぱいにゼリーを引き寄せた。そんな五色の心境を知ってか知らずか、ナマエは穏やかな笑みを浮かべたまま続けた。
「でも、もし、本当に五色くんを帰らせたいなら私じゃなくて白布が来てるよ」
そういうと、ナマエはちゃんとこちらに顔を向けた。
「白布が来ないのは、白布もみんなも五色くんを信じてるからだよ」
信じてる、という言葉にドキッとした。口の中にたくさんあったゼリーを一気に飲み込む。
「五色くんもそろそろオーバーワークになるって気づいてるんでしょ。でも動き足りないからまだ帰れない。普通だったら、帰れって先輩たちが乗り込んでくるのかもね」
ナマエが悪戯っぽく笑った。
「でも、五色くんはちゃんと帰るんでしょ。本当にオーバーワークになってしまう前に。それこそ怪我なんかしてしまう前に。それで明日からまた頑張るの。みんな知ってるよ。白布も川西も他のチームメートも監督もコーチも。だから、誰も来ないんだよ」
そう言ったナマエは確かめるように言った。
「みんな五色くんを信じてるんだよ」
言い終えると、ナマエはボールがたくさん転がっている前に向き直り、パウチの先を口に含んだ。少し吸って、口を離し、何回かもぐもぐ口を動かし飲み込むと、安心したように吐息を漏らす。おいしい、なんてこぼしながら。そうして、また先を口に含む。五色も釣られるように、ゼリーを吸った。
試合が終わった後、五色は情けないプレーをしたが誰からも責められなかった。しかし、誰からも励まされることもなかった。情けないプレーをしたのだから、誰も声をかけてくれないのだと思った。それは、自分にエースは相応しくない、と突きつけられているようだった。
でも、きっと、違ったのだろう。
みんな、五色がこれからもエースとしてあり続けることを信じてくれているから、責める言葉もいらなければ、励ましの言葉もいらないと思ったのだろう。それは嬉しいけど、ちょっと厳しいようにも思う。でも、これが強者であれと言われた白鳥沢のエースなのかぁ、と思うと、身が引き締まった。
あの大エースはこうしたみんなの期待を一身に受け止め、堂々と前を歩いていたのだろう。
肩で風を切るあの背中を思い出す。その背中にみんながついていった。可笑しそうに並ぶ者もいれば尊敬の眼差しで見上げる者もいた。その中に五色もいた。
どうすればあんな風になれるのだろうか。
まだ、わからない。
でも、こうやってがむしゃらに練習をすることは何か違う気がした。
「俺、帰ります……」
「そっか」
こちらを向いたナマエが柔らかに目を細めた。
五色は一人っ子だけど、もし、姉がいたら、こんな感じなのだろうか、と思った。どんな時でも、ずっと味方でいてくれて、隣で見守ってくれるのだ。
この人がずっと自分の隣にいてくれたらいいのに。
パウチの袋がぺしゃんこになり、ゼリーを全て食べ終えるとナマエは立ち上がり伸びをした。
「片付け手伝うよ」
「いいですよ!」
「ここで手伝わずに帰ったらそれこそダメな先輩になっちゃうよ」
眉尻を下げて笑ったナマエは五色からゼリーのゴミを回収し、自分が食べたゼリーのゴミと一緒にレジ袋に入れ、体育館の端に置くと、ボールを拾い集める。ここで粘ってもしょうがないので、ナマエに手伝ってもらうことにし、五色もボールを拾い始めた。ネットも片付け、消灯し、戸締りもちゃんとする。そして、女子寮と男子寮で分かれる道まで一緒に歩いて帰った。女子寮の前まで送ると言ったのだが、大丈夫だよ、と断られたのだ。寂しかったけど、送ることで迷惑になってしまうといけないので、諦めた。
見送っていたナマエの背中が見えなくなり、クルリと踵を返し、一人で夜空に向かって歩き始める。そういえば、試合中からずっと重く感じていた肩が軽くなっている。見上げる夜空は高いことには変わりないが、キラキラ星が輝いており、見上げて歩くのも悪くないなぁと思った。
明日からまた頑張ろう。
そのためにはしっかりと食事をとり、風呂に入って、睡眠をとり、疲れた体を休めなければ。
肩から斜めにかけたスポーツバッグのショルダーベルトをぎゅっと握り締めると、もう一度、輝く星を見上げ、また寮へと向かって歩き始めた。