しばらくは調子がいいように感じた。汗をかくことが気持ちいい。
課題ははっきりしていた。ストレートの精度はもちろんのこと以前から課題としてあげていたクロス。サーブも守備が上手い選手には軽々と上げられてしまうので、もっと威力が欲しい。どうやら伸び代は長いらしく、毎日の練習一つ一つを丁寧にこなしていった。
だけど、急に強くなれるわけじゃない。
肩で息をしながら、Tシャツの襟ぐりを引っ張り顎から滴る汗を拭う。スコアボードを見ると、15-20で負けていた。練習試合で、互いに一セットずつ取り、三セット目を迎えていた時のことだった。
インターハイ予選を終えてからは、新チームで場数を踏むべく、週末が来る度に全国の強豪校と練習試合を重ねていた。その結果は芳しくなかった。
でも、初めのうちは気にしなかった。これから強くなっていけばいい。今のように練習を続けていれば、いずれはまた白鳥沢の名を全国に響かせることができる筈。そう信じていたのだが、何度も現実を突きつけられると、不安になってくる。
今のままで本当に大丈夫なのだろうか。毎日、練習を積み重ね、進んでいったとしても、目指している場所に到達できるかどうかはわからないのだ。それに、もしかしたら、進んでいると思っているのは五色だけで、本当はずっと同じところで足踏みをしているだけなのかもしれない。進めていたとしても、酷く遠回りをしており、他にもっと最短距離があるのかもしれない。
まるで、暗闇の中を走っているような気分だった。
まだ、あの大エースの背中には追いつけていない。
そのことだけを突きつけられながら。
――白鳥沢ってこんな弱かったか?
――牛島がいないとこんなにも変わるのかぁ。
――あれが今のエースだろ。
――牛島に比べて、パッとしねーよな。
練習試合をした他校の選手達に言われた言葉だ。直接言われたわけではないが、他校の選手同士が話しているのを、どうしても、耳が勝手に拾ってしまうのだった。
「俺らは誰もお前がエースだってことを疑ってねーよ」
川西が背中をポンと叩いてくれた。
「悔しかったら練習しろ」
白布が腰に蹴りを入れた。
そうだ、練習だ。それしか、自分にできることはないのだから。
「俺、頑張ります」
笑った顔が引き攣った。
笛の音がなり、ハッとする。相手チームからサーブが打たれ、自陣に入ったボールは後衛のレフトによって綺麗に白布に返された。白布はそれを五色に向かって高く上げる。
そのトスは先ほど白布が出したサイン通りだった。これといったイレギュラーもなく、練習時のように理想的な形で五色へ託されたのだった。
大丈夫、大丈夫だ。何も恐れることはない。五色もいつも練習でやっているように走って跳んで、そのトスを打てばいい。
わかっているのに、体に染み付いた動きである筈の助走する一歩一歩はぎこちなくなり、そのぎこちなさが余計に焦りを呼んで、視界が狭まっていく。高く上げられたボールだけを目指し上へ跳んだが、両足には地へ引きずり落とすような重石がついているようだった。
それでも、いけると思ったアンテナとブロックの隙間。ボールが一つ通るか通らないかの幅しかなかったが、それだけあれば十分だった。
ここで決めなくては、誰がエースだ。
そう思って、ボールを手のひらで捉え、腕を振り抜いたのに、まるで狙っていたように道は閉ざされた。みぞおちの辺りがヒヤッとし、ブロックに弾かれたボールは体の横を落ちていく。空中で手を伸ばしたが、それは指先をかすることなく、コートを叩いた。遅れて五色も着地する。
「あぁっ! クソっ!」
膝を叩いた。スコアボードを見れば、相手チームのスコアが捲られ、15-20から15-21へと突き放される。
どうして、どうして、決められない。決められる、と思った。きっと、この場にいるチームメート全てがそう思っただろう。いつも五色が決める得意な流れだったのだ。
しかし、決められなかった。これじゃあ、エースどころかレギュラーとして失格ではないだろうか。それなのに、なぜ、自分はまだ交代させられない。
両手を膝につきながら、監督をチラッと盗み見る。パイプ椅子に座った監督は腕を組んで鬼の形相をしていたが、選手交代をする素振りは見せていなかった。なぜだろう。しかし、この場にいるみんなはもう五色に呆れている筈だ。
ふと監督の隣にいたナマエが目に入る。ボードを片手にしたナマエはそこに何かを書き込んでいた。きっと、スコアをつけているのだろう。そのナマエも今の五色のプレーを見て失望した筈だ。もう隣で五色を見守ってはくれないだろう。
悔しいけど、仕方がない。俺はもうエースに相応しくないのだから。胸の痛みを奥歯で噛み締めた。
ナマエはスコアを書き終えたのか顔を上げた。ナマエの顔を見たくないと思った。だけど、確かめないままではいられず俯きながら瞳だけでナマエの顔を覗き見る。
前を向いたその顔は、どうしてか、いつも通りだった。がっかりした顔もしていなければ、心配するような顔もしておらず、いつも通り澄ました様子で前を向いていた。
その時ポンと肩を叩かれる。ドンマイ、と言ったのは川西だった。
また肩をポンと叩かれる。次だ、次、と言ったのは白布で、他のメンバー達も肩を叩いては何か声をかけ、それぞれのポジションに戻っていった。その光景もいつも通りだった。
先日、ナマエに言われた言葉が蘇る。
『みんな五色くんを信じてるんだよ』
その言葉を聞いた時、ちゃんとその意味を理解していたが、今ようやくそれは血液に溶け、体に入ってきたような気がした。
きっと、自分はまだ、あの大エースのようにはなれていないだろう。この人にトスを上げれば絶対に決めてくれるというような信頼を得ていないのだ。それでも、次と言ってまたトスを上げられるのだろう。それは白鳥沢のエースだと認められ、その役割を全うすると信じてもらえているからだ。
狭まっていた視界に光が差した気がした。眩しくて目を細めてしまいそうだったけど、その先に向かって走っていきたかった。走っていった先に大エースの背中があるかどうかはわからない。だけど、いつかあの人の隣を歩けると信じて、やはり、進むしかないのだ。それしか、自分にできることはないし、それこそが信じてくれたチームメートへの応え方でもあるだろう。
やるべきことはいたってシンプルだった。でも、そのシンプルなことを貫き続けることが、とてつもなく恐ろしく、どうしても難しいのだ。今みたいに迷うこともあるだろう。だけど、隣には、自分を信じてくれている仲間も共に走ってくれているのだ。そのことを忘れず、進む足を止めずにいたい。
頭に上っていた血がすっと冷えていく。次第に、思考が研ぎ澄まされていく。
先ほどはどうして決められなかったのか。今なら、先ほどの自分を客観視し、その理由がわかる気がした。きっと、ブロックにコースを読まれたのだ。気持ちばかりがはやりそれがフォームに出てしまったのだろう。
練習通りに、一本一本丁寧に積み重ねていこう。
コースを読ませない美しいフォーム。針の穴を通すようなストレート。五色にだってあの大エースに勝るとも劣らない武器があるのだ。
前を向けば、笛がなる。
コォオーイッ、と誰よりも声を張り上げた。
壁に片手をついた五色はそのままズルズルと座り込んだ。首を垂れると同時に、はぁ、と長い息を吐く。今年一、疲労を感じた。
結局、先程の練習試合は19-25で負けた。でも、途中からの内容は悪くなかったと思う。点を取られたら、取り返す。それを繰り返し、ブレイクできずに負けたが、練習通りに体はよく動いてくれていたと思う。この調子で積み重ねていけばきっと、いつかは――
そう思ったが、本当にそうだろうか、と鼻で笑う自分がいた。結局、負けてしまったのだから。今日の対戦相手は、新チームとなった自分達とさほど実力は変わらなかったように思う。しかし、負けてしまったのだ。いくら内容がよくても、公式戦であれば、負けてしまえば、そこで全てが終わってしまう。
一度晴れ渡った空に再び暗雲が垂れ込める。
「おつかれっ!」
弾んだ声が聞こえたかと思えば、頭からタオルを被せられ、視界を鮮やかな青で囲まれる。そのまま、青いタオルの上からわしゃわしゃと頭をかき混ぜられた。
「な、なんですか! ナマエさんっ! ちょっと!」
「さっきはかっこよかったよ」
「え……あ、そうですか……ありがとうございます……」
何がカッコよかったのかわからなかったけど、突然褒められ、呆けた気持ちでいると、ナマエは相変わらず両手で五色の頭をわしゃわしゃとしていた。犬になったような気分だった。
「あの……それやめてもらえませんか?」
「それって?」
「頭擦るのです」
「あ、ごめんね。嫌だった?」
「嫌ってわけじゃないですけど……」
年上の女性に犬のように扱われるのはなんだかカッコがつかない。
五色の頭から手を離したナマエは、困ったような顔で笑った。
「ごめんね……汗も拭かないでいたから、大丈夫かなって思って……」
「大丈夫ですよ!」
心配されていたことが気恥ずかしくて、大きな声が出てしまった。
「もちろん、そのタオルは今日使ってないやつだよ」
「別にそんなことは気にしませんよ」
そう言いながら、ナマエが被せてくれた、青いタオルを手に取ろうとすると、先にナマエに奪われた。
「じゃあ、私はやることあるから」
ナマエは、タオルを持って、身を翻す。
「え……ちょっと! そのタオルどうするんですか!」
「え? 別にどうもしないけど」
振り返ったナマエはタオルを握ったまま不思議そうに首を捻る。
「洗って返しますよ」
「いいよ、私が勝手に使っただけだし」
「いえ、洗って返させてください」
自分の汗がついたタオルをナマエに持ち帰らせたくなかった。よこせ、と手を差し伸べる。
「別にいいのに」
ナマエが眉尻を下げるが、五色が差し伸べた手を引っ込めないでいると、ナマエは観念したようにタオルを五色に渡した。
「じゃあ、それでちゃんと汗拭いて。水分もちゃんと取ってね」
急いでいたのか、ナマエは走っていってしまった。
空の青だけを凝縮させたようなそのタオルを眺める。これで汗を拭いてもいいのだろうか。顔に近づけてみるが、タオルから花の香りがして、運動後の火照りとは別の要因で顔が熱くなっていき、やはり自分のタオルで汗を拭った。
『さっきはかっこよかったよ』
その言葉が耳に焼き付いて離れない。
俺の何がカッコよかったんだろう。
わからなかったけど、これからもそう言ってもらえる自分でありたいと思った。
その夜、ナマエから借りたタオルを寮の洗濯機を使って洗濯をした。いつも夜に洗濯機を回しているのだ。自分の衣類と一緒に洗うのは憚られたので、自分の衣類とは分け、ナマエのタオルだけで洗濯機を回した。他の部員達に、ナマエのタオルを発見されてしまうといけないので、洗濯機が回っている間ずっとそこに張り付いていた。
「お前、何してんの?」
途中で洗濯に来た白布に訝しげに見られたが、別になんでもありませんよ! と答えた。声が少し上ずってしまったが、白布からは、あぁ、そうかよ、と興味なさげに返ってきただけだったので、ホッとした。
そして、白布が去り、ナマエのタオルを洗濯していた洗濯機から洗濯が終了するメロディが流れると、急いでタオルを回収し、いつも洗濯物を干す屋上ではなく、自分の部屋でこっそりハンガーに吊るした。同室の友人に変に思われないように、カモフラージュとして、後で自分のタオルも一緒に吊るしておいた。
そうして、ちゃんと洗濯をして乾かしたのに、翌日の朝練で、ナマエのタオルがまだ自室に吊るしたままであることに気づく。
「すみません……お借りしていたタオル忘れちゃいました……」
「あぁ、いいよいいよ」
手を振ったナマエは、その後、うーん、と考え込むように首を捻り、何かを悩んでいるような素振りを見せたが、やがて五色に向き直り、軽い口調で言った。
「もうあのタオルもらっちゃって。あれ、一回も使ってないやつだったし」
「あ、え、でもっ……!」と返したものの、一度自分が使ってしまったし、このまま受け取ってしまってもいいかもしれない。代わりに、ナマエに新しいタオルをプレゼントしよう。
まだ少し戸惑いがあったが、ありがとうございます、と返せば、いいよ、と眩しい笑顔が返ってきて、やっぱりお姉ちゃんってこんな感じなんだろうなぁ、と思った。