4月

 新しい制服はまだ固く、他人の服を着ているような落ち着かなさがあった。
 ちゃんと、着れているだろうか。鏡の前で体をひねり背中までチェックしていると、だんだん口元が緩んでいく。
 気品のある白いブレザーに、紫のチェックが可愛い憧れの制服。ずっとこの制服に身を包める日を夢見ていた。
 今日から私も白鳥沢学園の生徒なんだ。
 しばらく、鏡の前でスカートをゆらゆら揺らしていたが、ふと鏡の中に映る時計が目に入る。
 そろそろ家を出なくては。入学式の日に遅刻なんてとんでもない。
 階段を駆け降り、玄関で今日のために買ってもらった新品のローファーを履くと、振り返る。
「行ってきます!」
 家の奥の方から聞こえてきた、いってらっしゃい、というお母さんの声を背中で受け止め、扉を開く。
 思わず、目を細めてしまいそうなほどの晴天が広がっていた。

 バスに三十分ほど揺られていれば、今日から通う高校に到着する。白鳥沢学園高校と札が出ている校門をくぐれば、一直線に伸びる道を満開の桜がアーチのように覆っており、花弁が絶え間なく散り落ちている。歩いている生徒はちらほらと数えるくらいで、私もその道を進んでいく。
 今日に至るまで長かった。
 中学生の私は、それほど成績が優秀な方ではなかった。中三になったばかりのころに受けた学力テストでは、運が良ければ白鳥沢へ通るだろうというくらいだったのだ。でも、白鳥沢へ並々ならぬ憧れがあった。この辺で、白鳥沢といえば、あぁ、あの! と言われるくらい有名で、頭がいい子はみんな、あそこに行くと言われている。勉学だけでなく、スポーツでも優秀な成績を残している部活が多く、将来スポーツ選手になる人も多いのだとか。幼いときよりそんなすごい高校が近くにあれば、おのずと白いブレザーを着た人たちを羨望の眼差しで見るようになってしまう。
 中三の夏までは部活をしていたけど、部活を引退し、夏休みに入ってからは勉強に本腰を入れた。朝から晩まで勉強漬けにしたおかげが、志望校を決めるころにはこれなら白鳥沢も夢じゃないだろうというくらいまで成績が伸びており、最終的には白鳥沢へ願書を出し、周りが全員天才に見えるような教室で試験を受け、なんとか無事にその枠を手に入れたのだった。
 そうしてやっとの思いでこの桜並木を歩いているから、一歩進むごとに、ワクワクしてくる。
 友だちできるだろうか。
 楽しい高校生活になるといいなぁ。
 でも、勉強も頑張らなくちゃ。
 そんなことを考え歩いていたときだった。目の前の光景に時が止まったような錯覚を覚え、私の足も止まる。
 切り揃えられた髪が、まとまったままゆらゆら揺れている。
 目の前では、淡いピンクが舞い散る中、一人の男子生徒が沿道の桜を見上げながら立っていた。おかっぱ頭をしているからか一見幼く見えるけど、その瞳は力強く、桜を見上げている彼の横顔からはとても真剣な様子が伝わってくる。その上、その背筋は空気が張り詰めるほど凛としており、彼はスラックスのポケットに片手を入れてただ立っているだけなのに、彼の周りで桜が絶え間なく散っていることも相まって、彼が立っている空間だけ一枚の写真のように誰も入ることのできない別世界のように見えた。
 彼は何をそんなに真剣に見ているのだろうか。彼が見上げている桜を見上げてみると、その桜は他の桜に比べひと回り大きく、その存在感を示すように道に向かい、満開に桜を蓄えた枝を広く伸ばしていた。しかし、立派だということ以外に特別目を引くようなところは見受けられなかった。
 彼は、どうしてそんなに真剣にこの桜を見ているのだろうか。
 そう考えている間に、彼は前に向き直り歩みを始める。
 ただ、桜を見ていただけなのだろうか。もしかして、私には見えない何かが彼の瞳には映っていたのかも。そう思った瞬間、背骨の付け根からゾワゾワと悪寒が走り、それからは桜を見ないように下を向いてちょっと早足になりながら歩いた。

 昇降口の前では、掲示板にクラスが張り出されており、A4サイズの名簿が横に十枚以上並んでいた。掲示板の前では人だかりができている。みんな目を凝らして自分の名前を探しているようだった。その中には先ほど桜を見上げていた彼もいた。彼は掲示板の右の方を見ていた。その彼にちょっと違和感を感じる。まるでだまし絵を見ているような違和感。なんだろうか。
 彼は今見ていた名簿に自分の名前がなかったのか、隣の名簿を見ようと、折り曲げていた腰を伸ばす。瞬間、群衆からおかっぱ頭がにょきっと生えた。あぁ、身長だ。それが違和感の正体だった。
 彼以外の生徒は真っ直ぐに立って目の前の紙を見ていたのだけど、彼だけさっきまで屈んでいたのだ。まっすぐに立った彼は群衆から頭一つ分突き出ていた。彼に隣に立たれた女子生徒はびっくりした様子で彼を見上げている。再び名簿を真剣に見始めた彼自身は自分の名前を探すのに集中しているようで、隣で自分を見上げている存在には気づいていないようだけど。
 先ほど彼を見かけたときは、比較物がないせいか、それ程彼の身長は気にならなかった。でも、きっと、彼の立ち姿に優美さを感じたのはモデル体型とも言えるその高い身長のせいだったのかもしれない。
 かっこいいなぁ。ミーハーだと思いながらも、ぽーとしながら彼を眺めていると、後ろから、クラスが張り出されてるよ! と黄色い声が聞こえ、私の横を二人の女子生徒が駆けていく。私もクラスを確認しなければ。比較的空いていた左から順番に見ていった。
 左から四枚目に自分の名前を見つけた。どうやら私は四組らしい。
 一年四組と札が出ている教室に入れば、教室はもう六割くらい席が埋まっていた。黒板に張り出されている紙で自分の席を確認し、着席する。私の席の前後や両隣は空いていた。この空いている席に女子が座ってくれたら、話しかけてみようかな。
 ソワソワしながら、まだ見ぬ友だちを待っていると、教室の入り口から、先ほど見かけた高身長の彼が入ってきた。同じクラスだったんだ。
 彼は私がしていたように黒板に張り出されている紙を確認し、そのままこちらに向かって歩いてくる。わぁ、こっち来る。まるで芸能人を見かけたような気持ちでいると、彼は私の隣の席に肩から下げていたスポーツバッグを置いた。彼に近くで立たれると、見上げる首が痛いほどで、彼の身長の高さを改めて実感した。
「何?」
「え?」
 彼に話しかけられ、自分がずっと彼をガン見していたことに気づいた。彼が私を見下ろす瞳は素気ない。
 無遠慮にジロジロ見て、失礼だっただろうか。膝の上で握った拳が汗ばむ。
「その、背が高いなって思って、つい見ちゃってました……」
 思わず敬語で返してしまうと、彼がソワッとしたのがわかった。もしかして、身長のことを言われるのが嬉しいのだろうか。そう思ったのだけど、それは勘違いだったようで、彼は咳払いをし、途端に険しい顔をすると、あ、そう、と冷たく言い放ち、席についた。
 なんだか、いきなり失敗をしてしまったような気がして、どんよりとした気分になる。やっぱり無遠慮に見ていたのがいけなかったのだろうか。彼とはこれ以上親しくなれそうになかった。男子だし、これくらいの距離感が普通なのかもしれないけど。中学のときだってそうだった。男子と女子の間には決して埋められない深い溝があるのだ。
 でも、もし次に教室に入ってきた子がこちらに向かって歩いて来たとしても、今度はじっと見つめてしまわないように気をつけよう。女子だった場合は特に。そして、女子だったら今度は私から自然に話しかけ、友だちになってもらうんだ。
 そうやって項垂れそうになる自分を奮起していると、隣から、ねぇ、と話しかけられた。さっきの彼だった。相変わらずツンとした顔をしていた。
 何? と答えた声は震えてしまう。
「俺、五色工。そっちは?」
 彼は自己紹介してくれたのだろうか。どうして急に気が変わったのかわからなかったけど、慌てて、ミョウジナマエ、と返した。
「ふーん……ミョウジさん。よろしく」
「うん、よろしくね。五色くん」
 私が彼の名前を呼ぶと、五色くんはぴくっとした。なんだか、びっくりした動物みたいで可愛い。
 それに、五色くんの物言いはまだ無愛想だったけど、五色くんの耳の先っちょは赤くなっており、もしかしたら彼は勇気を出して話しかけてくれたのかもしれなかった。一気に親しみが湧いてくる。だから、ちょっと聞いてみたくなった。
「ねぇ、なんでさっき桜を見上げてたの?」
 ドキドキしながら尋ねてみたら、五色くんは不思議そうな顔をするので、先ほど桜並木のところで見かけたことを伝える。
「あぁ、あれは……」
 五色くんが思い出したような顔をしたから、あの桜の正体を知れると思ったのだけど、五色くんは照れ臭そうに、なんでもない、と言った。そんな反応をされると、余計に気になってしまう。でも、まだ知り合ってばっかりだったから、これ以上は踏み込んではいけない気がした。もうちょっと仲良くなってから聞いてみるか。そう思っていれば、五色くんの前の席の椅子が引かれた。反射的に見上げると、そこには女子が立っていた。
 彼女は私に気づくと、おはよう、と笑いかけてくれる。嬉しくなり、私も、おはよう、と返した。名前を聞かれたので、名乗れば、彼女も名乗ってくれた。そこからどこの中学出身か、とか、受験の苦労話など、話は盛り上がっていく。
 ふと、隣にいる五色くんが気になり、チラっと隣を盗み見た。
 五色くんは腕を組んで机に突っ伏していた。眠いのだろうか。話しかけるのは躊躇われたので、そのまま彼女との会話に花を咲かせた。