あの狭い部屋を出て行ってどれくらい経っただろうか。角名は、その日のことを昨日のことのように思い起こすことができるが、できれば思い起こしたくなかった。
 もちろんスマートフォンはナマエからの知らせを何度も告げていた。けれどもその知らせの中身は一度も確認されることはなかった。
 どうせ彼女からの知らせを見ないのであれば、ナマエからの連絡を拒否しようと、角名は思わなかったわけではない。しかし、スマートフォンからの知らせを受け続けた。
 どんどんと溜まっていく。彼女の思い。いつになれば、ナマエからの知らせは止むのか、止んでしまうのか。

 ある日の練習後。角名が横になりストレッチをしていると、同じように隣で横になって体を伸ばしていたチームメイトがからかう様に声をかけてきた。
「お前ストーカーされてるらしいじゃん」
「なにそれ? 初耳なんだけど」
「は? まじで? 気づいてないとかウケるんだけど」
 チームメイトは可笑しそうに笑う。本当にストーカーされているのならば笑いごとではないだろう。
「いや、だからなにそれって」
「毎晩のように女の子が来てるらしいじゃん。ここに。マネージャー頭抱えてたよ」
「なにそれ」
「今も来てるらしい」
 警察行けよ、と彼が笑う。
 ナマエだ。絶対にナマエだと角名は思った。何度もここに来ているなんて知らなかった。初めて彼女がここに来てから何日経ったか。一週間か、いや二週間は経っているか。だめだ、考えられない。先週イベントがあったから……ってそれどころではない。なんで彼女が来ていることを知らされていないのだ。
 あークソっ、とこぼしながら片手で自分の髪を掴んだ角名は、大丈夫か? と今更心配してきたチームメイトを置いて、走って正面ロビーへと向かった。
 彼女はきっと顔をぐしゃぐしゃにして泣きながらここに来て縋り付いているのだろう。可哀想に。早く行って、抱きしめてやらないと。

 正面ロビーへと真っ直ぐ伸びる薄暗い廊下を走る。一段と照明が明るいロビー。近づいてくる光。彼女の声が聞こえて、どきりと胸がなり、足が止まった。
「だから、私は角名倫太郎の彼女なんです!」
 想像していたよりもはるかに力強い声に呆けてしまった。本当にナマエの声なのだろうか。再び足を進める。今度は歩く速度で。
「高校も一緒なんです」
「申し訳ございません。角名は存じ上げないと……」
 マネージャーの弱々しい声が聞こえる。
「それは……その、嘘なんです。一度でいいので角名倫太郎に取り次いでください」
「申し訳ございませんが、お願いされましても……お知り合いだというのでしたら、直接角名に……」
「だから、その……連絡がつかないからこうしてこちらに伺っているんです」
 確かにこれはストーカーかもしれない、と角名は吹き出してしまう。彼女らのやりとりを聞いて、何も知らない第三者がナマエをストーカーと間違えるのも仕方がないだろう。この自体を招いた原因の半分は角名にあったかもしれないが、角名の想像を遥かに裏切る現状に角名は安心すると同時につい笑ってしまったのだ。
 ロビーの白い照明の下、向き合い問答を続けている二人に、角名は声をかけた。
「ごめん。その子、俺の彼女」
「は……?」
「倫太郎くん!」
 一人は何を言っているのか分からないとでも言うように目を丸くして、一人は嬉しそうに目を輝かせてこちらを振り返る。
 は……? と言ったきり、口を開いたままのマネージャーに向かって角名はごめんね、と謝った。
「俺ら喧嘩してたらから」
「けんか……? けんかぁ!?」
 二度繰り返されるほど衝撃的だったのだろうか。マネージャーは信じられないとでもいいたげな顔で続ける。
「ごめんで済む話じゃありませんよ! 私がどれだけっ……どれだけ!」
「本当にごめんって。今度何かで埋め合わせするから」
 マネージャーは、埋め合わせはいいから、こういうことは二度とない様にしてください、と言ってその場を去ろうとする。そして、すれ違いぎわに。
「ミョウジさんがいらしてると、角名さんにお伝えした日以来、彼女は何度もいらしてたんですからね。大切にしてあげてください」
 と耳打ちされた。そして、マネージャーの背中に手を振ると、振り返られ。
「ほんっとうに二度とない様にしてくださいね!」
 太い釘を刺されてしまった。よほど迷惑をかけたのだろう。普段あまり感情を見せる人ではないのに、そんな人をここまで困らせた、目の前の”俺の彼女”は本当にナマエなのだろうか。
「ナマエ、こんなことができる子だっけ?」
「そうやっていつまでも時が止まってるのは倫太郎くんだけだよ」
 でもちょっとやりすぎちゃった。恥ずかしいことしてごめんね、と謝られた。
 彼女はどうしてこんなにもケロリとしているのだろうか。部屋を出た時は、あんなにも小さくなって震えていたというのに。
「とりあえず、クールダウンしてきてい? そのあとすぐ帰れるから」
「じゃあそこの喫茶店で待ってる」
「ここで待ってなよ。そんな時間かかんないから」
「これだけ大騒ぎしたのに、恥ずかしくてここにはいられないよ」
 ナマエが拗ねた様子で唇を尖らせたので、日常に戻ったかのような錯覚を覚えてしまった角名の手は勝手にナマエの頭の上に乗った。嬉しそうに目を細めるナマエの姿を久しぶりに見ると、目頭が熱くなる。
「じゃあ、待ってて」
 溢れそうになる涙を堪えて、踵を返した。

 角名とナマエはタクシーに乗り、角名が借りているマンスリーマンションへと向かう。ナマエと住んでいた部屋よりも近いからだ。
 喫茶店にナマエを迎えに行き、じゃあ行こうかと角名が言ったきり二人の間に会話はない。タクシーの中でも、口を開く者は一人もおらず、運転手の席の少し空いた窓から風に乗って運ばれてくる、車の走る音と夜の香りだけが静かに空間を包み込んでいた。
 不意に、座席に置いていた角名の手にナマエの手が重なり、角名の体はびくりと震えた。角名は彼女の方を見ることはできず、窓から見える通り過ぎて行くいくつもの白い光の線を眺めながら、そっと乗っかっただけの彼女の体温を感じていた。

 部屋につき、靴を脱いで、廊下を進み、ビジネスホテルのようなベッドと机しかない部屋へと到着する。椅子は一つしかないので、自分はベッドの上でいいか、と角名はナマエに椅子を進めようとしたが、ナマエによってそれは遮られた。
「倫太郎くんの意気地なし」
「え……ごめん」
「何も分かってないのに謝らないで」
「ごめん」
 声を荒げているわけではないが力強い口調で話すナマエにこんな風に怒られるのは初めてだった。
 椅子を差し出し、改めて言い直す。
「とりあえず座りなよ」
 そうだね、と言った彼女は角名が勧めた椅子に座る。角名もナマエと向かい合う様にベッドに腰掛けた。
 真っ直ぐ角名を見たナマエは静かに、けれどもしっかりとした口調で続ける。
「なんで連絡返してくれなかったの?」
「ごめん」
「謝って欲しいんじゃないの。理由が聞きたいの」
「ごめん……あ……」
 怒られ慣れていないのだ。こういう風に淡々と詰められると、角名が高二の時のバレー部主将を思い出す。まさかナマエとこんな会話をする日が来るとは夢にも思わなかった。
 慌てて次の言葉を探していると、ナマエにぷっと笑われる。
「連絡のことはもういいや」
「ごめん」
「いいよ」
 ナマエは、眉を寄せて切なげに笑った。
「ちゃんと、私の話も聞いてよ」
「うん」
「なんでも一人で決めないで」
「うん」
「ちゃんと、お話しよ」
「うん」
 これまで角名は、心のどこかで思っていた。いつも、角名の一歩後ろを歩くような慎ましやかなナマエは、角名が糸を繋いだ物言わぬ美しい人形なのだと。
 違ったのだ。ちゃんと、彼女は意思を持って自分で歩いていた。ちゃんと、強い人だったのだ。
「倫太郎くんはさ、私が何されたかわかっていないって言ったよね」
「そうだね」
「ちゃんと、分かってるよ」
 ナマエが穏やかに発した次の言葉は、酷く角名の頭の中に響いた。
“侑くんを好きだって言う私を倫太郎くんは、無理やり犯したんでしょ”
 改めて言葉にされると、ぞっとする。
 そうだ。角名は許されざることをしたのだ。
「倫太郎くんはそう言うことを言ってるんでしょ」
「そう、だね。もしかしたら今ナマエと一緒にいたのは侑かもしれない」
 ナマエと侑が並んで笑い合っている姿を想像すると、泣きそうになる。きっと、それは幸せな未来だった。恥じることのない、後ろめたさもない、堂々とした幸せだった。
「今侑くんと一緒にいたかは分からないよ。でも、そういうあったかもしれない未来の一つを潰されたことは分かってる」
 そうだ。あったかもしれない幸せを角名は潰したのだ。
「じゃあ、なんで怒らないの?」
「なんで、怒らないといけないの?」
「なんでって……」
 泣きそうな顔をして笑うナマエは、どうして分からないのだろうか。そういう、綺麗な姿を角名は、見たくない。だから、俯く。
「普通怒るだろ。嘘をつかれて、あんなひどいことをされれば、誰だって普通、怒って、恨んで、憎んで……」
「怒らないよ。怒らないし、恨まないし、憎まないよ。でも忘れてないよ。倫太郎くんが私にしたこと」
 優しい声色で発せられたのに痛いほど鋭く胸を刺す言葉。冷たくなっていく手に角名は拳を握るが、口を開いても、言葉は出てこない。それでも聞かずにはいられず、声が掠れるのを無視して、言葉を吐き出す。
「じゃあ、なんで、そばにい続けたんだ」
 すぐ、角名から離れてくれれば、良かったのだ。きっと、彼女を失えば、酷く、心がえぐられただろう。けれども、今抱える罪に苛むこの気持ちよりもずっと、ずっとましだった筈だ。
「好きだからだよ」
 ほらまたそれだ、と角名は心の中で呟きながら、ナマエの言葉を聞き続ける。
「ずっと好きだと言ってくれて、大切にしてくれて、優しくしてくれる倫太郎くんを、今も好きで、これからも一緒にいたいと思っているからだよ」
 言い聞かせるようにナマエにそう言われると、今までナマエと過ごした日々の記憶が蓋を開け、一気に駆け巡る。
 教室で斜め前に座るナマエがずっと好きだった。角名くんと呼んでいたのがいつの間にか倫太郎くんとなり、名を呼ぶたびに嬉しそうにするナマエを大切にしたくて、ずっとそばにいたかった。
 懐かしい記憶に角名の身体は熱くなり、鼓動は大きくなっていくが、すぐに肌は泡立ち始め胸の内は冷えていく。
 角名は膝に置いていた自分の手がきつく握られているのを人事のように眺めながら、息の混じる言葉を吐く。
「ナマエのその気持ちは、にせ――」
「私はこの気持ちが偽物でもいいと思ってる」
 何かを覚悟したかのようなナマエの強い口調に怯んでしまいそうになるが、だからといって、はい、そうですか、というわけにはいかない。あの時何のために別れる決意をしたんだ。ナマエの幸せのためだ。ここで引いてしまうほど、やわな決意ではない。
「だめだろ……偽物じゃあ」
「いいんだよ。幸せだから。毎日、倫太郎くんにおはようって言って、好きと言って、キスをして、たまにはそれ以上のこともして、おやすみと言って眠れることを、私は、幸せに思っているから」
「そんなの、可哀想だ。本当はもっと普通に人を好きになって、普通に幸せになれる筈だろ」
 そのためには、角名はもう、彼女のそばにいてはいけないのだ。
「これ以上の幸せは私にはないよ」
「そう思ってることが可哀想なんだ」
「頑固。私は幸せだって言ってるのに」
 頑固でもなんでもいい。彼女にはちゃんと幸せになって欲しいのだ。侑でも誰でもいい。彼女をちゃんと幸せにして欲しいのだ。
「私が可哀想でなんで倫太郎くんが困るの?」
「ナマエが好きだからだよ」
「好きなのに、離れていくの?」
「幸せになって欲しいから、離れるんだ。もう、俺はナマエを幸せにできないから」
「意気地なし」
 これは、意気地がないのだろうか。精一杯の気持ちで決めた最善のことなのに。しかし、彼女がそういうなら、そうなのだろう。
「ごめんね、ナマエ」
「いいよ」
「じゃあ……」
「うん、倫太郎くんの考えはよく分かった」
「そっか……」
 俯いたまま角名はふぅと息を吐く。
 ようやく、ナマエに、別れる理由を分かってもらえたようだ。つまり、別れることを認めてもらえたのだ。これで、問答は終わりだ。全てが本当に終わったのだ。
 荷物を下ろせた角名は顔を上げる。
 角名にとって、なんでも無くなってしまったナマエを部屋に帰さなければいけないと思ったからだ。
 名残惜しいが仕方がない。
 今度こそ、幸せになってくれ、と願いながら、ナマエを見ると、柔らかに微笑まれ、ドキッとした。
 なぜ、ナマエはそうやって優しく包み込むように笑うのだろうか。
「じゃあ、可哀想な私と一緒にいられない意気地のない倫太郎くんに、勇気をあげる」
「勇気……?」
 そう、勇気、と言った彼女は、優しい笑みを浮かべたままだったが、瞳には涙の膜を張っているように見えた。
「私は、倫太郎くんが私の未来を奪って、潰して、縛りつけたこと。忘れないし、許さないよ」
 当たり前だ。それでいいのだ。
「ごめん」
「だからちゃんと償って」
「どうすればこんなこと償えるんだ……」
 ナマエは立ち上がったかと思えば、ベッドに座る角名の足の間に入り、両腕を角名の肩に回して角名をきつく抱きしめた。
「私のそばにいて、今の私の幸せを守って。これ以上の幸せはないと、私に思わせたままでいて。それが、倫太郎くんにできる唯一の償いだよ」
 そう言って更に強く角名を抱きしめるナマエからは強い鼓動が伝わってきた。彼女の心臓が鳴る度に、冷たくなっていた角名の身体がじんわり、じんわりと温まっていく。
「もっと幸せになれる筈っていって手放すのは無責任だと思わない? 責任とってよって言ってるの」
「責任……」
「そう、責任」
 彼女は、幸せを奪った償いに角名を縛るというのだ。まるでそれが罰とでも言う様に。そういう風に言えば、角名が喜んでそばにいると思ったのだろうか。
 彼女の詭弁に騙されるほど角名が愚かであったのなら、角名は初めから彼女の元から去ろうなどとはしていない。
 彼女のそばにいることを罰として受け入れるなど、あまりに出来すぎている。都合が良すぎる。本来ならば、彼女から離れていかなければならないのに、そばにいたいと願う角名にとって。
 けれども、角名はナマエの温かな鼓動には逆らえなかった。
 角名の目からは、熱に当てられた氷が水を浮かすように、涙が染み出ていく。
「私は倫太郎くんを一生許さないし、絶対許さない」
 それは、まるで、愛してるとでも言うように。
「必ず一生をかけて、償って」
「なんだよ……その呪いの言葉……」
「そうだね。呪いの言葉だね。私から一生離れられなくなる呪いの言葉だよ。勇気出たでしょ?」
 楽しそうにくすくすと笑う声がする。
 角名は自分に言い聞かせた。彼女から離れなければ、と。何度も何度も自分に言い聞かせた。
 今、離れなければ、きっと、これからもまた何度も自分のしたかつての過ちに苛まれるだろう。綺麗な瞳に映される限り。優しい声で呼ばれる限り。柔らかな笑顔を向けられる限り。
 そして、きっと、やっぱりあの時手放してあげれば良かったと、後悔する日が来るだろう。
 呪いだという言葉は、間違いなく角名を苦しめる呪いの言葉であった。
 しかし、唇を噛んだ角名は、彼女の背中に腕を回してしまった。彼女の背中の服にしがみつくと、たまらず涙が溢れ落ちる。
 彼女の呪いは、角名を苦しめると分かっているのに、縋りつきたくなるほどの甘い誘惑の香りがしたからだ。
 角名の流した涙が一粒一粒、彼女の服に吸い込まれていく。
「分かった。分かったよ、ナマエ……」
 角名は受け入れたのではない。諦めたのだ。
 諦めて、一生苦しみが癒えないであろうが一番楽な道、つまりは彼女の愛の言葉に縛られることを選んだのだ。
「ナマエがいらないという日まで俺はずっとそばにいる」
「だからそんな日は来させないでって言ってるの。意気地なし」
 やはり、くすくすと。楽しそうに笑う声が聞こえた。
「ごめん」
「いいよ」
 進むしか無い行く末に、眉を顰めながらも涙を落としながらも笑みを浮かべずにはいられない角名はナマエをぎゅっと抱きしめる。折れてしまいそうなほど華奢で、でも真っ直ぐに背筋を伸ばし、角名をきつく包み込むナマエをぎゅっと抱きしめる。それに応えるように、ナマエが言った。
「好きだよ、倫太郎くん」
「俺も好き。本当に、本当に……ナマエが、好きだ」



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