狐、その尾で解き放つ



 部屋から出て行った角名は、その日、ホテルに泊まった。翌朝、月曜日。ナマエは仕事で部屋にはいないと知っていたので、午前中休みを取り、部屋へと帰った。
 扉を開けると、しんと静まりかえった玄関に迎えられる。ナマエの靴はない。リビングに向かうと、キッチンの方から冷蔵庫のブーンという音だけが聞こえた。
 テーブルに昨日買った化粧品が紙袋に入ったまま置かれているのを横目に寝室へと向かう。二つ枕が並んだダブルベッドの掛け布団はナマエがいつも寝ている方だけめくれたまま置かれていた。
 クローゼットを開けて、角名の腰の高さまである黒のキャリーケースを取り出し、リビングまで持っていって開く。
 再び、寝室に戻り、クローゼットに置いてある衣装ケースの引き出しを抜いて、引き出しごとリビングまで運び、開いたキャリーケースの横に置いた。引き出しに丸まって入っていた衣類を丸まったまま腕でごっそりと掴んで、キャリーケースに詰め込んでいく。
 途中コロリと丸まった二つの衣類が角名の腕からこぼれ落ちた。フローリングの上で、畳み方の違う二つのシャツが広がる。角名とナマエでシャツの畳み方が違うのだ。
 そういえば、と角名は思い出す。一緒に住み始めた頃、洗濯物の山の前で二人並んで畳んでいるとき、互いが互いの畳み方に驚いたのだった。え、そうやって畳むの? とナマエは驚いたような顔をしていたが、むしろそうやって畳むの? と返すと、二人で笑い合ったのだった。
 角名は、ナマエが畳んだのであろう方のシャツを鷲掴みにする。込み上げてくる涙。喉がキュッと締まる感覚に唇を噛んで、拾ったシャツを乱暴にキャリケースへ詰めた。
 スーツやコートも入れると、衣類だけで、キャリーケースの七割が埋まってしまった。
 クローゼットに向かいボストンバッグを手に取る。そして、棚に並べていた雑誌や書籍。バランスボールはナマエも使っているからいっかと呟き、転がってるバレーボールを一つ。鉄アレイは入るかなと少し心配に思ったが、こんなもの残されても彼女は困るだろうと、二つの鉄アレイもボストンバッグに詰め込んだ。
 一緒に暮らし始めてまだ数ヶ月だ。引越しの時に大分荷物を減らしたおかげか、角名の持ち物はなんとかキャリーケースとボストンバッグに収まった。
 荷物は今詰めたもので全部かと思ったが、キッチンの水切りカゴに入ったままのマグカップが二つ視界の端に映る。同じ形をしたピンクのカップとブルーのカップ。ブルーの方だけ、回収した。
「おもっ」
 キャリーケースを閉めようと、片側を持ち上げればずっしりとした重みを感じる。
 肩にはボストンバッグ。ぎゅっと押さえて閉じたキャリーケースを抱えながら廊下に出て、玄関で靴を履いてから一度、振り返った。
「バイバイ」
 鍵は、マンションの管理人に預けた。

 昨日のうちに手配しておいた、マンスリーマンションに荷物を置いて、やっと日常へと戻る。喪失感はあった。けれどもやはり解放感の方が大きかった。と、思いたかった。

 夜になり、いつも通り練習を終え、帰宅しようとしていたところで、マネージャーに声をかけられた。角名と同じ年くらいの女性だ。普段は物をハキハキと言うしっかりとした彼女だったが苦笑いを浮かべ、気まずそうにあのーと言って、続ける。
「角名さんにお客様が……」
「おきゃくさま?」
「ファンの方だと思って最初はお引き取り頂こうとしたのですが自分は角名さんの彼女だと言って、どうしても角名さんに取り次いで欲しいと食い下がられて……」
 心臓が早鐘を打ち始める。
「ミョウジナマエさんとおっしゃる方です」
 その名を聞かずとも客がナマエであることは分かっていた。
 でもどうしてここに。あぁそうだ。角名が荷物を全部持って出たことに気づいたのだ。でもなんでここに。彼女は、こんな角名に迷惑がかかる様な大胆なことができる子じゃない。きっと、悩みに悩んだ挙句、不安に震えながらここに来たのだろう。縋る様な思いで。可哀想に。早く行ってあげないと。
「ご存知の方ですか?」
 マネージャーの声にびくりと体が震える。
「知らない」
「そう、ですよね。では、お引き取り頂きますね」
 マネージャーは眉をハの字にして笑い、踵を返した。
 何が早く行ってあげないとだ。馬鹿馬鹿しいにも程がある。角名はいつも使っている裏口から、新たな住まいとなるマンスリーマンションへ帰宅した。