狐、その尾で縛る 後編



 伸びた影が夕闇に同化する頃。資料室では、それまで鳴り続けていた水音が。肉と肉のぶつかり合う音が鳴り止んだ。そして、荒げた息と共に呟かれた謝罪の言葉と愛の囁き。それはまるで独り言のようで、呟かれたっきり返事はない。しんと静まりかえった部屋で、ベルトの金具音だけが響き、再び静寂が訪れた。
 そんな学校の一室とは思えない部屋で、ナマエは、本棚に上半身を預ける様にもたれかかっていた。その顔は涙か、汗か、唾液か。ぐしょぐしょに濡れており、瞼を重そうにし、瞳孔は開いたまま。口も半開きのまま。ただ、宙を眺めているだけの様だった。
「大丈夫?」
 後ろからかかった言葉にナマエの焦点が定まる。力なく開いていた彼女の口からは息が漏れた。そして、絞り出されるかの様に発せられる。
「だい、じょうぶ……?」
 言い終えたナマエは勢いよく振り返った。
「大丈夫なわけっ……」
 言葉の途中でナマエはふらつき、角名に抱き止められる。ナマエの足はガクガク震えていた。角名の腕がナマエの背に回る。彼女を守るように。閉じ込めるように。
「家まで送る」
「いい。離して」
 ナマエは俯き、角名の胸に置いた手に拳を握る。
「こんな状態でひとり――」
「離してって言ってるでしょ!」
 ナマエは声を張り上げ、動かない角名の胸を押し、酷い剣幕で見上げた。また、その頬に涙が滑り落ちる。ナマエは慌てたようにシャツの袖を伸ばし、涙も汗も、口の周りも拭って角名の胸を押し続けた。それでも角名は離れない。ナマエの背に腕を回したきりぴくりとも動かなかった。
「もう……大丈夫だから、離して……」
 今度は弱々しくその言葉を発する。しかし、またしても角名は、でもと言ったきり離れない。長い腕を窮屈そうに折りたたみナマエを腕に抱いたままだった。
 唇を噛んだナマエは、息を大きく吸った。
「離して!」
 叫びにも似た、大きな声。角名は困った様子で眉尻を下げ、ようやく腕からナマエを解き放った。
 角名から離れたナマエはふらつく足で、乱れた服を整えながら無造作に置かれた自分の鞄へと進む。途中内腿を垂れてきた液体を手で拭い、手についた白濁色の液体を見ると、唇を強く噛みしめ、ポケットから取り出したハンカチでその手を拭った。そして、鞄を拾おうと膝を曲げるが、やはり震える足に力が入らないのか。そのまま、すとんとへたり込んでしまった。
 小さく震える肩に角名の手が伸びる。
「やっぱり――」
「触らないで!」
 鋭い声色に角名の手は一瞬止まるが、再びナマエの肩に向かって伸ばされた。角名の手がナマエの肩に触れる。瞬間、響く、乾いた音。
「触らないでって言った!」
 そう言って角名の手を払ったナマエは角名と目を合わせることもなく、鞄に視線を落としたまま鋭い声色で続ける。
「触らないで! 二度と私に触らないで! 嫌い! 角名くんなんて嫌い! あっちいって!」
 子どもの悪口のような一連の言葉を一息で言い切り、一度深く深呼吸をする。胸に手を当て荒げた呼吸を落ち着かせるように。そして、床に落ちた鞄を手繰り寄せ、持ち手を肩にかけて震える足を立たせた。立ち上がるまでに少しの時間はかかったが、そのままよろよろと部屋の出口へと向かう。しかし、またしてもふらつき、前に倒れ込みそうになったところを角名に片手で受け止められた。
 ナマエは思わずと言った様に胸の前にある自分を支えた腕にしがみつく。そして、しがみついたまま手を固く握り締め、眉を寄せ、歯を食いしばり、瞳を涙で揺らしたのち、ふっと力が抜けたかの様に表情を緩めた。そのままこてりと角名の胸に寄りかかる。角名の空いていた方の手がナマエの腰に回わされ、小さくなっていくナマエの体は大きな腕に包まれようとしていた。
「やっぱり、家まで送るね」
 それはまどろみに落ちるような優しい、酷く優しい声色。
 ナマエは気持ちよさそうに目を細める。そして、そのまま眠りにつくかの様に首を縦に振りかけ、ナマエの体に回った腕に抱き寄せられようとした瞬間、ナマエの肩にかけていた鞄がずり落ち、床に落ちると同時に大きな音を立てた。ナマエはびくりと肩を上げ、我に帰ったかの様な顔をし、いやと声を上げ角名を押し離す。ふらつく体を震える足で支え、落ちた鞄を拾い、よろけながらも足がもつれそうになりながらも走って部屋を出た。

 角名は眉尻を下げながら部屋を出るナマエの背中を見送った。ナマエの足音がどんどんと遠のいていく。足音は時折不規則に鳴ったが、大きな音はしなかったため、彼女はこけずに進めたのだろう。角名は小さなため息を吐き、床に置いた鞄を拾う。そして、資料室を出て、ゆっくりと扉を閉めた。相変わらず角名の眉尻は下がったままであったが、口には緩やかな弧が描かれていた。