狐、その尾で放って 前半
浮いているような不思議な感覚に、きっとここは水の中だ。とナマエは思った。湖なのか海なのかは分かりかねたけど、随分と深いところにいる事だけは分かった。はるか上にある陽の光がどんどんと遠のいていく。ナマエが口を開けると、息がぼこぼこと零れ、それは泡となって揺られながら光の方へ登っていった。不思議と苦しくない。この現実味のない空間はそう――夢だ。ナマエがそう思った刹那、意識が暗い水の底から引き上げられる。見慣れた天上がそこにあった。
ナマエは気怠げに目覚まし時計を覗く。目覚めにはまだ一時間早かった。
夕暮れの資料室。角名と交わりを持ったあの日から一週間が経った。
あれからナマエは角名と顔も合わせていなければ、口も聞いていない。正確にいえば、同じクラスなので、顔を合わせることがあっても、見えない。聞こえない。考えない。それを押し通した。
角名もそれに応えるかのように、ナマエと関わろうとはしてこなかった。
そんな息苦しい日々が続いたある日の朝。
「ナマエ、角名くんと付き合ってるんだって?」
下駄箱の前で顔を鉢合わせたかと思えば挨拶もおざなりにして友人がニヤニヤ笑いながらナマエに問うた。ナマエは一瞬自分の顔が強張るのを感じたが、辛うじて笑顔を作り友人に尋ね返す。
「なんで?」
「噂になってるよ」
「え? 噂……?」
教室に向かいかけたナマエの足が止まる。友人は気にするそぶりもなく同じように立ち止まり、噂とやらの内容を口にした。
「なんか誰かがナマエと角名くんが一緒に帰るとこ見たんだって。それで角名くんに確かめたら角名くんが付き合ってるって」
ナマエの頭の中ではさまざまな考えが巡った。
”一緒に帰るとこ”とはどういうことか。二日とも角名を置いて一人で帰った。一日目は彼を振り払って。二日目は暴言を繰り返して。だから、そんなところは目撃のされようがない。きっと資料室に行くところを見られたのだろうと察する。そして、口ぶりからして資料室に入っていくところを見られたわけではないらしいことは分かった。
ではどうして角名は付き合っているなどと口にしたのか。ナマエは考えて首を振る。たかが噂だ。角名が本当にそう言ったとは限らない。でも、もし、本当なのだとしたら――
そう思ったところで友人が残念そうに声を上げた。
「もう、水くさいんだから。私には教えてくれたって良かったのに」
しかし、その顔はちっとも残念がっている人のそれではなく、むしろ楽しそうな様子だった。色恋の話は皆大好きだ。それが近しい人間のものというなら尚更で、友人に悪気がないことはナマエにもわかっていた。それでも。
「いいなーナマエは。かっこ――」
「全然よくない!」
ナマエが声を上げる。
「私が角名くんと付き合ってるわけないじゃん! なにその噂。ありえないよおかしいよ!」
言い終えてから友人の瞳に帯びる驚きと戸惑いに気づきはっとする。
「ごめん……大きな声出して……」
「ううん、私の方こそごめん。そうだよね……ちゃんと確認しないでごめんね」
「ううん、大丈夫。大丈夫だから。ほんと気にしないで」
ナマエは慌てた様子の友人に微笑みかけ、一度自分を落ち着かせるようと小さく深呼吸をする。
どうしてこんなにも動揺し、友人に声をあげてまで噂を否定したのか。ナマエにはなんとなく自覚があった。
『それで角名くんに確かめたら角名くんが付き合ってるって』
それを聞いた瞬間、嫌悪感と、それではない、心を色めき立たせる他の感情があったからだ。
否定したかったのものは噂だけではなかった。
角名は本当にそんなことを言ったのだろうか。その疑問を皮切りについ考えてしまう。角名はこの噂についてどう考えているのだろうか。そして、自分のことをどう思っているのだろうか。
そこまで考えると、あの強引なのに優しく触れた手が後ろから伸びてくる。
『可愛い、本当に可愛い』
耳元でその言葉を囁かれた気がして、ナマエはあの日吐息がかかった耳を押さえた。
あの日、ナマエは、侑への気持ちを利用されて悔しかった。角名への良心を踏み躙られて許せなかった。なによりも角名に触れられて、嫌だった。それなのに、いつまでも忘れられないでいた。あの日のたまらなく心地の良かった時間を。快楽を。幸福感を。きっとあの日あの腕の中で、ナマエに与えられたものは体の快楽だけじゃなかった。
だから、ナマエは角名の姿を見ないよう、声を聞かないよう、存在を考えないよう努めていた。一度、見てしまえば、聞いてしまえば、考えてしまえば、今のようにきっとあの腕の中に引きずり込まれ、与えられたものに溺れそうになる。そんな気がしていたからだ。
ナマエは首を横に振って頭の中の思考をかき消す。このまま考え続けたらきっと、もう戻れない。
幸い角名もナマエに興味を失ったようで、あの日から声をかけられることもなければ、視線すら感じない。だから、見えない。聞こえない。考えない。例え、その息づかいを強く感じようとも。
『好き、本当に好き』
角名のその言葉はまるで洗脳の様にいつまでも、いつまでもナマエの頭の中を巡っている。どんなに思考から角名を追い出しても。
「本当に大丈夫?」
友人が心配そうに顔を覗き込む。
「うん、大丈夫だよ」
ナマエは顔に笑顔を貼り付けた。
あの日からナマエは学内ではできる限り誰かと過ごし、ホームルームが終わればすぐに帰宅していた。そして、その日もナマエはホームルームが終わるや否や、すぐに鞄を持って教室を出た。ナマエが噂を耳に入れた翌週のことだった。
下向路につき、ナマエはふぅっと安堵のため息をつく。今日もやっと終わった。全身から力が抜けていくのを感じながら、解放された気分で歩いていた時、腕を掴まれる感覚に振り返る。
「やっと追いついた」
猫背気味に立つその長身の人物は、乱れた息を吐きながらナマエの腕を掴んでいた。
「なんで、角名くんが……?」
ナマエの体に緊張が走り、鼓動がどんどんと大きくなっていく。ナマエは思わず辺りを見渡した。学校から少し離れた道だ。生徒はいない。しかしまばらだが通行人はちゃんといる。きっと大丈夫。きっと大丈夫だ、なにも起こらない。起こりようがないと心に言い聞かせた。
「また俺のこと避けてる」
「当たり前でしょ。なんでまだそんなこと言えるの? 離してよ」
震えながら虚勢を張る。
「じゃあ手、振りほどいていいよ」
「え……」
角名の言葉に一気に力が抜けた。
確かにあの日とは違い、ナマエが腕を振ればその腕は簡単に解放できるくらい角名の力はごく僅かなものだった。
動かない体にナマエはようやく自分が得体の知れないぬかるみに足を踏み入れていることを知る。
今なら、戻れる。今しか、戻れない。頭の中で激しく警告音がなっているのにやはりナマエの体は動かなかった。
「振りほどかないの?」
「え……と、その……」
角名がぱっと手を開き、ナマエの腕を離す。そのままその大きな手は下ろされてしまった。しかしナマエの腕はその場に残り続けた。
「今までごめんね」
角名はそう言ってあっさりと背を向ける。その長い足はゆったりと伸ばされ来た道を戻ろうとしていた。待ってと言いかけてナマエは口を結ぶ。おかしい。待ってなんて言うのはおかしいに決まっている。ナマエは鼓動が体全体に鳴り響くのを感じた。まるでスローモーションの様に短い時間が長く感じる。離れていく背中。遠のいていく背中。その背中を見送れば全てが終わると分かっていた。これでいい。これでいいのだ。むしろ、これ以外に何がある。それなのに鼓動が、鳴り響く鼓動がうるさかった。そして、思ってしまった。
本当に、これで、いいのだろうか。
『好き。本当に好き』
頭の中を巡るその言葉は、誰の言葉だったか。
見えない手に後ろから優しく包み込まれる。
『好き、本当に好き』
体を熱くし、震えさせるその言葉は、誰の、言葉だっただろうか。
ナマエはきゅっと拳を握り、気づけば手を伸ばしていた。
「何してんの?」
制服を引っ張られた角名が振り返る。角名と目を合わせたナマエは顔がかっと熱くなり、俯いた。そして、結んでいたままの口をやっとの思いで開く。
「……か、……で……」
「ごめん、聞こえない」
角名の制服を掴んでいた手が段々と滲んでいく。
「…………かな……で…………」
「……聞こえない」
ナマエは顔を上げた。
「行かないで!」
角名の目はおかえりとでも言うかのように柔らかに細められていた。
「ミョウジさんって、本当に可愛いね」
ナマエの耳元ではぼこぼこと、水の中で口から息が漏れる音がした。