海外には、山は山を必要としないが、人は人を必要とする、ということわざがある。
人は他者との交流の中で自分を受け入れ、人であることができる。だとしたら、人を避けて生きているうちは、一体、人は何になるのだろう。
「金無し仕事無し男も無しの正真正銘の一文無しがコンビニで散財してええんか」
狭い路地でラーメンを貪っていた私の頭に呆れた声が降ってくる。反射的に腰を上げかけ、膝に乗せたパックに乗った餃子を落としそうになった。しかし、醤油が少しこぼれただけで餃子はひとつも無駄にならなかった。半端に上がった腰を下ろし、口の中の麺を飲み込む。温めすぎて柔らかい麺はスープを吸って伸びきっていた。
「食べられるときに食べておけというのが教えでして」
「その教えに一つ加えとけ。コンビニでラーメン、餃子、チーズ、サラミ、ビールは貧乏人がする贅沢やないってな。このアホンダラァ」
黒駒勝男は私の購入品を指折り数えて吐き捨てた。珍しく仕事をこなしたあとだったので自分へのご褒美のつもりだったのだが、どうやら許されないらしかった。私は「はあい」と気の抜けた返事をして残ったスープを飲み干した。辛味噌が喉に張り付いてひりひりした。
夕暮れを過ぎ、かぶき町は薄闇に包まれていた。狭苦しい路地は明かりが届かず、私は営業を終えた蕎麦屋の室外機に腰掛けていた。空になったプラスチックの容器をビニール袋に突っ込みながら、つまみのサラミの袋を開ける。食べますかと愛想に訊ねれば、勝男さんは大仰に首を横に振った。サラミをつまみ、ビールを一口飲む。最近は発泡酒ばかりだったので、ビールが美味い。
「そもそも、あんなもん買うから金がなくなるんや」
勝男さんは顎をしゃくった。路地の脇には暗がりの中でも光る赤いバイクがある。江戸へ来て間もないうちに大枚を叩いて買ったものだ。バイクの購入代と免許取得のための費用で、持っていたお金はほとんど消え去った。しかし、バイクは私の相棒であり、走る術でもある。あんなものと言われても、あれがなければ商売はできない。後悔はしていなかった。
「やっすい中古でよかったやろ」
私は形から入る質なので、オンボロのバイクに乗る気はなかった。考えもしなかった。
「……赤が良かったんです」
「まあ顔を売るにはちょうどええか。ただ、あんまり目立つことはやめぇよ」
「御意」
「派手なことやらかしたら、山か海か。砂丘でもいいか。景色のいいほうに沈むことになるで。この世の万事は七三や。三やらかしたら七の報復。恩も三受けたら七返す。ええな」
「……御意」
勝男さんは七三の割合に対し並々ならぬ信条を掲げている。きっとその言葉通り、私がなにか下手を打てば沈めるなり埋めるなりするのだろう。彼は私のパトロンだが、そういう容赦はない。やくざ者は義理人情に厚いが、その分、背信行為には厳しい。しかし、私は彼らと盃を交わしたわけではない。あくまで仕事仲間だ。私は彼に拾ってもらった身なので、少なくとも裏切ることはできないけれど、そもそも向こうが私に対して義理を果たすような筋合いはない。
勝男さんが夜の街に消えると、辺りはしんと静まり返った。その静寂を待っていたかのように足元に猫が擦り寄ってくる。猫は私に向かって甘えた声で鳴く。人間の食べ物を動物に与えるのは良くない。私はつまみとビールを持って路地を離れた。
一度は捨てた人生、失うはずだったもの。それに対し、今更執着する理由もない。もしも殺されてしまうようなことになっても、今世は諦めて来世に期待するとしよう。そのくらい無味に生きるのが丁度良い。
夜空には月が浮き始めていた。新月だった。江戸で明かす夜。仕事は毎日入らない。明日は洗車でもしようか。バイクを押しながら、私は帰路に着いた。
家賃二万六千円のアパートの一室が私の城だ。昼になって目が覚めて、のろのろと体を起こす。日々堕落していく生活。部屋の中には通帳、免許証、財布に始まり、空き缶や使ったままのマグカップが放置されている。
窓の外は重い灰色の雲が支配していた。洗車はなしかと思いながら頭を掻く。
洗面所で顔を洗い、水垢のついた鏡で自分を見る。昔は荒れていた肌もずいぶんと落ち着いてきた。単純に化粧をしなくなったせいだろう。最近ではせいぜい日焼け止めを塗るくらいだ。母譲りの私の顔はどちらかというと目鼻立ちがくっきりしていて、派手な化粧はけばけばしさを際立たせる。仕事中はヘルメットをしているし、化粧する気は起きない。それに、化粧品の一つでも買うなら食べるものを買ったほうがいい。
ぼんやりしているうちにも刻一刻と時は過ぎる。歯を磨き、伸びた髪をひとつに括った。
冷蔵庫を開けてみたが、中には半分ほどになったウスターソースと発泡酒、きゅうりの浅漬けがあるだけだった。自嘲気味に笑い、冷蔵庫を閉めた。
「仕事かい」
アパートの前でバイクに跨っていると、大家さんに声をかけられた。大家さんは八十過ぎの老齢の男性で、頭髪は薄く眼鏡をかけている。大家さんは私が運び屋をしていることは知らない。
「仕事はー……ないんだな」
「そうかい。ゆっくりできるね」
大家さんは足が悪く、遠出ができない。息子がいるらしいが、放蕩息子で滅多に顔を出すことはないと言う。だから、というわけではないが、アパートの住人が数人で大家さんの入り用のものを買ってくるようになっている。頼まれたわけでも示し合わせたわけでもないが、いつからかそういうふうになっていた。
かぶき町の隅のこのアパートに集まるのは、お金もなければ行き場のない人間ばかりだ。それでも、大家さんは分け隔てなく受け入れてくれる。そんな大家さんに、まるで贖罪のように皆尽くすのだ。
「スーパー行くけど、何かいる?」
大家さんは息を漏らした。笑ったようだった。
「お金に困ってるんじゃないの」
「パンくらいなら買えるよ。八枚切りだっけ」
「パンはね、まだあるんだ。バナナがほしいねぇ」
「了解」
ひらりと手を振ってバイクを走らせる。大家さんは洋食好きで、朝食は食パンとコーヒーだし、ステーキやクリームシチュー、パスタなんかも好きだ。アパートの住人にどうやら料理上手な人がいるらしく、その人が度々大家さんに食事を作っているらしい。
大家さんに、足腰が弱っている以外に体に悪いところはない。どうか、そのまま元気でいてくれたらいい。顔もろくに合わせない住人たちの共通の願いだろう。とは言え、ひとの心配をする前に今は自分の心配をしなければいけない。大江戸マートに着いてバナナを一房、数日分の食料を買ったところで財布の中はほぼ空になった。
仕事をしなければいけない。沈められても埋められても刺されても撃たれてもいい。が、飢え死にだけは御免だ。塩すら舐められず、雑草を貪って死ぬのは嫌だ。
バッグに荷物を詰め込む。バナナだけは入らず、ビニール袋に入れて腕にかけてバイクを走らせた。仕事を取るには、勝男さんからの連絡を待っているだけではやはりだめだ。この街で私の存在はちっぽけで、私のことを知る人など誰もいない。勝男さんや大家さん以外にろくな知り合いもいない。
どうしたものか——。考えながらバイクを走らせる。信号のない曲がり角に差し掛かったとき、銀色のスクーターが飛び出してきた。あっと思ったときには遅かった。
咄嗟にハンドルを切った。が、車体が摩擦音と共に擦れ合い、私は投げ出されて路上に転がった。赤い車体がアスファルトを滑り、火花を散らす。意識が遠退いていく中、ざわめく人々の声が聞こえていた。
人ってこうやって死んでいくんだな、と他人事のように思った。静かで、呆気ない。不思議と痛みも悲しさも悔しさもない。私の人生は所詮、取るに足らないものだったのだ——。
「おーい、い、生きてるかー?」
目が覚めたときは、私はまだアスファルトの上にいた。死んでいなかった。
視界が曇っている。ヘルメットをしているせいだった。起き上がると、脇で人が尻餅を着いた。
左手に掛けていたはずのものがない。思わず声を上げた。
「バナナ!」
「えっ、バナナ?」
ヘルメットを取っ払って辺りを見回す。バナナはビニール袋から飛び出てすり潰されていた。無惨な姿に愕然とする。いつの間にか人集りはなくなり、バナナを避けるように皆歩いていく。
口を開けたまま動かずにいると、目の前で掌がひらひらと揺れた。見ると、銀髪の男がそこにいた。眉と目が離れた、生気のない目をした男だった。
「もしもーし……大丈夫っすか……? えっと、すいませんコレ、轢いちゃったみたいなんだけど」
目が合うと、男は歪に口角を上げた。その手には私の携帯電話がある。が、画面はひび割れ、両断されかかっていた。無言でそれを受け取り、おぼろげだった記憶を呼び起こす。すると間もなくして、男が意識が飛ぶ前に見た、銀色のスクーターに乗っていた男だと気が付いた。男の向こうに倒れたスクーターが見える。私の数メートル後ろには相棒が同じように横倒しになっている。アスファルトには擦過痕が残っていた。身体のどこかわからないが、どこかが痛む。顔を歪めると、男は焦ったように捲し立てた。
「えっ、どっか痛い!? いやマジでわざとじゃないんだよ、俺もちょーっと結野アナ似の美人が歩いててよそ見してたんだけど、そっちも前方不注意だったわけじゃん? これは両成敗っつーかお互い様っつーか!」
そばで喚かれて頭が痛い。しかし、身体が痛むことよりも、携帯電話が壊れてしまったことよりも、大家さんのバナナのことがショックだった。
「バナナが……」
「なに!? バナナ? おたくどんだけバナナ好きなの!?」
狼狽する男の懐から、小さな紙切れが落ちる。そこには、万事屋銀ちゃん、と書かれていた。それを手に取って見ている間に、男はそろそろと腰を上げた。
「ま、まあ無事で良かった。もうタイムマシーンを探さなくていいってことだな。じゃあ俺はこれで」
「万事屋さん」
咄嗟に呼び止める。男は足を止め、ぎこちない動きで振り返った。
「バナナ、買ってください」
「えっ?」
「あと、チャック開いてます」
「マジか」
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