私の愛車には傷が付き、ミラーが割れてひしゃげてしまっていた。万事屋さんのスクーターにも傷はあったが、本人には擦り傷一つなかった。私のほうも身体が痛んだのも最初だけで、時間の経過と共に痛みは消え去った。お互いに頑丈にできている。
 衝突した二人でバイクを押して歩く。私の左手にはバナナの入ったビニール袋が提げられている。お互い様だと言い張っていた万事屋さんだが、自分のほうに非があると思ったのかバイクの修理屋を紹介すると言ってくれたのだ。おそらく携帯電話を壊してしまったことを気にしているのだろう。
 顔に当たる細かい雨に目を細めながら、興味本位で訊ねてみる。

「万事屋って、何をするんですか?」
「なんでも。便利屋だよ、なんでもありの便利屋」

 便利屋という職業があることは知っているが、実際に便利屋と名乗る人に会うのは初めてだ。

「うさんくさ……」
「ああ? 今何つった」
「見た目と相俟って怪しいっていうか」

 正直で不躾な感想をありのまま言うと、万事屋さんは眉間に皺を寄せた。

「俺のどこが怪しいんだよ。天パか? 天パがそんなに悪いのか」

 流水紋の着流しが歩くたびに揺れる。着物の片袖を抜き、中から黒いインナーを見せている。腰には木刀。そして特徴的な銀色の髪。妙な出で立ちの人だ。天パ含め怪しい雰囲気がある。軽薄そうで、とても真面目には見えない。堅気ではないのか。でも、勝男さんたちのような、高圧的な感じはない。
 しばらく歩き、万事屋さんに連れて来られたのは騒音響く工場だった。万事屋さんは耳をほじりながらずかずかと工場へ入っていく。私は周囲を見回し、入り口で立ち尽くしていた。しかし、一分も経たないうちに万事屋さんは戻ってきた。少し遅れて奥から現れたのは、髭を蓄えた老夫だった。片手にスパナを持っている。

「オイ、銀の字。ここは女連れてくるようなとこじゃねえぞ。デートなら他当たんな」
「どこがデートに見えんだよ。こんな行儀の悪そうな女、趣味じゃねえわ」
「なんで勝手に私がフラれてるんですか」

 万事屋さんは「あれ、直してやってくんない」と私の赤いバイクを指差した。

「うちはバイク屋じゃねぇぞ」

 すかさず老夫が言うが、足はこちらに向いていた。擦れた部分を見て、ミラーをじっくりと見ている。軍手を嵌めた手から伸びる腕は、無骨で細かい傷がたくさんあった。

「いいバイクだ」

 しげしげとバイクを見ていた老夫が呟いた。私は自分が褒められたかのように嬉しくなった。

「でも女が乗るにはちとゴツ過ぎるんじゃねえか」
「仕事で使ってるんです」

 あまり仕事の話をすることはないが、つい話してしまった。老夫は「仕事?」と首を捻った。

「運び屋をしてます。頼まれたものを何でも運ぶ仕事です」
「パクってんじゃねーよ。万事屋だって頼まれれば荷物くらい運ぶわ」
「万事屋みたいな胡散臭い仕事じゃありません」
「運び屋のほうが百倍胡散臭いわ。アレだろ、白い粉とか臓器とか運ぶ仕事だろ」
「運んでないし!」

 睨み合う私たちに目も向けず、老夫はバイクのシートを叩いた。

「まあ、仕事も生き方もてめえで決めるのが一番だ。何屋だろうと、てめえの信念があるならいいさ。しかし運び屋さんよ、うちにゃ塗装するもんも部品も足りねえ。時間がかかるが、それでもいいのかい」
「直してくれるんですか?」
「俺ぁ機械いじくり回すのが趣味なのさ。まあ、おまんま食いっぱぐれねえように金はもらうがな。先に聞くが、金はあるんだろうな」

 私は口籠る。無一文だなんて言えば、きっとバイクは修理してもらえない。バイクを修理してもらわなければ仕事はままならない。しかし、お金などどこにもない。勝男さんに借りる? いや、七三という割合を盲信するあの男に借りを作るのは避けたい。

「出世払いで……」
「出世すんのか」
「未定ですけど踏み倒したりはしないんで、その、絶対払いますから」

 老夫は色濃いサングラスでじっと私を見た。しかし、私のほうからは老夫の瞬きひとつ確認できない。
 かなり苦しいことは自覚している。信じてほしいなどとは口が裂けても言えない。胡散臭いと万事屋さんに言われてしまった通り、事実、運び屋なんて真っ当な仕事ではないし、信用してもらえるような材料を私は何も持っていない。
 これは無理か。そう思いかけた矢先のことだった。

「わかった」

 老夫はあっさりと言った。私はきょとんとして「えっ」と間抜けな返事をした。

「いいんですか? 私、お金ないんですけど」

 戸惑いながら訊ねる。老夫はからかうように声を弾ませた。

「ツラに貧乏だって書いてあるもんな」
「貧乏……」
「金はあとでいい。だっておまえさん、コイツを置いて逃げやしねえだろう」

 老夫はバイクを顎でしゃくった。痛々しい傷、割れたミラー。赤く輝く車体。無骨な黒いタイヤ。置いていくことなど、できるわけがない。私は黙って頷いた。

「それで全部事足りる」

 老夫がにやりと笑う。万事屋さんは、終始つまらなさそうにそこに立っていた。





 かぶき町は寝静まることがない。丑三つ時になっても街の明かりが絶えることはなく、水商売の人間が生き生きと闊歩する。彼らにとっては、夜こそが戦場であり生きる時間なのだ。そして、それは水商売の人間だけに限った話ではない。やくざ者、浮浪者にとっても同じだ。

「携帯も壊れた、バイクも壊れた、おどれは仕事やる気あるんかぃ、えぇ?」

 飲み屋街の一角の狭いバーで、私は勝男さんに説教をされていた。お酒の進む勝男さんの物言いに遠慮はない。

「月並みなこと言わせてもらうけどな、何も持たへん奴が、何もせんとラクして生きていけるほど世の中甘くないんやで」
「でもあれ、飛ばし携帯ですよね? 替えくらい……」
「それを誰が用意してやった思ってんねん!」
「ハイすいません!」

 勢いに任せて頭を下げる。テーブルに額を思い切りぶつけた。カウンターの向こうのマスターは見て見ぬふりをしている。客など他に誰もいないが、カウンターやグラスを熱心に磨いている。
 勝男さんはロックグラスを揺らしながら深い溜め息を吐いた。私のグラスの中身は、ほとんど減っていない。

「あーあ、路頭で行き倒れてたおまえを拾ったの、あれが失敗やったかなぁ」

 空を見つめ、勝男さんは回顧する。淡い色の照明がぼんやりと店内を照らしている。その光は曇り空から差す太陽のようにも、おぼろげな月明かりのようにも見える。

「腹が減った言うてなぁ。はじめはおもろそうな女やし、まあ顔も悪くないから風俗嬢にでもしよう思うたんに、おまえが嫌や言うてなぁ」
「カンシャしてます」
「そんであれ、いつやっけ。街でバイク見て。次の日には免許取りに行っとったな。ホンマ、その行動力だけは認めるわ」
「行動力だけはって」
「あとはてんでダメや。アホやし、無鉄砲やし、金はないわ口は悪いわ、誰が手綱握ってんだかわからへんわ。暴走する馬や」
「馬は……ちょっとかっこいいですね」
「アホか」

 一蹴されたものの、私は苦笑しながらグラスの酒を舐めた。よくわからない名前の酒で、私にはビールのほうが良かった。
 夜は、このかぶき町という街は——あらゆるものを受け入れてくれる。名前も歩んできた道も捨て、他人になりすまして生きていくと決めた私を、その大きな波に巻き込んでいく。波に乗れている感覚はない。ただ、流されているだけだ。望む場所でなくても、流れ着いた場所で何かを掴むことができたらいい。しかし、時々ふと、過去の自分が私の足を掴む。私は誰に責められたわけでもない。あの人も、万斉も、私を責めることはしなかった。私を苛むのは、結局いつも私しかいない。
 明け方近くになって、勝男さんの弟分が彼を迎えにきた。弟分は私に「少しは兄貴に恩を返せ」と妙に偉そうに言った。私は勝男さんに義理はあれど、おまえにへりくだる筋合いはないのだが。とは言わなかった。腹癒せに背中にナッツの殻を投げてやった。もちろん弟分は気付かなかった。気付いたのは、その様子を見ていたマスターだけだった。
 帰り際、勝男さんは上気した顔で私を振り返った。

「せや、おまえのアパートのとこの大家のじいちゃん、おるやろ」

 もう一度殻を投げようとしていたところだったので、ぎくりと動きを止めた。

「大家さん、ええ、はあ」

 不自然に上げていた手を下ろす。幸い、酔っ払いはその不自然さには目を留めていなかった。

「あのじいちゃんのボンクラ息子、江戸に来てるらしいんや。ワシが寺子屋行ってたときの同級でな。なかなか曲者やさかい、気ぃつけえよ」
「勝男さん、寺子屋行ってたんですか」
「しばくぞ」

 睨みつけられたが、素知らぬ顔をしておいた。





 バイクの修理が終わるまでは、単発のバイトで食い繋ぐことにした。かぶき町は毎日がお祭り騒ぎのようなものだが、実際、町内会の活動は活発で催し物は多い。祭りと喧嘩が好きな人が多いのだろう。
 梅雨入り前の短い期間、かぶき町の神社では小さなお祭りが開かれていた。何のお祭りなのか、隣の射的屋のおじさんに訊いたが知らないと言われた。私はパイプ椅子に深く腰掛け、目の前の青い桶の中で泳ぐ金魚たちを見下ろした。赤と白と黒。入り乱れる金魚は一体何を思って泳いでいるのだろう。

「金魚っておいしいと思います?」

 頬杖を着いて訊ねてみる。おじさんは競馬新聞から目を離さず、咥えていた煙草を摘んで鼻から白煙を勢いよく出した。

「生臭くて食えねえよ」
「そうですか……」

 それきり何の会話もなかった。生臭くて食えない。食べようとしたことがあるんだなと思った。深追いはしないし、向こうもしてこない。私には、その雑さが心地良かった。
 ぱたぱたと軽快な足音がする。退屈凌ぎにおじさんの足元にあったコルクガンをいじっていると、明るい声が飛び込んでくる。

「わぁ、金魚アル! 銀ちゃん、金魚飼っていい?」
「バカヤロー、うちには犬がいるだろうが。生き物は一匹までだ」

 次いで聞こえてきた低く締まりのない声は、聞いたことがあった。金魚桶の前にしゃがんでいるのはチャイナ服の女の子で、後から現れたのは万事屋さんだった。二人とも綿菓子を持っている。万事屋さんは私と目が合うと、あれ、と目を瞬かせた。

「運び屋辞めたの」
「休業中です。どっかの誰かがバイクぶっ壊してくれたんで」
「あれはお互い様だっつったろーが」

 もしゃもしゃと綿菓子を頬張る男は悪怯れもせず言った。

「銀ちゃん、金魚」

 物欲しげな眼差しの少女を万事屋さんは一蹴する。

「だからダメだって。定春とオメーの飯代でうちは常にカツカツなの」

 会話は親子そのものだが、親子にしては似ていない。あの癖だらけの銀髪から、燃える夕日のような髪の女の子は生まれまい。その上、顔立ちも似ていない。少女は大きな瞳をしているが、万事屋さんは半開きで生気のない目をしている。消去法で、私は「いとこですか?」と訊ねる。

「なわけねーだろ」
「銀ちゃんはうちの社長アル。給料は払ってもらったことないけど」
「ブラック企業じゃないっすか。しかもこんな少女を」
「人聞きの悪いこと言うな!」

 少女は金魚すくいをすることは叶わなかったが、代わりに隣の射的をすることになった。おじさんは煙草を吸いながら少女にコルクガンを渡していた。屋台で出るおもちゃなど原始的なものばかりだが、少女は真剣そのものだった。微笑ましく思いながらその横顔を眺めていると、万事屋さんの視線が私に向いていることに気が付いた。

「なんです?」

 怪訝な表情をすると、万事屋さんは自分の顎を撫でながら目を逸らした。

「いや……」
「なんですか」
「おまえ、黙ってりゃおっぱいでけえしモテそうだよね」

 コルクガンを構えて発砲する。コルクは万事屋さんの胸に撃ち込まれた。

「痛って!! なんで!? 褒めたじゃん! てかコレ、ホンモノなら死んでるよ!」
「すいません、つい」
「ついでしていいことじゃねーよ!」
「やったー! 銀ちゃん、UNOゲットしたネ!」
「なんでUNOだ! おまえ閣下にされたの忘れたのか!」

 その後も時間は穏やかかつ無為に流れ、夕刻になり、私は店仕舞いをして帰路に着いた。射的屋のおじさんの気まぐれでもらったワンカップと、大家さんへのお土産にベビーカステラを買って、街を歩く。灰色と茜色の混じった西の空に、小さく千切れた雲が流れている。お金はないが、不思議とこんな生活も悪くはないと思い始めていた。
 アパートの前に着くと、見慣れない乗用車が路肩に停めてあった。大家さんの部屋を見遣ると、玄関前、朝には整然と並んでいた花壇が横倒しになっていた。花が好きな大家さんが、あの花壇をそのままにしておくわけがない。嫌な予感がしてインターホンを鳴らしてドアを叩く。声をかける間もなく、中から怒声が響いてきた。

「いいから金寄越せよォ!」







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