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世界がぐちゃりと歪んだのを体感しながら、手で額を押さえて浅く息をする。

ちょっと、待って、
どういうこと、だろう。

え、と、澪は、なんて

(…『ついさっき』…、つけられた…?)

ぎゅっと服を握った手に、汗が滲む。
ゆっくりと動かした視界が、その濡れた髪、乱れた浴衣をとらえ、どこか浮かれた熱っぽい声に、向く。


「でも…こういう跡をつける時の男の人の顔って…凄く…なんていうか情熱的で素敵なのよね…。好きな人にされたら、その感覚も尚更強くなると思うの。真冬もそう思わない?」

「……は、は」


何故かわからないけど、おかしな笑いが零れた。

そして今の彼女の言葉で
…やっぱりそれは虫刺されなんかじゃなくて、キスマークなんだと悟った。

けど、


(…”好きな人”、…?)


まさか、
いや、でも、

…そんなはず、ない。

考えすぎ。
考えすぎだと…思う。


それでも、考えずにはいられない。

だって、


「…(…今、”澪と”、用事をしてる…のは、)」


ドキドキと嫌な音を鳴らす心臓に眩暈が、して
ひゅ、とうまく吸えない息を吸って、声を絞り出した。


「ねぇ、…もしかして、それ…」


言いかけた瞬間、コンコン、とドアが叩かれる。
びく、と勝手に身体が震えて、なのに音の方なんか気にしていられない。


「妃様」

声と同時に男の人が入ってくる。
澪は着物を翻しながらおれの手をもう一度握って「頑張って」と笑った。


「彼が真冬を案内するから、また後でね」

「…で、でも、」

「あ、そうだ。代わりにこれあげるわ」

「……?、え、」


かわり…?

無理矢理手の平を上に向けられ、そこにたぷ、と置かれる…もの。

…あったかくて、ゴムみたいな、べとべどした感触で、

その手触りに、思考するより先にひやりと寒気がした。


「…っ、こ、れ…」

「真冬、きっと欲しがるんじゃないかと思って」


目の前には、澪の幸せそうな、”女”の顔。
好きな人と一緒に居た時の、お母さんと似ている顔。


(おれ、が…欲しがる…?)



「…驚いたわ。…あんなに大胆で…強引なキスをされると思わなかった」

「……」

「待ち望んでいた……ずっと繰り返し見ていた夢なんて比較にならないぐらいの最高の気持ち良さだった。これが本能で感じる心と体の悦びなんだって改めて思い知らされたの。あれほど気持ちよくされて激しく求められちゃったら、女として応えないわけにはいかないじゃない?」

「…っ、どういう…、いみ…?」

「ふふ、本当はわかってるくせに。その証拠に…持ってきてあげたんだから」


「……しょう、こ……?」


促されるままに視線を落とす、と


「―――ッ、ぁ、」


それは、…白い精液がたっぷりと入った、……コンドーム  だった。



「…ね?くーくんの一部があれば、真冬も寂しくなんかなくなるでしょう?」


……あまりにも純粋に、曇りのない笑顔でそう笑う彼女に

何の覚悟もしていなかったおれの心はあっさりとぐちゃぐちゃに引き裂かれて、激しい痛みに押し潰された。

――――――――


(…くーくんの一部、)

(…それが何を示すか、なんて考えたく…ない)
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