繰り返し見る

ふわりと淡い芳香が私の顔を撫で、胸の奥まで滑り込んでくる。
「ねえ綱吉?」
「ん?」
「…まさか、お義父様のお香かしら?」
お義父様とは三代目将軍、家光様のことだ。
「いや、確かこれは母上のだったような――」
「お義母様…」
お義母様――奈々様は家光様の側室で、綱吉の生母だ。お義父様が死んだ時に落飾して大奥を離れ、綱吉が将軍職に就いた時からは江戸城・三の丸にいる。
「そう、お義母様のお香ね…」
透明感を湛えた温もりが全てを包み込むように香り立つそれはお義母様、ひいてはその息子である綱吉にどこか似ている。
「どうかしたか?」
「別に…何でもないわよ、ただ…」
「…ただ?」
「貴方は愛されているのだなあと、思っただけよ。…まあ、私が一番だ…けど、」
視線を移した先の紙に書かれていた文字は「明徳を懐ふ」、つまりは「正しく公明な徳を心がける」ということだ。いかにも儒学大好きな彼らしい言葉選びである。
「今更言う事でもないだろ?」
「確かにそうかもしれないわね、」
まあ、やはり自分の夫が近くの部屋でほかの側室と仲良く寝ているというのは、心中穏やかとは到底言えるものではないが。

とんとん、と襖を叩く音がする。
「ほら、また貴方は呼ばれてるわよ。…誰にだか知らないけど」
部屋から出る彼を見送ったあとで、私はぽつりと、ひとり呟く。聞かれていないだろうことは承知の上で。

「もう、馬鹿みたい――」
…貴方も、私も。


落飾(らくしょく)→貴人が髪をそりおとし、仏門に入ること。