20

 派遣の仕事が終わって、帰路につく。まん丸な月明かりが照らす地面には、今朝降った雪が積もっている。踏みしめるたびに、ざくざくと音がして、俺の後ろには足跡が残る。未だに雪の上を歩くのは慣れなくて、時々凍った地面を踏んでしまっては、滑りそうになる。
「ただいま」
 がらがらと玄関扉を開けて、ブーツを脱ぐ。
「啓兄?」
 いつもはすぐに返ってくる、おかえりが聞こえない。炬燵で眠っているのかなと思い、居間に行くが啓兄の姿はない。寝室を覗いてもいない。強烈なデジャブが襲い掛かる。俺は急いで他の部屋の扉を片っ端から開けていく。
 家中を回って、居間に戻ってきても、啓兄はどこにもいない。
 灰色の雲に取り巻かれながら、屋上に立っていた啓兄の姿が脳裏に蘇る。俺は頭を振って、不吉な記憶を振り払う。
 きっと、どこかに買い物に行っているだけだ。すぐに帰って来る。
 そう自分に言い聞かせて、炬燵に入ろうとすると、炬燵の上に一枚の白い紙が置いてある事に気付いた。啓兄の字で何か書いてある。
 俺はそれを手に取って、目を通す。
『周太郎へ
 挨拶もなしに出て行って、ごめん。
 でも、焦らずにちゃんと最後まで読んでほしい。
 俺は今から海に還る。
 あ、ちゃんと最後まで読んでくれよ。』
 手の震えが止まらない。手紙を放り出して、走りだそうとする自分を必死に押さえつけて、先へと目を走らせる。
『周はいつだって自分の事を後回しにして、俺を思い遣ってくれる、自慢の弟だよ。
 今だって、周は俺のために自分を変えようと努力してくれている。
 俺はこのまま周といたら、きっと幸せになれると思う。だけど、俺たちは幸せになっちゃいけないんだ。
 俺は何人もの犠牲の上に立っている。でも俺は、その正確な人数も、それが誰なのかも分からない。怖くて周には聞けなかった。
 俺はその人たちの存在が、ずっと胸に引っかかっているんだ。
 彼らに待ち受けていた幸せな人生は奪われたのに、それを奪った俺たちが、幸せな人生を歩むのはおかしいよ。
 生きていくには背負ったものが、重すぎる。その重圧に、俺は耐えられそうにない。
 周に罪の意識はないかもしれないけど、俺は周の犯したことが、許されることだとは思わない。罪を犯したら、必ず償わないといけないんだ。
 でも俺には、周を警察に突き出すことは出来ない。それに、親父が死んだとき、周の価値観を根本から変えてしまった俺にも責任がある。
 だから、一緒に死のう。
 でも、周はきっと反対すると思うから、俺は一足先に逝くよ。
 ずるい兄でごめんな。
 愛してるよ。
               啓太郎』
 俺は最後まで読み終わるか、終わらないかのうちに、家を飛び出した。
 靴も履かずに、靴下一枚でがむしゃらに走る。靴下に貼りついた雪が体温で溶けて、靴下に染みこみ、冷たさが足裏に突き刺さる。それでも、俺は必死になって足を動かす。
 雪に足を取られて転んでも、すぐに起き上がって走り続ける。
 海岸に辿り着く。海の上には満月が上り、冬の海を青白く照らしている。
 その月明かりが、数メートル先の海の中にいる啓兄を照らし出す。
「啓兄!」
 啓兄は既に腰まで海水に浸かっている。
 俺は砂を蹴って、砂浜に押し寄せる波の中に入っていく。
「啓兄!やめろ!戻ってこい!」
 呼びかけても、啓兄は振り向かずに、どんどん海の中に入っていく。その足取りに迷いはない。
 俺は啓兄に追いつこうと、必死に足を動かすが、ばしゃばしゃと水しぶきが上がるだけで、海水が重たくてなかなか前に進まない。海水は凍てつくような冷たさで、急速に脚の感覚を奪っていく。
 水面はもう啓兄の胸まで来ているのに、俺はまだ膝までしか海に飲み込まれていない。
 啓兄はどんどん海に沈んでいく。
「嫌だ!嫌だ!」
 嫌だ。啓兄がいなくなるなんて、嫌だ。
 どうして啓兄が死ななきゃならないんだ。
 全部、俺が悪いのに。手を下したのは俺だ。啓兄は何も悪くない。どうして、啓兄が責任を感じる必要がある。どうして、啓兄が死ぬ必要がある。
 罪を償えというのなら、啓兄が俺に一言死ねと言えば、俺は喜んで死ねるのに。
「啓兄!待って!」
 啓兄はこちらを振り向いて、いつものようにそっと優しく微笑むと、海に沈んで見えなくなった。水面には無数の気泡だけが残る。
 雲が月を隠して、辺りを闇に染め、俺の視界から気泡をも奪い去る。
 滂沱のごとく涙が溢れて、視界を歪める。
「嫌だ!行くなよ!啓兄!」
 俺は今、初めて人を殺めたことを、心の底から後悔している。罪の代償がこんなにも重いと知っていたなら、俺は最初から誰も殺めなかった。
 だが、今更後悔しても、もう取り返しがつかない。
「啓兄!」
 枯れるまで叫び続けた声が、海に飲み込まれる。暗い海の底に向かって、深く潜っていく。
 啓兄が死ぬなんて嫌だ。
 俺はまだ、啓兄の笑顔を見ていたい。しょうもないことで喧嘩したり、二人で馬鹿な事をして笑い合いたい。これから何十回も続く誕生日を祝いたい。数えきれない程のキスをしたい。どろどろになるまでセックスしたい。駄菓子屋の店先に二人で座って、他愛もない話に実を咲かせたい。よぼよぼになるまで二人一緒に暮らしていたい。
 まだまだ啓兄としたいことが、星の数ほどある。
 肺に溜め込んだ酸素が全身に渡って、どんどん消費されていく。涙が海水と混ざって、泣いているのか何なのか、分からなくなる。
 深く深く潜っていくと、一筋の光明が差した。雲間から月が顔を覗かせ、太陽を反射したその光が、海底に沈みゆく啓兄を照らし出したのだ。
 俺は海水を必死に掻き分けて、啓兄に近づき、抱きかかえる。啓兄は既に意識を失っている。一刻も早く水面に上がらないといけない。
 俺は脚で水を蹴って、月明かりを頼りに水面に出ようともがく。
 苦しい。酸素が圧倒的に足りない。それでも俺は、啓兄を助けようと必死にもがき続ける。
 月が再び雲に隠れた瞬間、耐えきれずに口を開けてしまう。ごぼごぼと肺中の空気が、海の中に逃げていく。代わりに海水が肺を満たしていく。苦しくて咳き込んでも、入ってくるのは海水だけだ。
 身体から力が抜け、水面が遠のいていく。
 薄れゆく意識の中、俺はしっかりと啓兄を抱きしめる。
 俺は啓兄の守り方を間違えた。俺は啓兄の笑顔が見たかっただけなのに、逆に悲しませてしまった。最後の最期でも、俺は啓兄を救えなかった。
 それなのに、啓兄の口元は聖母のような穏やかな半円を描いている。俺は啓兄の耳元に口を近づけて、愛の言葉を囁く。
 ごめんな、啓兄。
 俺は啓兄を幸せにしてあげられなかったみたいだ。
 でも、俺は何度生まれ変わっても、懲りずに変わらず啓兄を愛するよ。たとえ生まれ変わった先に、啓兄がいなかったとしても。
 啓兄も、生まれ変わってもまた俺を愛してくれよ。俺以外を愛さないで。
 啓兄はいつまでも俺のものだ。
 他の誰にも渡さない。
 何度生まれ変われば、次また啓兄に会えるか分からないけれど、俺はいつまでも待ち続ける。
 今度は、必ず幸せにするから、懲りずに俺を愛してくれよ。
 わがままな弟でごめんな。
 愛してるよ、啓兄。
 啓兄がそっと、俺を抱きしめ返してくれた気がした。
 意識と共に、真っ暗な海底に沈みゆく。
 俺たちは、人知れず、海の藻屑となって、消えた。


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