意識が沈んで溶けている間。審神者は夢の中で、師匠と対峙していた。幼い審神者は、まだ小さい体ながら、背筋をピンと伸ばし、姿勢良く正座をして師匠の言葉を聞いている。
『審神者とはお国の為に戦い、生き、死んでいくものである。そこに個人としての煩悩は必要ない。それはいずれ、戦いの為に顕現した刀剣男子を傷つけるものに変わるのだから』
言い聞かせるような台詞。細やかなところは違っていても、審神者はいつも、師匠からそのような意味合いの言葉を聞かされていた。
『友も伴侶も、不要のものである。良いな? 今はとにかく、ひたすらに学ぶことだ。今はまだ未熟だが、いずれはお国の役に立てるようになる。そうしてお国のために戦って死ぬことこそ、審神者の誉れである。分かっているな? お前は特に、皆の模範とならねばならないのだ。気を引き締めなさい』
幼い審神者は、師匠の言葉に一切の迷いなく、頷いた。そしてまだ声変わりもしていない幼い声で、いつものように、凛と口にする。
『はい。お師匠様。ぼくは、決して欲を持ちません。お国に尽くして、お国のために戦います。お国の役に立てることは、ぼくの誉れです』
その言葉に嘘はない。迷いも疑いも、何もない。物心がついたときから言われてきた言葉は、審神者にとって当たり前になってしまっていた。強い意志を秘めた審神者の目を見た師匠は、いつも、満足そうに口角を上げていた。
[chapter:審神者は恋ができない]
「ん、」
ぺちぺちと頬を叩かれて、審神者は目を開ける。ぼんやりとした視界が定まっていく。どこからか雀の鳴く音が聞こえてきて、審神者は朝を迎えたことに気がついた。だが、違和感がある。目の前に広がる緑色は、朝の光景と言うには些か馴染みがない。
「……?」
怪訝に思う審神者はそれが何か頭を働かせようとするものの、寝起きの頭はまともな思考をしてはくれない。何度か瞬きをするものの、緑色は消えない。
「あっ、おきたー。国俊、主おきたよー」
けれど、すぐ近くで聞こえた声で、審神者は誰がそばにいるのかを察した。
「……蛍丸?」
ぼんやりとした思考の中で、間の抜けた声で声の主を呼ぶ。すると目前の緑色が離れていって、やがて蛍丸の綻んだ顔全体が視界に移る。今の今まで至近距離で目をのぞきこまれていたのだと、そこで審神者はようやく理解した。
「おはよ、主。お寝坊さんだね」
そっと、頬をなでられる。くすぐったさを感じて、審神者は目を細めた。審神者の枕側に座って審神者を見下ろす蛍丸は、とても上機嫌だった。
「? おはよう……。……? 蛍丸、どうしたんだ…? こんな朝から」
思考はまだ覚醒しきっていない。寝ぼけた声でそう尋ねると、蛍丸は満足げに目を細める。深く考えぬまま審神者がゆっくりと蛍丸に手を近づければ、それは蛍丸の両の手で包まれて、そのままぴったりと蛍丸の頬に押し当てられる。柔らかく、温かい頬の感触が手のひらから伝わってきた。
「今日は俺と国俊が、護衛係なの。早起きしちゃったから、えへへ、来ちゃった」
「……護衛係、」
言われ、審神者は考えをまとめるための時間を作る。少しの沈黙を抱いた審神者のことを、蛍丸はとても愛おしそうに見つめている。そうして――覚醒して状況を把握した審神者は、申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「朝から、すまない」
「ん、いーよ。だから、起きて。相手してくれる?」
無邪気な笑みを浮かべる蛍丸の言葉に頷いて、審神者は上半身を起こして軽く髪を手でときながら、立ち上がる。そうして蛍丸を見れば、その横で目をキラキラさせている愛染の姿が目に入った。少し照れくさそうに正座をして審神者のことを見上げていた愛染に、審神者は微笑みかけた。
「おはよう、愛染。お前にも、朝から面倒をかけてしまったな」
声をかければ、愛染はぶんぶんと、首がとんでいってしまいそうな勢いで横に振る。そうして鼻息荒く、拳を握って審神者のことを見上げた。
「オレ、すっげえ楽しみにしてたんだぜ! なあ主さん、早く顔洗ってきてくれよ! その間に、オレ布団片づけとくから!」
「俺は、主の髪を梳いてあげる。そしたら、皆でご飯食べよ?」
うずうずしている、という表現がぴったりである。元気が溢れてきているようで、二人の体はソワソワと揺れている。
「……分かった。急いで支度をする」
不謹慎だと思いながらも、審神者は微笑ましい気持ちを抑えることが出来なかった。審神者がそう言うと、愛染と蛍丸はぱっと表情を明るくさせた。
審神者は、己の本丸の、一部の刀剣男子達に、恋い慕われている。
それは審神者にとって、非常によろしくない状態である。もちろん、審神者がそれを良しとすることはない。想いを告げてきた刀剣達には応えられないと返事をしたが、いずれも納得しては貰えず、更にはあと少しで犯される手前までいったのである。
審神者に言い寄る刀剣男子を危うんだ近侍である清光は、審神者のそばに見張りという名の護衛係を二振りつけることを決まりとしたのだった。
(……だが、ここまでしてもらう必要はあったのだろうか)
顔を洗って着替えをしながら、審神者はそんなことを思う。昨日の護衛係は青江と石切丸だった。朝から夜眠りにつくまで審神者の傍にいた二振りだったが、これといって護衛と呼べるような働きはすることがなかった。昨日だけではない。警戒対象になっているだろう、審神者に想いを寄せている刀剣男子が審神者の住む離れに近づくことは、一度たりともなかったのだから。
護衛係などという役目が出来てから、これで、一週間が立った。普段あまり関われていなかった刀剣達と関わることが出来て審神者はそれを嬉しく思うものの、こうして己が引き起こした状況で刀剣男子を振り回してしまっている事実を、同時に申し訳なく思っていた。
しかし、護衛係の役目をなくそうとは口にはしない。審神者は、襟の長い衣服で隠された首に触れる。出血するまで噛まれた跡はかさぶたとなっているが、完全に治ったわけではない。素肌を晒せるようになるまでは、まだまだ時間がかかるだろう。刀剣男子と人の身は、全く違うのだ。例え、同じ作りをした体をしていても、である。
(手入れで一瞬にして治せるのであれば、楽だったのだが……こんなにも皆を振り回して、情けない。何が主だ。非力な自分が、嫌になる)
その上から着物を着て、審神者はスッと目を閉じる。護衛係の気を荒ただせないようにと気遣いで、清光から渡された衣服を、審神者はずっと身につけている。寝るときも、起きている時も。その上から傷跡に触れれば、少しの鈍い痛みを覚えた。首の下に色濃く残されて刻みつけられた跡は、未だ、完全に消える兆しを見せてはいない。
「ねえねえ、痛くない? だいじょうぶ?」
「ああ。心地良いよ」
「えへへ、よかったっ」
櫛で髪を梳かれながら、審神者は目を瞑る。手慣れてはいないらしいが、痛くしないようにと注意を払われていることを審神者はよく分かっていた。多少痛くても痛くないと答えただろう審神者だったが、蛍丸の触れ方はとても優しかった。先ほどの言葉は世辞ではなく、本心からくる言葉である。
「オレもオレも! なあ蛍、次オレだからな!」
「ちょっと待っててよ国俊、もうちょっと〜」
そわそわしながら審神者の横に立っていた愛染は、きらきらと目を輝かせて審神者の袖をくいくいと引っ張っている。審神者の袖を引っ張っても蛍丸が審神者の髪に触れる時間が変わるわけではないのだろうけれど、よっぽど待ちきれないらしい。
審神者の髪に触れたがる愛染の髪は寝癖だろう、ひょこひょこと逆立っている。その様が微笑ましくも面白く思えて、審神者は愛染の頭に手を伸ばした。ふっと、笑みをこぼす。
「寝癖がついてしまっているな」
上から抑えるように撫でつければ、愛染は吃驚したような表情を浮かべて、あわあわと動揺する。審神者が愛染の頭から手を離せば、再び愛染の寝癖はぴょこんと跳ねた。形状記憶。そんな言葉が頭に浮かぶ。
「み、みるなよっ…」
「確かに、今日のはいつものよりスゴいよね〜」
「! 気づいてたんなら言えよな!」
「えーだって、はやく主のところいきたかったし。国俊もそうでしょー?」
「っ……そう、だけどさあ」
隠すように手のひらで頭を抑える愛染に、審神者はふっと笑う。そうして己の膝をぽんと叩いて、愛染に座るように促す。
「おいで」
優しくそう呼びかければ、愛染はかあっと顔を赤く染めて、言葉に詰まってしまう。けれど嫌ではないようで、もじもじとしながら、ゆっくりと、審神者の膝の上に腰をおろす。
「……オレ、けっこう、くせっ毛なんだけど。なおすの大変かも、」
「そうか。確かに、頑固そうな髪質だな」
愛染らしからぬぎこちなさだ。敬語は使わない印象があったが、よっぽど緊張しているのかもしれない。がちがちに固まってしまっている愛染に、審神者はあまり刺激を与えないように、そっと髪に触れていた。
「国俊の髪は頑固だよ? いつもお昼過ぎぐらいまで元気いっぱいだから」
「蛍はだまってろって! そんなにひどくねえし!」
そのやり取りに審神者は微笑む。このようなやり取りが出来るというのも、信頼関係あってのことだろうと思えば、自然と、頰は緩んでしまうものだった。
「痛くないかい?」
審神者がそう問えば、愛染はこくりと頷く。すると、審神者の髪に触れていた蛍丸が、甘えるような声で口を開く。
「次、俺の髪もやってくれる?」
ぎゅっと首元に両腕が回される。審神者は少しだけ視線を背後に向けるように体をよじって、蛍丸と視線を合わせた。
目があうと、蛍丸は少し照れ臭そうに、審神者に向かって甘えるような視線を向けてくる。可愛らしいと思って、審神者は迷いなく頷いた。
「ああ、いいよ」
「やったあ。約束だよ」
言えば、蛍丸はえへへと笑う。そう言って、蛍丸は再び審神者の髪を整え始めた。
「だから、役得だってば。お役目だから誰にも文句言われないし、朝から晩まで主といられるんだもん」
「そーだって! 主さんは堂々としてればいいんだよ。主さんに手を出そうとするやつらが悪いんだからな」
朝餉の膳を持ってきた蛍丸と愛染は、そのまま審神者の部屋で朝食をとる。審神者の前に、愛染と蛍丸が向かい合うように配置された席で、審神者はもう一度、朝から面倒をかけてしまっただろうことを謝罪した。そうすれば、二振りはまた朝と同じような返事をしたのだった。
「しっかし、主さんも災難だよな。厄介なのにばっかり好かれて」
「前から主を見る目は怪しかったけど、爆発しちゃったんだろうね。主はみんなに優しいから、ヤキモチとかすごかったのかも」
「あ、でも、オレは結構ラッキーって思ってるから、気にしないでくれよな主さん!」
「そうそう。主と一緒に居られる時間が増えて、すっごく嬉しい」
魚の塩焼きに卵焼き。味噌汁にご飯。漬け物と、副菜の日替わり小鉢。今日は小松菜の煮付けだった。それらを美味しそうに食しながら、蛍丸と愛染は目を合わせて笑う。
「ほんと、早い内に順番回ってきてラッキーだったね、国俊」
「だな! あの時グーを出して良かったぜ」
愛染はご飯粒を頬につけながら、白い歯をのぞかせて無邪気に笑う。強がっているような素振りは見受けられない。審神者は二振りが本当に気にしてはいないことに安堵して、けれどどこか申し訳なく思ったままでいる。これ以上の謝罪はくどいだけだと思いつつ、それでもまだ謝罪をしたいなどと考えてしまいそうになる。
「……、愛染、じっとして」
喉まで出掛かってきた謝罪を飲み込んで、代わりにそんな風に声をかける。畳に手をつくようにして少しだけ前のめりになると、審神者は頬にご飯粒をつけたままの愛染の頬に手を伸ばすした。
そのまま優しく拭って、少しの間を置いて己の口へご飯粒を運ぶ。手でとってしまったご飯粒をそのまま愛染に食べさせるのは違うと思ったし、捨てるのも勿体ないと考えたからだった。審神者は深く考えずにそうしたのだが、そうしてからやっと、指摘すれば良いだけの話だったと思い直す。
余計なことをしてしまったかと思いながら愛染の様子を伺えば、愛染は顔を先ほどとは打って変わって茹で蛸のように赤くしてしまっている。審神者と目を合わせようとはせずに、下を俯いてしまった愛染は、ぽつりと、小さな声でこぼす。
「……あんがと、」
怒ってはないらしい。良かったと安心した審神者は、ふと、蛍丸から視線を感じて、目を蛍丸に向ける。
「っ!」
そして、驚愕した。先ほどまでついていなかったご飯粒が、蛍丸の頬に五粒ほど、ついてしまっている。片方ではなく、両方の頬にである。審神者は目を丸くして、蛍丸に向けて口を開く。
「蛍丸、頬にご飯粒が……」
「ん、とって」
指摘すればとれるだろうと思って言い掛けた言葉は、蛍丸に言葉尻ごと持って行かれてしまった。審神者は蛍丸が審神者に顔を向けたまますっと瞼を閉じてしまった姿を見て、少し悩んだ末、指を伸ばす。
(愛染と同じように……か?)
間違っていたら、などと考える。その後、間違いではないだろうと己に言い聞かせながら、指先で蛍丸の頬についたご飯粒をとっていく。愛染の時と同じ理論で己の口に運んでいき、最後の一粒をとろうとした時、ぱちりと蛍丸が瞼を開ける。そして審神者がご飯粒を指でとってからすかさず、審神者の指に自身の唇を近づけた。
「っ…!」
そのまま、審神者の指からご飯粒を直接口でとる。ぱくっとご飯粒を口にした蛍丸は、驚いている審神者に、悪戯っぽい笑みを向けた。
「えへへ。驚いた?」
甘えたように目を細め、蛍丸は座る位置をずらして、審神者の席に近づいていく。膳も少しずつずらして、物理的に距離を縮めていくと、審神者はふっと笑みをこぼしてしまう。力が抜けてしまったのだ。こんなにやらしい意味を持たない悪戯が、こんなにも可愛らしいとは。ご飯粒を頬につけていた理由を察した審神者は、柔らかな物言いで口にする。
「……ああ、驚いた。でも、食べ物で遊んではいけないよ」
言えば、蛍丸は気にした様子もなさそうに、口にする。
「主に甘えてただけだもん。ね、今のもう一回やって。もう一回」
「無理してやることではないよ、蛍丸」
推奨は出来ないが、けれど蛍丸の気持ちはうれしかった審神者は、顔を綻ぶのを感じながら、これではいけないと凛とした表情を浮かべようとする。
「けれど、また頬についてしまったのなら、とってあげるから。今はちゃんと食べなさい」
頬を手のひらで優しくなでてから、蛍丸の頭の上も続けて撫でてやる。蛍丸はくすぐったそうにはにかんで「はあい」といつものように、緩い口調で返事をしたのだった。
護衛係がいようとも、審神者の仕事がなくなることはない。もちろん審神者が仕事をしている間は、審神者自身が護衛係の相手を出来るわけではない。では、その間何をしているのかといえば、護衛係によってその間の行動は変わってくるのである。のんびりと書物を読んだり、庭を眺めて居たり、あるいは、昼寝をしていたり。
護衛係の仕事とは、審神者に恋心や下心を持つ刀剣男子から審神者の身を守ること。有事がないように見張ることである。
逆に言えば、有事さえなければあとは何をしていようが自由なのだ。清光も、それらを咎めることは一切しなかった。審神者も、それで良いと思っている。審神者は、例え護衛係が同じ部屋の中で何をしていようとも気にしない。好きにしてくれて良いと思っているのだから。
それに何もしなくとも何もなくとも、例え審神者の仕事の邪魔をしていたのだとしても、同じ空間にいてくれるだけで、審神者は救われるのだ。少なくとも、二人きりになる事態は避けられるのだから。
「おはよ、今日は愛染と蛍丸なんだ?」
朝食を済ませて仕事を始めようという時になって、部屋に近侍である清光が入ってくる。その声に嫌に心臓が跳ねて、体が強ばる。毎日のことだが、審神者はまだ、清光を相手に構えてしまいそうになる。警戒しているわけではない。けれど、どんな顔をしていれば良いのか、分からなくなるのである。
蛍丸と愛染が、清光に元気いっぱいに挨拶を返してから、上機嫌に続ける。
「そうなんだ。朝からいっぱい甘やかしてもらっちゃった」
「護衛係ってやっぱいいよな! 朝から主さんといられてすっげえうれしい!」
「役得でしょー? でも、主の仕事の邪魔はだめだからね。まあ多少騒ぐのは全然問題ないけど……それ以外は、うーん、まあ、のんびりしてて良いからね」
「主に膝枕してほしい」
「それはダメ。主が休憩に入って、しても良いよっていったら、良いけど」
「オレ、主さんと遊びたい!」
「それも、休憩中に、主が良いって言ったらね。でも、主の体力とか、ちゃんと考えなよ?」
そんな会話をしながら、清光はいつものように、以前のように、にこやかに審神者の元へ近づいてくる。そうして、優しい声で、審神者に声をかけるのだ。
「おはよう、主」
審神者は平常心を己の心に言い聞かせながら、何でもないように口を開く。
「おはよう、清光。……今日も、よろしく頼む」
「うん。任せて! がんがん頼っちゃってね!」
にこにこしながらそう言ってのける清光には、無理をしている素振りはみせない。以前、審神者が清光に想いを告げてしまった件から、変わるかと思っていた関係は、さほど変わってはいなかった。
審神者は何でもないように今日片づけるべき書類を確認するように視線を落として、思い返す。未だ慣れずに混乱している脳内を、整理するかのように。
――清光に想いを告げた後の話を。
『やめて。二度と、そんなこと言わないで』
清光に想いを告げて、返ってきた答えはこの一言だった。清光の想いを知りながら、審神者は己が大切にしている理想を貫くために、散々清光の想いを踏みにじるような真似ばかりをしてきた。その上で、清光の想いを拒むことしか出来ない状態で、己の気持ちを吐露してしまったのである。
それは清光の怒りを買い、清光はそれ以上何も言わずに審神者の元を去っていった。
嫌われてしまった。呆れられてしまった。
もはや、近侍でなくなってしまうかもしれない。けれど清光がそれを望むのならば、己にそれを止めるような権利は残っていない。泣けるだけ泣いたあと、審神者は覚悟を決めて、清光の意思を尊重しようとかたく決意をしたのである。
けれど、次の日。何もなかったように、優しい声で清光は審神者に声をかけてきた。
『おはよう。主。今日も一日頑張ろうね』
審神者を軽蔑している様子はない。怒っている様子も。まるで、想いを告げる前の審神者と清光との関係そのままに、演じているようだった。その瞬間、審神者は察したのである。
(なかったことに、したいのか)
ならば、それでも良い。清光がそう望むのであれば、審神者はそれを尊重する。何もなかったことにしよう。己が清光に向ける気持ちも、綺麗さっぱり、なかったことにして、清光が望む、以前のような、過度の触れあいなどない関係に戻ろう。
きっと出来る。清光のためならば、審神者は何だって出来る。そう言い聞かせて、審神者は微笑んだ。
『――ああ。今日も、よろしく頼む。清光』
胸の奥で、重く堅い塊がすっと沈んでいくようだった。重くて息苦しい中、審神者はずっと言い聞かせていた。決して清光にこれ以上の負担を与えてはいけないと、ずっと、ずっと。
(審神者に欲は不要。恋愛感情など、以ての外だ。ずっとそうだったのだから、何ということはない。今までと、何も変わらない)
審神者は欲を持たない。望んではならない。
誰かを愛する必要などない。伴侶はもたず、恋すら不要。
(お師匠様は正しかった……審神者とは、かくあるべきだ。欲を捨て、ひたすら、お国に尽くすべきだ)
この命は、人生は、誰かを愛す為でなく、国の為に死ぬために存在している。それを審神者は忘れてはならないのだと、よくよく己に言い聞かせた。
そう考えているとはいえ、清光と二人きりとなれば、気まずい思いをあっただろう。続いていただろう。現に審神者は、未だ清光相手に緊張してしまうのだから。けれど、護衛係という名の二振りがいつも部屋にいるのだ。朝目覚めてから、就寝前まで。清光と二人きりになることなど、一度もない。それを寂しく思いながらも、審神者はほっとしていた。
清光を困らせなくてすむ。要らぬ気苦労をこれ以上かけなくてすむ。護衛係などという役目を作らせてしまったことに対する申し訳さも確かに存在しているが、それでも、感謝していた。
煩悩を捨てるようにひたすら仕事に打ち込めば、無心で時間が過ぎていく。蛍丸も愛染も、審神者の仕事の邪魔をすることなく、ただ隣で審神者のことを観察しているだけだ。寝ころんだり、座ったりと繰り返して、ただただ審神者の姿を観察して、満足そうに微笑んでいるのだ。
遊んでいても良いのだと言うけれど、審神者のことを見ているのが楽しいから良いのだと答えられる。ならば何も言うまいと、審神者はひたすら仕事に熱中していた。
「……そろそろ、休憩したら?」
「いや、もう少し進める。清光、先に休んでいてくれ」
そうしてどれくらい時間が経ったのか。清光にそう声をかけられて、審神者はようやく顔を上げる。けれど、まだ二、三時間しか経っていないことを確認すると、すぐに書類に視線を戻す。
仕事に向き合っている間は、無心でいられる。ちっとも苦ではない。
審神者はまた仕事に戻ろうして――背後から目を覆われて、びくりと、肩を震わせた。
「駄目だよ、主。休憩はちゃんととって」
そう背後で清光の声がして、塞がれた視界がまた開ける。
顔を上に向ければ、そこでは、清光が審神者の顔をのぞき込むようにして、寂しそうな表情を浮かべていた。
「根詰めて、体壊しちゃったら嫌だよ。だから主。休んで。お願い」
優しい声で、審神者を気遣うように口にする清光。審神者はどきりとして、忙しなく心臓が動き出す音が清光に気づかれるのをおそれて、ふっと視線を書類に落とす。そうして少しの沈黙を置いて、審神者は書類を机の上に置いたのだった。
「……そうだな。少し、休む」
「うん。そうして。もうお茶持ってきてるんだ。今日は良い天気だし、縁側で休もうよ」
外を指さしながら、審神者は寝転んでいた蛍丸と愛染にも目を向ける。
「静かにしてた護衛係には、ジュース持ってきてあげたからね〜」
にっこりと笑ってそう言えば、蛍丸と愛染は、ぱっと表情を輝かせる。
「「ジュース!」」
そして声を揃えて言った二振りに、清光は更に続けた。
「燭台切が差し入れてくれたクッキーもあるよ。おやつはまだ別にあるから、ちょっとだけね。これは、皆には内緒だから」
唇に指先を当てて言えば、蛍丸と愛染はわっと喜んで、待ちきれないと言わんばかりに審神者の腕を片腕ずつ掴んで縁側に引っ張っていく。
「やった! 燭台切のクッキー、オレ好きなんだよなあっ」
「俺も〜。主、俺の分のクッキー、半分あげるからね。あーんって、してあげる」
「あっ! お、オレも! オレも半分主さんにやるよ! あーんてしてほしいなら、別にオレもしていいけど……」
「主の分もちゃんとあるってば。もー」
仕方ないなあ、というように、清光は笑う。その笑顔を見て、審神者は頬に熱が集まりそうになってしまう。気持ちをなかったことにしようとしても、心はすぐに変わってはくれない。清光の笑顔を見ると嬉しくなってしまう。気持ちを誤魔化すように、腕を引いていく二振りを見下ろして、清光を視界になるべく入れないように努めた。
右側を愛染、左側を蛍丸。審神者の体にぴったりと身をつけるように座って二人はジュースと燭台切作のクッキーに舌鼓を打っている。蛍丸は審神者の腕に自身の腕を絡ませながら、愛染は審神者に寄りかかりながら、幸せそうな表情を浮かべていた。
けれどそのお陰で思ったように体を動かすことが出来ないでいる審神者は、清光が入れてくれたお茶の湯飲みを手に持っているだけである。
「はい。主、あーん」
「ありがとう、蛍丸」
「主さん、こっちも、」
「ん、ありがとう、愛染」
時折、蛍丸からクッキーを口に入れられ、それに続くように愛染も審神者の口にクッキーを入れる。審神者に甘えているというよりも、甘やかされているという言葉がしっくりくる。朝起床してからずっと、二振りは審神者の世話を焼きたがっているような気がした。
「主の分もあるっていっているのに……いいよもう、二人で貰いな? 主にいっぱい食べさせてあげて」
若干諦めたような口調で、清光は近くにいた愛染にクッキーが四切れ乗った小皿を渡す。愛染はそれを受け取って、キラキラとした目を審神者に向ける。
「主さん、今度はどっちが食べたいんだ?」
「ああ、いや、それは二人で食べなさい。私はもう十分だから」
蛍丸と愛染の分のクッキーを貰っているので、更に貰うなど忍びない。そう言えば、愛染は悲しそうに眉を下げる。
「……そっか」
愛染の為を思って言った言葉だった。けれど審神者の気遣いとは裏腹に愛染はしょんぼりとしてしまって、審神者は動揺を隠せずにいる。
「いや、欲しくないわけではないのだが……それは二人に食べてほしいんだ。二人の分も、半分以上もらってしまっているのだから」
燭台切光忠のクッキーが美味しいことは、よく分かっている。だからこそ、己ではなく二振りに食して欲しいのだ。そんな気持ちからだったが、言葉が足りなかったとそう続ける。愛染は、審神者の言葉に、小さく目をまん丸くすると、納得したように口角をあげる。
「なんだ、じゃあ、問題ないよな!」
言いつつ、愛染はプレーンのクッキーを審神者の口元に持って行く。
「主さん、ほら、あーん」
愛染は大きな目を満足そうに細めて、そう言う。期待がたっぷり込められたような声だった。そんな風に言われてしまえば審神者は拒むことが出来なくて、ゆっくりと唇を開いた。そこにクッキーを入れられ、審神者はそれを咀嚼して、飲み込む。それを見つめていた愛染は、優しい声で審神者に問いかける。
「美味いよな、燭台切の作るクッキー。主さんも好きだろ?」
自身が美味しいと思うものを、審神者にも上げたい。そんな気持ちが、表情から、声から、雰囲気から溢れ出ていた。審神者は少し気恥ずかしい気持ちで、頷く。あげることはあっても、貰うことはなかった子供の頃を、ぼんやりと思い返す。そうして今の己と比べると、ほんの少し、心がぽかぽかと温かくなってくる。
「――ああ、好きだ」
そう答えれば、満足そうに愛染はニッと笑う。その顔、唇の横にクッキーの粉がついていて、審神者はくすくすと笑ってしまう。それを、朝食の時のように指で拭ってあげれば、顔にまたついていたことに気がついた愛染は、またまた恥ずかしそうに顔を赤らめた。
照れくささを隠すように審神者の膝に頭をのせて顔を見せないようにしてしまった愛染は、うう、と恥ずかしそうに呻いている。審神者はそれを微笑ましく思いながら、愛染の頭を優しく撫でつけた。
「わ、膝枕だ。いいなあ、国俊」
「ちげえって、これは、別にそんなんじゃ……」
「主、俺も膝枕して?」
「ああ、良いよ」
男の膝枕などさして居心地が良いとは思えない。審神者は肉付きの良い方ではないのだから。けれど、される分に関しては特に嫌悪や問題もあるわけではない。この程度のことならば、好きにさせてやりたい。
(小狐丸も、膝枕をされたがっていたな。寝心地も良くないだろうに…)
何故だろう。そんなことを疑問に思いながら、ぽてんと審神者の膝に横向きに頭を乗せた蛍丸の頭も撫でようとして、片手が湯飲みで塞がっていることに気がついた。それを察した清光が、無言で審神者に手を差し出して、それに甘えて審神者は湯飲みを清光に渡す。ついでに、クッキーの皿も回収してくれた。
「えへへ、主さんの膝枕だ〜。小狐丸さんが言ってた通りだ。すっごく、しあわせって感じ」
「……小狐丸がかい?」
「うん。そう。いっぱい自慢してたから」
不思議に思って問いかければ、蛍丸は緩い声で続ける。
「主は小狐丸さんをいっぱい甘やかしてたからね〜。だから、膝枕とか一緒に寝たりとか、いいなあって話してたんだ。ね、国俊」
愛染にそう投げる。愛染は俯せの状態からごろんと体を転がして、審神者に向き合うように横になる。
「……まあ、な。オレたちだって、ずっと主さんと遊びたかったし……」
「甘えたかったし、」
「甘やかしたいし、」
「「とにかく、そばにいたかったよ(な)」」
声を合わせてそう言われ、審神者は、申し訳ない気持ちを抱きながら、二人の頭の上に手のひらを置く。
「……すまなかった」
すると二振りは、嬉しそうに目を閉じた。
「だから、謝らなくていいって」
「いっぱい甘やかしてくれたら許してあげるから、ね?」
頭を撫でる審神者の手にそれぞれ手を重ねて、すりすりと頬擦りをする。それでも申し訳なくて、審神者は眉を下げてしまう。そんな審神者の気持ちを察しているのだろう。二振りは決して、審神者の手を離そうとはしなかった。
「今日は主と一緒にいられるからいいの」
「主さんに話したいことがいっぱいあるしな! いっぱい遊ぼーな!」
そう言う二振りに、審神者は頷いた。
「ああ。そうだな」
肯定の返事。愛染も蛍丸も一層幸福オーラを増して、二人で目をちらりと合わせてから、期待に目を輝かせていた。
すやすやと膝の上で寝息を立てている二振りに、審神者は動けなくなってしまったものの、そう嫌な感情は抱かなかった。起こさないように、頭の上に置いていた手のひらをどければ、あどけない寝顔が姿を見せる。
「主ってば、本当に甘いんだから。それじゃあ、仕事に戻れないじゃん」
困ったようにいいながら、それでもどこか嬉しそうに言う清光は、手を伸ばして愛染の頬を指先でつついてしまう。愛染はむにゃむにゃとこぼしながら、くすぐったそうに身をよじらす。
それを見て、清光はくすくすと笑った。
「主がしたかったのは、こういうことだよね。皆と仲良くなりたかったっていうのはさ、俺たち刀剣男子と恋愛をしたいんじゃなくて、」
そうして、ぽつりとこぼすようにして口を開いていく。
「こんな風にしたかったんだよね。きっと。そうでしょう? 主」
尋ねているようで、既に確信を持っているようだった。審神者はその言い方に、嫌な風に心臓がどきりとした。責め立てられているわけではないのに、どうしてか、胸が苦しくなる。そう言われれば、確かに、清光の言うとおりであるはずなのに。
審神者は、決して恋愛関係を刀剣達と持ちたかったわけではないのである。だから、仲良くなりたいという審神者の意思は、今のような状況のことを指す、であっているのだ。笑う顔が見たい、幸せにしたい。審神者にとって大したことではなくても、刀剣達にとってそれが喜びに変わるのであれば、それは確かに審神者にとっての幸せでもあったのだから。
「……ああ、そうだな」
どこか釈然としない気を感じながら、それでも審神者は清光の言葉に頷いた。けれど、そのまま清光の顔を見ることは出来ず、ただただ、寝息を立てている愛染と蛍丸の寝顔を見下ろしたままでいる。
そんな審神者の背中に、ぽすんと、清光の頭がもたれかかる。
審神者は一瞬にして体を強ばらせてた。護衛係などというものが出来てから、清光と二人きりになることはなかったし、こうしてぴったりと触れる距離にまで近づくことも、なかったから。
「清光…?」
どきどきと、一気に心臓の音が忙しない。混乱する頭とは裏腹に、いけないとは思う理性とは裏腹に、審神者の心は清光との距離にとても喜んでいる。じんわりと、頬が熱くなっていく。早く引き離さなければならない。けれど、離れてほしくない。そんなことを考えて、けれど、審神者は何も言えずにいる。
何か余計なことを言ってしまえば、清光はすぐさま離れていってしまっていく、そんな気がしたのである。
「あのね、主」
そんな審神者の心を知ってか知らずか、清光は何でもないように口を開く。
「――俺のこと、好きにならないでね」
そうして告げられた言葉。審神者の顔からは、一斉に血の気が引いていく。先ほどまで喜びの声をあげていた心は一瞬にして静まりかえって、もはや、声もあげられない。
「それから、誰も選ばないで。ずっとこのまま、俺たちの‘主’でいてね」
泣いたりはしない。もう、十分すぎるほど、審神者は泣いた。そうして決心をしたのだ。清光の望むとおりにしよう。己の心など、どうとでも出来る。振り回して傷つけてしまった償いは、この程度で償えるものではない。だから、審神者は迷わなかった。
ひきつってしまいそうになる口角を無理矢理に吊り上げる。
己の顔など、背後にいる清光には分からないと分かっていても、強がるようにそうしてしまっていた。
「もちろん。私は審神者で、お前達の主だからな。道を違えたりはしない。私は、誰とも恋仲にはならない。……誰も、選ばないよ」
清光がこれで良いのなら、それで良い。それが最善である。だから審神者は迷うことなく、清光に言ったのだ。清光は審神者の肩にもたれかかったまま、小さな声で、ごめんね、と呟いた。審神者はそれに何も答えることなく、聞き流したのだった。
(……嘘をついた)
軋んでいく心。けれど、きっと清光の方が辛い思いをしている。そう考えると、この程度のことは何でもないと審神者は思えた。
自嘲するような笑みを浮かべる。どうせ、背中にもたれかかっている清光には、分からないのだから。
「それから、今日からなんだけど、護衛係の仕事を増やそうと思うんだ」
「……増やす?」
「そう。時間を増やすの」
すりすりと、控えめに背中に頬ずりされる。どぎまぎしそうになる心に困って、離れるように言いたくなった審神者に、清光は続けた。
「今までは、護衛係の仕事って、主が起きて寝るまでの間だけだったんだけど――今夜からは、夜寝るときも、必ず護衛係をそばに置いてほしいんだ。隣で寝るでも、部屋の外で夜警でも、主の好きな方で良いよ」
その提案に、審神者は困惑を見せる。清光が審神者のことを気にかけてくれていることは分かっている。けれど、審神者にとっては、護衛係などという役目などがそもそも受け入れがたいものであるのだ。散々忠告をされた上で犯される手前までいった身であるからこそ護衛係を受け入れてはいたが、そこまで護衛の重荷になるような条件を増やしたくはない。
すぐに受け入れる返事を出すことの出来ない審神者に、清光が付け足す。
「今は皆が皆、薬研とか長谷部とか小狐丸とか、個人的に見張ってくれているから夜は何でもないんだろうけど……いつ誰が夜這いに来るかも分からないのに、無防備に寝てる主をそのままにはしておけないよ」
背中にかけられる体重が増す。前のめりな体勢になりそうになって、審神者は抵抗するように上半身に力を入れた。
「夜這いなどされたことはないよ。そこまでする必要は……」
「あるよ」
背後からかけられていた体重が、軽くなる。そうして、今度は白くて長い指が後ろから審神者の首に回された。襟で隠されている首に向かって背後から絞めるように回された指に、審神者ははっと息を呑む。今し方清光の口から放たれた声は、とても冷たかった。
「俺のいないところで、散々触られてきたんだから分かるでしょ? 主は優しいよ。俺、主の優しいところ、大好き。でもさ、そこに付け込まれて、もう少しで、犯されるところだって、それ聞いた時の俺の気持ち、考えてくれたことある?」
噛み砕いて説明されているようだ。まるで、理解の追いついていない子供に言い聞かせているようだと、審神者はそう感じた。
そろりそろりと、それは審神者の首を包むように触れてくる。そうして、爪紅で色づけられた赤い爪先が審神者の首を、布越しに滑っていくのである。ぞわぞわとした感覚。落ち着かず、審神者は体を強ばらせた。
「……これ以上、皆の負担を増やしたくはない」
己のふがいなさを清光から突きつけられることは、ダメージが大きい。自己嫌悪の気持ちに浸りながら、それでも、そう告げれば、今度は耳元で、清光の声がした。
「駄目だよ」
吐息が、直接に耳に当たる。清光は静かに穏やかにそう告げているのに、どうしてもその言葉は鋭利であったように思える。審神者は肩を上下すると、離れようとするかのように身じろぎする。けれど首に回された清光の指も、耳元に近寄せられた唇から聞こえる声も、離れていく気配がない。
「主。俺、主が他の奴に何かされたら、迷わずそいつ斬るからね。本体も折るよ、必ず。粉々にして、その辺にでも捨て置くよ」
ぞわりと、鳥肌が立つ。審神者は背後から伝わる殺気に、ごくりと唾を呑んだ。唇をきゅっと噛んで、言葉に詰まってしまった審神者の背後で、清光が無理矢理出したような笑い声をこぼす。
「――俺に、そんなことさせたくはないでしょう?」
首に回されていた指が、引いていく。代わりに、審神者の背中に、ぴったりと手のひらが当てられた。耳元からも気配が離れ、また、先ほどのように清光は審神者の背中にもたれかかった。
「お願いだよ、主。守らせて。俺だって、あいつら斬りたくないんだから」
今度は甘く、切なげな声だった。その変わりように、審神者は言いようのない不安を抱いてしまう。
「主は何も心配しなくて良いんだよ。むしろ、皆主と一緒にいられる大義名分が出来て喜んでる。愛染と蛍丸のはしゃぎようだってさ、主はよく知ってるでしょう? 今二人が眠っちゃったのも、昨日、主の護衛係が楽しみでよく寝られなかったからなんだよ」
言われ、審神者は膝の上で眠っている愛染と蛍丸を見下ろした。ぐっすり眠っていてちょっとやそっとのことでは目を覚ましそうにない二人の寝顔をじっと見れば、審神者はどうにも、清光の嘘であるとは思えなかった。
(……私に、そんな価値などないのにな)
良かれと思って、一年間も放っておいた審神者を、主と呼んでくれる。一緒にいられる時間が出来て嬉しいと思ってくれる。屈託なく笑ってくれるし、触れてくれる。幸せなことだ。未熟で半端な己にも、こうして近づいてきてくれる。
けれど、その度に申し訳なくなるのだ。
「……なら、護衛係の承諾を得ているのであれば、受け入れるよ。けれど、もしも嫌だと言われれば、それまでだ。それ以上の無理強いはしない。そこで護衛係の役目は終わりだ。……それで良いか? 清光」
そう言うと、少しの沈黙のあと、背後の清光の気配が離れていく。かけられていた重みも、なくなってしまった。
「もちろん、それで良いよ! 十分!」
声はいつも通りの清光のものだ。けれど、振り返って表情の確認をすることがどうしても出来ずに、審神者は困ったように目を瞑った。清光は今どんな表情を浮かべているのか、見たい。けれど、見たくない、知りたくない。そう思うのである。
「決まり! じゃあ、俺、二人が起きる前に片づけしてくるね。戻ってきたら、仕事の続きだからね、主」
そう朗らかに笑って、清光はかちゃかちゃと音を鳴らしながら、湯飲みと小皿の片づけに入る。鼻歌さえ口ずさみそうなくらいの機嫌の良さとは裏腹に、審神者はずしりと胸の奥が重くなっていく感覚を受ける。
「……ああ、分かった」
何でもないようにそう答えながら、審神者はそっと目を伏せる。
振り返って清光の姿を確認することが、どうしても出来なかった。
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