本丸の刀剣達は、審神者を取り巻く事情を把握している。
故に出来た役目というものが、審神者に恋慕する刀剣達から審神者を守る護衛係であった。
[chapter:審神者は恋ができないA]
審神者は、いずれこの日が来るだろうことを覚悟していた。
ずっと遠ざけていられるわけもなく、審神者自身、そのようなつもりなどなかったのだから。
だからこそ、必ずまた会うだろうことも、分かっていたのだ。
『護衛係がいても気を抜いちゃダメだからね! 隙は作らないように! 甘い考えなんて、絶対持っちゃダメだから!』
それは、近侍である加州清光から耳にタコができるほど言い聞かされた言葉である。以前から審神者に苦言を申していた清光であったが、護衛係というものが出来てからは一層、その回数が増えたような気がする。
清光の中で審神者が迫られると拒めないほどガードが緩いと思われているとして、それは今でも変わらず、むしろ一層目を離してはならないと思われているほど自衛が出来ていないと思われているに違いない。
加えて、遠征に出かける前の日だったこともあり、審神者が辟易するほどに清光は何度も何度も同じ言葉を繰り返していた。どうしても審神者が何かやらかすだろうと、そう確信しているようだった。
(そんなに気が多いように見えるか……まあ、見えるのだろうな。今までの失態を思えば、当然か)
物申したいことならば沢山ある。けれど、今の己には発言力というものは全くないことも自覚済みである。
清光の助言はきちんと聞くべきなのだ。分かっているが、審神者はどこか、未だに納得できない部分があった。ここまで徹底して守られるなど、恥だと思う気持ちも根強い。この相手が敵ならばともかく、身内とも言える刀剣達が相手だというのだから情けないことこの上ない。
「――主。おはようございます」
朝、身支度を整えて食事を済まし、職務にとりかかる前のこと。いつも清光が来ていた時間に審神者の部屋に訪れたのは、へし切長谷部であった。審神者は目を少しだけ丸くして、けれどゆっくりと長谷部を見て、微笑んだ。
「……おはよう、長谷部。今日からしばらく、よろしく頼む」
「はい。必ずや、加州以上の働きをしてみせましょう。何でも申しつけ下さい、主」
頼もしいな。そう言葉をこぼせば、長谷部は少し気恥ずかしそうに目を細める。そうして、甘い視線を審神者に向けると、うっすらと笑みを浮かべた。何も言葉に出さずとも、その視線から受ける熱の意味が分かって、くすぐったくなる。審神者は少し戸惑って、けれど、ゆっくりと唇を開く。
「……こうして会うのは、あの時以来だな」
何事もなかったかのように、とはいかない。以前長谷部と顔を合わせたのは、審神者に想いを寄せる小狐丸と薬研と長谷部がこの審神者の部屋に集まった時以来だ。あれから二週間ほど経ってはいるが、あの時長谷部から告げられた言葉を、審神者は忘れてはいない。どうすれば忘れることが出来るのか、知りたいくらいである。
あの件には触れず、遠征で不在の加州清光の代わりに近侍を勤める長谷部と何でもなかったように、ということは難しい。審神者がそう話を切り出すと、長谷部は、控えめに、はい、と返事をした。
「俺の気持ちは変わっていません。貴方を主と慕い、けれどそれ以上の気持ちもまだ、貴方へ抱いたままです」
長谷部は真剣な眼差しを審神者に向けて、一度、口を閉ざす。
「――愛しています」
改めて告げられた言葉に、ぐっと、審神者は言葉に詰まって、その眼差しから逃げるように視線を逸らす。想定していなかった言葉というわけではない。けれど、やはり慣れない。想いを告げられて嫌悪感を抱き、きっぱりと拒絶する事が出来ていたのならば、そもそもこのような状況になど陥ってはいない。
口を閉ざしたまま沈黙する審神者に、長谷部は小さく笑った。
「すみません。困らせたいわけではないのですが……聞き入れてもらえるかは分かりませんが、主。安心して下さい」
立っている審神者の前に膝をつき、長谷部は頭を下げた。忠誠を誓う臣下のように。そして審神者が抱いたその印象は、決して間違っていたわけではなかったらしい。
「貴方が誰も選ばない限り、俺は決して貴方に手を出しません」
そして顔を上げて、審神者の手を掴むと引き寄せる。戸惑った審神者がそれを振り払うことが出来ない中、長谷部はそっと、審神者の手の甲に口づけた。手が強ばり、手の甲から伝わる長谷部の体温に審神者はきゅっと唇をとじ合わせる。
名残惜しそうに離れた唇が、緩く、弧を描いた。
交錯した視線に、どきりとしてしまう。己の心の弱さが憎く思えた。
「貴方が俺の‘主’である限り、俺は貴方へ変わらぬ忠誠を誓いますよ」
それは、審神者を安心させるためのものだったのだろうか。けれど長谷部の言葉は、まるで、審神者に対する牽制も込められているような気がした。審神者は長谷部の瞳から目を離すことが出来ないまま、けれど何も言葉を発することが出来なかった。すっと目を細める長谷部の目は、審神者をまるで食らってしまうかのような意志の強さを抱いているように思えてしまうのだ。
振り払わなければ。そう思うだけで実行に移せない状態で、長谷部の方が先に審神者の手を解放する。立ち上がり、何でもないように微笑んだ。
「では、早速仕事に取りかかりますね」
「……ああ、頼む」
辛うじて絞り出した声は、どこか不安定だったような気がした。視線の置き場が分からないまま未だ動揺を引きずっている審神者へ、新たに審神者の部屋に足を踏み入れた人物が近づいていく。
「おはよう、主」
「燭台切? おはよう。そうか、今日は……」
「そうだよ。今日は僕と、伽羅ちゃんが護衛係なんだ。まあ、伽羅ちゃんはまだ来ていないんだけど……ほら、あんまりこういうことに積極的なタイプじゃないからね。もしかしたら今日は来れないかも……」
「構わないよ。無理強いなどしない」
自身のことではないのに申し訳なさそうにする燭台切にそう言うが、それでも、燭台切はこの場にいない大倶利伽羅のことを申し訳なく思っているような表情仕草を浮かべたままである。清光は護衛係に必ず二振りをと念を押してはいるが、一振りいれば十分ではないかと思う審神者は、特にこの状況を問題があるとは捉えていない。加えて、この護衛係をどの刀剣がさぼろうとも、罰を与えることは全く考えていなかった。刀剣男士には歴史修正主義者の企みを阻止して歴史を守るために力を借りているのだ。間違っても、審神者の痴情のもつれの尻拭いのためではない。
護衛係の仕事に大倶利伽羅がわざと来なかったのだとしても、何も思わない。審神者の反応は冷めたものだった。
「……ごめんね、主。でも、僕が伽羅ちゃんの分までしっかり見張ってるから、安心してね」
燭台切が責任を感じる必要などない。審神者は困り顔で、けれど何を言っても燭台切が気にしてしまうような気がして、静かに口を閉ざした。そんな審神者の隣で、長谷部が不服そうにぼやく。
「俺が主に手を出すとでも言いたいのか、光忠」
「やだなあ、そうは言ってないよ。むしろ、長谷部くんは安全な方じゃないか。あくまで主に選択肢を与えているわけだし……無理強いしないなら、警戒する必要もないでしょ?」
そんな長谷部に、あわあわしながらそう言ってのける燭台切は、審神者を取り巻く人間関係をどこまで把握しているのか分からない。だが少なくとも、長谷部と審神者との関係については粗方の把握をしているような印象を受けた。
「それとも、長谷部くんを見張っておいた方がいいのかなあ? 主はどう思う? 主は、長谷部くんが危険だと思う?」
燭台切の言葉に裏があるのかないのか、分からないまま、審神者は突然にされた質問に面食らう。質問の返事を審神者がする前に、燭台切は追撃するように更に質問を投げかけてきた。
「ねえ主、長谷部くんのこと、嫌い?」
不安そうな瞳だ。捨てられた子犬のよう、とでも表現すれば良いのだろうか。審神者はすぐに首を横に振って、燭台切の問いを否定する。
「そんなことはない。長谷部を嫌ったことなどないよ」
言い切った言葉に嘘偽りはない。隣で、長谷部が安堵するような息をつく。気配りの出来る燭台切にしては、随分とデリカシーのない質問であると審神者は感じた。燭台切の言葉はそれで終わることなく、追撃は続く。
「じゃあ、好き?」
今度は、言葉に困る。もちろん、好きだ。長谷部のことを、嫌うわけがないと言い切れる以上に好きだと言い切ることは出来る。それは間違いない。
「…そ、れは……」
けれど、今この場で、この流れで口にする‘すき’は、どちらの意味でとられてしまうのかが曖昧だ。審神者が長谷部に向ける好きと、長谷部が審神者に向ける好きの形は違っているのだから。
「……好き、だが」
少し迷った上、審神者はそう口にする。そうして、あくまで刀剣男士として、他の刀と同じようにという言葉を付け加えるかどうかに迷ってしまう。迷ってしまったのは、そんなことわざわざ口に出せば長谷部を無意味に傷つけてしまうことに繋がってしまうだろうと思ったからだった。口にしなくとも長谷部は勘違いなどしないだろうが、それでも念を押して口にするべきか。そうも考えたが、長谷部が傷つくことを思えば、どうしても自然と口を閉ざしてしまうのである。
長谷部がそれを理解していれば、わざわざ口に出さなくとも良い。審神者は、長谷部の様子を伺うように視線を向ける。
「…………俺もです。主の仰る好きとは、少し違いますが」
まっすぐに向けられる視線は今にも溶けてしまいそうなくらい甘ったるいものに変わっていて、審神者は、気恥ずかしさに顔に熱が集まってしまうのを感じ取った。
「――貴方を好いています」
そう言い放って、長谷部は口角を緩ませる。長谷部は審神者の好きの意味をきちんと理解していて、そうして、この言葉である。審神者は強く唇をとじ合わせて、視線を泳がせる。条件反射のように熱の集まる顔を見られたくなくて、長谷部の視線から己の顔を隠すように手で覆ってしまう。
そのまま顔を背けて、平静を装って口を開く。
「……そうか」
肯定はしない。けれど、否定もしない。長谷部は弁えている。審神者が主である内は、一線は越えない。それが分かっているから、それ以上の反応も以下の反応も、審神者は出来ないのである。
そんな審神者の胸の内を知ってか知らずか、ふふっと笑って、燭台切は言う。
「なら、長谷部くんは警戒しなくて大丈夫だね!」
解決といった風に、両手をあわせて言ってのけた燭台切は「あー、良かった」と付け加えた。
「実はね、今日の食事当番の仕込みとか歌仙くん達に任せているんだけど、ちょっと心配なんだよね。少し様子を見に行きたくて……その間、長谷部くんと二人になっちゃっても大丈夫かな?」
何でもないように言われた言葉。審神者は、長谷部と二人と聞いて体を強ばらせる。長谷部に今のところその気がないとはいっても、この空気の中二人きりにされてしまうのは問題がある。焦りを隠すことが出来ずに、それはちょっと……などと口にしようとした審神者に、燭台切は曇りのない笑顔を浮かべて言った。
「護衛係は嬉しいけど、厨房が疎かだと本丸は回らないからね」
そう言われては、念のために残って欲しいとは言えなくなってしまう。審神者の脳裏に、決して二人きりにならないようにと言い聞かせてきた清光の顔が浮かんだ。決して隙を作らないように、二人きりになんて以ての外。遠征に行く前に何度も何度も言われた言葉が延々と脳内で反響していて、燭台切を引き留めようと思うが、けれど、それは言えなかった。
本丸が回らなくなる状態にまでして、そこまでして己の身を守る必要などあるのだろうかと。そう考えてしまっては、それ以上の言葉は紡げなかったのである。
何より、長谷部が相手ならば、少なくとも小狐丸や薬研よりか自制が聞いているはずである。そのはずだ。いや、そうであって欲しい。
(……すまない、清光)
審神者は清光に心の中で謝って、躊躇いがちに頷く。
「……分かった。私のことは気にしないでくれ」
「ありがとう! 美味しいご飯用意するから、期待しててね」
「ああ。いつもすまないな。ありがとう」
「どういたしまして。まあ、でも、抜けるといってもそう長い時間じゃないから、安心してね。薬研くんや小狐丸さんからは、ちゃんと主のことを守るから」
頼もしいが、頷くには少し困ってしまう言葉だった。審神者は眉をハの字に変えた。
「おい。主をあまり困らせるな」
「ああ、ごめんね。そんなつもりはなかったんだけど……じゃあ、ちょっとのんびりしていようかな。実は、読もうと思って本を持ってきてたんだよね。読んでていいかな? それとも、何か手伝う?」
「近侍の仕事は俺だけで足りる。護衛係といっても、有事がなければあとは自由だ。好きにしてろ」
「そっか。じゃあ、お言葉に甘えようかなあ」
そう言って、燭台切は審神者に目配せをしてから、部屋から出ていく。そうして縁側に腰を下ろすと、持ってきていたらしい文庫本を取りだして開く。必然的に部屋には長谷部と二人きりになって、審神者は少し身構えた。
長谷部にその気はないといっても、先ほど出会ってから既に二回想いを告げられている状態なのだから、構えないことの方が難しい。一時間も経っていないというのに、先が思いやられる。
「主」
そっと、横髪を耳にかけるようにして触れられる。審神者ははっとして、長谷部をみる。
「……どうした?」
真っ直ぐと向けられた視線に、肩を強ばらせる。そのまま、頬に触れられた。大きな手のひらがぴたりと審神者の頬に当てられると、長谷部は幾分か低い声のトーンで口を開く。
「顔が赤いですね。熱でも?」
「っ……平気だ」
からかわれているようだと感じた。審神者の頬が熱を持っている理由など、他でもない長谷部のせいだというのに。分かっていて、あえてそのような物言いをするなど、意地が悪いというものである。
そんな審神者の心境まで理解した上だろう。長谷部は、ふっと笑って、付け加えた。
「そんな顔、小狐丸や薬研には見せないで下さいね」
言われ、審神者は気恥ずかしさと居心地の悪さに顔をしかめた。
「意地が悪いぞ、長谷部」
恨めしげに言うが、頬を赤らめて言ったところで効果はないも同然だった。長谷部はどこか嬉しそうな表情で、申し訳ありませんと口にしていた。
仕事は順調。時折、燭台切が席を外すこともあったが、特別長谷部との間に何かが起きることはなかった。途中、休憩を挟んで、また仕事に戻る。審神者は、長谷部が近侍として働くことに少しの不安があったものの、これならば問題はないだろうと判断して、密かに安心していた。
長谷部は審神者に宣言したとおり、露骨なアプローチをすることはなかった。審神者を見る視線も、投げかけられる声も、甘ったるいものに感じこそするものの、それだけである。仕事ぶりは問題ない。むしろ近侍の仕事に慣れ始めており、既に手際が良くなってきていると思うくらいだ。長い間近侍として審神者のそばにいた清光には及ばないものの、短期間でここまで仕事を覚えているという点については、素直に評価せざるを得ない。
「主」
淡々と仕事を片づけながら、審神者は長谷部に呼ばれて顔を上げる。そうして隣にいた長谷部を見上げれば、にっこりと笑って、審神者を見つめていた。なんとなく身構えてしまいそうになる審神者に、長谷部は口を開く。
「もうすぐ八つ時です。切りの良いところで休憩しましょう。そろそろ、当番の者が来ます」
「ああ、分かった」
もうそんな時間か。そう思いながら、審神者は切りの良いところまで進めようと書類に目を戻す。幸い、もう少しで切りの良いところまで進められそうな進捗である。頃合いが良い。
審神者は手元の書類を片づけて、立ち上がる。そうして手を伸ばして背伸びをすると、体がほぐされて幾分か楽になり、気が抜ける。息をついて、ふと、長谷部からの視線に気がついた。
「……どうかしたか?」
何か言いたいことでもあるのかと思ってそう尋ねれば、長谷部は幸せそうな微笑みを浮かべている。今日はずっと、長谷部は機嫌が良いというか、笑顔を浮かべているなと審神者は少し感心した。想い人である審神者と共にいられるから笑顔なのだろうとまでは考えはいかない。そこを鈍いと思われているなどと、審神者は気づいていない。
「いいえ。何でもありませんよ」
そう言われては、この話を続ける必要もない。審神者はそうか、とだけ呟いて縁側に移動する。良い天気だ。おそらく、今日も縁側で食べることになるだろう。
「今日は誰だろうな」
長谷部に問うわけでもなく、かといって、独り言のつもりで口にしたわけでもなく。何気なく発した言葉に、長谷部は静かに口を開いた。
「今日は光忠ですよ」
「そうなのか?」
「はい。最近では、護衛係とおやつ当番を兼ねさせようという動きになってきています。ですので、これからはそうなるかと」
「そうか……まあ、その方が、手間が省けて良いのかもしれないな」
「人数が多いと、部屋には入りきりませんからね。短刀はともかく、太刀や大太刀は図体がでかいですから」
ということは、今は燭台切が来るのを待っている状態ということになるのか。そんなことを考えながら、審神者は縁側に腰を下ろした。すると、その審神者の斜め後ろに控えるように、長谷部は正座をする。さも当然といった様子で。それに気づいた審神者は、己の横のスペースを示すように、手のひらで軽く叩く。
「長谷部。休憩中なのだから、そう畏まることはないよ。おいで」
隣に座るように言えば、長谷部は少し驚いたように目を丸くして、けれど、ぎこちなく頷いてみせる。
そうしておずおずと審神者の横に移動すると、背筋をぴんと伸ばしたまま、審神者のことを見下ろした。
「警戒なさらないのですか?」
「? ……ああ、」
不思議そうに問われ、一拍おいて、その質問の意図を理解する。審神者は眉を吊り上げて、それから困ったように考え込んだ。長谷部が近侍の仕事をしっかりこなしているから、その分仕事に集中ができる。だからこそ、いつの間にか意識していた部分が薄くなってしまったのかもしれない。そう思いはするものの、指摘されても特に危機感は生まれない。
「……しないのだろう? その、私が誰かを選ぶまでは……」
明確な言葉を避けてそう言えば、長谷部は困ったように笑った。はい、と返事をした長谷部は、けれど、その言葉とは裏腹に意味深な視線を審神者に向けている気がした。
「けれど、自惚れてしまいそうです」
審神者がそう感じたのは、間違いというわけではなかったらしい。そう口にして、長谷部は審神者から目を逸らし、庭を見る。そんな長谷部の横顔を見つめながら、審神者は長谷部の言葉の意味について考えた。
「俺は、貴方に拒絶されることも覚悟していました。気が動転していたとはいえ、貴方にあのような無体を働きましたから。加えて、主の優しさに付け込んで言質をとったことも、きっと主に嫌な思いをさせてしまったに違いないと、」
目を伏せると、睫毛が目元にかすかに影を作る。それをぼんやりと見つめながら、審神者は不意に、長谷部が切なげな表情を浮かべた瞬間を確かに見た。
「……ですから朝、例え嘘でも、主に好きだといって頂けて嬉しかったんです。――本当に」
目を閉じて、感慨深そうに続ける。
「あれだけの言葉で、こんなにも満たされるものなのですね」
「長谷部……」
まるで、尊い存在であるかのように告げる。そんな長谷部に、審神者はもやもやとした黒い気持ちを胸の中に感じ取った。
(私にそんな価値はない。……ないんだ、長谷部)
何故、分からないのだろう。何もかも中途半端であるせいで、自身を苦しめているのは他でもない目の前にいる審神者の存在だというのに。にも関わらず、審神者の言葉に一喜一憂することの、なんと愚かしいことだろうか。
それを口に出していえば、長谷部はきっと否定をする。そんなことはないと、審神者が戸惑ってしまうような言葉を並べて、愛を口にすることだろう。それが分かっている以上、余計な言葉を吐くつもりは審神者にはない。
「……気持ちは、変わらないか?」
代わりに出てきた問いはそれだった。長谷部は審神者の言葉に瞼を開いて、その瞳に審神者を写す。そうして、静かに目を細めて、微笑んだ。何も言わずとも、その表情が、視線が物語っている。
審神者は困ったように視線を落として、何を言うでもなく、己の手の甲を見下ろした。
「いつか、幻滅するだろう。私は……お前に想って貰うに値する人間ではない。決して尊い存在ではないし、みっともなく、醜い心も持っている。だから――」
長谷部の気持ちを遠ざけようとして口にする言葉ではない。審神者はそこまで言い掛けて、口を閉ざす。手の甲に重ねられた、己よりも幾分か大きい手のひらのせいだった。それが誰の手のひらなのかなど、考えるまでもない。審神者が手の主である長谷部の方に首を向ければ、審神者の顔をのぞき込むようにした長谷部の顔が、すぐ目の前にあった。
「っ、」
痛いくらいに真っ直ぐな視線に、審神者は口を閉ざしたまま。力を込めて握られた手の感触に、はっとする。
静かに、長谷部の唇が審神者の唇に近づいた。そうして寸でのところで止まった長谷部は、そのまま審神者の肩口に顔を埋めるようにして体重をかけてくる。
突然降ってきた重みを支えるように空いている片手で長谷部の肩を抱き、そのまま背中に腕を回す。
「長谷部?」
何事かと呼びかければ、長谷部は審神者の腰に腕を回して、自身の方へと引き寄せた。審神者は体を逸らすように反応してしまって、咄嗟に逃れようとする。けれどそれは叶わず、長谷部はぴったりと密着するように審神者を引き寄せたままであった。
「……誰でも良い。早く、誰かを選んで下さい」
小さな声だった。けれど、審神者が聞き逃すような音量では決してない。
「そうすれば、俺は貴方を手に入れることができる。こんな、言葉ではなく行動で、貴方への愛を示すことが出来る」
今度は、審神者が聞き取れるぎりぎりの声量だった。
「こんなにも、想っているのに」
もどかしい。そう言っているようだった。審神者はそれを聞きながら、益々申し訳ない気持ちでいっぱいになる。好かれるような、想われるような、そんな言動を長谷部に向けたことなど審神者にはない。
薬研に告げて怒りを買った言葉だったが、それを二度と口にするまいと決めたことだったが、それでも審神者は思うのである。
(その気持ちは、刷り込みのようなものだろうに)
自身を顕現した審神者の霊力に感化されているだけ。無条件で審神者を好ましく思う、その延長線上にある感情。審神者は未だに、そう考えてしまう。
好きだと、愛していると、言われる度に気恥ずかしくなり、そういった反応をしてしまう己の反応にも問題はある。だから皆、可能性があると考えてしまうのだろう。だから、だから。
(どうすれば分かって貰えるのだろう…)
迂闊な言葉で煽るような言葉は吐けない。刀剣男士は、審神者が思うよりも一途なのだろう。何が刺激を与えてしまうのか、審神者には判断がつかない。どのような言葉でなら、目を覚ましてくれるだろうか。納得してくれるだろうか。
審神者は己に寄りかかり、抱きしめる長谷部の背中を、慰め程度に撫でることしか出来なかった。そうしてしばらくして、長谷部は審神者の体を解放して、少しの距離をとる。審神者と目を合わせないように視線を横に向けている長谷部は、失態を犯してしまった後のように表情を暗くしている。
「……申し訳ありません。こんなこと……貴方を困らせるだけだと分かっているのですが」
確かに、主従関係を貫いた行動とはいえない。けれど、そこまで深刻に考える必要はないだろうと、審神者は戸惑う。大したことではない、気にするなと言いたいところだが、そう言ってしまっては、これからも気安く触れられてしまうことに繋がらないだろうか。先ほども、もしも長谷部が止めなければ、あのまま口付けをされていたかもしれないのだ。
しかし、実際されたわけではない。長谷部が審神者にしたのは抱擁くらいであり、ならば、なんということもない。そういう考えはやはり甘いだろうか。
「……長谷部。あまり、……」
悩む審神者は何と言葉をかければ良いのか分からず、妙なところで言葉を途切れさせてしまう。審神者は困って、しかし長谷部が肩を落として消沈している様を見て、とにかく何か言葉をかけなければと焦りを抱いた。
「……お前を、嫌うことなど有り得ない。長谷部」
離れてしまった距離を縮めるように近づく。そうして、そっと長谷部の頬に手を伸ばした。優しく撫でれば長谷部の顔は強ばって、目に見えて緊張してしまう。
「そんな悲しい顔をしないでくれ」
気持ちに応えることも出来ないのに、そう願ってしまうことは傲慢だろうか。審神者は迷いを抱きながらもそう口にする。長谷部はじいっと審神者に縋るような視線を向けて、自らの手を、審神者の手に重ねた。
「……はい」
そう言うものの、どこか切なげに審神者を見つめるまま。その瞳の奧に、審神者に対するどんな感情が隠れているのか、審神者は察することが出来ようとも断定することなど出来はしない。
「主。どうか……もう一度、言って頂けませんか?」
「……? 何をだ?」
甘えるような口調で言われ、審神者は優しく聞き返す。何を言って欲しいと言っているのか分からないが、それが長谷部にとって救いになるというのであれば、できるだけ力になりたい。望むようにしてやりたい。そう考えてしまう。
「好き、と」
それだけの言葉を口にして、長谷部は不安そうな視線を審神者に向ける。吐いた言葉は飲み込めない。長谷部は、実際に口に出してしまった以上、審神者の反応を伺うしかないようだった。
「いえ、決して、無理強いするつもりはないのですが……」
審神者は困惑し、唇を開いては、何も吐き出せないまま閉ざしてを、二、三度繰り返す。長谷部が期待しているものが本当にその言葉だけなのか。それともそれ以上のものを望んでいるのか。後者は間違いないだろうが、先程の会話を思い返せば、長谷部がただ単純に審神者に嫌われていないという確証が欲しいだけという可能性も捨てきれない。
「……お前と同じ気持ちではない。私は、皆に向けるものと同じような気持ちで、」
「構いません。それでも、十分です。今の俺には」
審神者の手に重ねていない方の手のひらが、審神者の頬に当てられる。お互いの顔に手のひらを当てている状況を、審神者は妙に意識をしてしまう。
審神者は少し迷った挙げ句、己の頬に伸ばされた長谷部の手首に指をかけるようにして触れる。熱い温度が指先を伝わり、その温度が長谷部からの愛情表現にすら思えてきて、己の考えに辟易する。
つられて熱くなる頬に、必死に平静を装おうとして抗うものの、効果はあまりないようだった。
「……すきだ」
小さな声だった。親しみこそあれ恋愛感情などないというのに。これではまるで、審神者が長谷部を意識しているようではないか。きちんと前置きして口にした言葉ににも関わらず、そんなことを考えてしまう。同時に、己がとても、罪深いことをしているかのような錯覚をも受けてしまった。
「長谷部、好きだ」
今度は、目を見て言うことが出来なかった。目を伏せて長谷部の視線から逃げてしまう。早くこの会話を終わらせてしまいたい。否、終わらせてしまわなければならない。審神者は長谷部の手首を掴んでいた手を離し、同時に長谷部の頬に当てていた手のひらも引く。途中で捕まることのなく手元に戻ってきた手をもう片方の手で掴んで、審神者はこの空気に耐えきれず、長谷部の顔を見ることも出来ずにいた。
長谷部は何も言わない。直接長谷部をみない審神者には、感情などさっぱり分からない。長谷部の顔を直接確認すればいいだけだと理解していても、それができないのだ。今長谷部の顔を直視してしまえば、余計に意識してしまいそうな気がしていたからだった。
「……遅いな、燭台切。少し、様子を見てくる」
この場を逃れるための話題。それを求めてたどり着いたのは、おやつ当番でもある燭台切の存在だ。一度、長谷部との二人きりの空間から逃れなければ、この空気がどのように変わってしまうのか審神者にも分からないのだから。
「いえ! 主、だったら俺が――」
立ち上がろうと床に膝をついていた審神者の腕を、視界の外から伸びてきた長谷部の手に掴まれた。予想にもしていなかったその手の力強さに、長谷部に背中を向けていた審神者の体はいとも容易くバランスを崩してしまった。
背中から倒れていく体。踏ん張ろうにも、片足だけではうまくいかない。悲鳴を上げる暇もなく、そのままバランスを崩して床に叩きつけるしかなかった審神者の体を咄嗟に抱え込むようにして抱き留めたのは、もちろん長谷部だった。
礼儀だの何だのを考える暇もなかったのだろう。当然のように、長谷部は審神者を背後から抱きしめるような形で受け止めていた。審神者の腹部の前で交差された腕は力強く、決して審神者のことを離そうとはしていなかった。
「っ……すみません。主」
耳のすぐ近くで申し訳なさそうに言われた謝罪。審神者はその近さに驚きながらも、口を開く。
「いや、こちらこそ、すまない」
何に対して謝っているのかも自分では理解してはいない。冷静に考えれば謝る必要など審神者になかったというのに。審神者の頭の中は、軽く混乱している。密着したくてしている状況とはいえないのだろうが、相手に問題がある。背中に密着している胸板から忙しない心臓の鼓動が聞こえてくるような気がする。果たしてそれは、審神者の気のせいだったのだろうか。
「……長谷部?」
離れて欲しい。審神者の体を解放する素振りを見せない長谷部に、審神者が様子を伺うように名を呼んで、ゆっくりと顔を長谷部に向けようと動く。審神者を受け止めた衝撃で、どこかを痛めたのかもしれないと小さく不安が過ぎったのである。己を拘束するように腹部に交差している長谷部の腕に手を重ねて、審神者は長谷部のことを見上げた。
そこには、痛みに苦しんでいるような表情を浮かべていた長谷部の姿はなかった。代わりに、熱に浮かされているような、苦しそうな表情を浮かべる長谷部の顔が、審神者の顔のすぐそばにあった。
「……主」
腹部に回っていた腕の一本が、離れていく。代わりにその手は審神者の顎に伸びて、指先でくいと持ち上げてしまう。その動きはまるで、角度を調整しているかのようだった。何を行うための角度か、察するには時間はかからない。じっと、熱の籠もった瞳が審神者を見下ろす。その熱が何を期待して、何をしようとしているのものなのか。審神者は、小さく掠れた声で口を開く。
「っ…まて、だめだ、」
焦りが先行する。言いながら、顎を持ち上げる長谷部の手を掴んで引き離そうとするが、とても、間に合いそうになかった。長谷部がしないと決めなければ、意味がないのである。どれだけ審神者が拒否しようとも、意味がないのだ。
燭台切を、護衛係を、どこかへ行かせてはいけなかった。審神者の後悔はもう既に遅い。
は、と吐息が唇に当たる。そのまま、長谷部の唇が審神者のものに重なりかけた時――長谷部の額に、とんでもない速さで何かが直撃した。そのまま反射的に目を瞑った審神者は、次に目を開けた瞬間に視界に写った光景に驚きを隠せなかった。
「――長谷部? 長谷部、大丈夫か?」
審神者が目を開ける前にゴトリと乱暴に床に落ちていった音の正体は、湯飲みだった。それと床に背をつけるような形で倒れてしまっている長谷部の額は、痛々しいくらい赤くなってしまっている。状況をよく理解できないまま、審神者は長谷部の顔をのぞき込む。理解できたのは、飛んできた湯のみが長谷部の額のど真ん中に命中していたことだけである。
「〜〜っ、だ、いじょうぶです。問題ありません」
審神者に隠すように額を抑えながら、長谷部が顔をしかめたまま上半身を起こす。怒っているような、悔しそうな、そんな表情だった。審神者は長谷部の前髪をかきあげるようにして、額を観察する。既に青黒くも色を変えつつあるそれに、審神者は眉間にしわを寄せた。もはや長谷部に先ほどされかけた行為などとうに頭の片隅へと追いやられている。
「手入れをしよう。立てるか?」
審神者の本丸は、軽傷だろうが関係なく手入れはする方針である。このまま放っておくわけにもいかない。そう声をかけた審神者に、長谷部は首を横に振った。
「いいえ、大丈夫です」
「何を言う、放っておいても直らないのだから」
「放っておけ」
審神者でもない、長谷部でもない。この場にいるはずのなかった存在の声に、審神者は驚き、顔を向ける。
「そのまま頭を冷やしてこい。……手入れはその後だ」
そこに立っていたのは、酷く不機嫌そうな表情を浮かべる大倶利伽羅だった。そしてその横には、湯飲みや菓子ののったお盆を片手で持った燭台切が、空いた手で額を抑えている。あちゃー、と、声が聞こえてきた。
「大倶利伽羅……燭台切も、」
何故ここに、は燭台切に対してはおかしいだろう。この場にいると思わなかった相手は大倶利伽羅のみだ。確か護衛係ではあったが、ここに来るつもりはなかったと聞いていたというのに。
ずかずかと距離を縮めてきた大倶利伽羅は、そのまま長谷部の胸ぐらを掴んで睨みつける。
「――話がある。光忠、お前もだ」
有無を言わせない迫力だった。「……だよね、うん」と燭台切が言い、長谷部はぐっと黙り込むように唇を噛みしめ、大倶利伽羅に促されるまま、従うように立ち上がる。
「すみません、主。……少し席を外します」
「それは良いが、待て、手入れをしてから」
「後だと、言っているだろうが」
ぎろりと大倶利伽羅に睨みつけられて、審神者は思わず一度口を閉ざす。けれど、引くわけにもいかない。すぐさまそうはいかないと口にしようとして、今度は長谷部に止められた。
「ありがとうございます。ですが、今回は大倶利伽羅に理がありますから」
格好悪いところを見られてしまった。実際そう考えているかのように、長谷部は審神者と視線を交えようとしなかった。額を隠すように覆ったまま、歩いていってしまう。
状況が今一理解出来ていなかったが、徐々に状況を読み込んでいく。
けれど全てを言葉にまとめない内に、大倶利伽羅が長谷部と燭台切を連れ去ってしまう。必要以上の言葉で語りはしなかったものの、大倶利伽羅の背中からは怒りがにじんでいた。
「ごめんね、主。これ、食べてて良いからね?」
言って、燭台切が置いていったお盆の上には、二人分の菓子と、一人分の湯飲み。それを見て、審神者は床に転がる湯飲みを見る。手にとってみれば、割れてこそいないものの、湯飲みは欠けてしまっていた。
「申し訳ありませんでしたっ……!」
しばらくして、大倶利伽羅を背後に控えさせながら戻ってきた長谷部と燭台切は、審神者に向かって勢いよく土下座をしてきた。長谷部の威勢の良い声が辺り一帯に響きわたる。審神者はそれを目を丸くして見下ろし、我に返ると、慌てて長谷部と燭台切の傍に近づいていく。
「主に手は出さないと言ったというのに、俺はあんな……」
目の前に膝をつく審神者に、顔を上げないまま長谷部はそう続けた。畳に額をこすりつけるような姿勢に、審神者は長谷部の両肩を掴んで、焦り声で口を開く。
「土下座などしなくて良い…! 燭台切も、」
「しかしっ、」
「良いと言っているだろうっ。頼むから止めてくれ」
言えば、そろそろと、燭台切は顔を上げて、続くように長谷部も顔を上げる。
「……ごめんね、主。全部、僕のせいなんだ。長谷部くんは悪くないんだよ」
正座をしてそう口にする燭台切は、この中で一番体格が良いにも関わらず小さく見える。そう感じてしまうのは、燭台切が申し訳なさを一等強く感じているからだろうか。
「……お前だけのせいでは」
「良いんだ長谷部くん、僕が先走っちゃったせいだから。護衛係だったのに、仕事を放棄したりなんかして……」
「俺の為だろう。なら、責任は俺にある」
「違うよ! 僕が、」
「おい」
延々と続きそうなやりとりを窘めるように、長谷部と燭台切の背後で腕を組んで仁王立ちしていた大倶利伽羅が黙らせてしまう。その様子に力関係を感じながら、審神者は長谷部に体を近づけた。
「とにかく、話はあるなら後で聞く。長谷部、額を見せてくれ」
「いえ、これは俺の自業自得なので、」
「駄目だ。大人しくしなさい。すぐに済ませる」
大倶利伽羅に湯飲みを投げつけられた跡は、痛々しい。人の身と比べて頑丈だとはいえ、痛みを感じないわけではない。刀身が傷ついているわけではない状態であれば、少し霊力を分け与えるだけで、十分回復は出来るはずである。審神者は長谷部の頬を包むように両手を当てて、引き寄せる。そうして真っ直ぐと長谷部を見つめると、今度は額に右の手のひらを当てた。
手入れに必要な資材は、審神者の持つ霊力で左右される。
霊力が微少ならばその分多くの資材を手入れに必要とするが、逆に使える霊力が多いのならば、必要な資材は少なくて済む。審神者は、霊力も量も、そのコントロールも十分に兼ね揃えていた。刀身に触れない手入れは初めてのことだが、出来ないかもしれないという不安は全くない。
己の持つ霊力を長谷部に伝わせ、注ぐ。目を瞑って、審神者は霊力操作に意識を集中する。そして手入れを完了させると、審神者はゆっくりと瞼を開いて、長谷部に微笑みかける。
「……もう、痛くはないか?」
確認するように問えば、長谷部は一拍置いてから、はい、と上擦った声で呟いた。これで手入れは完了したと、審神者は少し間を空けて正座をして、並んで座する燭台切と長谷部に向かいあう。
「……それで、その、」
話の続きを、と考えるものの、どこから突っ込んで良いのか分からない。
「…………」
審神者は迷った末に、視線を大倶利伽羅に向けた。
「大倶利伽羅、話を聞かせてもらっていいかい?」
とんでもない威圧感である。凄みがあるとは、きっと大倶利伽羅のこの様子を指すのだろう。そんなことをぼんやりと思いながら、審神者は質問を投げかける。大倶利伽羅は審神者の問いに、眉間に寄せていた皺を増やしてより深いものに変化させていく。
「……俺は、護衛係だった。だが今日は他の者と護衛を代わることになったと聞いて、来なかった」
それを聞いた審神者は、小さく目を丸くした。
「……そうだったのか? 聞いていた話と違うな」
そう呟くと、今度はすまなさそうに肩を落としていた燭台切が、そろそろと右手を挙げる。
「僕のせいなんだよ。なんとか、長谷部くんと主を二人きりにしたいと思って、それで、伽羅ちゃんに嘘をついちゃったんだ……」
しゅんとしている燭台切は、今にも泣いてしまいそうな潤んだ瞳を審神者に向けて、続けた。
「護衛係なんて見張りがいたんじゃ、長谷部くん、いつまでたっても主と仲直りのきっかけを作れないかもしれないって思ってさ」
「……喧嘩をしているわけではないよ、燭台切」
「うん、分かってる。でも、長谷部くん、主にひどいことしてしまったって、すごく後悔してたからさ」
まあ、酷いことといえば酷いことかもしれない。そんなことはないよと返事をすることができないまま、審神者は困り顔を浮かべる。
「心配だったんだ。でも、余計なことしちゃった。まさか、あんなことになるなんて……僕の配慮が足りなかったんだ」
益々反応に困る。審神者は視線を長谷部に向けて、長谷部がいたたまれなさそうにしている様に、胸が痛んだ。話している方も聞いている方も、誰一人として幸せになっていない感じがとても気まずい。
「……申し訳ありません。如何様な罰も、受けます」
絞り出したような声で口にする長谷部に、審神者は苦い表情を浮かべて、ゆっくりと首を横に振る。
「罰など与えない。既に額に湯飲みを貰っただろう。もう十分だ」
そっと、前のめりになるように、畳に手をついて、長谷部に手を伸ばす。頭の上に手のひらを置いて、わしゃわしゃと撫でると、長谷部は驚いたような表情を浮かべた。そしてその後、くすぐったそうな、気恥ずかしそうな表情に変わっていった。審神者の言葉に、幾分か安心したらしい。
それを確認して、けれど言わねばならないことだと、審神者は気まずそうに続ける。
「……ただ、あのように触れられるのは困る。だから、今後あのようなことは……」
燭台切と大倶利伽羅もいる手前、具体的なことは言えない。審神者は小さくなっていく声でそう言いながら、やがて一度口を閉ざしてしまう。
そうして思い出してしまう。己を見る長谷部の視線と、伝染していく熱を。三振りの視線が己に集まっていることも関係して、審神者は言葉に迷った。
「とにかく、あのようなことはないように、気をつけてくれ。私も、その、お前の主として、不適切だった」
この話を早く終わらせたい一心だった。審神者は今度は、燭台切に目を向けて、距離を詰める。そうして今度は燭台切の頬を包むようにして、顔をのぞき込んだ。
「お前にも、気を遣わせてしまったな。すまなかった。だからもう謝らなくて良い。もう気にするな」
そう言って、審神者は微笑みかけた。
「長谷部のことは嫌わない。長谷部が望む限り、私のそばにいてもらう。だから、あまり気負うことはないよ」
言ってから、審神者は燭台切から手を離して、また座り直す。燭台切は安心したように息をついて、ぎこちなくではあるが笑みを浮かべた。
「主は優しいね……長谷部くんは、そういうところを好きになったのかも」
「おい光忠! 余計なことを言うな…!」
ぽつりと呟く燭台切に、いたたまれないように顔を赤らめた長谷部が物申す。その二振りのやりとりを聞きながら、審神者はふっと笑った。面白くて笑うのではなく、自嘲するように。
優しいのではなく、甘いのだろう。中途半端なだけ。それだけのことだ。二振りに否定の言葉を吐くことすら出来ずに、審神者は今度は大倶利伽羅に目を向ける。大倶利伽羅は審神者のことを、まるで品定めでもしているかのようにじっと見下ろしていた。
「大倶利伽羅、有り難う。私のせいで、手間をかけさせてしまったな」
「……自惚れるなよ。光忠の様子が可笑しかったから、様子を見に来ただけだ」
「それでも、ここまで来てくれたじゃないか。嬉しいよ。お前には、あまり、その……好かれていないかと思っていたから」
おやつ当番は、皆に順番に回ってくる。けれど望まない者については、その限りではない。希望しなければ、他の刀剣男士に順番を譲るか、自分を抜いて順番を回すかのどちらかになる。大倶利伽羅は審神者と関わりを持とうとはしていないようで、おやつ係として審神者の元に来たことはない。それを寂しく思うものの、審神者はそれに何を言える立場ではなかった。それではあまりに、勝手が過ぎるというものだ。
だから、今日のように、どんなきっかけや形だったとしても審神者に気を遣ってくれたという事実は嬉しかった。おそらく湯飲みを長谷部に投げつけたことも、審神者の身を案じたからだろう。決して褒められた行為ではないが。
「だが、湯飲みを投げつけるのは良くないよ。だから――…」
湯飲みを投げるのはやりすぎだ。だが、原因を作ってしまった審神者には、それを叱ることなどできない。けれど、この調子で湯飲みを投げる者が他に出てきても困る。抜刀しないだけ平和的だといえるかもしれないが、どんな形であれ、暴力は良くないのだと審神者は考える。
「――…投げつける相手は、今度は私にしなさい」
だから、少し考えた末に、そう続けた。その審神者の言葉に、大倶利伽羅は小さく目を丸くする。
「あの状況になった責任は私にある。私のせいで刀剣達が傷を負うのは見たくない。だから次からは私に投げなさい。少なくとも、それで場は収まるだろうから」
そう言い終わったとき、大倶利伽羅はあからさまに顔をしかめてみせた。
「なにいってるの! 主が伽羅ちゃんの力で湯飲みぶつけられたら死んじゃうよ!?」
「そうです主! そんなことを軽々しく口にするのはおやめ下さい!」
必死の形相だ。掴みがからんばかりに審神者に詰め寄った二振りに、審神者は困り顔を浮かべてしまう。
「……だが、お前達が傷つくより良い」
そう言えば、二振りは顔を青くさせていた。二振りそろって言葉を失っているようで、見かねたらしい大倶利伽羅が、大きなため息をつく。
「アンタは傷つけない。俺たちの主だ。一応はな」
そう言ったあと、大倶利伽羅は何か言い足そうな視線を審神者に向けていた。けれどそれ以上は、何も口にすることなく、また、再びため息をついた。
[newpage]
護衛係の仕事は夜、審神者は寝てからも続く。最初は審神者が眠るまでだったが、最近、そう変化していった。近侍である清光の案である。寝ている間も、審神者には護衛をつけるべきだと考える清光は、ひたすらに審神者の身を案じていた。審神者はそこまでしてもらうことはないと考えていたが、加州清光の言葉には逆らうことができない。惚れた弱み、とでも表現すればいいのだろうか。
だが、審神者もこれについては条件をつけた。審神者が眠っている間の護衛については、護衛係がそれでも良いと言った場合に限ってのことだと。だから、休みたいと思う者、審神者の傍で休みたくないと思う者については、夜景も添い寝も必要ないということだ。
それを、審神者は燭台切にも大倶利伽羅にも伝えていた。
だからこそ、大倶利伽羅が審神者の傍を離れようとしなかったことは、意外というほかなかったのである。
「面倒見が良いんだな」
入浴を済ませて寝間着に着替え、布団の準備を終えて、それでもまだ審神者の部屋の外に座り込んでいた大倶利伽羅の元へ行く。そうしてそう声をかけると、大倶利伽羅は審神者のことを一瞥して、何も言わないままに視線を庭に向けた。審神者は特にそのことを気にすることなく、大倶利伽羅の隣に並ぶようにして座る。
「今日はすまなかったな。護衛係など、退屈だっただろう?」
壁に背をつけて、審神者は庭を見る。大倶利伽羅と同じように。
結局あれから審神者が仕事を再開した後も、大倶利伽羅は姿を消したりはしなかった。部屋の外に座り、近侍の仕事をこなすへし切長谷部を監視していたようだ。へし切長谷部といえば、うっかり審神者に手を出しかけたことがよっぽどショックだったらしい。どこか元気がなく、けれど近侍の仕事はきっちりとこなしていた。
燭台切もやはりショックはあったようで、大倶利伽羅の隣に並んで座り、こちらもまたどこかシュンとしていたように思えた。そこまで落ち込まれては、審神者はもう何も言うことも出来ない。言うつもりもなかったが、励ますことも難しい有様だった。
一体、二振りを連れ去った大倶利伽羅がどのような話をしたのか。それは教えてはもらえなかったが、検討はつく。それも含めて、審神者は意外だった。てっきり、大倶利伽羅は審神者がどの刀剣男士に手篭めにされたところでさして関心を持たないだろうと思っていたからである。慣れ合うことを嫌っている大倶利伽羅にここまでさせてしまって申し訳なく思うが、反面、審神者はそれを嬉しくも思っていた。
「護衛の役目はここまでで良いよ。有り難う」
だからこそ、もう十分だと思った。今まで夜這いなどされていないし、そう言った意味で一番危うい存在であるだろう小狐丸は、現在清光と共に遠征にでているのだから。寝込みを襲われることを全く危惧していない審神者は、軽い口調でそう言った。
「……護衛係の仕事は、翌日の護衛係と交代するまでだと聞いたが」
「ああ、護衛係が望めばの話だよ。嫌がるものには、そこまでさせなくて良いことになっている。もう随分と温かくなってきたとはいえ、夜は冷えるからな。だから、もう良い。十分だ」
そう言ってのける審神者に、大倶利伽羅は舌打ちをする。気に入らないというような視線を向けて、そして吐き捨てるような口調で告げる。
「随分と余裕だな。この期に及んで、まだ襲われないとでも思っているのか」
そうして、無遠慮に伸びてくる手は、審神者の胸ぐらを掴んで引き寄せる。近い距離で見た金色の瞳に、審神者は小さく目を丸くする。
「……昼間はあんなところを見せてしまったが、あんなこと、頻繁にあるわけではない。小狐丸も今は出ているしな、寝込みは流石に襲われないよ。何も問題はない」
大倶利伽羅の怒りは、おそらく、不甲斐ない審神者に対して抱かれているものだろう。審神者はそれを分かってしまったからこそ、大倶利伽羅に対して申し訳なく思った。審神者の言い分を聞いた大倶利伽羅は、はあ、と小さくため息をつく。
「問題ない、か」
そして、試すような口調で審神者に言った。
「……なら、逃げてみろ」
言い終わるかどうかの内に、審神者の胸ぐらを掴んでいた大倶利伽羅の手に押され、そのまま床に押しつけられた。素早く力強いそれに抗うことが出来ないままあっという間に床に背中をつくと、素早く大倶利伽羅が上乗りになってきた。
咄嗟に大倶利伽羅の手を引き離そうと動いた審神者の手首を掴み、大倶利伽羅は床に縫いつけるように押し当てる。片手だけでなく、両手をそうされた審神者は、一秒も経たない内に、身動きがとれなくなってしまう。
己を押し倒す大倶利伽羅の瞳は、影にかかってよく見えなかった。
「……何の冗談だ、大倶利伽羅」
言えば、手首を拘束する力が強くなる。ぎりぎりと軋むのではないかと感じるような力加減に、審神者は顔をしかめた。あまりに突然の出来事に、どんな対応をして良いのか分からない。悪ふざけとして窘めるべきか、怒るべきなのか。
「退きなさい」
「命令するな。自力で退かせてみろと、言っている」
「大倶利伽羅」
「問題はないのだろう? 寝込みを襲われようと、平気なはずだ」
そんなことは言ってはいない。けれど、先程の審神者の言葉を大倶利伽羅はそう解釈したらしい。それで機嫌を悪くしているのだと察した審神者は、先程の言葉を撤回しなければ大倶利伽羅が退くことはないだろうと察して、困り顔を浮かべた。
試しに大倶利伽羅の手の拘束から逃れようとする。だが、全くもって歯が立たない。逆に、ぎりぎりと拘束が強まっていく始末だ。血流が止められそうだと感じる力に、審神者は眉間にしわを作った。そんな審神者を、大倶利伽羅は無言で見下ろしている。
「……分かった。言い方を変える。今夜私を夜這う者はいないから、問題ない。襲われないから、平気だと言っている。決して、自分の力を過信しているからではない」
審神者は、一度口にすることを躊躇い、けれどそうもいかないのだろうと諦めて、口を開く。
「力では、私はお前達には叶わない。無理強いされてしまえば、私の抵抗など、あってないようなものだ」
主として、情けない言葉である。この状況も相余って、審神者は穴があったら入りたいくらい恥ずかしく思った。
「……もう、良いだろう? 離してくれ」
「………」
「……大倶利伽羅?」
もう十分なはずだろうと、解放して貰えると思っていた審神者は、いつまで経っても上から退く気配のない大倶利伽羅を怪訝に思う。そっと見上げれば、大倶利伽羅は、淡々とした声で口を開いた。
「言霊は、使えないのか? 審神者にはその力があるはずだろう」
その言葉に、審神者はぱちぱちと瞬きを繰り返す。このタイミングで大倶利伽羅の口から、そのような言葉が出てくることに素直に驚いたのである。そしてその返事をしてしまえば、大倶利伽羅が呆れるだろうことが簡単に想像が出来て、自嘲するように笑ってしまう。
「言霊は使い道を違えれば、取り返しのつかないことになるからな。極めるつもりもなかったし、訓練も放棄した」
「……なんだ、それは」
「後悔はないが、極めていたら、今、このようなことにはなっていなかっただろうな」
言葉に霊力を乗せて、操ること。それは刀剣男士に対して審神者が最も効力を発揮する能力である。だが、審神者はその能力を伸ばそうと思ったことがただの一度たりともなかった。刀剣男士を傷つけかねない能力など不要だと、あえて身につけなかったといっても過言ではない。
ある程度は必要なものであると、誰に何を言われようとも、審神者は決して聞く耳を持たなかった。
というのも、刀剣男士に無体を働く審神者のほとんどが、この能力に秀でていた者だったからである。二度と同じことが繰り返されないように残された資料。審神者は幼い頃から何度も何度も見直して、そうして、己がそうなりかねない可能性をつぶしていくことを選んだ。
「お前達を傷つけかねない力など、要らないと思ったから」
とはいえ、まさか刀剣男士からの夜這いが危惧される状況になるなど、審神者はそれこそ一寸たりとも予想していなかった。女性ならばともかく、男性なら不要な悩みであると、見向きもしなかった。
「下らないな。それでこの様か」
「……すまない。お前には、……お前にも、要らぬ苦労をかける」
今からでも遅くはないとは思わない。やはり、今の己が言霊に関する技術を上げたところで、刀剣男士にとって良いことにはならないだろう。
「その甘さは、身を滅ぼすぞ」
大倶利伽羅は静かに審神者の手を解放して、また先程と同じように壁に背をつけて座り込む。ひとまず解放された審神者は上半身を起こした。掴まれていた手首は、じんじんと痛んでいた。
「……今夜はここで見張っておいてやる。さっさと寝ろ」
ぶっきらぼうに言う大倶利伽羅は、審神者の方を見ようとはしない。審神者は何事もなかったかのように、再び大倶利伽羅の隣に座り込んだ。そんな審神者にも、大倶利伽羅は特別反応を示すことはしない。膝を抱えるようにして、審神者はじっと大倶利伽羅の横顔を見つめた。
「大倶利伽羅」
静かに、名前を呼ぶ。大倶利伽羅からの返事はこない。慣れ合うつもりはないということだろう。審神者はめげずに、もう一度名を呼ぶ。
「大倶利伽羅」
「……何だ。もう寝ろと言っているだろう」
返事はあったが、話をするつもりはあまりないようだ。審神者は、少し迷った末に、大倶利伽羅と距離を縮めた。あの話のやりとりとした上で、護衛など必要ないと言えるわけがない。言えば、怒りを買って、おそらく次は何かしらをされることだろうから。言っても聞かないのならば、違う道を探す他ない。
「せめて、中で、一緒に寝てくれないか? 同じ部屋にいれば、お前が心配しているようなことにはならないだろう」
ぬくぬくと己が寝ている外で、一晩中座らせて護衛を、などと、審神者はそれが何より嫌だった。己のために、そこまで刀剣男士達にさせたくなかったのだから。だからこそ、清光に告げたのだ。本人が嫌だといえばそこで終わりだと。部屋の外で寝ずの番などさせないためである。
「……は?」
大倶利伽羅は審神者の言葉を予測していなかったらしい。そんな言葉を洩らして、呆れたようにため息をつく。
「……断る。光忠に頼め」
「ならば護衛は必要ないよ。部屋に戻って休みなさい」
認めないと言わんばかりにすかさずそう言えば、大倶利伽羅は目に見えてムッとしたようだった。
「どんな理屈だ」
言い分は尤も。そう思うものの、審神者は引かない。
「私の都合で、お前達に寝ずの番などさせられるものか。これが譲歩出来る精一杯だ。今までの護衛係も、この条件を呑んでいる」
短刀や脇差は、喜んで審神者の布団に入って添い寝をすることを選ぶ。打刀以上になると、布団を持ってきて隣で寝ることを選ぶことが多い。そのどちらも断るものは、例外なく護衛係の仕事を終了させて部屋に帰している。燭台切は審神者の出すこの条件を呑んで、現在自分の布団を取りに行っている真っ最中である。
「心配ない。燭台切が隣で寝てくれる。だから、大倶利伽羅まで無理をすることはないよ」
そう言えば、大倶利伽羅は片眉を吊り上げて、じっと審神者のことを見つめる。睨みつけているようにも思えるその視線を向けられる内、大倶利伽羅は話を切りだした。
「夜這いだなんだと言っているが、外からの襲撃の可能性もある。護衛の片方は、寝ずの番をするべきだと思うが」
「……そんなに、一緒に寝るのは嫌だろうか?」
「脳天気なアンタを気にかけてやってるんだ。本丸襲撃の可能性は、ここにもある。先日も、歴史修正主義者からの奇襲を受けた本丸があった。だろう?」
言って、大倶利伽羅は本体である刀を握って、口を開く。
「俺が気にかけているのは、むしろ、其方の方だ」
確かに、先日も、本丸への襲撃があったとの連絡があった。大倶利伽羅の言うとおり、それは間違いない。
そこまで大倶利伽羅が心配しているとは、本当に意外だった。だが、審神者はそこに驚きこそすれ、特に心が動くこともなかった。
「それは問題ない。ここは私が幾重に結界を張っている。外から破られることなど、決して有り得ない」
当然のことだと言わんばかりにそう告げれば、大倶利伽羅は静かに審神者を見つめた。
「なんだ、その自信は」
「自信というほどのものではないが……何といえば良いのだろうな。私が張った結界を破れるような力を持った者は存在しないんだ、大倶利伽羅。だから、外からの襲撃に備えるよりも、しっかり休んだ方が良いという話で」
「……アンタは何を言っているんだ?」
審神者の言っていることが理解できないというように、大倶利伽羅は呟く。審神者はそれを察しながら、大倶利伽羅をうまく納得させられる言葉を懸命に探した。
「つまり、そうだな。本丸の結界を張るのは、審神者の仕事だ。霊力の質や量に応じて幾重にも結界を張って、外からの襲撃を防いでいる。手入れや刀の顕現で霊力を使うからな、審神者によって使える範囲の霊力で結界を張るということだ」
審神者は何気なく庭を見ながら、指先で緩く円を描いた。くるりと描いた円に、また位置をずらして円を重ねるようにしながら、続ける。
「私は、他の審神者よりも、霊力に余裕がある。だから、襲撃をされた本丸の結界とは比にならないような複雑で、厳重な結界を常に張っている」
ぴたりと、指先の動きを止める。
「誰だろうが、破ることなど出来はしない」
言い切る。自信過剰と言うよりも、それが事実であると、そういった声だった。審神者のその言葉に、大倶利伽羅は沈黙した後、苦いものを食べた時のような表情を浮かべて冷ややか視線を審神者に向けた。
そして、大倶利伽羅はそんな審神者の頬を親指と人差し指で挟むようにして、自身の方に向けさせる。抵抗しようとすれば顎が外れてしまいそうな力加減。
「……おおくり、」
「黙れ」
上向きにするように向けられ、大倶利伽羅の鼻先が近づく。先程とは比にもならない至近距離で、大倶利伽羅の金色の目が審神者の目のすぐ目前に迫っている。まるで、長谷部に口づけをされそうになった時のような距離であった。
ハッとして、審神者は大倶利伽羅の肩を掴んで必死に押し返す。押し返そうとする手がふるふると震えてしまうくらいの全力を出しても、大倶利伽羅の体はびくともしない。その内、後頭部がごつんと壁に当たる。逃げ場なく、吐息が当たる距離にまで唇が近づいて、大倶利伽羅の動きが止まる。
「――でかい口を叩くのは、まともに抵抗できるようになってからにしろ」
はっと、鼻で意地悪く笑う。大倶利伽羅は審神者の顔から手を離すと、また壁に背をつけて座り直した。片膝を立てて座る大倶利伽羅を、審神者は掴まれていた頬を抑えながら恨めしげに見る。
「……それとこれとは関係ないだろう」
話がすり替えられているような気がする。外からの襲撃に備えているのだと言う大倶利伽羅に、その必要はないのだと説明しただけだ。何が大倶利伽羅の気に障ったのか、審神者にはさっぱりわからない。
だが、半人前の扱いをされていることはわかってしまう。審神者は肩を落として、視線を下に向けた。
「私はそんなに頼りないか……?」
ぽつりと呟いた言葉。反応はさして期待していなかった言葉だったが、意外なことに、返事はすぐにきた。
「頼りにしているから守るんだ。アンタは本丸の要だ。手篭めにされて不抜けになるなど、目も当てられん」
「何の心配だ……」
そう言うものの、そんな心配をさせたのは審神者自身である。そんな言葉を吐かせてしまった後にこれ以上何かを言う気にもなれず、審神者はもう仕方ないと諦める。大倶利伽羅は、つんと審神者から目を逸らして、また庭をぼんやりと見つめていた。
諦めたが、それでも、一晩中座りっぱなしの寝ずの番はさせたくはない。審神者は控えめに、大倶利伽羅の袖を引いて、刺激しないような声を意識して口を開いた。
「……寝ずの番は何も言わない。でもせめて、横にはなってくれ」
視線だけ、大倶利伽羅から向けられる。一応聞く耳は持ってくれているらしいと、審神者はほっとして、微笑んだ。
「どうか、一緒に寝て欲しい」
話を聞いて貰えそうだ。そんな確信が生まれた瞬間だった。
大倶利伽羅は審神者を見下ろす目を細めて、審神者の体を有無を言わずに引き寄せた。そしてそのまま俵を持つように審神者のことを抱き上げると、無言で部屋の中に審神者を運んでいく。突然体を覆う浮遊感に、審神者は目を見開いた。
「っ、大倶利伽羅、おろしてくれ!」
慌てて、何とか下ろしてもらおうと声を上げるも聞き入れては貰えず、大倶利伽羅はそのまま審神者を敷いてあった布団の上に放り投げた。そしてまだ現状を理解できていない審神者に向けて、低い声で告げる。
「次、部屋から出てきたら簀巻きにするぞ」
言って、布団を乱暴に審神者の上にかぶせる。今度は乱暴な足取りで部屋の外へ行き、障子をぴしゃりと外から閉めてしまった。そうしてどかりとまた座り込むような音がして、審神者は何もいえないまま、固まってしまう。
(そんなに嫌だったのだろうか……?)
全力で拒否をされた審神者は、ならせめて自分の部屋で休んで欲しいと思う。しかし、部屋を出たら簀巻きにするといった大倶利伽羅の言葉はおそらくはったりではないだろう。それを思うと、部屋を出る気は萎んでいってしまう。
「……大倶利伽羅」
「うるさい。寝ろ」
部屋の中から名を呼べば、すかさずそう返ってくる。審神者は肩を落として、そろそろと布団から這い出て、障子の前に移動する。
「せめて、布団を……」
「要らん」
「だが、いくら何でもそこで一晩過ごすのは、」
はあと、ため息が返ってくる。
「甘やかそうとするな。だからどいつもこいつも、調子に乗る」
その言葉が誰を指しているのか、審神者が察しない内に、大倶利伽羅は続けて言った。
「黙って守らせろ。アンタが、俺たちを傷つけたくないと本当に思っているのならな」
「……大倶利伽羅」
「もう返事はしない。次声をかけてきたら簀巻きにするぞ」
「…………」
諦めて、審神者は布団に戻る。そうして布団の上を通り過ぎて、押入に向かうと、薄手の毛布を取り出した。それをもってまた障子に寄ると、静かに障子戸を空ける。そうして近くに座っていた大倶利伽羅に、折り畳まれた毛布を差し出した。
目線だけを審神者に向けている大倶利伽羅は、いつでも審神者を簀巻きにする準備が出来ていると言いたげな気迫を纏っていた。刺激しないように、審神者は部屋から出ないように気をつけて、そっと、告げる。
「無理はしないでくれ、大倶利伽羅。……おやすみ」
声はかけたが、簀巻き判定は逃れていたらしい。大倶利伽羅は何も言わず、また、ふいと視線を庭に向けてしまった。
それでも審神者の言葉は聞いてくれたのだ。審神者は障子戸を閉めて、布団に戻った。
そろそろ、燭台切が布団を持ってくる頃だろうか。
「ごめんね、思ったよりも時間がかかっちゃった」
大きい布団を抱えてきた燭台切が、部屋に戻ってきた。思っていたより大きい布団は、審神者が使用している布団よりも大きいような気がする。元々燭台切用のスペースは空けていたが、もっと広さが必要だと判断して、審神者は己の布団をずらして場所を作った。
「すまない、手間をかけさせてしまったな」
やはり、審神者の部屋に護衛係用の布団を常備しておくべきかもしれない。そう思いながら、審神者は手際よく布団を敷く燭台切を見る。燭台切は審神者の言葉に緩く笑って、そんなことないよ、と口にした。
「今日は格好悪いところばかり見せてしまったからね。これくらい、なんてことないよ」
そう言う燭台切の言葉。やはり、今日のことを引きずっているだろうことは明白だった。審神者は燭台切に近づいて、そっと声をかける。
「昼にも言ったが、燭台切は何も気にすることはないよ。長谷部を気遣って行動したことは悪いことではないし、私も気にしてはいない」
敷き終わった布団の上に座り込んだ燭台切は、審神者の言葉に困ったような表情を浮かべる。気にしてしまっているし、審神者の声も届いていないことがその表情から理解できて、審神者の方もつられて同じような表情を浮かべてしまう。
「主は優しいからね。でも、僕が僕自身を許せないんだ。長谷部くんの力になりたかったのは本当。でも、主を困らせたいわけじゃなかったから。主は気にしなくて良いって言ってくれてるけど、だからって、僕は僕を簡単には許せないよ」
落ち込んでいる燭台切に、審神者はどう声をかけて良いものか悩む。審神者からの許しを求めているのならば話は簡単なのだが、そうではないだけに難しい問題だ。
「だから、出来ることは何でもしたいんだ。僕に出来ることがあったら何でもするから。遠慮しないで、何でも言ってね!」
燭台切の言葉に、審神者は曖昧に笑う。特にこれといって、燭台切に求めることがない。ここで何か答えることが出来ていたら、燭台切も少しは気が楽になるのだろうことは分かっているけれど。それでも、審神者は特にしてほしいことも欲しいものもないのである。一体、何を言えばいいのか。
「――……なら、」
それでも何かないかと考え抜いた末、審神者ははっきりしない声でそう切り出す。
「うん、なになに?」
悩んでいた審神者の反応に困っていたらしい燭台切は、審神者が何かを切り出そうとしているのを聞いて、ぱっと表情を明るくした。審神者から何か求められるとは、ちっとも思っていなかったのかもしれない。
審神者はじっと燭台切のことを見上げて、燭台切の反応を伺うようにそろそろと口を開く。
「……もっと、お前を知りたい。出来ることなら、もっと、仲良くなりたい」
これは、燭台切の罪悪感に付け込んでいるということになるのだろうか。審神者はそう疑問に思いつつ、そんなことを言ってみた。嫌だといわれることは燭台切の性格上考えられないだろう。けれど、少しでも迷惑そうだったら、すぐに撤回しよう。そう考えていた。
けれど、その審神者の不安は杞憂だったらしい。
「………燭台切?」
燭台切は顔の下半分を覆うと、審神者から目を逸らすように顔を背けてしまう。けれど、顔の半分以上が隠れているとはいえ、それでも燭台切が嫌がっているとは思わない程に、燭台切を覆う雰囲気は華やいでいたのである。
まるで、桜が舞っているかのようだった。
「………ずるいなあ、」
呟いて、燭台切はそっと視線を審神者に向ける。燭台切の台詞に嫌な意味でどきりとしたものの、仕草を見ていればそれが否定的な意味をもったものでないことはすぐに分かった。
「嫌ではないか?」
けれど少し不安で、念のために問いかける。
燭台切は顔を覆っていた手のひらをどけて、はにかむように笑った。
「まさか! 僕も、主と仲良くなりたいと思ってるよ。そんなの、決まってるじゃないか」
そう言う燭台切の反応に、審神者は本当に安堵して、微笑む。良かったと呟けば、燭台切は目を細めて満ち足りた表情を浮かべてしまう。
「あのね、僕、主に聞いてもらいたい我が儘があるんだ。何でもするって言った後にこんなこと言うの、格好悪いとは思うんだけど」
もじもじしながら、言いにくそうに、けれど、聞いて欲しそうに。そんな燭台切に、審神者はくすりと笑った。周囲に気を配って動くことの出来る燭台切は、この本丸に必要な存在だ。食事の用意も、燭台切や歌仙が中心となっている今、本丸の要であるともいえる。我が儘など、いくらでも言っても許容されるだろうに、今までそれを表には出してこなかったのだろうことが想像できて、審神者は同時にそれをもどかしくも思った。
「構わないよ。何だい?」
燭台切が話しやすいように、促す。燭台切は審神者の手をとって両手で包み込むと、キラキラとした視線を審神者に向けた。くすぐったく思うほどのその輝きに、審神者は少しだけ気恥ずかしくなる。
「主と一緒に、料理をしてみたいんだ」
そうして燭台切に告げられた言葉に、少しだけきょとんとする。
「料理?」
予想すらしていなかった言葉である。
ぽつりと呟くようにして燭台切の言葉を繰り返せば、こくこくと、肯定するように燭台切は頷いた。
「ほら、僕が顕現されてすぐ、主は厨房を歌仙くんに任せていっちゃったでしょ? だから、歌仙くんは主と料理することもあったらしいんだけど、僕は一度もなくて……主の料理だって、結局僕は食べたことないままだったし……主の料理を食べたことのある皆が羨ましくって、いつか食べてみたいなあって思ってたんだ」
以前、宗三としたやりとりも思い出す。審神者にとって、己の料理など、不味くはないが特別美味であるとは思わないため、貴重であるという認識は全くなかった。自分好みの味で作ってあるため、決して出来が悪いとは思わないが、燭台切や歌仙の作る料理よりも秀でているという自信もない。
「それに、一度でいいから、主と一緒に料理してみたくって……ああ、それに、新しいレシピに挑戦したりしてるんだけど、その味見とかもしてほしいな……主の好みの味を、ちゃんと覚えたいし。それに、献立の相談とかものってほしいな! 時々で構わないから。それに、それから……」
止まる気配のない燭台切の言葉に、審神者は思わず、くすくすと笑ってしまう。目をキラキラさせて、随分と可愛らしいことを言ってくれる。審神者はそっと燭台切の頭の上に手のひらを乗せて、たまらない気持ちで口を開いた。
「可愛いな、燭台切」
撫でながら言えば、燭台切はハッと我に返ったようで、顔を真っ赤に染め上げてしまう。審神者の手を解放して、すぐに両の手のひらで隠すように覆ってしまった。恥じらうその様がなおのこと可愛らしく思えて、審神者は解放された手をも使って燭台切の頭を撫でていく。
「……また格好悪いところを見られちゃった」
「そんなことはない。とても可愛いよ」
「僕は、格好良いって言われたいんだよ」
背を丸めてそう口にする燭台切に、審神者はそっと口を開いた。
「私よりも、燭台切の作る料理の方が美味しいと思う。私の料理を食べたら、がっかりするかもしれない。……それでも、良いだろうか?」
料理の腕でいえば、おそらく、燭台切の方が上に違いない。審神者はそう考えて、念を押して燭台切にそれを伝えておく。あまり期待されても、その期待に応えられるだけの料理の腕を己が持っているとは到底思えない。がっかりされる前にちゃんと釘を刺しておく。
燭台切は審神者の言葉に、覆っていた手のひらをどかす。そうして、真っ直ぐな目で審神者を見つめながら、はきはきとした声で口を開いた。
「そんなことないよ!」
燭台切の頭の上に置いていた手を回収するように掴んで、今度は燭台切は審神者の両手ごと包み込むようにして、今度は自身のそばに引く。
「――主の料理はすごく美味しくて大好きだったって、皆言ってるんだ。なんていうか、安心する味なんだって。だから主が、主の料理だから意味があるんだよ!」
優しい眼差しだ。燭台切は微笑んで、頬にあてるように更に審神者の手を引く。そうしてぴったりと頬に審神者の手の甲を当てて、口にする。
「約束だよ。主。忘れないでね」
審神者は、ふっと笑う。
「ああ、約束する」
言えば、満足そうに燭台切は目を細めて。でもこれじゃあ僕にとって罰にはならないなあと、困ったような声で呟いたのだった。
「ねえ、抱きしめても良いかな?」
甘えるような声でそう言われて、審神者は微笑んで、頷いた。断る理由などない。それで燭台切が少しでも元気になるというのであれば、何も躊躇などする必要がないのだ。燭台切は審神者の手を離して、解放する。そうして大きく手を広げると、今度は審神者の体を包み込むようにして抱きしめた。筋肉質な体は手加減をしながらも強く審神者の体を抱きしめて、更にぎゅうぎゅうと力を込めてくる。審神者は燭台切の背中に腕を回すと、手のひらでぽんぽんと優しく叩いてやった。
「本当は、もっと格好良いところを見せたかったのになあ。全然ダメみたいだ」
「そんなことない。私は、お前のことを格好良く思っているよ」
「嘘ばっかり。可愛いって言ったじゃないか」
言いながら、それでもどこか嬉しそうに、燭台切は口にする。審神者は、ふっと笑った。
「可愛いとこも含めて格好良いよ」
「また、もう、調子が良いなあ」
どうやら、燭台切の元気は戻ったらしい。それが分かって、審神者はようやく、ホッとすることが出来たのだった。
部屋の外から、大倶利伽羅の小さなため息が聞こえてきた。
どうやら、呆れているようだ。審神者は気にせず、甘えるようにすりすりと身を寄せる燭台切の抱擁を受け入れていたのだった。
- 18 -
mae top tugi
index