「もう、話をしている頃かなあ。……上手くいっているといいけれど。大丈夫かな」
ぽつりと呟く言葉を耳が拾い、弟弟子の審神者は顔の中心にしわを寄せた。目の前に広げられたまま全く進んでいない書類を睨みつけながら、筆を置いて、諦めてボリボリと頭をかく。「さあな」とこぼし、仕事は止めたと言わんばかりにその場で寝ころんでしまう。
「――何にせよ、アイツから連絡が来んことにはどうにも出来ん! 連絡ぐらいしろってんだあのアホ!」
それは、昨日聞き出した話であった。
しばらくぶりに会った兄弟子は、本丸の刀剣男士に求愛されているという。以前の酒の席で出来事で薄々感じ取っていたとはいえ、それは滅多に聞かない話であり、出来ることならば嘘であってほしいと弟弟子は考えたものであった。男の審神者を巡って複数の刀剣男士が諍いを起こすなど、弟弟子は聞いたことがない。稀に、女人の審神者の本丸というのならば、そのような話を噂程度に耳にすることはあるのだが、目にしたことはない。
話を聞くに――交友関係が狭い――というよりも皆無に近かった兄弟子は、誰にも相談することも出来ずに一人で抱えていたようだ。それが原因かは定かではないが、酷くずれた思考を抱いていた。だが、弟弟子の本丸に来て、実際に弟弟子の刀剣男士と交流したことで、自分の認識を改めたようであった。
「アイツは昔からそうだ。助けはするが助けは要らんと突っぱねる堅物で、可愛げが全くない! 一番年下のくせに! クソガキめ!」
口の悪くなる主には慣れたもの、青江は宥めるように口を開く。
「まあまあ、落ち着いて。長兄っていう立場は、それなりに葛藤もあるのさ。一期くんを見てごらん? 弟の前だと、いつもより背筋が伸びているものだよ」
「だからなんだってんだ。俺とアイツには血の繋がりもなんもねーんだぞ。何が弟だ。ガキが強がりやがって!」
審神者が特定の刀剣男士と恋仲に、という話ならば、近しい話として聞いたことも見たこともある。それは女人の審神者――特に、長く現世で暮らしてから審神者となった者に多いケースである。何せ、刀剣男士は皆例外なく見目が良いのだ。加えて性格も現世の男と比べれば格段に優れている。故に、そういった関係に陥りやすいのである。
勿論、中には使命、仕事であると割り切って刀剣男士と適切な距離を持ち、真剣に審神者業に精を出している審神者も多くいるため、一概にはいえないが。
だが今回の話、相手は男で兄弟子である。兄弟子は人の中では顔の良い方であったが、女に間違われるほどの女顔とはいえない男でもある。それが、身を危うんだ刀剣男士から護衛がつけられるほどに迫られているなどと、信じられないというものだ。何が決め手になって好意を持たれたのかは弟弟子の知るところではないが、問題はそこではない。何故そこまで好かれたのか、その理由は知りたいところではあるけれど。
この話の一番の問題点は、兄弟子がその対処方法を思い切り間違っていたところにあった。認識すら間違えていたのだから、救いようもない。昔から必要以上にコミュニケーションをとろうとしていなかった兄弟子は、酷く苦労していたようだった。
「まー顔だけは良いからなアイツ。むしろ、アイツから顔とったら何が残るんだか」
「うーん……酷い言いようだねえ。彼は彼で、中々面白い性格をしていると思うけれど。長谷部くんも三日月くんも、彼のことを気に入っているようだったし」
「――ああ。アレは良い。戦の臭いがするからなあ」
執務室に入ってきたのは、今まさに話題に出ていた三日月であった。別段驚いた様子もなく、弟弟子も青江も、三日月を見やった。弟弟子の本丸では誰でも自由に執務室に訪れる。それは普通のことであったのだ。
「争いの方から進んで寄ってくる人間だろう、あれは。ついつい、突っつき回したくなる」
「良い趣味だな、お前は」
次いで、長谷部。手には書類を抱えており、審神者の補佐のため部屋を出た帰りであった。皮肉に言い放ちながら三日月が執務室に入っていることに顔をしかめるも、この本丸では何の問題もないため、そのことには何も口を出さずにいる。
「俺は違いますよ。主の兄弟子だからと、気を遣っているだけです。まあ肝が据わっていることは認めます。刃を首に当てても一切動じませんでしたから」
「ああ。ぱっくり開いた傷口も見せつけたが、一切動じなかったな。あれは良い」
「やめんか! 何してんだお前ら! いやマジで何してんだお前ら!!」
何でもないように不穏な言葉を吐く二振りに、弟弟子は頭を抱える。そんなことは兄弟子は昨日一言も口にしていなかった。言葉が圧倒的に足りていないと、再度弟弟子は頭を抱える。
その様子にくすくすと笑いながら、三日月は目を細めた。
「――して、連絡は来たか。相談に乗った以上は、事の顛末が気になってなあ」
「まだだ」
「ふむ。それは些か心配だな。既にどれかの刀に拐かされているのではないか?」
「物騒なことを言うな! それよかお前馬当番だろ。終わったのか」
「無論だ。主の兄弟子のためにな。それで、どうなったのだ? そろそろ、こちらから連絡しても良い頃合いだと思うが」
三日月の催促に、弟弟子は唸るように考え込んだ。タイミングというものを計っていたが、三日月の先ほどの不穏な言葉もある。審神者の生死を確認するくらいの連絡は構わないだろうか。構わないなら連絡もとらんだろう、よし、なら構わない。一秒でそこまで考えを巡らせた弟弟子は、決意したように上半身を起こした。
「――よし、連絡するか。こんのすけー! 来い来いー!」
弟弟子はパンパンと手を叩き、こんのすけを呼び出す。煙と共に現れたこんのすけは、やや疲れた面もちで話し出した。
「……はい、何のご用でしょう。こんのすけはこれでも忙しいので、何時間もの拘束は困るのですが……そも、お喋りに長時間こんのすけを使わないで頂きたく……それで、今度は何方ですか? 奥方様ですか? 義兄の審神者様ですか?」
ローテンションのこんのすけは、目に見えて乗り気ではなかった。
奥方という言葉が指すのは、彼女の初期刀の歌仙兼定に交際の許可を貰うべく必死になっている女性である。気持ちは同じであれどまだ交際もまだなため奥方は早すぎるのだが、その響きは悪くない。
「まだ奥方じゃねえけど、良い響きだな。奥方。アイツの件が終わったら連絡するか」
「……そういった内容でしたらぁ、手紙のやりとりの方が風情があるかとお…」
ともあれ、兄弟子の情報を餌に義兄予定の審神者を攻略すれば、めでたく
交際開始となるだろう。それを想像すれば、状況が状況ではあるが、浮かれてしまうのは仕方のないことだ。
「嫌そうな顔すんなって。義兄の方は善処してやる。アイツの写真も連絡先も渡して許可貰えば、もう連絡とるのは五回に一回で良いぞ。っていうか極力とらんでいい」
好いた女性を口説くための最難関。値踏みするような視線と態度を向けてくる初期刀の歌仙兼定へ放った言葉。彼女のためなら何でもやってみせると威勢良く啖呵を切った弟弟子に、歌仙兼定は言質をとったとばかりに不適に笑い、彼女はそんな弟弟子の言葉にうっとりとしていた。
そして歌仙兼定は言ったのだ。『自他共に認めるひねくれ者の彼女の兄の首を縦に振らせてみせろ。あれは手強い相手であるから。それが出来たらひとまず、結婚を前提とした節度のある交際だけは認めよう』と。
そしてその兄の男が出した条件が、一度だけ町であった男の審神者の行方を探してほしいというものであった。それがどうなったかは省略する。
ともかく、其方についてはもう障害となる問題は何もないのである。
「いやあ、アイツにも改めて報告せんとなあ! こっちは順風満帆だってなあ!」
浮かれて、弟弟子は照れくさそうに鼻の下を擦った。全く気恥ずかしい、けれど一番に男の幸せに突入したも同然のこの優越感、周囲に触れ回りたくてたまらない。「まだ交際が始まったわけじゃないだろう?」との青江の言葉は浮かれきった弟弟子には届いていない。
「おめでとうございます、主。しかし今は、奴の身の安否を確認する方が先かと」
長谷部はこほんと咳払いをして弟弟子を現実に引き戻し、こんのすけを睨みつける。ぎろりと、切れ味の鋭い視線を向けられれば、毛が逆立つというものであった。
「御託はいい。主は兄弟子との連絡をお望みだ。早く繋げ」
「ひっ、は、はい! 直ちに!」
その圧に慌てて連絡を繋ぐこんのすけの周りを囲むように、皆が集まって腰を下ろす。連絡が兄弟子と繋がる瞬間を、この執務室に集まった全員が今か今かと待ちわびていた。
数十秒後、回線が繋がり、宙に映し出された画面に、兄弟子の本丸番号が投影された。
『――どうした』
聞こえてきた言葉は、心なしか力がなく、状況が読めない声だった。だが少なくとも、兄弟子の声で間違いはない。無事を確認し、わっと沸き上がる安堵の空気。弟弟子は肩の力を抜いた。
「どうした、じゃねえっつーの! 昨日の今日だぞ。報告ぐらいしろよ! こっちはずっと気にしてたんだぞ!」
『……ああ、そうか。そうだな。すまなかった。そこまで気が回らなくてな』
「おう。反省しろ。それでどうなった? 落ち着いてはいるようだが、まだ言えてないのか?」
話の内容が内容である。踏ん切りがつかずに土壇場で腰が引けてしまったとなっても、それは驚く内容ではないのだ。むしろその方が、兄弟子の身の安全は確保されているというもの。少なくとも今は、胸を撫で下ろすことが出来る。
『いや、話は済んだ。だが……』
けれど、こんのすけの繋いだ回線越しに返された言葉に、弟弟子は不安を覚える。話が済んだというわりに、審神者のこの声のトーンはおかしい。何かが起きているのではないのかと、危機感を覚えたのである。場合によっては本丸を繋いで、直接出向く必要もあるかもしれない。
「どうなってんだ? 説明しろ」
少しの沈黙をのせて、兄弟子の潜まった声が、弟弟子のいる部屋に響いた。
『……今は、身を隠しているんだ。憤慨していて、とても話を聞いてもらえる状態ではないからな』
[chapter:審神者は恋が出来ないI]
己でも思う。なんと情けない情勢だろうか、と。簡潔に説明したつもりだった。だが、簡潔すぎる。あらゆる情報が足りていない。審神者は悩ましく眉間にしわを寄せる。
(しかし……どう説明すれば良いものだろうか)
弟弟子なら、声を荒げる反応をするものだと思った。どうしてそんなことになっているのかと、審神者はあれこれ言われると信じて疑っていなかったのだ。だからお前は駄目なのだと、そう言われるだろう、なんて。
『本丸を繋げる許可を寄越せ。こっちに来い。迎えに行ってもいい』
しかしこんのすけ越しに聞こえる弟弟子の声は冷静であり、けれど余談を許さないと判断したのか、焦りを含んでいた。審神者は迷ったが、静かに目を瞑る。
「必要ない。話を通した以上は、きちんと最後まで責任は持つさ。落ち着きが出るまで逃げはするが、もう少しすれば此方から出向くつもりだ」
『そんな悠長なこといってる場合かよ! 一人でこっちにこれないなら、そっちに長谷部か青江を送るぞ! いいな、お前ら』
『勿論。穏やかではないからねえ。非常事態なら、そうするよ』
『俺は、主命ならば従いますよ』
聞こえた声に、審神者は目を丸くした。てっきり、弟弟子が単独で連絡を寄越してきていたものだと思い込んでいたからである。この会話を刀剣男士も聞いていると分かっていれば、もう少し慎重に言葉を選んだだろうに。
「青江と長谷部か? そこにいるのか?」
『俺もいるぞ』
「三日月もか。……すまない、心配をかけてしまったな」
弟弟子だけではなく、刀剣男士にまで迷惑をかけてしまった。審神者は申し訳なく思い、膝を引き寄せて抱え直す。弟弟子だけならばともかく、刀剣男士がいるのだとすれば、出来れば良い話をしたかったものだ。いや、完璧な状態ではないけれど、審神者の希望は通っているのだ。気持ちの良い報告ではないけれど、伝えられることはあるはずだ。
「だが、それには及ばない。僕が逃げている相手は皆、僕が誰ともそういった関係にならないようにと、一等気を遣ってくれていた刀剣男士だ」
要するに、と、審神者は小さな声で続ける。
「策は通った」
通ってしまった。続けた言葉がこんのすけを通じ、弟弟子にまで届いていたのかどうかは不明である。審神者はため息をついて、思い出したくないが思い出さなければならない記憶を掘り返す。
「三日月の助言通り、出来るだけ傲慢に振る舞った。だが、小狐丸も薬研も躊躇うことなく受け入れてしまって……その話が今本丸に広がっているのだろうな……今まで中立の立場で僕を気遣ってくれていた刀剣男士が騒いでいて――……」
『……で、逃げてんのか』
「そうだ。厨当番だった歌仙が包丁を持ったままだったから、話が出来る状態ではないと思って……心配ない。歌仙が刃物を手放したら戻る」
計画通りではあるが、計画外のことが起きている。審神者は心地の良い風を一身に受けながら、こんのすけの体を抱き寄せて膝の上に乗せた。
遠くからでも憤っている声は聞こえた。何を考えているのか、正気なのか、自分が何を言っているのか自覚しているのかと。彼らが己のために怒っていることは分かっているが、だからといって、審神者ももう、引き返すことは出来なかった。
『――なら、特に身の危険があったわけじゃねえんだな?』
「ああ。されるのは説教だろう。後でちゃんと聞くつもりだ」
『はあ……紛らわしいこと言いやがって。で、今どこにいるんだ』
「……今は、屋根の上だな。良いところに木があったから、それを伝って…」
『猿かお前は!』
「一番良い場所なんだ。木登り出来る身体能力が僕にあると認識している刀剣男士など、この本丸にはいないからな」
自虐的に言うが、ここは思いの外、見晴らしの良い場所で。気分はそう悪くならない。咄嗟に動いた割にはスムーズに事はすすみ、特に苦労することなく屋根に移ることが出来た。すぐに見つかるかとも思ったが、おそらく、審神者が身軽であると評価している刀剣男士はこの本丸にはいないのだろう。屋根の上を気にしている様子はない。
(喜ぶべきか……いや、悲しむところなのだろうな)
足袋を脱いで裸足で登ったため、現在瓦の上に素足を置いている状態だ。日光で熱を受けている瓦は素足では少々気にかかるような温度で、審神者は足袋を履くことにした。風が涼しく感じるためそう暑くはないが、ここに長くはいられまいと判断する。
『何にしても、無事で良かったよ』
「ああ。ありがとう、青江。心配をかけた」
『でも、本当に大丈夫かい? みんなが落ち着くまで、主の本丸に来ても良いと思うけど』
「心配ないよ。頭に血が登っているだけで、皆私に殺意を抱いているわけではないからな……おそらく」
『そこは言い切ったらどうだ』
長谷部の突っ込みが入る。それは審神者は軽く笑い流したが、内心肝が冷えている。度重なる審神者の行動に、殺傷沙汰になってもそこまでおかしいとは思えない。馬鹿は死なねば治らないという言葉もある。勿論信じてはいるが、そうなっても仕方ない、そう思う気持ちもあった。
『ふむ……やはり小狐丸は引かなかったか』
そんな中、三日月の言葉が耳に入る。三日月は、まるでこうなることを知っていたかのような声でそう言った。驚いた様子も何もなく。むしろ、予感が的中したとでも言いたげである。『どういうことだ?』そう三日月に聞く長谷部の声は、疑念を含んでいる。
『いやな……あの後、小狐丸に聞いてみたのだ。勿論、お主のことだとはばれぬようにな。もしも、つれない意中の相手が、傲慢に申し出をしてきた場合、どうするのかと。勿論、‘ぷらいど’が許さぬだろう、とな』
だが、小狐丸はこう答えたのだ。そう言って、三日月は息をためるように、沈黙を作る。そしてゆっくりと、その唇は開かれた。
『――獲物が自ら食されに来ているのに、何故手を引く必要が? 最終的に食べられるならそれで良いではないですか――と』
ひくり、と、審神者の口角がひきつった。小狐丸と対した時のことを思い出し、背筋がぞくりと粟立つ。その審神者の反応が伝わったのかどうかは定かではないが、三日月は次の瞬間、朗らかな声で続けた。
『あいすまぬ。間違えてしまった!』
直接みなくとも、三日月が飄々としているだろうことは審神者にも分かった。膝の間に埋めるようにぐったりと頭を垂れながら、脱力してしまう。
『『三日月ィ!!』』
その声が誰のものだったのか。感情が高ぶっていているのか聞き取れない。重なっているようにも聞こえた。混ざっているのかもしれない。そんなことをぼんやりと思いながら、審神者はため息を吐き出した。
『散々俺を小馬鹿にしておきながら、お前こそちっとも分かっていないだろうが!』
『よくあんなドヤ顔で言えたもんだな爺さんよ! 信じちまっただろうがっ』
『はっはっは! いやあ、面目ない!』
審神者は小狐丸の反応を思い出返して、そして納得がいったと顔を上げる。
「……構わない。やると決めて、実行に移したのは僕だ」
諦めたように口にする。上手くいかなかったからと、ここで三日月を責めたところでどうにもならない。
「ともかく、身の安全については問題はない。心配をかけたな。もう切るぞ」
『いや待て待て待て!』
「? なんだ」
必要なことは伝えたはずだと小首を傾げる審神者とは裏腹に、弟弟子は未だに焦っているようだった。
『それよかお前――』
弟弟子が言い掛けた瞬間、審神者が膝の上に置いていたこんのすけが、何かに気がついたようにはっとした様子を見せた。それに審神者が気がついた瞬間――審神者の背後から手が伸びる。
「みぃつけた」
その紅く色づけられていた指先は、無駄のない動きでこんのすけの繋いだ回線を切ってしまったのである。
[newpage]
「……清光」
審神者が緩く振り返った先には、中腰でこんのすけに手を伸ばしていた清光がいた。気配や足音を捉えていなかった審神者にとっては、あまりに急な登場であった。審神者は小さく目を見開き、けれど声をあげるわけでもなく静かに唇を閉ざす。
「こんのすけ。主と大事な話があるから、しばらく連絡は繋がないでね」
けれど清光との視線が交わることはなく、清光の視線は真っ直ぐとこんのすけに向けられていた。代わりに、こんのすけの視線が審神者に移る。
「審神者殿、如何なさいますか? 折り返しの連絡が来ておりますが……」
「……後でかけ直すと伝えてくれ。此方は特に問題がない、とも」
「かしこまりました。では後ほど参ります」
空気を読んだのか、こんのすけは煙の中に姿を消してしまう。それを見下ろす審神者の隣に、当然のように清光は腰を下ろした。
「まさかこんなところにいるなんて思わなかった。でも、良い選択だと思うよ。皆、主が自力でここに来るなんて出来っこないって思ってるから」
ちらりと、審神者の方へと目線が流れる。審神者は、後ろめたい気持ちを覚えながら視線を己の膝の上に移してしまった。
屋根に登って隠れてからそんなに時間は経っていないが、こんなにも簡単に見つかってしまうとは思わなかった。見つかった場合は叱られることも想定していたが、清光の声はとても優しかった。
「……だが、お前にはすぐに見つかってしまったな」
「まあね。だって俺、初期刀だもん。ずっと主のそばにいたんだから。誰より分かるよ、主のこと」
言われ、審神者はそろりと、清光に視線を向ける。清光は立てた膝の上に腕を置き、その上に頬をぴったりとつけて、じっと審神者のことを見つめていた。思っていた以上にしっかりと視線が交わったことに驚いて、審神者は咄嗟に視線を逸らしてしまう。
(……落ち着かない)
そんな風に感じながら、少しして、視線をまた戻す。また交わった視線はどこか熱を持っているようで、審神者はどこか気恥ずかしい気持ちを覚えた。
「悪い子だよねえ。歌仙、かんかんだったよ?」
「……知っている。遠くからでも聞こえていたから。包丁を手放した頃には、降りて会いに行くよ」
「うーん。あれ、厨当番だから持ってただけだよ。もう持ってないでしょ」
「……そうか。なら、もう少ししたら出て行こう」
「……やっぱりちょっと会うの怖いんでしょ?」
茶化すように口にした清光の言葉に、審神者は図星をつかれたように口を噤む。それから、言い訳をするように口を開いた。
「少し、時間がほしいだけだよ」
非難されることはまず間違いない。逃げるつもりはないけれど、心の準備をする時間はほしい。それくらいの剣幕だったのだ。
(仕方のないことだが……)
思えば、一番振り回されているものは、審神者でも、審神者に恋慕している刀でも、審神者が刀と恋仲になれば良いと思っている刀でもない。審神者の意思を組んで、誰ともそのような関係にはならないようにと人一倍気を遣ってくれている刀である。
「ちゃんと話はするし、話も聞く」
彼らからすれば、主が無断で一人で本丸の外に出ていたという事実が判明しただけではなく、戻ってきた審神者が危険きわまりない手法を用いて事を解決しようとしていたのだ。きっと彼らの目には、審神者が進んで自滅しようとしているようにしか見えないことだろう。
「そうして。俺からもちゃんと説明はしてるけど、それだけじゃ収まらないみたいだからさ」
そっと、清光の指が審神者に向かって伸びた。それは審神者の髪を柔くさらって、指先で弄ぶように滑り落としていく。くすぐったくもあるが、決して嫌ではない感覚であった。審神者は照れくさい気持ちでそれを受けながら、拒絶することは勿論ない。
「……かわいい」
その言葉に、審神者は複雑そうに表情を崩した。子供扱いされているような気分である。そんなことないと言いたいが、それによって無闇に話を長引かせることも気が進まない。何と言うか迷って審神者は戸惑うが、清光は気にしてはないようだった。返事を期待した言葉ではなかったらしい。
「主、あのね。その、きちんと気持ちに向き合うってやつ、来月からなんでしょう?」
「……ああ。だが、一月だけだ。それを過ぎれば、もう、お前に負担をかけることなど決してないよ」
あと少しで、月が変わる。それを始めとし、一月の間だけと指定した。要は、一月の間、逃げ切れば良いのである。
「そう? だったら良いけど。無理しないでね」
そっと、指先が審神者の頬に移る。そのまま、つうっと上から頬を撫でられれば体が強ばり、ぎこちない動きでそれから逃れようとしてしまう。
清光との触れ合いを避けてきた審神者であったが、昨夜、審神者の方から清光に触れてしまった。勢いで。本当は触れてはいけなかったのに。そう決めていたというのに。
そのせいだろう。なぜだか無性に意識してしまって、審神者は目を伏せてしまう。
「っ……分かっている」
上擦った声でそう答えれば、清光の形の良い唇が、にんまりと三日月の形に変わる。審神者の反応が、どうやらお気に召したようであった。
「もうすぐじゃん。ちゃんと策は練ってあるの? ちょっと触られただけで、こんなに動揺しちゃってるじゃんか」
「それはっ……確かに慣れてはいないかもしれないが……何とでもなる。僕の方からきちんと言葉にしなければ無効だと、ちゃんと条件も付けて、それも呑んでもらった。だから問題は……」
ぴったりと、指先が審神者の唇を塞ぐ。驚いて小さく目を丸くした審神者のことを真っ直ぐと見つめながら、清光は愛しそうに微笑む。
「‘僕’だって。可愛い。そっちが主の素?」
一瞬、何を言われたのか審神者は理解できなかった。
だが少しの間を置いて、その言葉の意味を理解する。審神者は離れていった清光の爪先を目で追いながら、隠すように、手のひらで口を覆った。指摘されてしまったこと、指摘されたことで、気づいてしまったこと。じわじわと、何やら恥ずかしくなってきた。
「…………すまない」
「なんで謝るの」
審神者の反応に清光は吹き出してから、審神者との間の距離を詰めるように座り直す。審神者は、身構えるように膝を抱え込んだ。瓦の上では、正座など出来ない。自然と、この座り方に落ち着くのである。
そんな審神者の肩の上に、清光はこてんと頭を乗せてしまう。
「俺は主のこともっと知りたいから、むしろ嬉しいのに」
「清光……」
「っていうか、もっと崩れた主が見たい。審神者として、でも良いけど。もっと違う主が見たい。なーんか、薬研にはもう見せてそうだし」
ぐりぐりと頭を押しつけられて、審神者は気まずさに口角をひきつらせた。どう答えれば良いのか非常に困る言葉であった。
「薬研とは別に……何もない」
「そうは見えないんだけど。なんであんな風に赤くなっちゃうの。もう手を出されたりしたわけ?」
「……いいや、そんなことは…」
「じゃあ、俺の目を見てちゃんと言ってよ」
言われ、審神者は気まずそうに唇を閉ざす。そして今度こそ、視線を露骨に清光から逸らしたのであった。
「どうでも良いだろう。そんなこと……」
「ぜんっぜん、良くないんだけど…!」
けれどそれで清光が引くことはなく、審神者の腰を両腕で挟むようにして今度は抱きついてきた。距離の近さに困惑する審神者などお構いなしに、清光は甘えるように審神者に体重をかけていく。
「ねえ、いつ? いつそんな暇があったの? 聞いてないんだけど」
「……そろそろ、歌仙の元へ行くか」
「ずるいっ逃げないでよ。ちゃんと教えてったらっ」
「聞いてどうする」
「どうするって……どうもしないけど、でも気になるじゃん!」
逃げようにも、しっかり拘束されていては難しい。審神者は困り切って、清光に目を向けられないまま、観念したように口を開く。視線が合わせることが出来なくとも、顔は清光の方に向けようと努力をした。
「……薬研は、その……」
清光を憤らせない言葉を選べば、薬研との記憶が嫌でも思い出させられてしまう。じわじわと頬が熱を持ち、とても清光には見せられないと、再びふいと顔を逸らしてしまう。先程の審神者の努力は、泡となって消えてしまった。
「……何でもない」
語ることは何もないというように審神者が答えれば、目を逸らされてしまったことも相余って、清光は頬を膨らませた。そのまま不機嫌な雰囲気を醸しだしながら、ぱっと審神者から体を離してしまう。
「あ、そう。主は俺のこと信じてないんだ? だから、そうやって隠すんだ。やましいことでもあるんじゃないの?」
「そんなことは……ただ、取り立てて話すようなことはないんだ」
離れていったことで、今度は自然と審神者の視線が清光に向けられる。しかし清光は、先程の審神者のように、視線を合わせまいとそっぽを向いてしまっていた。審神者は少し距離を置かれたことに戸惑い、寂しさのようなものを覚える。このまま下がってしまいたいが、清光の機嫌を損ねたままではいられない。
観念して、審神者はぎこちなく口を開いた。
「……ただ、その……好きだと言われただけだ」
それが、審神者が清光に伝えられる精一杯であった。小さく告げられた言葉ではあったが、それでも清光の耳には入ったらしい。ゆっくり審神者を見た清光は、不服そうな表情をしている。
「それくらい、皆言ってるじゃん」
「それは……」
言い返したいけれど、返す言葉はなく。審神者はその理由を自覚していないために、どう説明すれば分からなかった。ただ肩をすくめて、これ以上清光が機嫌を悪くしないようにと考えるだけである。
「………」
「………」
じと目で見られ居心地の悪さを覚える審神者をじいっと眺めてから、清光はため息をついた。
「逃げきれるかなあ。一月って長いけど」
「……仕事が優先。出陣も遠征もある。時間はそうないよ。問題ない」
「どうかなあ」
清光が審神者が逃げ切られるかどうか怪しんでいる気持ちは、察することが出来る。審神者を探している刀剣男士も、おそらく同じ事を考えているのだろう。忠告ならば、既に散々されているのだ。けれど、いつまでも守られたままでいるということが、審神者には耐え難い事実であることは今も変わっていない。
きっかけが弟弟子の本丸だったというだけで、いつかは同じことになっていただろうと、今になっては思うのである。
「ねえ、主。お願いがあるんだけど」
「……なんだい?」
背筋を正して、問う。清光のこと、己に出来ることならば何でもしてやりたいと既にお願いを聞く方で話を進めている審神者に向けて、清光はにっこりとわらった。
「月が変わる前日に、時間を作ってほしいんだ。大事な話があるんだ」
「? 話なら、今で良いのではないか」
「じゃなくて、前日に、真剣に話しておきたいことなの」
釘を刺しておく、ということだろうか。
審神者はいかに己が信用されていないことを自覚して、片方の眉を吊り上げた。そんなことはないと言ってしまいたいが、きっと信用はされないだろう。何より、今まで散々迷惑をかけてしまった相手だ。それで清光が納得出来るのならばと、審神者は少し迷った末に、頷いた。
「……分かった。それで気が済むのなら、構わないよ」
何でもないように口にした審神者に、清光は静かに目を細めて、そして白い歯を覗かせて笑った。
「うん。じゃあ約束」
そう言って立ち上がると、清光は審神者に向かって手を差し伸べた。その手をとって立ち上がれば、そのまま清光は審神者の腰に手を回す。引き寄せられたのも束の間、ふわりと、審神者の足が屋根から浮かび上がった。
「っ……清光」
まさか抱えられると思わず、審神者は驚きを露にする。上から見下ろした清光の表情は、審神者の反応に満足したのか、してやったり顔である。
「昨日のお返し」
「……重いだろう? 降ろしてくれ」
「えー、やだよ。俺だって、主を抱えるくらいわけないし。それに、降りるの大変でしょ? 俺が抱えて飛び降りてあげる」
「いや、気にすることはないよ。自分で降りられるから」
「そう? でも俺がこうしたいの。こうさせて」
審神者は確かに昨夜清光を抱えて動いていたが、それは両腕も体全体も使ってのことである。しかし、今はどうだ。清光は腕一本だけで、まるで子供でも抱き抱えるように審神者を支えている状態である。
「……重いだろう?」
「軽いよ」
昨日の今日である。刀剣男士と人間では、作りが同じとはいえど、やはり根本的なことが違っているのだ。分かっているのに、己との違いを見せつけられているような気がした。
審神者が複雑そうにしている様を、清光は変わらず楽しそうに見上げていて。己の心中が見透かされているような気がして、審神者は遠慮がちに清光の服を掴んだ。
「なら、頼む」
「うん。しっかり掴まっててね」
カツカツとヒールのついたブーツで、瓦の上を歩いていく。そこでふと、審神者は疑問を覚えてしまった。清光がこんのすけの連絡回線を切ってしまったとき、審神者は今しがた聞こえるような足音を耳にした覚えがないのである。
「足音、するんだな。先は聞こえなかったが……」
「そりゃあ、主に聞こえないようにしてたし」
「そんなこと出来るのか?」
「勿論。戦場じゃ気配消すなんて出来て当然なんだから。皆出来るよ。主が驚かないように、足音とか気配とか、完全には消してないだけじゃない?」
「……そうか」
長く審神者としてこの本丸にいたが、それは知らなかった。感心している審神者に、捕捉するように清光が付け加える。
「だから、油断しちゃ駄目だよ。いつどこに誰が潜んでるか分からないって思って行動して」
「……覚えておく」
特に使い道があるようには思えない情報である。深く考えずにそう審神者が答えている間に、清光は飛び降りる場所を決めたようだった。
「じゃあ、ここにしよっかな。主、口閉じて掴まっててね」
「分かった」
言葉に甘えて清光に抱えて貰ってはいるが、端から見ればこの状況――審神者が屋根に登ったはいいものの自力で降りられずに清光に助けて貰っているように見えるのではないだろうか。審神者はそんなことを思いながら、清光の言葉に素直に従った。
「そうだ。先に主に言っておかないといけないことがあるんだよね」
口を閉ざしたままの審神者を見上げながら、清光は薄い唇を開いた。
「あれだよ。さっきのさ、前日に主と話をしに行くって話――」
真っ直ぐに向けられた情熱的な赤い瞳は、太陽の光を浴びて煌めいているように見える。目を逸らせぬまま、審神者は続けられる言葉を静かに待った。
一等、強い風が吹く。
「 」
清光の言葉に審神者は目を丸くする。審神者の反応に清光は笑い、けれど返事を待つこともせずに屋根の外へ飛び降りてしまう。足場がなくなる感覚は抱えられている状態でも伝わってきて、審神者は清光の肩にしがみついた。
少しの時間の後、清光の足を通して体に衝撃が伝わる。それから審神者は清光に廊下に審神者を降ろして、にっこりと笑って見せた。
「大丈夫? 痛いとこない」
「……ああ。問題ないよ。ありがとう」
靴を履いているため審神者と同じところに上がろうとしない清光は、先ほどの発言など忘れてしまったかのように平然としている。審神者は聞き間違いだったのではないかと、己の耳を疑った。
「あの、先の言葉は――…」
むしろそうであってほしい。聞き間違いであってくれと願う。でなければ、審神者は清光との関係が、いよいよ分からなくなってしまいかねない。確認したくてそう聞こうとすれば、清光は黙って審神者の頬を手のひらで挟み込んでしまった。
そうして真っ直ぐと交わった視線が、その柔らかな表情が、先ほどの清光の言葉が聞き間違いではないのだと気づかせてしまう。審神者は言葉を失い、清光もまた、審神者から言葉を引き出そうとはしなかった。
清光は審神者の頬から手を離して一歩分の距離をとる。そうして、何でもないように口を開いた。
「じゃあ、俺靴脱がなきゃだから行くね。主は皆のところに行っていいから」
ほとんど放心状態でこくりと頷いた審神者にそれ以上何を言うでもなく、清光は審神者に背中を見せて歩いていく。楽しげに紡がれていた鼻歌が、しばらくの間審神者の耳にも聞こえていた。
そうして、清光の姿が見えなくなる。もう、鼻歌も聞こえない。
「……………嘘だろう」
我に返った審神者は手のひらで口元を覆って、苦々しい声で呟く。
誰に向けたわけでもない言葉は風に巻かれているだけで、誰の耳にも届かない。
(だがあの目は……やはり、間違いではなかったのか)
正直に言えば、逃避してしまいたい事実ではある。だが、そうは言っていられない。
もう少しで、新しい月を迎えるのだ。
そして結果がどうあれ、審神者の、審神者としての生き方に多くの影響が表れるに違いない期間が始まることは間違いない。
きりきりと胃が痛むようだ。次から次に、悩みの種が姿を現してくる。
(……逃げ切る。逃げ切ってみせる)
己にそう言い聞かせる。その思考が既に危ういのだが、心の中の声に指摘をするものはいない。審神者は気付けのために頬を叩いて、歩き出す。
ひとまずは、審神者を探していた刀剣男士と、きちんと話をしなければならなかった。
[newpage]
[chapter:おまけ@直後の弟弟子本丸]
『みぃつけた』
不穏すぎるその言葉を最後に途切れてしまった連絡回線に、弟弟子は言葉を失った。兄弟子である審神者の身に何かあったに違いない。本人は問題ないと口にしてはいたが、危機感がまるでない兄弟子のこと。ついに力づくでこられたのではないかと考えてしまうのも仕方のないことである。
「今のは……加州の声か?」
「そのようだね。随分と楽しそうな声だったけれど」
「ふむ。拐かされる寸前で途切れたか」
「そんなわけあるか! おいこんのすけ! もっかい! もっかい繋げ!」
三振りの言葉を縁起でもないと否定して、弟弟子は慌ててこんのすけに詰め寄った。けれどこんのすけは首をふるふると横に動かすだけであり、兄弟子と連絡を繋げようとはしなかった。
「あちらの審神者様から言伝を預かっております。後でかけ直すから、暫く繋がないようにと。かけたところで出てはもらえないかと」
「はー? なんだそりゃ! あんな終わり方で納得できるか! ほら! 繋げって!」
「まあまあ。待て、主よ。加州はあ奴の初期刀だろう? 加州からはそのような目では見られていないと言っておったのだから、そう躍起になることもあるまいよ」
審神者は、恋慕されているのは三振りであると説明していた。小狐丸とへし切長谷部、そして薬研藤四郎だけなのだと。兄弟子の初期刀である加州清光は、その頭数には入っていない。ならば、確かに三日月の言うことも一理あるかもしれない。
「……それはそうかもしれんが、アイツが気づいてないだけで、実は加州もって可能性があるだろ……」
だが、弟弟子には引っかかるものがあった。疑ってかかりたくはないが、こういう時の男の勘はよく当たった。そもそも、もっとよく説明をしてほしいところである。兄弟子は、圧倒的に言葉が足りていないのだ。
「話は通ったって言ってたね。ということは、後はいちくんがうっかり受け入れるようなことをしなければ万事解決……ってことだけど」
顎に指先をあてながら、青江が呟く。その声は執務室の中によく通り、長谷部はふうと息をつく。
「難しいかもしれんな。あれは、ことさら刀剣男士に弱すぎる男だ」
「だなあ。条件を呑んだ以上はあらゆる手を使って迫るだろうに、あやつが断れるとは思えん。……とはいえ、こうなった以上は、無事を祈ることしかもう出来まい」
既に諦めムードを漂わせている二振りに、弟弟子は青い顔をして顔をしかめたのだった。身内と刀剣男士では、兄弟子の中での分類は違うのだろう。身内には甘くも自分の意見をぴしゃりという男が、相手が刀剣男士というだけで途端に及び腰になる。今も、良いようにされているのではないか。今は無事だとしても、これからそうなる未来がくるのではないか。不安ばかりが浮かんでくる。
決まりを進んで破り悪戯と悪さの限りを尽くした自分を、無言で投げ飛ばし続けて矯正させたあの荒い本性を、何故表に出すことが出来ないというのか。あれさえ出来れば兄弟子が己の身を守ることなど容易なことだっただろうに。あの男の厄介さを刀剣男士は何も理解していないと、兄弟子の刀剣男士に対してもどかしい気持ちがわき上がってくる。
「………なんでアイツは…」
額を押さえて、ため息を吐き出す。こぼれた言葉は途中で途切れて、それ以上続くことはなかった。
[newpage][chapter:おまけA審神者のその後]
歌仙が包丁片手に審神者を探していたため一時的に身を隠し、そして落ち着いた頃を見計らって戻ってきたのが少し前のこと。現在は、審神者の部屋に数振りの刀剣男士が集まっていた。
「――君の言い分はよく分かった」
正座をして向かい合い、審神者は説明を終えた。何故この状況を作り出したのか、最終的に審神者が成し遂げたいことを。既に薬研藤四郎や小狐丸を呼び出して話をつけていたので、これは事後報告である。へし切長谷部については、元々、他の刀剣男士を選んだらという条件がついているが故に、今回対象には入ってはいない。それについても、長谷部には説明済みである。
残るは、中立の立場にいる刀剣男士との話をつけるだけだった。
現在審神者の部屋には歌仙兼定、蜂須賀虎徹、宗三左文字。堀川国広と和泉守兼定、大倶利伽羅が代表として集まっていた。代表としてというよりも、中立の立場でいた刀剣男士の中から、納得できていない刀剣男士が集まっているという印象である。
審神者の説明に眉を潜め、間違っても審神者の案が良いものであるという反応を見せる刀はいなかった。
審神者の希望通りに事が運ぶと判断しているものは一振りとしていない。審神者はそれを察して、これからくるだろう言葉に備えて覚悟をした。
「見通しが甘すぎる! 君のそういうところが愚かだと言っているんだ!」
「まあまあ。落ち着いて、歌仙。結果はどうあれ、主も色々と考えていたんだろう」
中でも一番ご立腹なのは歌仙だった。蜂須賀がそれを宥めながらも、自身も悲しげに眉を下ろして審神者に目を向ける。
「でも、そうだね。話を進めてしまう前に聞きたかったかな。賛成出来たかは分からないけど、もっと力になれることがあったと思うよ」
けれど、蜂須賀も審神者に言いたいことがあると、そこは遠慮がちにではあるが主張をしてくる。審神者はそれを受け、頷く。そういった意見も、確かにその通りであると思うのだ。結果的に、審神者はそれをしなかったけれど。
「すまなかった。けれど、この今の状況には耐えられない。私のことで皆を振り回し続けるよりも、早いところ、事を納めてしまいたかったんだ」
一月だけ、きちんと想いを寄せてくる刀剣男士と向き合うこと。けれどそ期間に結ばれなければそれきり、審神者との関係を望むことは許さない。そんな一方的な条件を、小狐丸と薬研藤四郎は呑んだのである。傲慢な審神者に嫌気をさしてもらいたかった狙いは、見事に空振りをしてしまった。
だからといって、今から話を撤回するわけにもいかない。となればあとは一月の間、審神者が首を縦に振らないでいること。それしか手段は残されてはいない。
(心配ない……僕は絶対に頷かない。だから問題ない。終わらせられる)
己に言い聞かせるように心の中で繰り返す。対象は、二振りだけである。そして一月、耐え抜けば良い。
加えて、へし切長谷部はその頭数の中には入っていない。というのも、他の刀剣男士を選んだ場合へし切長谷部に身を明け渡すと約束をしているからである。この約束が無効になることなどなく、審神者と想いが通じた時点で、へし切長谷部のものになるということは変わらない。
言葉にしてみれば異質だと分かるような、矛盾だらけの条件である。
圧倒的に審神者にとって都合の良い、有利な条件であるといえるのだろう。
それもこれも、審神者が誰も選ぶつもりなどないから成立した話なのだ。己に不利ならば、審神者とてこのような案を通すことなどしなかっただろう。自信がある。だから押し通した。出来るはずがない。可能性などあるわけがない。けれど、歩み寄るのはこれが最後であると。三日月の助言通り、傲慢に告げた。馬鹿馬鹿しいと、二振りが辞退してくれること期待した。結果、思う通りには行かなかったが。
だが問題ない。予定とは変わってしまったが、きっとあのような関係に終止符が打てるだろう。
「確かに。それが出来れば、問題はありませんね」
そう考えていた矢先に聞こえた声に、助け船が来たと審神者は宗三に目を向けたけれど――すぐに後悔する。冷え切った宗三の微笑は、明らかに不機嫌を纏っていた。すっと、空気が凍る。
「――なんて、言う訳がないでしょう。誰です。貴方にそんな入れ知恵をした者は」
絶対零度のように冷たい表情である。つられるように、審神者の顔から血の気が引いていく。
「愚かにも程がある。貴方のように流されやすい人間が、まさか無事でいられるとでも?」
「……い、いや宗三、聞いてくれ。あくまで私の方から好きだと言わなければ問題はないのだから、本当に大丈夫なんだ」
「貴方の大丈夫は聞き飽きましたよ。大丈夫でないから護衛を常につけていたんです。何度も言って聞かせましたが、貴方はろくすっぽ理解していないようで」
皮肉めいた口調に、審神者はうっと黙り込む。言われるだろうと覚悟していた部分もあったが、いざ言われると言葉に詰まってしまう。袖で口元を隠して、宗三は苛立ちを露わに審神者に鋭い視線を向けた。
「一体どのような気持ちで貴方を守ってきたと思っているんです? 全部水の泡ですよ」
「それは……すまない。散々お前たちを振り回してしまった自覚は、ちゃんとあるんだ。けれど……ならば私はいつまで、お前たちに守られ続けられなければならないんだ」
「何時までだって構いません。貴方はこの本丸の主なのですから。ずっと守られていればいい」
言われ、審神者は首を横に振る。受け入れられるわけがない。それは審神者がずっと気にしていたことだったのだ。変わらなければと考えた一番の要因であると言っても良いくらいのことなのに。審神者は、くっと顎を引いた。
「――出来ない」
圧に押されそうになってしまうが、審神者は一歩も引かなかった。真っ直ぐと宗三の目を見つめて、そして続ける。
「我慢ならん」
きっぱりと告げれば、値踏みするように目を細め、少しの沈黙。そして呆れたような、同時に、悩まし気にも感じられるため息をこぼして、宗三は口を開いた。
「……覚悟は堅いようで。事後としか思えないぼろぼろの姿で泣きじゃくっていた貴方が、よくもまあそんな判断を下せたものです。あれだけ、僕に泣きついていた貴方が」
耳が痛い。審神者は肩身の狭い思いをしながら、言い返したいけれど返す言葉が何も思いつかない。宗三に泣きついてしまったことも、主としての威厳が全く感じられないような姿でいたことも、間違いなく事実であったのだ。
かといって、ここで黙り込むわけにはいかない。何か、何か言わなければ。
「……確かに、あの時の私は酷く取り乱してしまったけれど……今度は、全て覚悟の上だよ。もう、あんな様にはならない」
「なりますよ。貴方、自分がどれだけ丸め込まれやすい存在なのかご存じで? 一晩もあれば貴方は首を縦に振りますよ間違いなく」
「振らない! 頼りなく聞こえるのだろうが……本気で考えて決めたことなんだ。もうこれ以上、逃げたくはない。終わらせたいんだ」
「懸念せずともすぐ終わりますよ。貴方の希望とは違う形で」
「宗三っ! だから、もう少し信じてくれ……!」
どうだか、と。そういいたそうにしている視線に、審神者はもどかしい気持ちでいっぱいになった。
その時、こほんと咳払いが聞こえた。その方向へ目を向ければ、黙っていて話を聞いていた和泉守が、眼力のある視線を真っ直ぐと審神者に向けていた。応えるように、審神者も同じように視線を返す。和泉守はその後、少しの沈黙を得てから、口を開く。
「――どうなっても、後悔はねえんだな?」
腹の底から出されたような力強い声だった。審神者は迷いなく頷き、それを得た和泉守はふっと表情を崩す。ほんの少し柔らかくなった目尻に、審神者は小さく目を丸くした。
「良いんじゃねえか? 主がそう決めたってんなら、どんな結果になろうが後悔はないはずだ。だろう? 主」
「……! ああ」
「なら問題はねえな。良いだろ之定。説教もほどほどにしてやれって」
軽快に笑いながら言った和泉守に、歌仙はむっとしたようだった。
「説教したくてしているんじゃないよ! けれど彼は子供なのだから、無鉄砲は誰かが諭してやらなければ……」
「子供じゃねえよ。そこに座ってんのは‘主’だ。違うか?」
「和泉守……」
このようなことを和泉守が口にするなど、審神者はちっとも予測していなかった。驚くとともにその言葉が嬉しくもあり、そういう場合ではないと思いつつ、笑みを浮かべてしまいそうになる。
「……僕は別に、主を侮っているわけではない。人の身なのだから、齢によって欠けているものはあるだろう。それを補うことが、主に使える刀の使命であると思っているだけだ」
歌仙は静かに眉を潜める。和泉守の言葉に思うことがあれど、歌仙には歌仙なりの言葉があり、引くつもりはないらしい。けれど少ししてから、ふうと一息をつく。
「けれどそんな風に思わせていたのなら、確かに僕の振る舞いにも少しは問題があったのかもしれないね」
とはいえ。そう続けて、歌仙は眉間に三本程のしわを刻み込んだ。言わずもがな、向けられた先には審神者がいる。
「かといって! 納得なんてしないけどね!」
目に見えるような怒気を纏わせ、ぴりりと空気が震えた。
気づけば自然と、審神者は背筋を伸ばしてしまっていた。
「僕にはこの先の未来が見えるようだよ。君がどれかの刀に絆されて、それが引き金となってこの本丸で三つ巴の諍いが起こるだろうね。言わずもがな、君はあっという間に傷物になるだろう。賭けても良いよ」
「恐ろしいことを言わないでくれ……だから、決して首を縦に振るようなことはしないのだから、そのようなことにはならないと言っているだろう?」
いやむしろ、そんな事態にさせてたまるものか。そうさせないためにこれから頑張るというのに。
(縁起でもない……!)
そんな気持ちも抱えながら審神者は訴えかけるものの、説得力が欠けているのだろう。ならば安心だ、とでもいうような視線はどこからも向けられてこない。どこからも、誰からもである。
そんな中、諦めを滲ませた声で、和泉守と堀川が互いに目を合わせてつぶやいた。
「まー絆されるだろうな」
「うーん。主さんは本当に押しに弱いから……」
「お前たちまでそう言うのか…?」
「あっ、いえ、違うんです! 主さんが悪いとか、そういうつもりはないんです。でも、ちょっと主さんってむこうみずなところがあるというか。優しいというか、警戒心が薄いというか、根拠のない自信があるせいでというか……とにかく空気に呑まれやすいというか――」
「泣きつかれたら一発だろうな」
「――うん、そうだね。土下座されたら頷きそう。ちょっとくらいなら……って」
「そんなことはない!」
それは流石に酷すぎる。あまりの言われように涙目になりそうである。
「っ……ちゃんと、向き合うと決めたんだ。そんな理由で頷くような真似はしない! だから、むしろ今までよりもしっかり断りを入れるつもりで……」
「お前に出来るものか」
審神者の言葉にも納得できていないらしい堀川と和泉守でなく――今度は、部屋の隅で壁に背中を預けて立っていた大倶利伽羅から否定の言葉が飛んでくる。ここまで見事に畳み込まれては、審神者もさすがに心が折れそうであった。
「……大倶利伽羅」
自然と、泣きそうな声で名前を呼んでしまった。大倶利伽羅は審神者からの返事を待つこともせず、続けて言う。
「あいつ等には俺が直接話つける。馬鹿な真似はもう止めると、お前が今、ここで言え」
既に苛々しているようで、腕を組んで審神者を見下ろす視線の鋭さといったら。審神者はその圧倒感に唾を呑んで、それでも負けじと首を横に振る。
「……出来ない。もう決めたんだ」
「どうせ、妙なことをでも吹き込まれたのだろう。お前の意思など知るか。お前がどうなろうと知ったことではないがな、これ以上この本丸で騒がれて困るのは俺達だ」
言って、大倶利伽羅は足を踏み出した。審神者に向かって進み、ついに歌仙の隣を通り過ぎて審神者の前で膝をつくと、無遠慮に、審神者の顎を掴んで無理矢理自身の方へ向けさせてしまう。眉を潜める刀剣男士はいれど、誰もそれを止めるような真似はしなかった。ただ静かに、ことの成り行きを見守っているだけである。
「やめると言え」
蛇に睨まれた蛙とはよく言ったものである。その迫力に圧倒され、そのまま首を縦に振りそうになってしまう。審神者はぐっと息を呑んで、それでも首を横に振ろうとした。けれど顎を捕まれていてはそれは出来ない。ならばと、審神者は真っ直ぐと睨みを利かせる大倶利伽羅から目をそらさなかった。
「……言わない。元より、応えるつもりは更々ないからな。もう、お前たちにこれ以上心配をかけるようなことはないよ。決して、お前たちを困らせるような結果にはしないと約束するから、どうか見守っていてほしい」
訴えかける。けれど、大倶利伽羅が審神者の言葉に心動かされたようすはない。むしろ疑いの眼で審神者を見据える視線だが、審神者は負けじとぎゅっと唇を引き結んで応える。引くつもりはなかった。
「主」
そんな中、宗三の声が耳に入る。視線を其方に向けたと同時に、宗三は静かに言葉を紡ぎ始めた。
「彼が何故怒っているか分かりますか? ああ、返事は結構です。きっと分かっていないでしょうから」
口を開くことが難しい体勢ながら返事をしようとしたが、先手を打たれ、審神者はそのまま口を閉ざした。
「彼は貴方に護衛がつく前から、貴方の身を案じていた刀の内の一振りです。貴方が全く、警戒することなく小狐丸を寝床に招いていた時から、貴方の身を案じて様子を見に行っていた刀は他にもいます」
「……何だと?」
全く予想していなかった言葉である。審神者は眉間にしわを寄せて、大倶利伽羅は苛立ちを露に舌を打った。
「余計なことを言うな」
「言いますよ。言わなければ、この朴念仁は理解しません」
宗三の言葉に、大倶利伽羅は審神者への力を弱めることなく、けれど一理あるとでも感じたのか、同意を見せるように口を閉ざす。それを良しと受け取って、宗三は続けた。
「小狐丸が貴方に懸想しているのは明白。ただ貴方だけが、あれは甘えているだけと呑気に構え、好き勝手を許している。即物的な平安刀に貴方が未だ犯されていない理由を教えてあげましょうか? 大倶利伽羅含め、貴方の身を案じた刀が、自主的に、夜な夜な見張って牽制していたからですよ」
まるで、冷水を頭からかけられたようだった。
それは、審神者が初めて耳にする情報だったからである。
「そんな……まさか小狐丸が……」
いいかけて、また口を閉ざす。そんなわけがないといいかけて、少し迷った。確かに小狐丸は審神者に好意を抱いているようだが、それがいつからなのか、審神者は知らない。けれど審神者には小狐丸が最初から下心を持っていたとは思えず、宗三の言葉をすんなりと信じられないでいる。
審神者には小狐丸と添い寝をしている間、そのような素振りがあったような記憶は全くない。にも関わらず、大倶利伽羅だけではなく、他の刀剣男士も審神者の身を案じていたという。審神者は混乱していた。
「……小狐丸は、本当に添い寝していただけだったよ。妙なことは何もされなかった。初めからそうだったとは思いたくないが……そこまですることはなかったのでは……んんっ」
納得することが出来ずにそんな風に答えれば、審神者の口は大倶利伽羅の手のひらで覆われてしまった。それだけでは済まず、ぎちぎちと大倶利伽羅の指が審神者の顔に食い込んでいく。今まで大倶利伽羅を怒らせたことは何度かあったが、ここまでの剣呑は見たことがない。審神者は物理的に言葉を失い、その剣幕に腰が引けた。
「大倶利伽羅さん落ち着いて!」
「気持ちは分かるが押さえるんだ! 主がここまで愚鈍なことは君も知っていたことだろう!? いや、気持ちは分かるが!」
「二回も言わなくて良いよ歌仙! 主が怯えている。大倶利伽羅、もうその辺に……」
さすがに見かねたらしい堀川、歌仙、蜂須賀が大倶利伽羅のことを宥めるように押さえて、ようやく審神者の顔への拘束は緩んだ。その隙をつくようにして、審神者の背後に回った和泉守に引かれ、回収される。背後から腹部に回された腕の力は強くも優しく、和泉守にもたれるような形で後ろを見上げれば、呆れたような表情を浮かべる和泉守がいた。
「アンタ、やるなら本当に覚悟しとけよ。手前で言った以上、オレはアイツ等を止めたりなんかしねえからな」
そこまで口にすると、和泉守は今度は真剣な顔で念を押す。
「どんな結果になっても、アンタが自分で決めたことだ。ちゃんと責任を持てよ。途中でケツまくって逃げるような真似はすんなってことだ」
審神者はその言葉を受けて、少しの間を置いて頷いた。
「――ああ、分かっている。どんな結果になっても……いや、何度も言うが、本当に誰ともどうにもなる気はないのだが……」
「どうなるかなんて分かんねえだろ」
困ったように審神者は口を閉ざし、和泉守は呆れたようにわしゃわしゃと審神者の頭を撫でた。
「まー好きにやれよ。どうせ、言ってもアンタは聞かねえだろうからな」
「ああ。ありがとう、和泉守」
審神者は僅かに目を細め、和泉守の言葉に感謝した。けれど、これでこの場が収まったわけではない。審神者の目の前にはまだ、怒り心頭の大倶利伽羅と、それを押さえている三振りがいる。このまま解散は出来まい。
和泉守の腕が離れ体が自由になると、審神者は未だ三振りに止められている大倶利伽羅の元へ向かった。大倶利伽羅を落ち着かせなければならない。けれどもう、審神者が言葉を撤回しなければ、大倶利伽羅は納得しないような気がしている。けれど、諦めるわけにも行かない。どうすれば大倶利伽羅に納得してもらえるのだろうかと、審神者は必死に思考を巡らせた。
「……大倶利伽羅」
大倶利伽羅の目の前で畳に膝をつき、前のめりな姿勢となった審神者は、ぎらぎらとした視線を向ける大倶利伽羅の目を真っ直ぐと見つめた。例え納得してもらえなくとも、この目から逃げるような真似はしてはいけないと、その意識だけはあった。
「小狐丸の件はともかく、お前が私を気にしてくれていることは知っている。けれど、今の状態のままではいられない。同じことしか言えないけれど、私はお前が危惧しているようにはならないよ」
大倶利伽羅は三振りの腕を払い、かといって審神者に対して何かをするということもなく審神者の言葉を待つ。大倶利伽羅は、こういったところはきちんと待ってくれる刀だ。審神者はそれを知っている。言いよどむことも、恐れもなかった。大倶利伽羅がどのような気持ちで審神者にああ言ったのか、きちんと分かっている。
「振り回してしまっている自覚はある。迷惑をかけてしまっていることも。けれどどうか、もう少しだけ見守っていてほしい。これが最後だ」
真っ直ぐと向けられた視線が鋭さを増す。大倶利伽羅は審神者の言葉にやはり納得した様子はなく、空気が震えているのを感じ取った。
そんな時である。まるでこの場の全員に聞かせるためにつかれたような、悩ましげな、呆れたような、どこか艶のあるため息が耳に入ってきたのは。もう何度目のそれか。その主はもちろん宗三のものである。
「――分かりました。では、こうしましょう」
大きい声というわけではないが、それは部屋の中によく通った。大倶利伽羅と審神者の間に割り込むように移動した宗三は、審神者を見下ろすと同時に、審神者の目を真っ直ぐと見つめて審神者の頬に手のひらを添えた。
「私から貴方に渡しておきたいものがあります」
「……渡しておきたいもの?」
「ええ。貴方に‘逃げ道’を一つ。貴方が無事でいれば、僕はそれで十分ですから。だから、これは最後の一手として記憶の片隅に置いていて下さいね」
それはこの状況を鎮めてくれる内容なのだろうか。そうであってほしい。そんな期待とは裏腹に、審神者の本能が既に察してしまっていた。どちらにせよ、良いものではないことだろう。嫌な予感しかない。正直、聞きたくないというところが本音であった。
宗三は整った微笑みを携えて、目を細めた。
「良いですか? もしも貴方が勢いに流され、不本意な選択をしかけた時には――その場で僕を選びなさい」
審神者の予想通り、否、予想以上に酷かった。宗三の一言に一同がざわつく。何を言っているんだ、正気か、まさか君まで、とか。その声を耳で拾いながら、冗談を言っているようにはとても見えない宗三に、審神者は顔をしかめてしまう。
「……やめろ宗三。話がややこしくなる」
「おや、僕では不満ですか」
「そういう話ではないよ。違うけれど、一体何のつもりでそんなことを……」
「良い案でしょう?」
良いですか?と、宗三はまるで小さな子供に言い聞かせるように話し始める。審神者だけでなく、部屋に集まった一同もその言葉に耳を傾けるのは、宗三の言葉の真意を皆知りたいからに違いなかった。
「対象が明確に決まっているわけではないでしょう。貴方が直々に話をもちかけ、それに刀が乗ったというだけです。貴方は一月だけ、彼らの想いを否定せずに受け入れる。その間に、貴方が選んだ場合のみ関係が成立する。ここまでで、何か違いはありますか?」
「……いいや、間違ってない」
だが、そこで宗三を選べ。という言葉に繋げることは些か乱暴な気がする。宗三がまだ話している途中だが、審神者は既にどうやって断ろうかと考えていた。
「どうせ貴方は強情ですからね。今更、自分の言葉を撤回なんてしないのでしょう? ならば、いっそのこと、誰も選ばないなんて言わずに、早いところ僕を選んでしまえばいいんですよ。それで強制的にこの騒動は収まります」
宗三は審神者の頬を撫で、そのくすぐったさに審神者は困り顔を浮かべる他ない。唇を引き結んで、審神者はその手をやんわりと引き離そうと手を伸ばす。宗三の手の甲に己の手のひらを重ねたところで、宗三は続けて言った。
「貴方が僕を選ぶことで、僕と貴方の関係が変わることはありません。ただ建前上、貴方と僕は恋仲になってしまうわけですが……問題ありません。僕は貴方をどうこうしようなんて考えませんから、本丸は今まで通りですよ」
「解決法が乱暴過ぎやしないか……」
宗三が言わんとしていることは分かった。けれど、だからといって受け入れるようなことはしない。既に問題点や突っ込みどころが満載である。宗三の言葉に乗った後の未来を考えると、頭が痛くなってくる。
宗三の手をやんわりと離し、審神者は息をついた。
「それで引き下がってくれるとは思えない。それに、お前に何があるかも分からないんだ。出来ないよ」
簡単に言ってくれるが、その案は宗三にも良くない影響があるものだ。尚更受け入れるわけにはいかない。審神者は断って、己から離した宗三の手を解放する。視線を宗三から逸らそうとした審神者であったが――頬を両手で挟まれ、強引に目を合わされた。
左右で色の違う瞳が真っ正面から審神者の目を見つめている。
その視線があまりにも真剣だったため、審神者は思わず口を閉ざしてしまう。宗三に向けた審神者の瞳は微かに震えてしまっていた。
「――…貴方のためなら構いません。貴方の泣き顔を見るくらいなら、多少の恨みを買うぐらい、安いものです」
「……宗三」
すり、と頬を撫でられ、審神者は今度はその手を振り払うことが出来なかった。そうだった。宗三は審神者のことを、案じてくれていた。宗三にとってろくでもないというような行動をとっている審神者でさえ、きっと、これからも変わらず守ってくれているのだろう。
内容は受け入れられないが、審神者は、もうなんといえばいいのか分からなくなってしまった。否定の言葉すら何も出てこない。
「深く考えないでください。ただの選択肢ですよ。貴方が絆されそうになった時、僕の名前を呼んでくれれば良い。最後の保険です。問題はないですよね? 僕だって貴方を慕っている。貴方が大切なんです。……彼らとは少しばかり、形が違いますけどね」
そこまで考えてくれていることは有り難い。そんな逃げ道も、確かに選択肢の一つとして数えることも出来るのかもしれない。けれど、宗三の言葉に従った場合、余計に状況は酷くなってしまうことは間違いない。
けれど、けれど。
「ああ、成る程。その手があったか」
出来るわけがない。そう思い審神者がそう口にする前に、宗三の案が妙案だというように蜂須賀が声をあげる。蜂須賀は素直な性根であるため、審神者よりもずっと柔軟に宗三の言葉を受け入れたようだった。
「良いね。じゃあ、俺のことも選んでくれて良いよ、主。なんといっても虎徹の真作だからね。彼らにも見劣りはしないと思うよ」
「蜂須賀……気持ちは有り難いが、そういう問題では……」
「おや。貴方は俺では不満かな?」
「そういうわけでもないよ。けれど……」
先ほどの宗三と同じようなことを言う。そんな風に言われてしまっては、審神者としても同じように返すことしか出来ない。
ひょっこりと宗三の隣に並んで審神者をみる蜂須賀の反応は、どこか楽しそうにも見えた。審神者が困り顔で言いよどむ様が、面白く思えたのかもしれない。審神者の返事にふふっと笑って、蜂須賀は審神者の頬を悪戯につついていく。
「冗談だよ。でも、貴方が自分の意思で選んだことなら良いけれど、そうでないときの手段としての選択肢は俺も必要だと思うよ。宗三がいっていることも、そういうことだろう?」
「そういうことです」
宗三はぱっと審神者の頬から手を離し、蜂須賀もつついていた指を引っ込める。残された感触の名残だけが審神者に残り、審神者は肩を落とした。
「……気持ちだけ受け取っておく」
いよいよ収集がつかなくなりそうだ。審神者はそれだけを口にして、改めて息をつく。そういった機会は与えるといったが、そういった関係になる気は更々ない。そう散々口に出したものの、揃いも揃って、審神者が絆されると確信している。己の普段の行いのせいだろう。
本当に頭痛がしそうだ、なんて思い、目を逸らすように伏せてしまう。
「主さん、」
すかさず、膝の上の審神者の手に、手の平が重ねられる。その手と共に聞こえた声は堀川のもので、審神者が目線を向ければ、やはりそこにいたのは堀川であった。審神者の様子を伺うように上目遣いで見ている堀川は、ぎゅっと審神者の手を包み込むように握って、言った。
「僕もその選択肢に入れて下さいね」
「堀川……」
全く予想できないということではなかった。だからこそもう何も言葉が出てこない。
「――君たちは甘やかしが過ぎる!」
我慢ならんといったように歌仙が声を上げる。こめかみに青筋を浮かべて、ご立腹のようだった。そんな歌仙の反応に慣れた様子で和泉守が口を開く。からかっているような軽い口調だった。
「そうだよな。主がそうするってんだから、放っておくべきだよあ? もしもの手段なんて必要ねえよなあ?」
「くっ……そういうわけではないけれど! だが、主が自分で持ちかけた話でそんな不義理な選択をして終わるなど、絶対に良い結果では終わらないだろう!? だったら、もうこの話をなかったことにする方が……」
「ああそうだな。ほらお前等、主が『やっぱり歌仙が一番だから』っつって終わらせちまうのはナシだとよ。自分で言い出したことだ。主がどんな有り様になろうと、知ったことじゃねえってよ」
「そこまでは言っていないだろう! なんだい? 君は僕に喧嘩を売っているのかい? お望みなら買ってやるが、」
「待て歌仙! 落ち着いてくれ!」
火花を散らしそうな雰囲気である。和泉守にそのつもりはないようだが、血の気の多い歌仙がその気になりかけている。審神者は間に割り込むようにして、既に体勢を変え始めた歌仙を押さえ込んだ。
「お前の言いたいことは分かっている。あのような形で皆を頼るような真似はしないから、どうか落ち着いてくれ!」
「………主。僕は、君の身を案じていないわけでは……」
「分かっている! 大丈夫だよ、歌仙」
歌仙の両手首をそれぞれ掴み、審神者は罰の悪そうな歌仙の顔をのぞき込んだ。歌仙はぎこちなく視線を返して、審神者の目を見つめ返している。
「駄目だよ、兼さん。今のは兼さんが悪いからね」
「分かってるっつーの。ただよお、之定。一度も主はオレらを頼るなんていってねえのに、甘やかしすぎって怒鳴るこたあないだろ。ここまで主が意地張ってんだから、もう認めてやれって」
意外である。あれだけ審神者に対して過保護だった和泉守が、ここまで審神者の意思を尊重してくれるなんて、と。思えば、和泉守が過保護なのは本丸の外にいる時だけだっただろうか。そう考えれば意外ではないのかもしれないが、こんな風に審神者の肩を持ってくれるなんて考えていなかった。
審神者は期待を込めた視線を歌仙に向け、それに気づいた歌仙は考え込むような無言を流した後、観念したようにため息をつく。
「――……分かったよ。もう、君の自由にするといいさ」
審神者は目を丸くした。審神者の決断を知ってから、条件反射で包丁を持ったまま飛び出してきたほど激昂していた歌仙が、やっと認めてくれた。審神者は喜びよりも驚きの方が勝っている状態で、ぱちぱちと瞬きを繰り返した。望んでいた展開だったが、これは夢なのではないかと思っていたくらいである。
「……そうか。ありがとう、歌仙」
あまりのことにそれ以上の言葉が出てくることはなく、これで、この場にいる大倶利伽羅以外の刀剣男士に認めてもらったことになる。審神者はようやく希望が見えてきたような気がした。
(あとは大倶利伽羅に……)
そこまで考えて審神者が大倶利伽羅をみようとした矢先、大倶利伽羅は立ち上がる。そうして大きなため息をついて審神者を上から見下ろした。もしかして、大倶利伽羅も歌仙に続いて審神者の考えを認めてくれたのだろうか。そんな期待を込めて見上げた審神者は、己の考えが浅はかであったことを知ることになる。
「――……勝手にしろ」
認めてくれた、といえばそうなのかもしれない。けれど大倶利伽羅のその発言は、そう簡単に判断出来るような意味合いではなく。審神者の自由にしろと言っているのか、それとも、審神者の意見など知ったことではないと言っているのか。その両方の、どちらにもとれたのである。
「……大倶利伽羅!」
チッと苛立ちを露わに舌打ちをして、荒い足取りで部屋から出ていった大倶利伽羅の背中を追うように審神者が名前を呼んでも、大倶利伽羅は決して足を止めようとはしなかった。
周りの刀剣男士に確認するまでもない。大倶利伽羅の気を悪くさせてしまった。当然である。今までの大倶利伽羅の行動を踏まえたうえで己の行動を思い返せば、何もおかしなことではない。ただただ、申し訳なさだけが残る。かといって、己で決めたこと。うじうじした言葉は吐くまいと、審神者は己を落ち着かせるように息を吸った。
「……主」
「分かっている。平気だ」
審神者の様子を伺うように呼ばれた歌仙の声にそう答え、審神者は背筋を伸ばす。大変なのはこれからである。こんなところで足を止めるわけにもいかない。ここで後悔を見せるような真似はするまい。
「重ねて言う。信じては貰えないかもしれないが、本当に問題はないよ。決して頷かない。私は必ず一月逃げ切ってみせるから、心配しないでくれ」
皆の耳に入れるように、あるいは己に言い聞かせるように。
ここまで皆を振り回してしまったのだ。必ず、結果を出さなければならない。勿論、良い結果を、である。皆にも、勿論、大倶利伽羅にも、不甲斐ない姿を見せることがないようにしなければならない。
審神者は改めて、強く決意したのだった。
「逃げ切るって考えが既に危険なんですけど」
宗三の呟きに、その場の刀剣男士全員が同意したことはいうまでもない。
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