これからの行く末について、審神者は弟弟子と話を進めていた。審神者の考えに弟弟子が駄目出しをし、そこを修正していくといった流れである。そこに途中で加わった青江と、厨当番を抜け出してきた三日月、当番を終えて、三日月を説教するために部屋に来た長谷部。最終的にその面子が揃い、審神者に助言をしてくれた。
違う本丸とだけあって、客観的な視点での意見が飛んでくる。己の本丸では決して聞けないだろう意見は、審神者にとって非常に貴重であった。
――気づけば、すっかり夜も更けていた。
[chapter:審神者は恋ができないH]
深夜を回り、静けさだけが残る本丸に帰還した審神者は、様子を伺うように足を止めた。
(良かった……皆、眠っているみたいだな)
弟弟子が連絡をしているからと深く気にせず、本丸に己で連絡しないままだった。騒ぎになっている可能性もあったが、こうして本丸を見渡す限り、そういったこともなさそうである。安堵した審神者は、肩の力を抜いた。
既に夜は深く、このまま泊まっていかないかと弟弟子に言われもしたが、無断外泊は流石に気が咎めたのだ。門まで見送りにきた弟弟子は去り際に、まるで審神者の今際に立ち会うかのように、神妙な表情でこう言った。
『――上手くいけばいいが、失敗して実力行使でこられたらもう駄目だ。いいか? そうなったら金玉蹴り上げてここに避難しろ。後のことはそれから考えりゃいい。あいつら刀剣男士でも股間は鍛えてないだろうから大丈夫だ。それで十分逃げられる。最悪つかいもんにならなくなっても手入れがある。なに、心配するな。全力で蹴り上げろ。神だろうが刀だろうが道に外れたら遠慮はしなくてもいい』
『……そうならないために、この時間まで助言を貰っていたんだが』
『危ないことに変わりはねえだろうが。そりゃあまあ、全部一気に片づけるのは良いだろうが、一気に片づけるって事は、一気にかかってくるってことだからな。忘れるなよ!』
普段はちゃらんぽらんで不真面目なことばかりをする弟弟子が、ここまで真剣な表情で言葉を並べるなど。その意味が分かっている審神者は、問題ないと強気で返事をすることもできなかった。ただ、その言葉をちゃんと聞き遂げたという意思表示に、こくりと頷いただけである。
『俺と恋仲になった、と言って断ってくれても構わんぞ。そうすれば、俺を斬りに奴らはここまで来るのだろう? それはとても面白そうだ。長らく戦場に出ていないからな。そろそろ真剣勝負がしたい。腕がなる。なあ、主よ』
『ハウスだ三日月! 爺はもう寝ろ!』
いつの間にか後ろに来ていた三日月を引きずって建物内に戻る弟弟子の背中を見送る。審神者に振り向いて微笑んだ三日月に、審神者は緩く手を振った。物騒な発言にも思えるが、三日月の境遇を思えば、審神者は特におかしいとは思わなかった。弟弟子の本丸の三日月は、初めて顕現された太刀であり古参だったため、既に練度が上限に達しているらしい。数居る他の刀剣男士の練度を上げるため戦場を離れているため、本丸で暇を持て余す時間が増えているらしい。審神者の本丸は弟弟子ほど刀剣男士が揃っていないため、ずっと本丸に待機をしている刀剣男士はそういない。だが、いずれ、審神者の本丸もそのようになるのかもしれない。
そんなことを考えながら、審神者は門をくぐった。
記録は残されるが、審神者同士が許可をしているのであれば、門と門を通して、本丸同士をつなげることは可能である。だがそれは一時的なもの。移動が済めば速やかに繋がりは解除される。
こうして、審神者は本丸に帰ってきたのである。
(……遅くなってしまったな)
己の本丸の門を通って、設定を解除して。本丸から出ることも滅多にない審神者のこと、勿論、こんな時間に本丸に帰ってきたことは初めてである。だが本丸の静けさから考えるに、特に問題はなさそうである。
(これで、少しは加減してくれるようになってくれれば良いが)
護衛がつかなくても、本丸の外に一人で出るくらい何でもないのだ。審神者は深夜帰宅の罪悪感を誤魔化すように心中で呟きながら、出来るだけ物音を立てないように玄関に向かう。
そうして、玄関に手をかけた時。審神者が開くよりも先に、がらりと音を立てて玄関が開かれた。暗がりの中、玄関の中から審神者の前に現れたのは、髪を下ろした状態の安定である。
「……主。帰ったんだね」
「ああ。ただいま、安定」
手を伸ばし、審神者の頬に触れた安定の手は冷えていた。安定は、審神者の存在を確認するようにそのままぺたぺたと顔に触れていく。それに困ったように顔をしかめながら、審神者は安定に問いかけた。
「起きていたのか?」
「寝られるわけないでしょ。主がこのまま帰ってこないかもしれないって清光がうるさいから……僕達だって、気が気じゃなかった」
「そんなわけがないだろう。……他の者も起きているのか?」
安定の物言いに引っかかってそう問いかければ、安定はきゅっと唇を引き結んで、ふるふると首を横に振る。
「騒ぎになっちゃうと主だって困るでしょう? だから、主のことは僕達だけの秘密にしたんだ。知っているのは僕と長曽祢さんと、清光だけ」
「……そうか。それは助かる」
本丸が静かだった理由はそれだったのか。審神者が信頼されているからではなかったと気づき、審神者は少しだけ表情を曇らせた。冷静に考えればそうに決まっている。ちょっと半日留守にしただけで変わるような関係ならば、苦労はしていない。
だが、本丸が騒ぎになっていては審神者も困っていたに違いない。安定の判断は、審神者にとっても有り難いものであった。ぴったりと頬に合わせられた手に己の手を重ね、審神者は静かに目を伏せた。
「迷惑をかけたな。すまなかった、安定」
この時間まで起きていたことを思えば、己の行動が護衛係であった安定に負荷をかけてしまっていたことは明白である。謝罪をすれば、安定は困った素振りを見せて、審神者から静かに手を引いた。
「謝るのはこっちの方。あれから、確かに僕たちもやりすぎだったかもって話をしてたんだ」
「謝らなくて良い。ただ……そうだな。今一度、お前たちと話はしなければならないな」
話すべき事はたくさん残っている。とはいえ、ここでするには適切ではない。長い話になるだろうし、何より、安定だけにすれば良い話というわけでもない。ひとまず、安定を休ませるべきだと判断した。
「だがもう、今日は休んでくれ。遅くまですまなかった」
「……うん」
「主。帰ったのか」
安定の奥から聞こえた声に、審神者と安定は同じ場所へと視線を向ける。そこでは長曽祢が小さく目を見開いて審神者を見下ろしていた。あっという間に審神者の目の前、安定と並ぶように立った長曽祢は、審神者の姿を上から下まで見下ろすと、ほっと安堵の息をついて、小さく笑った。
「……無事なようで、何よりだ」
「ただいま。長曽祢。心配をかけたな」
「そうだな。今夜のは、肝が冷えた。次は一振りでいい。供をつけてくれ」
「……必要ならばな」
素直に頷くことが出来ずに言葉を濁した審神者に、長曽祢は困ったように苦い表情を浮かべた。どうやって審神者に首を縦に振らせようか、そう考えているような表情であった。
だが不意に、長曽祢はハッとした様子を見せて、周りを見渡した。
「……主」
「どうした?」
そして怪訝そうに顔をしかめて、審神者に問いかける。
「加州はどうした?」
その質問の意味が分からず、審神者は静かに眉を潜めた。
「清光がどうかしたのか?」
審神者の様子にさらに長曽祢は顔を曇らせて、無言の後、玄関を出て門に向かって進んでいく。そうして数歩進んだところで、足を止めた。
「いつまで隠れている」
その言葉にハッとして、審神者も長曽祢を追いかけた。一体どういうことなのか、詳しく話を聞かなくても察することは可能だった。清光が、きっとここにいるのだろう、と。けれど、隠れている。審神者から姿を隠してしまっている。
「……清光? いるのか?」
審神者がそう呼んでも、返事はない。からからと、審神者の歩く足音だけが聞こえてくるだけで。もしもここに清光が潜んでいるのならば、聞こえていないはずがない。ただこの場に立って返事を待つだけでは、清光は出てこないかもしれない。
ならば、と。審神者は気持ちを定める。簡単なことだ。出てこないならば、此方から出向けば良いだけのこと。審神者は長曽祢と目を合わせて、微笑んだ。
「……長曽祢。お前も、安定と共に休んでくれ。後はもう良い」
「だが、」
「悪いようにはしない。気にするな」
まだ納得できていない素振りであったが、それでも長曽祢は口を閉じた。それを了承と受け取って、審神者は長曽祢に背を向けて歩き出す。その後ろに来ていた安定も、同じような反応である。
審神者は足を止めることなく、一本の木の陰に近寄っていく。清光はそこにいる。根拠は直感ではあったが、審神者にはその確信があった。ゆっくりと歩いているが、足音を消すことも出来ずにいるが、それでも清光が逃げる気配はない。
「――…清光」
身を隠すように木を背中に張り付けて、そこに清光はいた。審神者の声が聞こえているはずなのに、それでも返事をしない清光は、目を伏せて、審神者を視界に入れようとしなかった。審神者はその姿に思うところがありつつも、まずは清光に優しく声をかける。
「ただいま。遅くなってすまなかったな」
言って、審神者は清光の目の前に移動して、そっと目を合わせようとする。けれど逃げるように、清光は視線を泳がせてしまう。不安そうにだらりと落としていた右腕を掴んでいた手に、力がこもっていたようだった。
「………おそい」
ぽつりとこぼされたのは、その一言だ。声が聞けた事にほっとして、審神者は静かに目を細めた。
「……そうだな。色々と話し込んでしまって、こんな時間になってしまった」
答えれば、少しの沈黙の後、清光は自嘲するように口を開いた。
「なに、俺の悪口とか言ってたの?」
「っ――そんなわけがないだろう……!」
勿論、否定する。己の不甲斐なさを呪っても、清光を貶めるような言葉を吐くわけがない。審神者が裏でそういったことを口にするのだと、疑われてしまったことも、気分が悪いというものだ。
審神者は語気を荒くして言ったが、それでも信用できないと言わんばかりに、加州清光は審神者のことを見ようとはしなかった。
「嘘。俺が駄目な刀だから……もう要らないとか、思ったんでしょ。だから近侍はもういいって言うし……こんな時間まで帰ってこないし。――俺のこと、役立たずだって思ったんでしょ? そうに決まってる」
「思っていない! 馬鹿なことを言わないでくれ。私にはお前が……」
「――馬鹿って、なに」
審神者の言葉を遮るように声を張り上げ、清光はそこでやっと審神者の顔を見た。赤くなった目元は、擦った後のように腫れぼったくなっている。それをようやく正面から捉えることが出来た審神者は、清光の勢いもあって、口を閉ざしてしまう。
「俺、色々考えたんだよ! 全部主のためだよ! っ……ちゃんとは、出来なかったけど!」
目を合わせたことで、張りつめていた糸が切れたようだった。ぽろぽろと涙がこぼれ落ち、審神者に訴えかけるように、声が震えてしまっていく。
審神者は動揺して、清光に言葉をかけなければと思うにも関わらず、そのタイミングを逃し続けてしまう。堰を切ったように、次から次へと清光の言葉は止まらなかった。
「主が困るからって、俺いっぱい我慢したのに! 主を守りたくて、主がしたいように出来るようにって、俺、すっごく考えて――…ほんとは、駄目だって分かってたよ! けど、でも、こうしないと主がやなことされるんじゃないかって思ってっ……」
しゃくりあげながら続けられる言葉に、審神者は言葉を挟むことが出来ずにいた。清光の涙が、審神者は殊更に苦手だったのだ。
「…――俺だって、好きであんなことしたんじゃないのに!」
その悲痛な声に、かけなければいけないと思っていた言葉すらとんでしまう。あまりの光景に、休むに休めず、心配そうに事の成り行きを伺っている二振りの間にも緊張が走る。
「清光っ…」
明らかに動揺してしまっている審神者は、名前を呼ぶだけで精一杯である。このままでは、何のフォローも出来はしないだろう。誰しもがそう判断するだろう状況ではあった。だが、次に清光の言葉が耳に入ったことで審神者は表情を一変させた。
「俺のことっ、要らないんだったら解かしてよっ!」
捨てられるくらいなら、そっちの方がマシ、と。続けられた悲痛なその声に、審神者はきつく唇を閉ざした。
はじめは、清光の言葉を上手く飲み込むことが出来なかった。けれど少し経ってから、ふつふつと怒りのような感情が、審神者の胸に沸き上がってくる。
誰がそんなことを言ったのだろう。審神者は一度たりとも、清光を不要だと言った覚えがない。清光がよかれと思ってやっていることも、きちんと理解している。責め立てる気など全くない。
それが、どうして、そんな言葉を吐き出すのか。
ぎりっと奥歯を噛みしめて、審神者は清光からほんの少しだけ距離をとり、視線を逸らす。勿論、清光という刀が心から刀解を望んでいるわけではないと分かっている。
理解していても、苛立ちが、審神者の理性を追い込んでいる。口を開けば何を吐き出してしまうのか審神者にも分からず、かといってこのまま清光を放置することなど出来るわけもない。
(気安く口にしてくれる……)
審神者は煮えたぎる思いで、額を抑えた。これからのことをきちんと話さなければと思っていたが、今はそれよりも先に伝えなければいけないことが残っている。だが、どう伝えればいいのか分からず、言葉が出てこない。
審神者は、苛立ちを露にため息を吐いた。それにびくりと肩を揺らし、清光はくしゃくしゃに顔を歪めて、投げやりに口を開く。
「……ほら、主だって俺のこと、」
ろくな言葉が続かないだろう。審神者は清光が言葉を続ける前に清光の腕を掴んで、己の方に引き寄せた。強く審神者に掴まれたことで口を閉ざした清光は、引かれるままに、一歩審神者へと近づいた。
審神者は鋭い目つきで清光を睨みつけ、その勢いに清光も押し黙る。そして、審神者は清光の腕を離して、代わりに清光の腰に腕を回して、強く引いた。そしてもう片腕を膝の裏に回すと、勢いをつけて乱暴に抱え上げた。
「っ、ひゃっ、あ、あるじっ!?」
細身といえど、清光は女性ではない。成人男性並の体重はあるだろう清光の重さはずしりと審神者にのしかかり、しかし審神者は重心をしかと保って、清光を抱き上げたまま歩き出す。気が急いて、履き物を脱ぐことも億劫であると、玄関を通ることなく外から回って離れに向かっていく。
途中、心配そうにこちらを見ている長曽祢と安定と視線が重なる。まだ部屋に戻っていなかったのかと思いながら、審神者は言葉を失っている清光の体を落とさぬように強く寄せて、すれ違いざまに口を開く。
「清光は連れて行く。もう休め」
普段の穏やかさは顔を潜め、これから戦に出向くかのような険しい表情を浮かべた審神者に、二振りは何も言わずに頷いた。反射的に長曽祢の腕を掴んだ安定は、不安そうとも嬉しそうともいえない表情を浮かべていた。
「主! あるじったら! 重いでしょ? おろしてっ」
長曽祢と安定の視線を背に受けながら、それでも振り返ることなく歩いていく。清光は審神者の肩と背に手を置いたまま、焦った声で先ほどからずっと審神者に下ろすようにと言い続けていた。勿論、審神者が清光の言葉に頷くことはなく。むしろ一層、強く抱くように力を加える。
軽くなどない。清光ほどの重さをここ一年の間に抱えたことなど、おそらくない。重みはある。けれど、この重さが愛しかった。離してなるものかと、そう思うだけだ。
審神者は、清光、と静かに名前を呼んだ。遠慮がちに審神者に当てられていた清光の手のひらが、ぴくりと反応する。
「――お前が僕から離れたいのならば好きにしろ。止めはしない」
相手こそ違うが、刀解を申し出されることは二度目だった。そう言わせてしまった原因は、紛れもなく己にある。腹の底からこみ上げてくるこの感情は己の不甲斐なさが原因であると、審神者はやっと理解した。清光にそう言わせてしまうほどのものを、きっと審神者は負わせてしまっていたに違いない。
ここまでくるまでに、清光の中に葛藤があったはず。抱え込んで押さえ込んでいたものが爆発したからこそ、清光はここまで口にしたのだ。審神者が己の在り方に悩んで己のことばかりを考えている間に、清光は自分の心ばかりを追い込んでいたのだ。
「っ……」
審神者の言葉に清光は言葉を失った。審神者の肩に置かれていた手が震えて、それは審神者にも感覚として伝わった。審神者はそれを感じながらも、吐き捨てるように口にする。
「――だが、僕の方からお前を手放すことは決してない。僕にはお前が必要だ。昔も今も、これからだって変わらない。本気でないのなら、先のような言葉は二度と口にするな」
そう口にして、審神者は唇を強く噛みしめた。
「お前を失うなど、考えたくもない」
険しい表情は隠しきれず、審神者は一歩一歩、地面を踏みしめるようにして歩いていく。すぐそばで清光は息を呑み、そして、力を抜いていく。
「――……ごめん。ごめんね、あるじ」
少しして、小さく清光は呟いた。審神者は何も言わず、変わりに、辿々しく首に回された腕の熱に、静かに目を細めた。
離れにたどり着き、縁側に回り込む。そうして、ゆっくりと清光を下ろした。流石に、ここまでくる間に少しは頭も冷えた。些か、乱暴な手段を選んでしまったかもしれない。
縁側に確かに清光が腰を下ろしていることを確認してから、審神者はそのまま身を離そうとする。
「……清光?」
けれど離れたくないと主張するように、首に回されていた清光の腕が審神者のことを引き寄せてしまう。審神者が清光に目を向ければ、既に真っ赤に腫れてしまっている目元が痛々しく、けれど赤く燃えたその瞳は、愛しそうに審神者のことを見上げている。
「……もう一回、言って。さっきの、」
縋るように、睫毛が震える。向けられた視線が、瞳が、審神者に言葉には出来ないような感情を覚えさせる。審神者は清光から目を逸らさぬまま、静かに口を開いた。清光が望むのならば、何回でも口にしよう。そう思えば、それを躊躇うようなことはなかった。
優しく目を細め、審神者は告げる。
「僕にはお前が必要だ。お前が望む限りで良い。――ずっと、僕の隣にいてほしい」
優しく清光の頬を撫でながら、そう告げる。清光はまた泣きそうな表情で、けれど柔らかく目を細めていた。二度目だ、と小さく呟く言葉は、満たされたような声であった。
「気持ち、変わってない? 俺、ぜんぜん主の役に立ててないよ。それでも、そう思ってくれるの? 俺でいいの?」
潤んだ瞳に、己の姿が写っている。それが認識できる距離で、審神者は表情を綻ばせた。気持ちが溢れて、ありったけの言葉を、気持ちを捧げたくなる。清光を笑顔にしたい衝動が抱えきれないほど溢れてきてしまう。
(こんなに大切に想っているのに、どうして上手く伝わらないのだろうな……)
審神者はそっと顔を寄せると――そのまま、唇を清光の瞼の上に押し当てた。熱が、唇を通して伝わってくる。
「お前が良い」
数秒経って唇を離し、審神者は何もなかったかのようにそう清光に答えた。愛情を示すように頬を撫で下ろせば、清光の熱は先ほどよりも上がったようで。潤んだ視線はそのままに、清光は審神者の首に回した腕に力を入れ、更に自身の方へ引き寄せようとした。
けれど審神者はハッとして、勢いよく清光から体を離してしまった。こんなことをしている場合ではなかったのに、と。
「すまない。今、冷やすものを持ってくる」
「えっ!? いいよそんな……」
「良くない。このままでは明日も目元が腫れてしまうだろう」
怪我は手入れで直せても、疲労のような不調は手入れでは直らない。このままでは、明日も清光の目元は腫れっぱなしだろう。熱の上がった頬に触れた事でそれを思い出した審神者は、急いで履き物を脱ぎ、離れの洗面所に向かっていく。
「待っていてくれ」
気遣えなくてすまなかった、と。そう言い残して早足に離れていく審神者の背中を横目に、顔を赤くしたまま、清光がふてくされたように呟いていた。
「本当にそうだよ……主のばか」
冷たい水で濡らして絞った手ぬぐいを持って、審神者が戻ってくる。審神者の残した言葉通りに大人しく待っていた清光は、どこか恨めしそうな目を審神者に向けていた。
「おそい」
「……すまない」
唇を尖らせて言う清光に、審神者は困ったように肩を落とす。膝をついて清光の目元に手ぬぐいを当てながら申し訳なくそう言うと、清光は困ったように笑った。
「嘘。思ってないよ」
審神者から手ぬぐいを受け取ることなく、審神者にしてもらうことを選んだ清光は、甘えるように審神者に体重を預けてくる。審神者はそれに驚きを覚えつつも、受け入れる。けれど上手く抱えこむような体勢には出来ず、結果的に、清光を膝枕で受け入れる形になってしまった。
一時は清光を起こそうと思ったけれど、清光が思った以上に機嫌良さそうに笑っていたので、審神者はそのままでいることに決める。清光の目の上に冷えた手ぬぐいを乗せて、空いた手の平で優しく清光の頭を撫でていった。
清光は静かにそれを受け入れ、唇を緩ませた。つられるように、審神者も笑う。
それから、審神者は清光からたくさんの話を聞いた。
審神者をどうしても守りたかったこと。審神者が優しさ故に、全てを受け入れてしまうのではないかと不安だったこと。守られること、子供扱いされることを審神者が嫌がっていたことは分かっていた。だからこそ、審神者の負担にならないように、審神者にも気づかれないように、審神者を守りたかったこと。
弟弟子からの連絡を取り次がないことに対して、本丸の中でもちろん賛否両論があったこと。けれど、審神者を守りたいという気持ちはどちらも同じ為、結局は皆が賛成したこと。とりわけ、審神者がまだ子供であったという事実が、それを後押ししたのだと。
主を支えるよりも、守ることを優先してしまった、と。
そこまで聞いて、審神者は顔をしかめた。
「だから、現世の基準でいえば、という話だと言っているだろう」
「でも、子供なんでしょう? 主が甘いのは、そういうところも関係しているんだろうって……危機感なさすぎるんだもん」
「自分で対処は出来る。人の身が相手ならば尚更、」
「そういうところ! そういうところが、心配なの! 俺たち、確かに行きすぎたところはあるけど……皆、主が大事なだけなんだよ……信じて」
もう何度もした反論だが、そう言われてはもう続けることが出来なくなる。
「今日だって、むこうで情に流されて、嫌な思いをしちゃうんじゃないかって心配だったんだよ? 主はあんな風に出て行っちゃうし、もう俺が嫌になって帰ってこないんじゃないかって思って。待ってる間も、主に要らないって言われることを想像したら怖くて、主が帰ってきたときも出られなかったんだ。安定も長曽祢さんも、そんなことありえないって言ってくれてたけど。でも、やだよ。本当に、こわかったんだから……」
要らぬ心配だ。審神者は呆れたように口を開く。
「そんなこと、あるわけないだろう」
「分かんないよ。そんなこと。絶対なんて、ないもん」
情けなさすら覚える。勿論、己に対して。ここまで清光を追いつめていた己が、いっそ憎らしく思えてくるほどに。
「――……清光。すまなかった」
そして、審神者は清光にそう切り出した。清光は何も言わず、手を伸ばす。その手は審神者の指をからめ取って、体温を確かめるように握りしめた。それを握り返しながら、審神者は続ける。
「私が不甲斐ないせいで、お前には負担をかけてしまっていた。分かっていたのに、ずっと、何もしないままで――ついには、お前をここまで追いつめてしまった」
愛想をつかれてしまっても仕方がないほどのことだと思う。今になって、こうして清光が傷ついた姿を見てそう感じたところで既に遅い。己はいつも、遅いのだ。気づくことも、行動に移すことも。自分が自分で嫌になる。
「自分のことばかりに目が行っていた。本来ならば、清光のことに一番に気が付くべきだったのに」
言うと、清光は空いた手で、目の上に置かれた手ぬぐいを退けた。審神者はその姿をじっと見下ろし、手ぬぐいの下から覗いた赤い瞳に写る自分の姿を想像する。こんなに振り回している審神者でも、きっと、清光は主として慕ってくれているのだろう。それが自分の負担になっていたのだとしても、きっと。
その健気さを、己は無碍に扱っている。その自覚が足りなかったのだ。
変わらなければ。以前は、方法が間違っていた。だが今度こそ、間違いではない方法で、事を納めてしまわなければ、と。今一度、審神者は心の中で口にする。
「――終わらせようと思う。アイツの本丸で、逃げることを辞めて、皆と向き合う覚悟をしてきた。もう、お前を泣かせることもなくなる」
審神者を見上げる清光の瞳が、小さく丸くなる。
「――……どういう、こと?」
審神者は、静かに言葉を紡いだ。
「皆の気持ちを、受け入れることにした。審神者であることを理由に、もう逃げたりはしない。だから、もう護衛もつけなくて良いんだ」
そう答えた審神者の言葉に、清光の瞳は確かに動揺で揺れていた。
これだけを聞いても何が何だか分からないだろう、と審神者は説明をする。弟弟子の本丸で話を聞いて、練った策だ。
一見、歩み寄っているようにも思えるかもしれない。けれどこれは、新しい関係を始めるためではなく、今の関係を終わらせるためのものである。それを前置きして、審神者は話し始めた。
「明確に、皆の好意を受け入れる期間を作る。その間は、審神者だからという言葉で逃げるような真似はしない。けれどその代わりに、期間内で私が応えなければ、そこできっぱりと諦めてもらう」
この案を受け入れないのであれば、そこで終わり。二度と審神者から歩み寄ることはしない。けれど案を受け入れたのなら、審神者が応えなかった場合、期間内ですっぱり諦めることを前提条件として呑んでもらう。
これこそが、弟弟子の本丸で考えた策である。
審神者としての断りでなければ、諦めもつくだろう。けれど長丁場ではどう転ぶか分からない。ならば明確に期間を定めてはどうか。期間が決まっていれば、後悔のないように迫ってくるだろう、それを経ても尚審神者の心が変わらなければ、諦めもつきやすくなるはず。そして前提条件としてこれきり、といえば、皆案を呑むに違いない。
条件を呑んで歩み寄る姿勢を見せて、そして報われることはないだろう恋心を、各々で昇華させてもらうこと。狙いはそこにある。
要は、審神者が期間内に首を縦に振らなければ良いだけ、という話である。
それらを話し終わると、清光の目は完全に見開かれ、呆然と審神者のことを見上げていた。
「――本気で言ってる?」
審神者は苦い表情を浮かべる。清光がそう言うことも当然だろう。今まで散々、審神者である以上手は出せないと言ってきたのだ。それが、半日弟弟子の本丸に行っただけで、こんなことを口にする。その豹変ぶりは、おかしなものに見えることだろう。清光の言葉は、何ら不思議ではない。
「本気だ。ふざけていると思うだろう? ……だが、いつまでも、審神者だからと突っぱねても事態は変わらないからな。それに、強気でこの案を説明するだけで、私への気持ちも冷めてくれるのではないかという期待もあるんだ」
この申し出は、とにかく強気で、偉そうに説明すること。長谷部よりも有益な助言が出来ると口にした三日月は、審神者にそう強く念押しした。自尊心の高い刀ならば、よほどではない限り乗ってはこないだろうと。自分に分があるかどうかという評価もそうであるが、何より自分を巡って争えともいえる申し出に、手放しで乗って道化のように踊る真似はできまい、と。この助言の最たる狙いは、小狐丸である。
『小狐丸はあれで‘ぷらいど’が高いからなあ。主の前では猫をかぶるが、あれの本性は野生の獣よ。手懐けようとすれば、途端に離れていくだろう。はっはっは、狐なのに猫を被るとは全く、笑えるな』
主からではなく、刀剣男士から見た姿ならばきっと間違いなどないだろう。少なくとも、小狐丸と三日月は近しい間柄の刀なのだから。審神者としての評価が下がってしまうことを想像すると胸が痛むけれど、それで穏便に事が済むのならばやるしかない。
「……………もー…ほんっと、もお…」
覚悟を決めた審神者に、清光は何ともいえぬ声をこぼす。そしてゆっくりと体を起こすと、縁側に足をぶら下げたまま、繋いだままの審神者の手を引いた。
「こっち来て」
そのまま審神者の腰に手を回して、更に抱き寄せる。戸惑いながらも、審神者はそれに従った。
「色々言いたいことはあるよ、本当にね。でも一番は――…それ、主が本当に断れるのかってところ」
「……断るに決まっているだろう。そのために、こんな時間まで助言を貰って……」
「助言を貰うって、主がどこまでこの本丸のこと話したのか知らないけどさあ。見通しが甘すぎ。どれだけあいつらが悶々と主狙ってるのか自覚ないでしょ。主のいないところでアイツ等が牽制しあってるのも知らないで、楽観的すぎ」
「いや、そんな大袈裟な……都度断っていたのだから、そこまで酷くはないはずだろう…?」
そうは言うものの、清光の言葉に審神者は不安を覚える。上手くいく前提で策を練っていたからか、信頼を置いている己の本丸の清光にそう言われてしまうと、途端に不安を覚えてしまうのである。うっかり熱が冷めそうになってしまうというか、なんと表せばいいのか。審神者は困惑を見せ、けれど今更素直に引くことも出来はしない。
「そもそもそれってさ。主が絆されてうっかり頷いたら、その場で主がその相手と結ばれるってことだよね?」
「……そうはならない」
「なるよ、多分。主はすぐ絆されるし流されるし……それを分かってないのに大丈夫大丈夫っていうから、皆心配してるんだよ」
ふと、体を強く引き寄せられる。そのまま、審神者は清光の膝に横向けに座らせられてしまった。
「っ……」
状況を把握するや否や、審神者は慌ててそこから降りようとする。けれどそれを許さないというかのように、清光は審神者の体を抱き寄せて、審神者の肩に頭を預けてしまった。
「小狐丸には散々キスされるし、長谷部は諦めてないし、薬研はいつの間にか主を口説いてるしで、護衛係でどこまで主を守れるだろうって、俺ずっと不安だった」
不安げな声。きっとその言葉は、嘘ではなかったのだろう。審神者は困ってしまって、大人しくする。こんな声を出す清光から、無理矢理距離をとるなど、出来るわけもないのだ。
「主が泣いたとこ、もう見たくなかったから。だから俺は、俺だけは、主を守ろうと思ったんだ。だから我慢したよ。主に触れたい、甘えたいって、どんなに強く思っても、自分を押し殺して耐えてきたんだよ」
審神者は、清光の優しさにずっと甘えてきた。嫌な役回りをさせてきてしまったと、理解もしている。審神者は間違いなく、清光に守られてきたのである。分かっている。審神者は、憂いを帯びた清光を見つめて、そっと、清光の髪に指先で触れた。
「それでも、本当にするの? 皆の気持ちを受け入れるって。後悔はしない? 今なら、引き返せるよ」
それを受けながら、清光は審神者に頬をすり寄せた。
「何度も言うけど、皆、護衛係を楽しみにしてるんだよ。負担に感じている刀はいない。それでも、護衛係は嫌だって言うの?」
「……例え護衛の役目がなくても、共に過ごす方法はいくらでもあるよ。時間を作って共に過ごすことは、私にとっても大切な時なんだ。それはなくしたりしない。ただ、同じ本丸の仲間からの護衛は、もう必要ないんだ」
「――…そっか」
審神者の言葉に、清光はぽつりと呟いて、審神者の手に、自身の手のひらを重ねて言った。
「主が気持ちを受け入れるってことは、堂々と口説かれるってことだよね」
「……」
「迫られるってこと。どれだけ主のことを愛しているのか、延々と説かれるんだよ」
「……そうなるな」
重ねられていた手に、力が入る。それに視線を落とした審神者のすぐそばで、清光はささやいた。
「――もう、我慢しなくていいんだよね? もう、気持ちを抑えなくていいんだよね? 主が言っているのは、そういうことでしょ?」
「……そうなるが、その、無理矢理は受け入れたりなどしないぞ」
「分かってるよ。どんな形でも、主の了承があれば良いってことなんでしょ?」
その声は心臓に悪く、愛でるように撫でられている手の甲への感覚もどうにも落ち着かない。清光が触れている箇所から、己でも気づかない内に熱が広がっていく。
(……落ち着け。清光にその気はない)
己に言い聞かせていく。清光は審神者に恋慕など抱いていない。抱いていたことも、過去にはあったのかもしれない。けれど、その気持ちも、審神者があの日、清光に呆れられた瞬間に消えている。あの時清光に拒絶されたことを思い出して、審神者は必死に熱を押さえようとする。
そもそも、審神者は清光に恋などしていなかったと結論づけた。それが変わることはない。清光に対して今意識してしまうなど、それはあってはいけないことである。不誠実である。情けない己に呆れただろうに、初期刀として審神者を支え続けてくれた清光に申し訳が立たないと――……
「こっち見てよ。主」
ぞくぞくとした感覚が、背中から這い上がる。この状況で出すには些か場違いともいえる甘い声が、審神者の耳元から聞こえてくる。審神者は返事も出来ずに、かといって振り向くことも出来ないまま、固まってしまう。
「主に触りたい」
もう十分触れているだろうに、そんな言葉を口にする。それ故にそれが意味深に聞こえてきて、審神者は戸惑った。ばくばくと五月蠅い心臓の鼓動は、既に清光にも聞こえているかもしれない。
審神者は直感的に、試されているのだと気がついた。でなければ、審神者に、清光がこんな風に声をかけてくるわけがない。そうに違いない。
冷静であれと己に言い聞かせて、審神者は平常心を意識して口を開く。
「……だめだ」
「だめじゃない。ね、こっち見て?」
「まず、離してくれ……降りたい。この体勢は…」
この状況下で屈する事は出来ない。必死にそう断る審神者だが、楽しそうに揺れた声が、甘く、審神者の耳をくすぐった。
「主。おねがい」
楽しそうなその声は、審神者が振り向くことを既に知っているかのようだった。審神者への信頼といえば聞こえが良いが、審神者は己が弄ばれている事実をはっきりと感じ取っている。
「………」
根負けして、審神者はそろそろと清光に目を向ける。ほんの少しだけ、顔を向けるようにして。けれどそれで十分だというように、審神者と目を合わせた瞬間に、清光は甘く微笑んだ。
じわじわと、審神者の頬に熱が集まっていく。思い出してはいけない以前の記憶が、熱が思い出されて、頭の中が真っ白になっていく。
「良いよ。迷ったけど、主が後悔しないなら、主の案に賛成する」
けれど、次に放たれた言葉は、審神者の予想もしていないものだった。審神者は呆気にとられ、己が至らぬことを思考してしまっていた事実に、今度は決まり悪く感じたのだった。
「……ありがとう、清光」
「お礼なんていいよ。でも、忘れないで。やるなら、ちゃんと逃げ切らないと駄目だからね」
清光は、少しだけ楽しそうに続けた。
「もし途中で一度でも受け入れたりなんかしたら――……もう、俺も、逃がしてやれないから」
その忠告に、審神者はこくりと頷いた。脅しにも聞こえる忠告に不安を覚えながらも、己の意思が変わっていないと、そう意思表示したのである。
同時に、やはり清光は変わっていなかったのだと認識する。変わらず、初期刀として、己を支え続けてくれるのだ。にも関わらず、少しでも邪な考えを浮かべてしまった己を恥じる。
後ろめたさから視線を少し下げてしまった審神者のことを、清光がどんな目で見つめていたのか。それを知るは、月だけである。
「……いやあ、主も男だなあ」
「忘れてたわけじゃないけど、忘れてたよ。長曽祢さんに比べたら軽いけど、別に清光は軽くないでしょ。よく抱えられたよね……主。びっくりした」
「ああ。驚いて声も出なかった」
「本当だよ。凄かったね、あの気迫。――大丈夫かなあ」
「なに。主は加州に甘いからな。今頃、ぐずぐずに甘やかされている頃だろう。主が嫌う訳ないと言っても、聞かなかったが……主の言うことならば聞くだろう。上手くやってるさ」
「そんなことは分かってるよ。主が清光に甘いのなんてよーく知ってるんだから。僕が心配してるのは、明日からまた清光の惚気で寝られなくなることだよ。あれ、仲直りした後が一番激しいから……」
「――ああ、そっちか。同室は大変だな」
「他人事だよね、長曽祢さん。でも今回は長曽祢さんのところに避難するから。他人事じゃないからね」
「……………まあ、それで加州の気が済むなら構わん。おれも、加州には笑っていてほしい」
「あはは、そこは同感。あーでも良かった、なんとかなりそうで」
「だがまあ、そろそろなんとかしないとな。主のことも、このままでは良くないだろう」
「……そうだね。なんとかしないとね」
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