『――加州清光』
刀に触れ、審神者はその時、初めて名前を呼んだ。
本丸として与えられた土地にてその穢れを払い、清め、やっと初期刀を迎える環境を整えることが出来た朝の話である。
触れた指先から血が通っているかのような熱を覚え、桜の花びらが視界で舞った。
『あー。川の下の子です。加州清光。扱いづらいけど、性能はいい感じってね』
優しい朝の光を浴びながら立つ加州清光は、審神者の姿を捉えると、『あんたが俺の主?』と問うてくる。審神者は頷き、真剣な眼差しを清光に向けた。
『――私はまだ未熟だが、審神者としてこの命つきるまで戦う覚悟ならば出来ている。加州清光。どうか正しき歴史を守るため、御身の力を貸してほしい』
その眼差しは真っ直ぐと加州清光に届き、審神者の言葉を聞いた清光は少し呆気にとられたような反応を見せた後、小さく、目を細めた。
『……いーよ。っていうか、こっちはとっくにそのつもりなんだけどね。――あんたの声が俺をここに連れてきたんだから、責任とってくれなきゃ』
花びらが降り注ぐ。ひらひらと揺れるそれは、目に見えるというのに触れることは叶わず、床に落ちては消えていった。
『よろしくね、主』
桜舞う中でそう告げた加州清光のその姿を、審神者はきっと、生涯忘れることはないだろう。
[chapter:審神者は全て終わらせたい]
「……分かった」
答えれば、きゃあと弾んだ声がかえってくる。秋田藤四郎と手を合わせて喜ぶ乱藤四郎を見下ろしながら、審神者は複雑な心中でいる。喜ぶ姿は好ましい。此方まで喜びが伝わってくる。それは何も悪いことではないはずなのだが、今に至っては、少し勝手が違っている。
「じゃあ、その日は主さんは薬研とデートってことで」
「やりました! 早速、薬研兄さんに伝えにいきましょう」
「うんうん! じゃあ主さん、ボク達は薬研にこのこと伝えに行くから! またね〜」
手を振る二振りに審神者も緩く手を振り、それを確認した二振りはそのまま審神者の部屋を出ていった。
ぱたぱたと軽快に足音を立てながら審神者の部屋から離れていく背中を最後まで見ることもせず、審神者は手を下ろした。
「これで三日分ですね」
「……そうなるな」
「全く、無駄な足掻きを……」
そう言う長谷部の声は、酷く無機質だ。けれどそれは表面上だけのことで、その声の奥には、審神者にもわからないほどの感情が潜んでいるような気がした。おそらく、審神者の勘は当たっていることだろう。
ちらりと長谷部に視線を向ければ、長谷部は手元の書類に視線を落としながらも、普段以上に眉間にしわを寄せていた。けれどすぐに審神者の視線に気づいたらしく、長谷部は平静を装うように幾分か表情を柔らかくしてみせた。
「……何か?」
そう審神者に問いかけ、審神者は緩く首を横に振った。「何も」とそれだけをこぼせば、長谷部は何か言いたそうにしながらも、淡々と「そうですか」と返す。問うようなことはしない。何でもない、と言い切ってしまうには、長谷部と審神者の二人だけの今この空間は酷く居心地が悪い。
審神者は筆をとりながら、気持ちを切り替えるように息をついた。
(……また、時間が増えてしまった)
審神者が刀剣男士の気持ちに向き合うと決めた一月が、審神者だからといった理由で気持ちを断るようなことはしないと決めた一月が、明日から始まる。かといって仕事を減らすことも出陣や遠征を控えることもしない。よって、各相手と二人きりになる機会もそうないはずだった――のだが。
『あのね、来月、主さんと町に出かけようって約束してたでしょ? あの約束を、薬研と過ごす時間に変えてほしいんだ』
『はい! 僕からもお願いします! 僕も、主君には薬研兄さんを選んでほしいのでっ』
先ほどの言葉を思い出す。審神者の元にこのような内容の申し出を持ってくる刀が月を跨ぐ前になって増えたのである。先ほど審神者の元へ訪れた乱と秋田は三組目。以前から非番にして共に過ごす約束に当てていた時間を、それぞれ、審神者に想いを寄せている刀剣男士と過ごす時間に変えてほしい。その相手は違えど、内容は皆同じであった。
(……困るな)
まるで外堀を埋められているような焦燥感。審神者としてではなく個人として向き合うといってしまった以上、審神者がそれを拒否するわけにもいかず。承諾したものの、どこか息苦しい気持ちを抱えてしまう。
今は特に、そばに長谷部が控えているのだ。長谷部もまた審神者に想いを寄せている刀剣男士の一振りであるが、審神者が他の刀剣男士を選ばない限りは何もしない――代わりに、審神者が他の刀剣男士を選んだ場合はその身を貰い受けると、そういう約束を審神者との間に交わしている。それ故に審神者は長谷部とは一月の間、特別な関わりはしないことが決まっているのだ。
だからこそ表だって主張はしないものの、長谷部が先程のやりとりを受けて何かしらの感情を抱えていることを、審神者とて感じ取っている。
「……長谷部」
「はい。なんでしょう?」
自分が参戦するわけでもないのに、審神者のそばで近侍補佐として仕えることは、きっと長谷部にとっても良くないことであるに違いない。審神者は少し考えた末、何でもないように声をかけることにした。
「良い気分ではないだろう? 沙汰が落ち着くまで、近侍の仕事は休んでも……」
「結構です。お気遣いなく」
露骨に不機嫌であった長谷部だったが、審神者の申し出を喰い気味で断ってしまう。言葉は丁寧であれ、ぴしゃりと返された声の圧は審神者の言葉を封じ込めてしまうには十分で。
「むしろ、今まで以上に働きますよ。出来る限り貴方のお側に控えます」
「……お前にとって、気分の良いものではないだろうに」
「今更です。貴方が他の刀に気を持たせることも、迂闊に誘うような真似をすることも。……貴方がどれだけ気が多いのか、俺はよく知っていますよ」
刺々しい声に、審神者はどれだけ長谷部が気を悪くしているのかを改めて知る。同時に、今長谷部に視線を向けない方が絶対に良いと判断した。けれど、長谷部からは強い視線を向けられていることを気配で感じ取る。知らんぷりを決めることも出来たのかもしれない。けれど、その見えない圧から逃げることは出来ず、審神者は静かに視線を長谷部に向けた。
「………」
けれど審神者の勘は外れたようで、長谷部は先ほどと同じように審神者に目を向けず、淡々と仕事をこなしているだけである。
(……気のせいだったか)
確かに視線を感じたのだけれど。そう思いもしたものの、それを上回って安堵する気持ちの方が大きかった。けれど未だ、どこか胸がざわつくような妙な心地がする。審神者は眉を下げた。
「……ただ、一つだけ」
淡々としていた長谷部がそう切り出すと、審神者に目を向ける。慈しみとはとても言えない――強い感情を訴えるような、鋭い視線だ。審神者は静かに長谷部の言葉を待ち、長谷部が審神者の側に寄ってくると、きちんと向き合うようにして座り直した。
無理をしないでほしい。それが審神者の気持ちではあるが、審神者がそれを長谷部に向かって言う資格はない。この状況を招いているのは他ならぬ審神者自身であるのだから。
「貴方が自覚しているのか、確かめさせて下さい」
「……確かめる?」
真っ直ぐと審神者を見つめるその視線は鋭く、審神者は小さく息を飲んだ。そっと伸びてきた指は、躊躇いをみせることなく審神者の唇をなぞる。審神者はそれを大人しく受け入れて、圧を含んだ視線に微かに戸惑った。
「他の刀を選べばどうなるのか――……改めて、貴方のその口から聞かせて下さい」
長谷部の言葉に意図が分かった審神者は、静かに、困ったように眉を寄せた。やはり、平静を装っていても、その心は決して穏やかではないのだろう。事が落ち着くまで長谷部には近侍補佐を外れてほしいと審神者は思うけれど、長谷部はそれを引き受けたりはしないだろうことは考えずとも分かることだった。言葉にするだけ無駄であり、むしろ、火に油を注ぐような行為にしかならない。
「……信用できないか?」
目を伏せて、そんな言葉をこぼす。
問いではあるものの、審神者はその答えを聞くまでもなく知っていた。刀剣男士から向けられる恋慕の感情をなくしてしまいたい気持ちで実行に移したことであるが、審神者が誰も選ばずに過ごし通せると考えている刀剣男士はこの本丸に一振りたりともいないのだ。皆が皆、審神者が誰かを選ぶ前提で話をしている。
(仕方ないことだが……情けない)
今までの己の振る舞いが問題だったといえ、少しもの悲しくもなる。
肩を落とした審神者に思うところがあったのか、長谷部はただ静かに、眉間に小さなしわを刻んだ。真剣だった表情が少しだけ崩れ、つうっと、端から唇をなぞられる。
「……不安なんです。俺のために、言葉にしてほしい」
その触れ方がにじみでる感情を嫌でも感じ取って、審神者は長谷部と視線を合わせた。狙いを定められているような視線に、ぞくぞくとしたものを感じとる。
「……誰かを選ぶようなことがあれば、お前にこの身を捧げる。――…お前のものになるよ。長谷部」
視線を交わらせたまま告げる。長谷部は審神者の言葉に静かに目を細めて、審神者の唇から指を離した。審神者は静かに息を吸って、己に言い聞かせるように口にする。
「何も起きない。終わらせるためだけの期間だ。心配することなんてないよ、長谷部」
改めて審神者の様子を観察するように視線を鋭くした長谷部は、少しの間を置いて柔らかく目を細めて薄く微笑んだ。
「――そうです。貴方は俺のものですよ。貴方が誰を選んでも、選ばなくとも。決してそれを忘れないで下さいね」
その表情の変わりようが歪なもののように思えて、審神者は眉を潜めた。へし切長谷部という刀がこういう性質なのか、審神者の振る舞いが長谷部をこのようにしてしまったのか。そんな疑問を抱いた末に、弟弟子の審神者の長谷部のことを思い出す。
(……私がそうさせたのだろうな)
へし切長谷部という刀剣男士が元々そういう性質なのだと口にしようもののなら、弟弟子の長谷部にのどを斬られてしまいかねない。審神者の所行がこの事態を招いたのであれば、責任をとるのも審神者の役目というものだが、どうすれば良いのか審神者には未だに正解がわからない。
迷いの末、審神者はその言葉にゆっくりと頷くだけに留める。長谷部はそれ以上何も求めず、審神者の頬を撫でてから、また何事もなかったかのように仕事に戻ったのだった。
日が進み、あっという間に月末になった。明日から、全てを終わらせる月が始まる。誰からも信用されていないとはいえ、審神者は刀剣男士と恋仲になどと考えているわけではない。審神者にとっては終わらせて、新しく始めるための月である。気を引き締めなければならない。
(気を引き締めなければ――いけないのだが……)
そわそわと落ち着かない。じっとしていられなくて、特別今やらなくても良いことに手をつけてしまう。月を跨ぐ前だから気が急いている――というわけではない。食事も湯浴みも済み、普段であれば後は寝るだけにも関わらずこんなにも散漫なのには理由があった。
(何も起きない。何も起きない。何も起きない)
これから審神者の部屋に清光が訪れてくるからである。それは、以前交わした清光との約束だったのだ。月が変わる前日に時間をとってほしいと言われ、審神者は誰も選ばぬように釘を刺されるだろうと思ってすんなりと了承した。清光の思惑を疑うこともせずに、何をされるのかなど思案することもなく。
『 』
けれどその後、審神者は確かに聞いたのだ。清光の口から、審神者の考えをひっくり返してしまうような台詞を。他の刀剣男士との対応で慌ただしく過ごしている内に、審神者はあの時の清光の言葉について言及するタイミングがつかめずにいた。加えて、清光の態度は今までと変わらずにいたのだ。審神者の方から話題に出す余裕もなく、藪をつついて蛇を出すような事態を避けたいという気持ちで、結局ずるずるとここまで来てしまった。
『今夜、行くからね』
出来れば明るい内にと思っていたものの、予期せぬ訪問や仕事が重なったことで、タイミングを作ることができずにいた。だからだろう、清光に耳打ちされた誘いを、審神者は蹴ることが出来なかった。夜に清光と二人きりになるなどと、良いことではないと理解していたはずなのに。
とはいえ、審神者とて底抜けに間抜けというわけではないのだ。夜に部屋の中に招き入れるようなつもりはなかった。布団なんて敷かないし、いつもの緩い浴衣ではなく、きちんと和服を着込んでいる。過去の二の舞にはならない。話が済み次第、速やかに引き取りを願う所存である。
冷静でいなければとゆっくりと呼吸を繰り返す。そのうちに、こんこんと、襖の枠部分をノックされた。心臓が跳ねそうなほどにうるさくて、審神者は息をのんだ。
「主? 入っていい?」
「っ…待ってくれ! 今出る」
上擦った声で答えて、審神者は部屋を出ようと立ち上がる。今夜は雨も降っていないのだから、縁側で話だって出来るだろう。部屋に入れるつもりはない。障子を小さく開いて顔を覗かせれば、そこには勿論、清光が立っていた。泣きそうな顔で審神者の部屋に訪れた時のことがまるで昔のことのように思えるくらい、清光は強い眼差しをもって審神者のことを見つめていた。
真っ直ぐと交わった視線に、途端に鼓動が早くなる。己が意識しすぎているのが問題だと自覚しつつも、審神者は目を伏せるようにしてその視線から逃げてしまった。清光は審神者の姿に、不思議そうに目を細めた。
「主?」
問われて、審神者は己を奮い立たせるように息を吸う。そして仕切り直すように、ゆっくりと口を開いた。
「――すまない。話は、部屋の外でも良いかい?」
中に入れたくないと暗にいえば、清光は少しだけ面食らったようにして、けれどすぐに微笑みを浮かべた。
「もちろん良いよ。なんなら、その辺散歩でもしよっか?」
けろりと言われた言葉に不快な感情は感じられない。嫌そうな素振りすら一切を見せなかった。審神者はそれを受け、なんともいえない複雑な気持ちを抱いた。清光を警戒していたとはいえ、こうもあっけらかんと答えられてしまうと、今度は己が深く考えすぎていただけなのではないかと思ってしまう。
「いや、そこまでは……」
「いいの? でも、着込んでいるから、そのつもりなのかと思った」
もう風呂も済んだはずなのに、しっかりと服を着ている審神者を緩く指さす。問いかけているように見えて、審神者の思惑を既に理解していた上での言葉に思えた。
「……話をするなら、身なりはしっかりしようと思って」
「……そう。考えることは一緒ってことかな」
審神者の言葉にそう返し、清光は腕を緩く開いてみせた。言われてみて、初めてそちらに意識が向く。最初から視界に入っていたはずなのに、気づくのが遅れてしまった。戦衣装に身を包んだ清光は、まるでこれから出陣するかのような出で立ちで審神者の前に立っている。今の清光の言葉が本当ならば、やはり、清光は審神者が危惧していた通りの話をしにきたのだろう。
先ほど考えすぎかもしれないだなんて考えた矢先に、あっという間にその考えがひっくり返される。準備をしてきた己は間違いではなかったのだと思いつつも、それはそれで反応に困った。審神者は、結局今の今まで聞くに聞けなかった事を問いかける。
「清光。私は、あの時のお前の言葉が、」
「ん? いつの言葉?」
「……あの時、屋根の上でお前が私に言った言葉だ」
言えば、清光は「ああ、あれね」と抑揚のない声で口にした。それきり何も言わず、審神者の言葉を待った。それを受けて、審神者は目を伏せる。目と目を合わせて話をするだけの余裕がなかったのである。
「あれは、その……本気なのか? あの場限りの冗談では…」
何を話すにしても、まずは確かめておきたいことであった。あれきり、あの時の台詞について清光から言及されることも、言及することもなかった。だからこそ不安で、清光が良い気分がしないだろうことも承知の上で、審神者は清光に問うたのである。
「だと思う?」
最後まで言い切らない内に、襖にかけていた審神者の手の甲に、一回り大きな手のひらが重ねられた。審神者はそっと顔を上げて、清光を見る。暗くて分かりにくいが、視線に熱が籠もっていることはすぐに気がついた。審神者は、静かに視線を迷わせた。
「………分からない。冗談には思えなかったけれど……お前が僕をとは……」
審神者とて、そこまで鈍くはない。けれど一度、審神者は清光に見限られている。その事実が、審神者に清光の言葉を素直に信じることをさせなかった。半信半疑、といったところだった。
そう言った審神者に、清光は困ったように目尻を下げた。
「俺って信用ない?」
「っ…違う! そういうわけでは……」
間違ってもそのようには思われたくない――そんな気持ちで否定した審神者の唇に、清光の指先がのった。動きを閉ざした審神者の唇から指が離れていく。代わりに、その指先は審神者の頬をなぞっていった。それは審神者の顔を自分に向けさせるように誘い、審神者は清光と再び目を合わせて、そしてその瞳の力強さに息をのんだ。
沈黙の後、清光は審神者に向かって口を開く。
「『一番に、主を奪いに行く』」
あの時、清光から聞いた言葉。一字一句違わずそのまま告げられ、じわじわと熱が顔に集まってくる。審神者は言葉に詰まって、とても清光の顔を見ていられなくなった。また逃げるように視線を外そうとするけれど、今度は、それを清光は許さなかった。
審神者の頬に手を当てたまま、じいっと審神者の瞳を見つめ、視線を突き刺してくる。逃げることは許さないとでもいうように。たまに、清光は強引さを垣間見せる。審神者はそれが苦手だった。すぐに受け入れてしまいそうになるからだ。困り顔を浮かべたまま、何かいわねばと言葉を探す。
既に、頬が熱い。要らぬことまで考えてしまいそうになる。
「……二度も言わなくていい…」
結局口にしたのはそんな言葉である。つくづく己が嫌になった。審神者の言葉に清光はふっと笑って、重ねていた手で審神者の手を引いた。
「それで、いつまでここで話すの? 俺は別に、どこでもいいけど」
持ち上げられて、審神者の手の平に清光の唇が触れた。まるで当然の如くさらりと行われたそれに、審神者は呆気にとられてしまう。こんなことを軽くしてのけるような気性ではなかったはずなのに――とも考えたが、よくよく思い返せばそんなこともなく。
気を抜いてしまえばすぐに主導権を握られてしまうだろうことを恐れた審神者は、口づけられた手を慌てて引いた。同時に足も後退し、部屋に中に一歩ほど引っ込んでしまう。
けれどこれではいけないと、すうと息を吸ってから部屋の外へ足を踏み出した。
「……話は、外でしよう」
「いいよ。行こっか」
にっこりと笑って言った清光に、審神者は平静を装ったけれど、心臓はずっとうるさく鼓動していた。基本的に初期刀であり近侍であり、ずっと審神者を支えてくれていた清光には殊更甘くなることも自覚済みではあるが、些か分が悪いと思った。簡単に丸め込まれてしまいそうになる。
何より、雰囲気が平時の時とは違う。そんな雰囲気に、審神者はまるで目の前の清光が知らない刀のようにも思えてしまった。
(狼狽えるな狼狽えるな狼狽えるな)
呪文のように繰り返し、審神者は必死に己に言い聞かせる。決して、迂闊に首を振るような真似をしないように。そして、道を違えないように。
「主、暗いから気をつけてね」
「……ああ」
からからとした音が、静かに審神者の耳をくすぐる。下駄を履いた審神者に、靴を履いてきた清光が声をかけた。それに軽く返事をして、審神者は清光についていくように歩いていく。
「ここってさ、建物は古いけど、敷地は広いよね。離れの周りだけでも散歩とか出来ちゃうから、こういうときって便利」
「……そうだな」
足下に注意しながら答えるものの、声はどこか上の空である。何事もなく話を終わらせたいと思いながらも、すぐにふらついてしまいそうになる自覚はある。だからこそ、審神者は毎秒毎秒己に言い聞かせなければならなかった。決して絆されるな、流されるなと。
(……今夜で終わらせる。それくらいの心意気でいかなければ。清光が相手では分が悪すぎる)
そもそも、審神者は一月じっくり時間をかけて断るつもりはなく、出来ることなら途中で可能性はないのだと理解してもらって、早めに諦めてほしいと思っていた。そういった想定をしているため、長丁場で根気をもって挑むつもりではないのである。勿論、そういった可能性があることも頭に入れてはいるが。
「池もあるのって凄いよね。ここってさ、相当良い土地だったんじゃないの?」
「……ん、まあ、そうだな。本丸として構えるには良い場所だったよ」
「審神者って、他にもこういうところに本丸作ってるの?」
「どうかな。他の本丸は……いや、アイツの本丸は、少しは似たような土地だったが……広さでいえば、この本丸の方が…」
そんな風に返事をしながら、審神者は頭の中で別のことを考えている。
審神者の出したこの条件も、歪んでいるのだ。審神者が主であることを理由として断ることをしないといっても、誰を選んだところで、長谷部の存在が関わってくる以上、言葉は悪いがこの期間も無駄なものだと審神者は思っている。否定はしないが、審神者が決して気持ちを受け入れることはないこの期間は、審神者にとって、ただただ終わらせるだけの期間でしかないのだ。
(泣かれても受け入れない。今回ばかりは、ちゃんと断ってみせる)
清光に甘い自覚はある。初期刀として己をずっと支えてきてくれた清光が相手ならば、審神者は何でも許したくなるし何でもさせてあげたい、してあげたいと思ってしまうところはある。
だからこそ、誰より――それこそ、薬研よりも気を引き締めなければならない相手ではないかと思うのだ。
ふと、少し前を歩いていた清光の足が止まった。続くように審神者が足を止め、顔を上げる。視線を上げれば、当然清光の顔を見る形になった。暗がりで、鮮明に表情が見えるとはいえないが、それでも月光である程度は分かる。
「清光?」
じいっと審神者を見る清光の表情は、熱っぽいわけでも怒っているわけでもなく。どこかつまらなさそうにしているのだ。一体どうしたのかと審神者が清光に声をかけると、清光はむくれるように唇を尖らせた。失言をした覚えのない審神者には、勿論、何故そんな表情をされているのかは分からない。
「主と全然目が合わない」
「……それは、すまない。足場があまり見えなくて……」
今歩いているのは小さい池の周囲、砂利が敷き詰められた中に石畳が埋まっているような、少しばかり足場が悪い場所だ。下を見なければ、夜の今は転んでしまうとも限らない。
「分かってるけど、なんか、主に避けられてるみたいで寂しい」
決して清光と目を合わせたくないわけではないと主張するも、清光は依然として悲しそうなまま。何といえばいいのか審神者が迷う間もなく、清光はそっと手のひらを差し出してきた。
「だったら、俺が手を引いてあげる。そしたら寂しくなくなるし、転びそうになっても俺がすぐに支えてあげられるでしょ」
「……いや、それは、」
「だめ? じゃあ、俺が抱えて歩こっか。その方がいい?」
「っ……しなくていい。そこまでする必要なんてない」
「そう? じゃあ、こっちね」
審神者の消極的な態度も気にせず、手をさらわれる。ぎゅっと手を握られれば、審神者の体は強ばった。審神者の反応にか、それとも審神者の手をつかんだことにか、清光は微笑んで、ゆっくりと歩き出す。
今度は審神者のことを見ながら、審神者の歩幅を意識して。それが手から、視線から伝わってきたことが、どこか気恥ずかしい。
気を引き締めるように、審神者は小さく息を吸った。断じて気遣って貰えたことに喜んで良い場面ではないのだ。
「ここまでせずとも、私はそこまで鈍いわけではないよ」
「知ってる。ただ俺が、主と手を繋ぎたかっただけ」
悪戯に微笑み、審神者の手を更に自身に寄せるように引いていく。小さな歩幅で半歩ほど。たったそれだけ縮まっただけの距離で、清光は審神者の顔に鼻先を近づけた。そのまま、こつんと額が重ねられ、甘えるように擦り寄せる。清光も風呂を済ませているのだろう、仄かに甘い香りがした。
「こうして二人になれるの、あの時以来だよね。本当は、もっとちゃんと二人きりにもなりたかったけど――他の奴に気取られたくなくて、今日までずっと我慢してた。気づいてた?」
甘くとろけたような赤い瞳が、真っ直ぐと審神者の瞳を覗きこむ。その目から視線を逸らせずに、加えて、いつの間にか、もう片方の手で腰を引き寄せられていて。くらりとする感覚と共に、警鐘が審神者の中で鳴り始める。
唾をのんで、審神者は反射的に清光の胸に手のひらを押し当てた。少しでも己から遠ざけるように。けれどそれで清光は怯んだ様子はなく、変わらず至近距離で審神者に視線を向けている始末である。
「……近い」
行動で示しても分かって貰えないのならと、そう訴えて逃げるように横を向く。清光の言葉にどんな返事をしたとしても、行き着く先は同じであるという危機感が働いたのである。今は少しでも早く、清光から距離をとる必要がある。
「嫌?」
狡い反応だと思う。そんな聞き方をされて、審神者が頷くことなど出来ようがないと、清光はとうに理解しているはずなのに。きっと、いや間違いなく、審神者に言わせたいのだろう。そんなことはない、と。
けれどそれでは意味がない。審神者は、相手が清光だろうと、絆されてやるつもりはないのだ。
心を鬼にして、審神者は口を開いた。
「……い、いやだ」
上擦った声では、それが本気だとは受け取っては貰えないだろう。けれど審神者は、例え本心でなくともそう言わなければならなかった。腰に回された清光の手が微かに震え、それは審神者も感じ取る。おそるおそる、逸らしていた視線を清光に向けた。
「っ……」
眉尻を下げて俯きがちに目を伏せている清光の姿に、案の定、審神者の胸は痛む。泣かれるかもしれないと思えば、全てを放り投げてでも清光の望む言葉を今すぐ渡したいと瞬時に考えそうになる。その己の危うさに、審神者は気づいている。自覚しながらも、今すぐ発言を撤回したい気持ちを必死に押さえつけた。
「……そっか」
「……だが、今は時期が時期だからという問題であって、お前が嫌なわけではないからな」
「本当?」
「勿論だ! お前のことを嫌いになどならないっ」
「じゃあ、俺のこと、好き?」
「そんなこと、とうぜ……」
――当然だろう。好きに決まっている。
言い掛けた言葉を飲み込んで、審神者は口を閉ざした。己が言い掛けた言葉に、自分ではっとしたからである。躊躇った理由は、審神者が自ら出した条件にあった。審神者が、審神者の方から好きだと明確に言葉にしなければいけないという条件である。
審神者がどんな考えで口を閉ざしたのか。清光には分かっていたのだろう。審神者の様子を伺う視線からは、先ほどのような切なさを含んではいなかった。
「……残念。主なら言ってくれると思ってたのに」
むしろ、その真逆。細められた瞳は楽しんでいるように見えた。
審神者はむむっと口を閉ざして、ふいっとそっぽを向いてしまう。
「……試したのか」
「うん。試しちゃった。こういう手を使ってあいつらは主から言質をとるんじゃないかなって思ったから、先に主に教えておこうかなって」
「そんな手には引っかからないよ。そこまで間抜けではない」
「嘘。流されそうになったくせに」
試されたことが面白くなくてそっぽを向いたまま、審神者は不機嫌に眉間にしわを寄せた。面白くないといえば、清光が審神者のことをよく分かっていて、審神者も実際に言質を与えそうになったこと。見抜かれている気まずさも相余って、視線を返すことが出来なかった。
「怒んないでよ。俺別に、主を騙そうとしたんじゃないから」
よく言うものだ。無言のまま、そんな訴えを返した審神者に、小さく笑ったような気配があった。
「まだ月は変わってないから。主が俺に何を言っても関係ないんだよ、まだね。だから今日の内に、ちゃんと主に知ってほしかっただけ」
そう言われ、審神者は気がついた。確かに清光の言うとおり、まだ月は変わっていない。今であれば、何を言ったとしても、審神者の言葉に効力はないのだと、失念してしまっていた己がいたことに気がついた。そして、清光は審神者を今夜誘った理由が思い当たって、審神者はきゅっと唇をとじ合わせる。
「……そうか」
納得がいった。そして少しだけ、目の前が暗くなった気がした。
清光が審神者に好意を持つわけがない。分かっていた故に、すぐに腑に落ちたのである。もっと早くこのことに気がつけば良かったと、後悔をした。
「だから今夜、僕を誘ったんだな。……あの時の言葉は、やはり嘘だったのか」
清光は一度審神者を見限っている。恋愛対象としてみられることなど二度とない。清光が審神者を好きだと、恋慕の感情を伴って言うわけがないのである。全てを察して、清光の忠告を有り難く思う反面――反発心がわいてくる。一言で言えば、不快に感じたのである。
先ほど以上に思う。清光から離れたいと。一度でもみっともなく清光の気持ちを勘違いした己を恥じた。けれどそれを素直に口にすることも出来ない。
「……肝に銘じておく」
審神者のことを思いやった故のことだ。それが例え恋慕を伴っていなくとも。だからこそ審神者は理性的に振る舞い、離れようとする。今はとにかく、一人になりたいと思った。清光の目を見れないまま距離とろうとする審神者だったが、清光の方は審神者を解放するつもりはなかったらしい。
「主」
呼ばれ、審神者は、渋々と、視線を戻す。どんな表情をすればいいのか迷いつつも、出来るだけ平静を装わなければならないと意識した。清光に対してこのような気持ちを抱くのは、以前の、護衛係が出来る前の時以来だろうか。思い出したくなかった居心地の悪さだった。
すうと小さく息を吸って、審神者は目つきが悪くならないように意識した。そうして清光と目があった瞬間――鼻先が触れていた。
そのまま顔の角度を変えて、唇を重ねられる。
「っ………」
少しだけひんやりとした清光の唇は、体温の上がっていた審神者からしてみればとても冷たかったように思えて。審神者が反応をする前に、声を上げる前に、清光から審神者への距離を縮められていった。手を引かれて腰を引き寄せられ、それは触れるというよりも奪われるという言葉の方が適しているように思えた。
数秒触れたそれは、吐息がこぼれる程の間を置いてから、また塞がれた。それは審神者の呼吸を乱すようなものではなく、それが審神者を混乱させる。
わけが分からないまま、けれどじわじわと熱が上がり、審神者が清光から離れようと身じろぎしても、清光は審神者を離そうとはしなかった。優しい口づけとは裏腹のそれに、審神者は翻弄される他なかった。
やっと解放された口づけの後、清光はふっと笑う。
「俺、そこまで優しくないよ。言ったでしょ? 俺は誰より早く、主を奪いに来たんだから」
弧を描く唇とは裏腹に、真剣な眼差しは嘘をいっているようにはとても思えない。本気でいっているのだと、審神者は本能で感じとった。
「あの時、自分でも分からなくて言えてなかったこと。今度はちゃんと言うからね。聞いて、主」
顔が離れて、清光と正面から向かい合う。審神者は先程まで触れあっていた唇の感触が抜けずに落ち着けないまま、清光の胸を押していた手を、力なく下ろした。
「主のことが、誰よりも好き。主を想う気持ちだったら、誰にも負けないよ。あの時は気づけなかったけど、時間を置いて、やっと気づけたんだ」
不思議なことに、先程よりも月が一等輝きを増しているかのように思えた。紅潮した清光の表情が、何故だか、よく見えるように感じたのだ。審神者は、真っ直ぐとぶつけられている言葉にも、これから続くであろう言葉にも意識をとられ、ただただ、待つばかりだった。
「俺のものになって。俺を、主の一番にしてほしい」
あわあわと唇が震え、審神者は、行き先の見つからない衝動がわき上がってくるように感じた。信じられなかった。そう考えていたこともあったとて、先ほど清光自身からそれを否定されていたと、少なくとも審神者はそう考えていたのに。審神者の中ではそこで終わっていたはずのことが、終わるどころか、続いていただなんて、と。
そして新しい関係を、清光は審神者との間に望んでいるのである。
それが今、はっきりとしてしまった。
「返事を待つのは今夜限り。それ以上は待たないから。日が変わったらすぐに、俺のものになるって返事してね」
そのためにここに来たんだから。そう続けた清光は、じっと、熱い眼差しを審神者に向けていた。審神者は真っ白になっていく頭の中で、未だに清光の言葉を信じきれないでいる己に気がついた。
「……困る、こんな…」
「うん、ごめんね。でも、もう我慢しないから」
「っ……」
審神者の言葉にふっきれたような微笑みを浮かべる清光には、きっとここに至るまでに様々な葛藤があったに違いない。そんな想像ができるというのに、ここまでされて、告白もされておいて未だに信じられない理由には、おそらく過去の清光の言葉が関係しているのかもしれない。
「……なあ、間違っていないか? それは、主への好意と混同しているものではないのか?」
信じたくないのか、信じられないのか。そのどちらに寄った気持ちで審神者がそう感じるのか、己でも分からぬまま、審神者は自然と非難めいた声をこぼしてしまっていた。それが刀剣男士には禁句だと分かっていても、清光にだけは、もう一度確認をとっておきたかったことだったのである。
「でなければ、お前が私を好きになることなど……それに、その、お前は、私とそういうことをしたいと思うのか? お前のそれは意味合いが変わってくるのでは……」
「そういうことって?」
審神者の言葉を区切るように問うてきた清光の言葉は、怒気を含んでいるわけではなかった。けれど威圧感は纏っていて、反射的に口を閉ざしてしまった審神者を見下ろすまま、清光はもう一度問いかけてきた。
「そういうことって、何?」
己の問いは棚にあげ、審神者はその質問を、意地の悪いものであると感じ、口を噤んだまま、視線だけを清光に返した。具体的に言葉にしなくても伝わるはずだと思っていた言葉だったのに。否、伝わっているはずの言葉を、清光は審神者に言わせようとしているのだ。そのことに気がついたのは、少し経ってからだった。
急かすように、清光は審神者の腰を強く抱き寄せる。ぴったりと身を合わせ、それでも視線は自身に向けられたまま。視線がずれることはない。
「……だから、それは……」
直接的な言葉を使いたくはない。だからこそ言葉を選んだ審神者は、密着する感触に気をとられながらも、必死に言葉を選んだ。
「お前のそれは……ただ好きというだけで、特別な欲を持つものではないだろう? 今までだって、お前は、僕が良い審神者としていられるようにとそばにいてくれたじゃないか」
「……そうだね。でも、それがどうして、俺が主に恋してない理由になるの」
じいっと、視線を逸らすことなく、真っ直ぐとそう聞いてきた清光に、審神者は言葉に詰まってしまう。清光はそれ以上何も言わずに、急かすように繋いだ手の力を強くした。
審神者は震える声で、口を開く。わかりやすく、清光が納得するような言葉を探すが、時間と余裕が足りない。審神者は徐々に真っ白になっていく脳内で、それでも必死に言葉を探すが、無駄であった。
「――…僕を、抱きたいとは思わないだろう?」
しまった、と、言い終わってから思う。数ある言葉の中でも最低の部類に入るような直接的な言葉になってしまった後悔をする余裕もなく。清光は審神者の言葉に呆れたように眉尻を下げて、ふうと、小さく息を吐いた。
「俺、はっきり言ったつもりだったんだけど……まだ足りない? なんでそんな風に思うのかな」
「清光……」
審神者に向けていると言うよりも、独り言に近いそれに、審神者が名前を呼ぶ。すると清光は悩ましげに目尻を細めて、審神者の額に、また自身の額を触れ合わせた。
「でもさ、体目当てとか思われたくないし、仕方なくない? 俺はあれくらいが一番良いと思ったんだけど。……ま、主が言わせたいなら、言うけどさ」
すっと、真剣な眼差しが至近距離から向けられる。まるで審神者の心の奥まで見つめているかのようなまっすぐな視線と直に伝わる熱に、思考回路が上手く働かなくなりそうだった。
「そういうことも、したいと思ってる。主が嫌なら我慢するけど、俺は、主を抱きたいよ。そういう意味で主のことを好きだって言ってるの」
耳にした言葉がとても信じられなくて、審神者は呆気にとられた。驚きで目を丸くして、反射的に口を開いてしまう。
「嘘だろう」
「嘘じゃないよ! 下心ありきって思われるのは癪だけど、でも、そういうことも込みで、俺は主の特別になりたいし、主を俺のものにしたいって、思う。今なら、はっきりとそう言える」
「っ……」
「嘘だと思うなら、証明しようか?」
絶句する。今度は審神者は何も言うことが出来ず、かといって清光の視線から逃げることも出来ずに、忙しなく動く心臓の音に思考をからめ取られて、黙り込んだままである。
そんな審神者に熱を帯びた視線を向けて、清光の唇が審神者の唇に迫る。はっとして、反射的に清光の胸板を押し返す。けれど審神者が思っていた以上に力のこもっていなかったそれを、清光が真剣に捉えることはなく。
「っ、んぅ」
本気で嫌がっていたのであれば拒絶出来たはずのそれは、いともたやすく審神者の唇を奪ってしまった。腰がひけそうになるも、逃がさぬようにと、むしろいっそう身を寄せられる始末である。
熱を含んだそれは深さを増していき、けれどあくまで、触れるだけに留められている。お互いの唇の形を確かめるような動きで終わり、他の刀の時のように、乱暴に呼吸を奪うようなものにはなる気配がない。心臓がうるさくはあるものの、いっそ安心感を覚えるほど、それは優しい口づけだった。
(落ち着かないのに……何故そんな風に思うのだろう)
こんな風に触れられては、全力で突き飛ばすような抵抗など出来ようもない。尤も審神者に、そんなことが出来るわけがないけれど。
ただ離れる間際に唇をぺろりと舐められて、審神者は大袈裟なほどに肩をはねさせた。驚きで清光を見れば、そこでは舌の先を出した清光が、悪戯な表情を浮かべている。
「主が思ってるほど、俺、優しくないよ。いつだって主の一番になりたい、一番でいたいって、そればっかり」
強引に口づけておきながら、微笑む姿は矛盾しているようにも思えた。けれど審神者の動きを制御するには、これ以上ないくらい適した方法だ。事実、月に照らされた清光のその姿に見とれるように、審神者は言葉を失ってしまったのだから。
「もう一度言うね」
引き寄せていた審神者の体を解放するように、清光は手を離す。審神者の腰を引き寄せていた手も、繋いでいた手も。そして、柔らかく目を細めて、清光はゆっくりと口を開いた。
「初めから――ってわけじゃないよ。でもあの日、主が初めて俺の名前を呼んだ日からずっと、主は俺の特別だったんだ。でも俺、欲張りだから……だから、もう主が‘主’であるだけじゃ足りなくなった」
一度目を瞑って、そして、清光はゆっくりと目を開いた。そうして再び審神者を見つめる清光の姿に、審神者は昔――初めて清光を顕現したときのことを思い返した。
「第一印象は、堅そう、かな。真っ直ぐと俺を見る目がやけにくすぐったくて、にやけそうになったことを覚えてるよ。主の話を聞いて主に合わせて、凄く大変だったし苦労もあったけどさ、でも、あの時主のためにがんばろうって思ったことは間違いじゃなかったよ。そっけないし危なっかしいし、いっぱい空回りもするけど、そういうところも全部含めても、俺は主が俺の主になってくれたことに感謝してる」
あの日、降り注ぐ桜の中で初めて出会った清光の姿を。
笑った表情は見られなかったが、優しく細められた目を、柔らかな声も。あの時のようだった。けれど違うのは、今目の前に立っている清光は、とても綺麗に笑っているということ。
「――‘主’だけじゃなくて、‘あんた’のことも好きなんだ」
見惚れていた。あまりにも、清光が優しく微笑むものだから。
審神者は胸が締め付けられたような苦しさに襲われて、己の衣服をぎゅっと握りしめた。言いようのない感情がこみ上げてきて、その行き場を用意することができない。
「ね、あんたの全部を、俺にちょうだい」
思わず、息の仕方を忘れそうになる。審神者は息苦しさに俯いて、次いで、体温が上がっていく感覚を覚えた。このまま、清光の言葉に頷いて、全てを渡しても良いかとすら思ってしまいそうになる。なけなしの理性があがいているが、このままでは押し切られてしまうだろう。
最早、時間の問題だった。
既に審神者は、清光の言葉に喜びを覚えている。覚えてしまっている。こんなことがあってはならない。そう思う理性とは裏腹に、心は喜んでしまっている。はっと息を吐き出して、審神者は清光から距離を置こうとする。考えるよりも本能で後ろに足をやれば、思うように力が入らなかったそれは、誤って石畳から外れてしまう。
「っ――!」
重心がずれて、体が傾く。そのまま後ろに倒れる姿を脳裏で浮かべたものの、それは審神者が声を上げるよりも先に動いていた清光に腰を引かれたことで未然に防がれた。
「……ほんと、危なっかしいよね」
ふっと笑って、清光は言う。審神者の腰を抱いたまま、転ばぬようにと自身に引き寄せた。すっぽりと包むように、そのまま抱きしめられる。
「……すまない」
「いいよ、これくらい」
恥ずかしい様を見せてしまった。離れたくないと感じながらも離れなければと思う心境の中で、それでも清光から離れようと、審神者は胸板を押す。このままでは流されてしまう。一刻も早く離れなければならない。
「ね、俺がこういう風に好意を持ってるって、嫌? 気持ち悪いって思う?」
けれどそう考えていた思考は、清光の言葉で何処かへ消えてしまった。審神者が清光を見つめれば、清光は寂しそうに目を伏せている。審神者と目を合わせぬまま、ゆっくりと、清光は審神者を離した。
「俺の気持ちが迷惑なら、もう言わないよ。どんなに好きでも、愛していても、それじゃ意味ないもんね。だから、本音を聞かせて。俺の気持ちを、あんたはどう思ってるの?」
そのまま清光はゆっくりと顔を上げて、審神者と目を合わせた。その目はとても真っ直ぐで、けれど、切なげに審神者を見つめていた。
(僕がどう思っているか……?)
審神者には、願ってもない話だった。ここできちんと断れば、審神者を諦めると清光は言っているのだ。それは審神者にとって好都合なことである。今ここで、清光が何の未練もなくなるように、断れば良い。
(受け入れるわけがない…)
断ろうと思った。それしかないと。
そうすれば、終わらせることが出来るのだから。
「っ………」
けれど、言葉が出てこない。そんな審神者を、清光はじっと見つめている。答えを待っている。決して、急かすような真似はしない。それが逆に審神者を焦らせている。
審神者は、くしゃりと表情を歪ませた。口を開きかけて、また閉じて、そして今度は泣きそうになった。
顔を隠すように俯いて。でも耐えきれず、審神者の唇から、ついに言葉がこぼれ落ちた。清光に想われて、嫌だとは思わない。言うべきではないと分かっているのに、理解しているのに、それでもどうしても、迷惑だと口にすることが出来ない。
「……――嫌、じゃない……うれしい…」
嘘が、つけなかった。
審神者はぎゅっと瞼をとじ合わせて、矛盾した己の言動にうんざりした。こんなことを言って、誰ともそんな関係にはならないと言ったくせに、誰も選ばないといったくせに。己にはまだ、傷つけてでも断る勇気がついていないというのか。
清光の息を呑んだ気配に気づき、慌てて審神者は付け加える。
そうではないという、そういう意味合いの言葉を繋げようと思ったのだ。
「お前は、僕にとって特別な刀だ。でも、」
だが、それより先の言葉は続かず、痛いほどに強く引かれた腕に意識をとられる。体勢が変わり、目の前に迫った痛いほどの赤に息が止まった。腕を掴んでいた手は離れ、代わりに、後頭部に手の平が当てられ、引き寄せれた。
「――っ!」
斜めから重ねられた口づけは強引で、歯が当たらなかったことが不思議なくらい乱暴だったように感じた。それが衝動に近い理由にされたものであると審神者は本能で察して、けれどそれが分かったとて、どうしようもなかった。
先ほどの審神者の言葉のせいである。清光が与えた最後だったかもしれない逃げ道を、審神者自身が捨ててしまった。その愚かさが、審神者が、審神者の意思で逃げるという選択をさせてはくれなかったのである。
(……あつい)
溶けてしまいそうだと感じた。唇から伝わる熱から逃げるように瞼を閉じて、審神者は、無意識に清光の腕を掴んだ。他に何をするでもなく、ただ、掴んでいただけ。細身に見えても筋肉質なそれは、可愛くあろうとする普段の清光とは些か矛盾があるように思えた。
(清光も……こんなことをするのか。したいと、思うのか……)
ぼんやりとそう思い、審神者は瞼を閉じた。
すっかり熱に浮かされた己がいる事実を認めたくはなかった。口づけは徐々に深さを増していったが、審神者は嫌悪感など感じてはいない。それが恐ろしく。何よりも恐ろしいのは――求められていることに喜びをも感じている己がいたことであった。
何度も繰り返され、心臓に悪い音を伴う口づけに、次第に感覚が麻痺していきそうになる。大人しく口づけを享受しているだけである。
けれど、ぬるりとした感触が唇の隙間をなぞってきたとき――審神者は驚きを隠せず、思わず、唇を開いてしまいそうになった。受け入れたわけではなく、反射である。審神者はそう信じている。
ぞくぞくと背筋が震え、こぼれる吐息は甘くなり。ぎゅうっと、清光の腕を掴む手に力が入った。
けれどそれは続かず、肩を掴まれて、今度は遠ざけるように引き離された。
「――……きよみつ?」
事態に理解が追いつかず、舌足らずに名を呼ぶ。何が何だか分からない、といった言葉が一番適切だったかもしれない。
清光は下を向いて審神者と顔を合わせることなく、落ち着かせるように呼吸を繰り返していた。息切れをしているようにも、息を整えようとしているようにもとれるその呼吸の後に、清光はこう言った。
「ごめん、まだ、こういうことしないって決めてて、決めてたんだけど、これ以上は我慢がきかなくなりそうだから……」
そう言ってから、清光は顔を上げた。そこでようやく審神者は、清光の息があがっているわけではないのだと気づいた。
「――続きは、日が変わってからする」
乱れた息を整えようとするそれは、ただただ、自身の欲求を抑えているだけなのだと。清光の獲物を前にしたときのような荒々しい視線が、呼吸が、それに気づかせてしまった。それを理解したとき、審神者はなぜだか、無性に恥ずかしい気持ちになってしまって。
思わず、逃げるように、袖で己の顔を隠してしまった。
「――し、しない……困る……」
拒まなかった己が恥ずかしくなる。まるで、審神者の方が望んでいるようではなかったか、と。逃げるように、清光に背を向ける。そのまま脇目も振らずに走り出そうとした審神者だったが、すぐに背後から抱きしめられて阻止されてしまった。
逃げようにも逃げられない審神者の耳元で、清光が問うてくる。
「どうして?」
何が困るのかと聞かれても、審神者にも上手く説明が出来ない。自分自身のことであっても、審神者にだって、己の気持ちの理解など出来ない時はある。
「嫌がってなかったじゃん。主が本気で嫌がってたら、俺あんなことしてない…」
「……わかっている」
「じゃあ何で? 何が駄目だったの?」
「っ……駄目じゃない。ただ、その……困っているだけで…」
「……どういうこと? 何が困るの?」
急かすように、問われる。審神者は頭の中がぐるぐると忙しなく、逃げたい一心で、首を横に振った。
「もう部屋に戻る、かえる」
泣きそうな声で言うが、かといって清光がそれで見逃してくれることはなかった。当然である。
「だめ、ちゃんと言って。っていうか、今夜はもう逃がすつもりとかないし」
両腕でしっかりと腹部に回され引き寄せられ、答えを要求される。けれど、審神者とて既にいっぱいいっぱいの状態である。己のことを、冷静に判断できるような余裕がないのである。
「明日、せめて明日にしてくれっ」
「……いいよ。明日になるまで、俺も主のそばにいるけどね。それで、日付が変わり次第、返事は貰うし、そこで絶対に俺のものにする。今更、嫌だっていっても逃がさないから」
もうチャンスはあげない。そう続けて、清光は頬をすりあわせる。
目眩がした時のように、ちかちかと目の奥で光が点滅したような気がした。
そっと、腹部に回されていた手が、指が、審神者の唇に触れた。同時に、熱に浮かされたような声が審神者の耳元で囁いた。
「その時はちゃんと、この口で言ってね。俺のものになるって、」
優しく触れる指先はなぞるのみで、そこから先に進入しようとはしない。審神者はそれがもどかしく、その指先を引き離そうと手を伸ばす。そうして清光の手を掴んで、引き離す。
「……なれない」
「なるの。俺の気持ちが嬉しくて、触られることが嫌でなくて――……さっきだって、受け入れてた」
「っ……それは……」
そう言われてしまっては返す言葉もなく。動きを止めてしまった審神者に、清光は笑った。
「逆に聞きたいくらい。俺のこと好きすぎでしょ。どうして困るの? 大口叩いて、開始直後に俺を選んじゃうこと? 他の奴らに示しがつかないって?」
「ちがう、そうじゃない…」
「じゃあ何? 俺に抱かれるの嫌? そっちはまあ……主の心の準備ができるまで待ってもいいけど」
「っ……それは、……そういう話でもないけれど……そんな話はするな……」
後半は、蚊の泣くような声だった。困り切っている審神者には、愉しげに唇を弧にしている清光の表情など見えてはいなかった。
そもそも、どうしてこうなったのだろう。審神者は、清光にそのような目では見られていないと思っていた。そしてその理由は、清光との間にあった出来事が大きく関係している。それを思い出した審神者は、非難を含んだような声で抗議する。
「そもそもお前は、僕のこと、好きじゃないと言っていただろう…」
「……えっ?」
「僕の気持ちは、迷惑だと……それなのにどうして……!」
「ちょっと待って。何それ。そんなこと言ってない!」
焦った口調で否定する清光に、審神者は顔をしかめた。あれほどまでに清光の言葉に傷ついた在りしの頃が、清光の中ではなかったものとされている。それが悲しかったのだろう、つい、拗ねたような口調になってしまう。
「……言った。好きになるなと、僕に言った。特別に思うなと……二度と口にするなと……」
「そんなの――……言ったかもだけど、言ってない! そんな意味じゃないから!」
「〜〜もう良い。部屋に戻る。離してくれっ」
他に意味などあるわけがない。全て、言葉通りの意味だろう。審神者はとぼけているように聞こえたことが無性に悔しくて、力を入れて清光から体を離そうとする。審神者の本気を感じたのか、清光の言葉は更に焦りを含んでいく。
「待って聞いて! 俺の話きいて!」
負けじと力が入り、審神者の拘束が更に強くなる。
そうされてしまえば、もうどうしようもない。力比べで、人の身である審神者が勝つことなどないのだから。審神者が聞きたくないとごねたところで、きっと今の清光は受け入れたりはしなかったことだろう。
「俺が、あの時主に好きにならないでって言ったのは……主を、他の誰にも渡したくなかったからだよ」
その言葉に、離れようともがいていた動きが止まる。
「……うそだ」
「嘘じゃない」
すり、と頬擦りをされる。熱が伝わり、触れるそれに、審神者は少しの安心感を覚えた。清光に触れられることは、審神者にとっては嫌悪の対象にはなりえない。むしろ、清光に求められていることは審神者にとって喜びに近いのである。この体勢も、清光のこの声も、審神者にとっては分の悪い勝負でしかなかった。
「――あんな風に、俺が特別だって言ったくせに。俺を選べないのに、選ばないのにあんなこと言ってさ。本当はあの時、主に俺を選んでほしかった。だけどさ、あんな風に泣いてる主に、何を迫れっていうの? 何も、出来る訳ないじゃん」
切なさを含む声。審神者は、きゅうっと、胸の奥が苦しくなることを感じ取った。
「誰かを選んだら長谷部にっていうのも意味分かんない! なんでそんな約束なんてするの!? ――それがなかったら俺、あの時ちゃんと主に好きだって、伝えられたかもしれないのに」
なのに。悔しそうに続けられた言葉を最後に、清光は口を閉ざした。背後から抱きしめられている状態であっても、清光があの時のことを思い返していることは明らかで。審神者はそれを察して、同時に当時の思いをなぞって、審神者もまた、言葉を探して黙り込んだ。
(……なら、それが、本当なら……僕は清光に嫌われているわけではなかったのだろうか)
じんじんと胸の奥から、温かい気持ちがこみ上げる。清光の言葉を直に聞いて、長い間胸の奥に追いやるようにして我慢してきた気持ちが、己でも抑えきれないように思えて、審神者は、ぽつりと、つぶやくように口を開く。
「……あの時僕は、お前に見限られたのだと思った。情けない主だと思われて、拒絶されたと思った」
元をたどれば審神者の振る舞いに全ての原因がある。それは自覚していること。けれど、非難するような声でそんなことを口走ってしまった。己でも止められないそれに、清光の拘束が緩んだ。解放してくれた、とはいえないが、少しは身動きがとれる余裕がうまれる。
「そんなわけないでしょ? ……本当、鈍いし、酷いし、ここまでくるといっそ呆れるよ」
言われ、審神者はきゅっと唇を閉じる。
そう言われるのは当然のことであって、審神者に清光の言葉を否定することなど許されないことだ。清光の気持ちを、あの時からずっと――否、昔からずっと、審神者は汲むことが出来ていなかったのだ。
「今は、そんな風に思ってない?」
静かにそう聞かれて、審神者は後ろを振り返ることが出来ないまま、それでも確かに頷いた。ここまでされて、言葉を貰い、それでも清光の気持ちを疑うような真似が出来るほど、審神者は歪んではいない。
審神者の反応を受けて、清光はふっと笑った。
「なら、いいけど」
言って、ぎゅっと審神者の体を抱きしめる。そのまま、審神者の耳元で囁いた。
「ね、このまま、主の部屋に行ってもいい?」
手の甲から手を重ねて、指先を緩く絡ませる。甘ったるいと思うような声が、ぞくぞくと耳の奥まで押し入ってきた。清光という刀に審神者がことさら甘いことは、多くの刀剣男士が周知している。勿論、審神者自身も、それを自覚している。
それ故に、非常にまずい状況であった。このような状況下で承諾することは、部屋に入ることだけではなく、もっと違う事柄に対する承諾という扱いになりかねない。
すりすりと、絡められた指先が、甘えるように触れてくる。審神者は必死に断ろうとするが、唇が動かない。ぞくぞくするのは、この状況下に対する不安か、それとも別の感情が理由なのか、審神者は考えたくもなかった。ここでの返事は告白への返事のようなものだった。
「……だめだ」
なんとか理性を全動員して絞り出す。けれど言い終わった瞬間に、耳をかぷりと甘噛みされてしまった。声にならない声をあげ、審神者はじわりと涙を浮かべる。一瞬にして虚勢が剥がされてしまったような思いだった。
「…っ!」
「聞こえなかった。もう一回言って」
悪戯な声でそう続ける清光は、審神者は承諾するまで聞き入れるつもりがないのだろう。審神者に言わせようとする反面、審神者の反応を楽しんでいるようにも思えた。
「だから僕は……そういうことは……ま、まだ…」
「ああ、まだ主は‘審神者’として対応してるんだもんね。大丈夫、待つよ。日付が変わるまではね。安心して」
清光に引いてもらいたい一心で、審神者は告げる。けれどのらりくらりと交わすようにそう言われてしまっては、それ以上返せず、決して見逃しては貰えないだろうと確信してしまった。間違いなく、清光は、言葉の通りにするつもりである。
「……約束がある、」
今夜の内に、審神者から答えを引きずり出すつもりなのだ。
それでも何とか抜け道を、と考える内に、審神者の口からこぼれた言葉があった。
「僕は、約束を違えるつもりはない……お前を、清光のことを選んだら、その時は長谷部にこの身を捧げる。僕の全てを、長谷部に」
震える声からは虚勢を感じさせた。実際そうなのだが、審神者の心境としては、はったりをかましているような気持ちにさせてしまうのだから心地が悪い。
「それでもというのなら、僕は、お前を選んでもいい」
焦りを十二分に含ませたそれは、清光の動きを止めるには足りたらしい。ぴたりと清光の動きが止まり、沈黙の後――不機嫌な声が清光から放たれる。
「まだ、それを引っ張る気? それじゃあ、何のために一月向き合うなんて言ったの」
「……始めるための期間じゃない。これは、終わらせる期間だ。お前達が僕への感情を断ち切るためだけの……言ったはずだ」
一等感じた息苦しさ。審神者は、くしゃりと顔を歪ませた。
「だから、選ばない。……選ぶ気など、初めからない」
言って、続ける。
「愛想も尽きただろう? 僕は僕のためだけに、この期間をもうけた。元々、僕は誰とも添い遂げる気などなかった。今も気持ちは変わらない」
改めて口にすれば、その酷さが顕著になる。
ぽつりと、清光はつぶやいた。
「うそつき」
ぱっと、審神者の体から清光が離れていった。解放される気配などなかったのに、一瞬で解放されて、審神者は唖然とする。けれど、清光の怒りも冷めようも当然のものと考え、俯く。清光の言葉を、否定することはしない。
「……すまない。どうか、これきりで、終わりにしてほしい」
選びたくないのに、清光に迫られれば、いとも簡単に気が変わってしまいそうになる。これでは、尻軽だなんだと罵られようと、それは当然の報いである。
(……ああ、また、繰り返すのか…)
あの時、清光に審神者は見限られたのだと思った。あの時感じた清光への気持ちを、封じなければと。これ以上清光を傷つけるような振る舞いなどしないように、清光の望む通りに振る舞おうと。
(勘違いだった。清光は私を見限ったわけではなかった。けれど、今回は違う)
今回はもう、審神者も諦めている。それだけのことを口にして、行動に移したのだ。己の意志の元に行ったことであっても、もう、己を擁護することなど出来はしない。
この場から立ち去りたい一心で、足が前に進む。清光に背を向けたまま。今度は止められないと思った。引き留められるわけがないと。
「――……っ」
けれど、腕が掴まれた。審神者の腕を掴むそれは、迷いを一切含んではいない。
「出来ないよ。――言ったろ。もう逃がしてやらないって」
そして、引かれる。不意打ちで込められた言葉に審神者はバランスを崩し、それを利用するような形で、清光の腕の中へと引きずり込まれた。勢い余って胸に鼻をぶつけそうになったが、咄嗟に上げた手を胸に当てる形で、なんとかその事態をかわすことができた。
「今、なんて――…」
清光の言葉が耳に入っても、その意味まで瞬時に飲み込むことができずにいる。それは、審神者にとって、あまりにも想定外の言葉だったからである。
自分の頭の中で整理するよりも先に顔を上げて、清光を見る。
清光は真剣な表情を浮かべ、審神者のことを見つめていた。
「目的なんて関係ない。――あんたは誰にも渡さない」
そのまま見つめ合って、数秒。審神者は、時が止まったような感覚を覚えた。そんなはずなんてないのに、まるで、とても長い時間をかけて、清光と見つめ合っていたような気がするのだ。
「日が変わる前に、聞かせてよ。本当の気持ち。長谷部のことは抜きにして、俺のこと、どう思ってるのか」
日が変わる前ならば何をいってもカウントされない、という主張だろう。審神者は困惑して、逃げるように視線を逸らそうとして、追いつめるように清光に鼻先を近づけられたことでそれを止める。鼻先が触れ、吐息が当たる距離で審神者の返事を待っている清光に、審神者は静かに息を呑んだ。
答えがどうであれ、審神者が清光に特別な思いを抱いていると口にしたのなら、その先の展開は容易に想像がつく。審神者は困った表情で眉間にしわを寄せて、この場を乗り切るための言葉を探す。けれど、追い込まれた状況でそんな言葉を口にする余裕があるのならば、そもそもこんな状況になどなっていないはずである。
「っ……分からない……」
考えた末に紡いだ言葉ではなかった。けれど、正直な気持ちだった。
「お前にされて、嫌な事なんてない。でも、これがお前と同じ気持ちかどうかなど分からない。お前になら何をされても構わないと思っても、お前が僕にしたいと思うようなことを、僕の方からお前には望んでいるわけではない」
目をそらすことなく告げた言葉は、審神者の本音の部分であった。どうしても耳障りの良い言葉を選ぶことが出来なかった。これは清光にとって良い言葉ではないはずだと、審神者はもう分かっていた。
「――僕とお前の気持ちは、きっと、同じじゃない」
伝わってくれと願った。審神者は、そこまで口にして、何故だか、己で己の言葉にすとんと納得がいった。無意識に口にした言葉で、やっと、気づけたような気がした。きっと誰より清光という刀を優先したいと思う。その理由はやはり、清光が長い間一番そばで審神者を支えてくれていたからである。
(気づくのが遅かったな)
清光の瞳が、哀しく細められる。か細い声で、清光が呟いた。
「それでも良いよ。……それで良いんだ」
きゅうっと、胸が締め付けられる。審神者は、切なげに目を細め、清光を見つめる。
「それでも、俺を選んで」
言われ、口づけが落とされた。審神者は眉間にしわをよせて、けれど、清光を突き放すような真似はしなかった。あまりにも、清光の声が切なさを含んでいたからだろう。結局のところ、嫌悪感など感じず、求められていることを嬉しく思う時点で、清光にとっては審神者の気持ちなど重要ではないのかもしれない。
清光と審神者の関係は、あまりに特殊で、特別だった。
審神者は清光を突き放そうと手に力を入れかけて――やめた。
そのまま瞼を閉じて、清光の口づけを受け入れる。今この時だけは、誰も見ていない。ならば、この場所で最後にしようと思った。それならばもう、好きにさせようと思った。それは清光のためのように思えるが、審神者自身のためのことでもあったのかもしれない。
(もしも……お前を選ぶと言ったら、清光は、どんな表情を見せてくれるのだろう? お前を選んだ先の未来では、僕とお前は、どんな関係になっているのだろう)
悩みながら、審神者は唇から伝わる温もりを受け入れる。何度も繰り返し落とされるそれは、言葉ではなく行動で愛を伝えようとしているようにも思えた。それが空虚のように思え、けれど審神者に衝動を起こさせるような熱も感じた。
欲しいと言われる物は、全て与えたい。もしも長谷部との約束がなかったのなら、きっと審神者は頷いていたことだろう。そして清光の望む言葉をそのまま告げたことだろう。それを、審神者は確信していた。
(……すまない。清光)
心の中で謝罪するが、それは誰の耳にも入らない。その考えも、唇を触れ合わせる内に、霞むように消えていった。
それどころか何度も何度も繰り返されるそれに、このまま清光と一つになってしまうのではないかと、そんな錯覚すら覚えてしまう始末である。
「あ…」
清光の唇が離れてしまったことで、そんな声がこぼれ落ちた。まるで、後ろ髪を引かれているような声だった。
そっと指先で唇をなぞられる。妙な心地でそれを受け、審神者は視線を少し下に落とした。けれど強く押されたことで、引き戻されるように視線を清光の目に向けた。情念に揺れた赤に吸い込まれるように目を奪われ、整えられた指先が、審神者の唇に割り込むように動き出す。
「……言って」
急いているような声だった。まるで懇願するような切なさを含んだそれは、審神者から逃げるという選択をさせてはくれない。くらくらと目眩がするのは、酸欠だからではない。間違いなく、審神者は清光の全てに翻弄されている。
「好きって、言って」
刀剣男士として、ではない。特別な想いを乗せて言ってくれと。求められているものを理解している審神者は、これではいけないと思う反面、求められるままに従おうと気にもさせられている。躊躇うように震える唇は、それでも、清光の求める言葉を吐こうとしていた。
「――……清光。私は……」
初めて会った日、共に戦うと言ってくれた清光の姿が脳裏に過ぎる。あれから長い時間を共に過ごした。深い絆があったわけではない。親しいというには距離もあった。けれど、確かに長く側にいてくれた清光に、特別な想いがないわけがないのだ。
けれど、それが恋かどうかは分からない。そうなのだろうと思ったこともあったが、けれど、違ったのだ。元々恋が出来るような人間ではなかった。
けれど、それでも、清光は構わないと言っている。
それでも審神者のことを欲しているのだと思えば、審神者はそれを無碍になど出来ようわけもなかった。
「――…僕は、お前を……」
視界がちかちかする。こんなにも至近距離にありながら、審神者は清光の目を真っ直ぐと見れていないような、そんな気がした。
不意に吹いた風が、月を隠してしまう。審神者は無意識に、縋るように清光の背中に手を回し、そして清光の服を、弱々しい力で握りしめた。
唇が紡ぐ言葉が、本当に審神者の中にある気持ちなのかどうか、分からぬまま。
すぐ手の届く距離でありながら、ずっと手を伸ばせなかった相手が、もう少しで手に入る。
すっと目を細めて、清光はその瞬間を待った。
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