返事をしてしまうかと思った。清光に求められるままに、望まれる言葉を伝えてしまうかと。平常心ではなかった。明らかに、感情や状況、勢いに圧されていた。審神者の意思であって意思ではない、言わされた言葉であったのだ。
だが、それも審神者の言葉に違いはない。なかったことになど出来ないのである。言ってはならぬと分かっていたのに、それでも動こうとする唇は、きっと己の力だけでは止めることは叶わなかった。
「いけませんよ」
幸か不幸か、審神者の声は第三者の介入によって止められた。辛うじて、というところで言葉を止めることが出来た審神者は、我にかえり、清光に向けていた視線を声のする方へと向けた。そこには、雲の隙間から覗いた月明かりの下、きらきらと輝く銀髪があった。
「……今剣?」
「っ――なんでっ……」
いつの間に、離れからも距離のあるここまで来たのだろうか。足音すら、一切の気配すら感じなかった。元より、相手は刀剣男士の中でも夜に特化した短刀である。人の身である審神者が気づくことの方が難しい。分かっていても、やはり驚きを隠すことは出来なかった。
「邪魔しないで」
低い声で唸るように言い放ち、清光は審神者のことを一層強く引き寄せる。まるで、今剣から審神者を隠したがっているような動きだった。
先程までもっと密着していたというのに、ただこれだけのことが――今剣の目がある場所で行われているという事実のせいで――審神者の頭を急激に冷やさせた。
「あるじさまをはなしてください」
まん丸とした瞳をほんのわずかに細め、今剣は告げる。
「このまま ほかのかたなをよんでもよいのですよ。ですが、こまるでしょう? 加州ももちろん、なによりあるじさまが。よいのですか」
「――…脅してるつもり? 悪いけど、俺は譲る気なんてないよ」
「みのがす、といっているんです。いま ひくのなら、ぼくはなにもみなかったことにします。加州も、これからひとつき みうごきできなくなるのはこまるでしょう?」
いつもの、空を漂っているような軽やかな声ではなく、凄みを感じさせる今剣の声に、清光は不機嫌に目をつり上げた。と同時に、審神者も静かに息を呑む。急な展開で理解が追いつかないが、何より、審神者自身、この場で誰に何を言えばいいのか、わからなくなってしまっていた。
今剣が止めてくれたことに安堵しているのか、今剣に見られていた事実にショックを受けているのか。それすらも判断がつかない状態である。
「なにより、それはあるじさまのことばではありません」
一体いつから、どこから見ていたのだろう。審神者にとってはとても恐ろしく、軽くは聞けないことだ。今剣の言葉に清光は少しの間をおいてから、悔しそうに奥歯をかみしめた。
「……そんなこと、分かってる」
小さな小さな声で漏れたその言葉は、ひどく審神者の耳に残り、痛いという資格もないだろう審神者の心に、その跡をしっかりと刻み込んだ。緩く審神者から身を離し、けれど審神者の手は握ったまま、清光はまた離れに戻るように歩き出す。その背中、清光に声をかけようとした審神者のもう片方の手を掴み、今剣が強く握りしめた。
何も言うなと、そういっているように思えた。
[chapter:審神者は全て終わらせたいA]
「まったく。ゆだんもすきもありません」
審神者の部屋に戻って、今剣は呆れたように口にする。部屋には入れないといっていたというのに、何故か今、今剣と清光と審神者と、部屋の中に集まっている。清光は片膝を立てるように座り込んで、審神者の隣を陣取っている。不機嫌をまとう、露骨な態度であった。
「何で今剣があそこにいたわけ? 俺、誰にもつけられてないって自信があったんだけど」
けれど審神者の手は離さないままぎゅっと握る清光に、審神者は、気恥ずかしいやら気まずいやらで、たまらなくなった。今剣の前である。何より、先程清光に触れられ、告げられた記憶を思い出す度に、どうしても顔が火照ってしまうのだ。今剣に見つかったときには真っ青になっていたというのに、己でも変わり身の早さに呆れてしまう。
このはっきりしていない態度が、清光にあのような行動をとらせてしまったのだろう。
「おしえてもらいました。いまゆかねばあるじさまがたいへんなことになると」
「は? 誰に」
「おしえません。これでもぼくは、ごえいがかりからはずされたことをねにもっていますから」
そう言って、今剣はぷいとそっぽを向いてしまう。ぷくっと膨らんだ頬は、指でつつけば勢いよく空気が飛び出してきそうである。
「それは自業自得でしょ? 主に手出させたからじゃん。護衛にはつけられないよ」
「ちがいます。ごういのうえでしたから、とめなかったんです」
「嘘つくなっての!」
「うそじゃありません」
今剣がそう答え、審神者をみる。張り合って言い返しているというより、ただ事実を述べた、といった様子だった。
「ですよね。あるじさま」
審神者はそのまっすぐ向けられた眼にどきりとし、また、火照った顔の熱が急速に冷めていくのを感じた。
「……あの時のことかい?」
「はい。あるじさまが いなりずしをもってきてくれたときのことです」
あの場を今剣に見られていたというのであれば、それはきっと、審神者にとって都合の悪いことではあるのだろう。
(……確かに、あれを、合意ととることは出来る…か)
審神者にはそういったつもりはなかったが、端から見れば、そうとしか見えなかったといわれても納得できないとまでいえるものではない。
気まずいといえば気まずいのだが、その一言で片づけてしまうには、とても複雑な感情があった。
「のまれてはいけませんよ。きちんとむきあうといったのはあるじさまです。しっかりしてくれなければこまります」
「……すまない」
短い言葉ではあったが、それには多くの進言が含まれている。それを察し、そしてそう言われるだけの不実を己がしようとしていたという事実が、審神者に肩を落とさせた。返す言葉が何も思いつかなかった。
「あるじさまはすぐにほだされてしまいますね。しんぱいなので、きょうは、ぼくがあるじさまとここでねることにします」
「はあ?」
怒気を含んだ清光の声がして、何故か審神者の方がびくりと反応してしまう。己に言われたわけではないのに、こうして反応してしまうのは後ろめたい気持ちがあるからだろう。
「信用できるわけないじゃん。もう帰ってくれない? 主に無理強いしてたわけじゃないんだから、これ以上邪魔しないで! どこから見てたか知らないけど、出歯亀してたんならそれは分かってるんでしょ」
「あるじさまが ごじぶんのいしでへんじをするのなら、ぼくもじゃまはしないつもりでした。でも、ちがいましたから。わかっているでしょう?」
「――主は、嫌がってなかったよ」
すっと、視線が審神者に向けられる。
視線が交わり、灯りのつけられた部屋の中、審神者は唇をとじあわせて先程の記憶を思い出してしまいそうになる。清光の言う通り、審神者は拒絶というものが出来てはいなかった。
「っ……」
思い出している場合ではないというのに。けれど懲りずに頬は火照り、審神者は逃げるように視線を斜め下にずらしてしまう。返事も出来なかったが、その反応だけで、清光の言葉が事実であることは今剣にも伝わったことだろう。
「邪魔は入ったけど、俺、本気だから。だから今、主が俺を――」
繋がりを離さぬようにと握られたままの手が、引かれる。最後まで聞かずとも選ぶことを迫られていると理解した審神者は、また、視界がちかちかと定まらぬような気がして。今剣の見ている前だというのに、言われたばかりだというのに、あっという間に清光の本気に圧されてしまいそうになる。
「っ……」
もしも目があってしまったら、あの激情にまみれた視線で射抜かれてしまったら。今度こそ、審神者は受け入れてしまいかねない。
「いけませんっ!」
けれどその繋がりを断つかのように、今剣が審神者の胸に飛び込んできた。その拍子に繋がれていた手は離れ、審神者は小さく目を丸くする。審神者の両腕ごとまとめて抱きついた今剣は、キッと清光を睨みつけた。
「いったそばから! ゆだんもすきもありませんね!」
言って、今度は今剣は審神者と強引に目を合わせる。小さな顔が目の前いっぱいに広がり、その瞳は気迫を伴いながら審神者向けられている。
「あるじさまも、もっとしっかりしてください!」
「っ……す、すまない」
「謝らなくていいって!」
今剣と清光で言い合っているというより、審神者が板挟みにあっているといった方が良い状況である。審神者はなすがままであり、己の意見を何一つとして口に出せずにいる。それが余計に、清光と今剣の両者を苛立たせてしまっている。
煮え切らない態度に痺れを切らしたのか、清光が苛立ちを露わに吐き出した。
「俺も主も、何も悪い事なんてしてないのにっ…!」
その悲痛な声はとても審神者に刺さり、けれど、審神者は清光の言葉に同意することが出来なかった。清光が悪いことをしているとは思わない。けれど、己に関しては話が違う。主の立場でいながら、刀剣男士をそのような目で見てしまうことがいかに醜悪か。考えてしまえば何もいえなかった。
「よいことかわるいことかはさておき、それはしてはいけないことです。あるじさまにとって、よいことではないのはたしかですから。あるじさま、しっかりしてください!」
審神者は悲痛に目を伏せ、口を開く。
(今剣の言うとおりだ……私は審神者なのだから――……まだ、審神者として振る舞うべきなのだから、ここで清光を受け入れることなどしてはいけない)
ましてや、あのような形で清光を受け入れることもあってはいけない。言わされたから流されたから、そんな理由ではいけない。そんなことは不実に他ならない。加えて、それは清光をもっと傷つけてしまうことに繋がりかねないことである。
審神者は、決心するように唾を飲み込んだ。
「っ……清光。私は、このまま今剣と過ごす」
少しだけ動ける腕を伸ばし、今剣の背中に手のひらを当てる。そのまま、審神者は一瞬の躊躇いを見せた後に、続けていった。声が微かに掠れていた。
「少なくとも、今夜は今剣とだけ過ごすのだから、他の刀とどうこうなることはない。だから……」
「っ、やだよ! そんなことしたら、主はもう……俺のことなんて選ばなくなっちゃうじゃん……」
胸が張り裂けてしまいそうなほどに震える声。清光の言葉に戸惑い、審神者は目を向ける。一瞬、言われた意味が理解できなかった。
「……何故そんな……何度も言っただろう。私は誰も選ばない。これは、そのための期間だと、」
「そんなの、理由なんて主が一番分かってるでしょ? どれだけ主が丸め込まれやすいかなんてさ。好きじゃなくたって、主は誰にだってあんな風になっちゃうんじゃん! だからさっきだって、主は俺に――……」
そこまで言って、一度、口をつぐむ。手遅れなような気もするが、その先を口にするのは躊躇ったらしい。
傷つくような資格は己にはない。分かっていても、審神者はぎゅっと唇をかみしめる。
迫られれば誰でも受け入れるのだろうと、審神者は今、そう言われたのである。
「……誰にでも、か」
そう清光が言うことも仕方なしと分かってはいたが、面と向かって言われると、辛いものがあった。まるで、審神者は何も葛藤することなく、迷うことなく、迫られたから応えただけなのだと言われているかのようだった。
(そうだな。きっと、そうなのだろう。僕は信頼など、誰からも得ていない)
どれだけ好きだと愛していると言われようと、皆、それだけは口を揃える。審神者がふらふらと誰にでも心を開くような尻軽だと、そう思っているのは共通だ。仕方ない。それだけのことをしてきたのだから。はっきりと拒絶も出来ず、なし崩しに触れられることも多く。否定の言葉も出てこない。
ああ、もちろん。清光の言葉に間違いは何もない。
何も、おかしなことはないのだ。
――それでも、
「……相手がお前だったからとは、思ってくれないんだな」
ぽつりと、こぼれた言葉は、本当に小さくて、霞んで消えてしまったとしても何らおかしくはないものだった。傷つけてばかりの己が傷つく権利などあるはずがないのに、審神者は身勝手にもそう考えてしまって、自己嫌悪に苛まれた。
「――主? それって、」
「今日は今剣と寝る。悪いが、出て行ってくれ。もう今夜は疲れてしまった」
審神者の言葉を拾ったらしく、けれどすぐに飲み込めていなかった清光が審神者に聞き返す前に、審神者はそう告げた。今剣を膝の上に抱いたまま、同時に、今剣の小さな背中に隠れるようにして。
「――出て行ってくれ」
それ以上は清光の言葉を聞きたくないと、そう言うように続ければ、清光は息を呑んだ気配を感じ取った。傷ついたのかもしれない。それが分かって、けれど、審神者には今の清光にかけてあげられる言葉は何一つとしてない。出来ることなど何もない。
「きこえたでしょう? こんやはぼくがあるじさまをおまもりします。ひいてください、加州。これいじょう、あるじさまをこまらせてはいけませんよ」
「っ……!」
しばらく、歯がゆそうな沈黙が部屋に流れる。
それからゆっくりと、清光が立ち上がる気配がした。
「――…主。俺、本気だからね。絶対主を手に入れるから」
どきりと、胸が高鳴って嫌気が指した。先のような言葉を吐かれて――それでも尚、嬉しいと感じてしまう。
(――ああ、もう、嫌になる)
動じないことなど、審神者には土台無理な話なのだ。何も言わず、けれど、じわじわと頬は紅潮してしまっている。本当に、学ばない体である。情けない気持ちにさえなってきた。
「今剣。絶対主に手を出さないでよね。小狐丸のことだって見張ってるから無駄だからね」
「……おなじさんじょうとして小狐丸をおうえんはしていますが、ぼくはあるじさまのかたなです。そんなひきょうなまねはしませんよ」
審神者の腕に頬をつけながら、それでも凛とした声で今剣は告げる。それに訝しげな視線を送りながらも、清光は部屋から出ていこうとした。
「清光」
その足音が、気配が、止まる。呼び止めたものの、審神者は清光と目を合わせることすら出来ないまま、縋るように今剣の衣服を指先に絡めて、言った。
「私は、皆に守られている間も、護衛をつけてもらっている間も、触れられていた。――……今夜の、ように」
カラカラに喉が乾いている。水をのみたい。そんなことを考えながら、それでも瞼の裏には哀しそうな清光の姿が浮かび上がっていて、いっそこのままこの首を切り落として欲しいと、そんなことさえ考えている。
正気ではない。否、正気だからこそ、そこまで考えてしまうのだろう。
冷静に、審神者は言葉を続けた。
「強引に触れられたこともある。けれど、私がそれを許したこともある。私の方から触れたこともある。お前の言うとおり――私には、大事なものが欠けている。‘審神者’でなく‘主’でもない僕のことなど、お前は何も分かってない。だから、もう一度、時間を置いて考えてくれ」
声が震える。たまらず、審神者は今剣の肩口に顔を押しつけるようにして、そのまま強く抱きしめた。小さな手が、審神者を支えようとするかのように背中を撫でたのを感じた。
「お前が傷つき、振り回される程の価値が、本当に僕のような不実で薄情な‘人間’にあるのかを」
言いながら、審神者は反面こう思う。きっと、不可能だ。無理に決まっている。こんなにもはっきりとしない、意見を最後まで貫けないほどに自分というものがない人間の価値など、審神者でなければ、主でなければないに決まっている。何度もしてきた問答だが、けれど、疑いは審神者の中からは消えない。
何度否定されようと、それは審神者の心に届くことなどない。
今の今まで、審神者は薄情だと言われてきた。師匠からは、志さえあるのならばそれは審神者としての強みであると言われてきたため、気にも止めてなかったけれど。
「――勝手なこと言うよね」
呆れたような声がした。仕方ないとはいえ、審神者は目を伏せて、頑なに清光のことをみようとはしなかった。
「これだけ言っても伝わらないんだね。あれだけ言ったのに。主だから好きなんだろうって、やっぱり疑うんだ。ほんと、面倒くさい。じゃあどうすればいいの? どうすれば信じてくれるの? 教えてよ」
「……それは……」
言葉を紡げずに、黙り込む。小さくため息を落とされて、胸が苦しくなった。
「どうせ、何も言えないんでしょ。いいよ。分かってるから」
審神者から遠ざかっていた気配が、ゆっくりとまた近づいてくる。それを察して体が強ばり、けれど逃げることも出来ずにいるままだ。今剣は、何もしなかった。ただ様子を見るように黙り込み、決して清光と引き離そうとはしなかったのである。
「俺からも聞くよ。ねえ、あんたは俺のこと、ちゃんと見てくれてる? そりゃあ、完全に引き離して考えるなんて難しいのは分かってるよ。初期刀だし、近侍だし、ずっとそばにいたんだもん」
ね、こっち見て。怒ってないから。
呆れたような声から、柔らかくなった声に変わる。審神者は迷いの末、顔をあげた。
「でも、俺の気持ちを疑わないで。終わらせるためとか、そんなんじゃなくて、ちゃんと俺のことを見て――それで、俺のことを好きになってよ」
瞳が震える。とても目を合わせていられない。忙しない気持ちで、何も言えない唇が震えてしまう。清光の唇が、審神者の名前を紡ぎ、そして、微笑んだ。
「――俺は、すきだよ。今までも、これからもね」
清光が部屋から出ていき、審神者の布団に、今剣と並んで横になった後。熱で火照って寝付けない審神者を気遣ってか、今剣は少し横向きになって、審神者のことを見つめていた。
「あるじさま」
「……なんだい?」
寝る素振りではなく、どうやら審神者の話し相手になってくれるようだった。
「あるじさまは、なぜふあんなのですか。あれだけすきだといわれているのに。みな、ほんきであるじさまにけそうしているのに」
その問いに、審神者は思案するように沈黙をつくる。
「……不安、だろうか。違うと思うが……そう見えるかい?」
「はい。あるじさまは、ごじぶんのなかにはなにもないと、からっぽだといっていましたね。小狐丸にそういっているのを、ぼくはきいていました」
あの時のことだろと審神者はすぐに察することが出来た。すぐに思い当たった。鯰尾と骨喰の発言で、今剣があのやりとりを把握していたかもしれないということは知っていたからである。驚きはしないが、やはり見られていたのかという思いはあった。
「……すまない。お前に聞かせるべきことではなかったな」
要らぬ心配をかけてしまったに違いない。そう思いながら、審神者は目を伏せた。ふるふると、今剣は首を横に振る。
「ぼくは きかなければよかったとはおもいませんでした。どんなあるじさまだって、あるじさまだから。ぼくのだいすきなあるじさまです。いまも」
「今剣……」
「あるじさまがなやんでいるのなら、ちからになりたいんです。どうして、あるじさまはそのようにこわがっているのですか」
ぺたりと、審神者の頬に小さな手のひらが当てられる。少しだけ冷たいそれは、審神者の頬から熱を奪ってくれているみたいで、心地が良かった。
「怖くなどない……だが、それが事実なんだ。私は、審神者でなければ何の価値もないような……何もない、空っぽで、つまらない人間で、」
今までの己の人生を思い返す。審神者として、お国のために戦うことは誇りである。審神者にとって、それが全てだった。
それで良かった。
それ以外、何もなかったのだから。
「いつだって、大事なものには好かれなかった」
かつて、師に言われたことがある。審神者は大切なものには近づいてはいけないと、傷つけてしまうだろうと。間違いじゃない。それは事実で、正しい。本来の自分は、大切なものに近づくべきではなかったのだ。
だから現に今、本丸は酷い状況下におかれている。
「……こんなことになるのなら、私は、皆と距離を置いたままの方が良かったかもしれない」
距離を縮めたことで得た物はたくさんある。けれど決して良いことばかりでもなかった。全て、今更だが。
ぽつりとこぼした言葉に、今剣は大きな目を丸くして、悲痛な色を顔に浮かべていった。
「あるじさま……そんな、さびしいことをいわないでください。ぼくは、ぼくたちは、みなあるじさまとちかづきたいとおもっていたんです。どうか、そんなふうにおもわないで」
上半身を起こし、今剣は審神者の顔をのぞき込む。小さな手のひらは審神者をなぐさめるように優しく頬をなで下ろし、そして審神者の額にすりすりと頬をつける。
「ぼくは、あるじさまがだれとこいにおちてもおちなくてもよいのです。あるじさまがしあわせになってくれればよいのです。あるじさまが、あるじさまらしくいてくれれば、それで、それだけで」
「……ありがとう、今剣」
優しい言葉は、一時だけでも審神者の心を安らげてくれる。だが、それだけである。審神者はすぐに思い出す。己が実に中途半端で、刀剣男士を傷つけてしまっていることを。審神者は今剣にそう言いながら、目をつむった。
「……清光に、向けている気持ちが分からないんだ」
じわりと、涙が浮かぶ。
「何でもしてやりたいと思うんだ。望まれているのならば、望まれているだけ僕の持つ全てを渡したいと。けれど、これは恋じゃないんだ。他の刀だって、同じだ」
つうっと、涙が伝っていく。それを落とさぬようにか、柔らかな指先はぬぐい取る。優しい手つきであった。
「………僕は皆を、傷つけたくない……汚したくない……」
主だから恋われたと、理解している。そうではないと皆は言う。だが何を言われようとも、事実は変わらない。でなければ、わざわざ己のような面倒な男を選ぶものか。
どれだけの言葉を並べられて愛を告げられようとも、本質は何も変わらない。審神者だから、主だから。その前提があるからこその好意だと思っている。否、知っている。
だから、そのような状態で審神者が首を縦に振り、皆の気持ちを受け取るとなれば、それは刀剣男士を汚していることに他ならない。審神者として、主としての立場を利用しているにすぎない。
「……そんなかなしいことをいわないで。そんなふうにおもっているかたななんて、いないのに」
「……すまない。お前に、こんなこと…」
「よいのです」
柔らかく目を細めて、今剣は審神者の髪を優しく指先で梳いた。
「きょうはずっとおそばにいます。ですから、ゆっくりやすんでください、あるじさま」
寝付いた審神者の寝顔を見下ろしながら、今剣は思う。
(おもっていたよりも、かべはあついということでしょうか……)
加州清光に絆され、そのまま返事をしてしまうかと思った。実際に今剣が止めに入らなければ、間違いなく審神者は首を縦に振っていただろう。かと思えば、審神者はそれでも頑なに己に向けられた好意を信用してはいない。矛盾している。
いつだって、審神者は自分が空っぽであると言う。以前、小狐丸に迫られたときにも、同じ事を言っていた。
(あるじさまにいったいなにがあったのでしょう? いったいだれが、あるじさまにそのようにおもわせたのでしょう?)
きっと審神者も自覚していない心の奥の奥に、潜在的に審神者を縛っているものがある。それを取り除いてしまわなければ、きっと審神者は誰にも心を許すことなど出来はしないだろう。
恐らく、気持ちは既に傾いている。けれどそれを良しとしない部分で、審神者は理性で気持ちを縛っているのだと今剣は考えた。概ね、小狐丸が審神者に対して言っていた言葉と合致している。
『審神者としての皮を剥がさねば、あれは決してなびかん。どれだけ触れようとも意味がない』
小狐丸の見解は正しい。だが、それと結果が身を結ぶかという点では、また違う問題である。同じ三条として小狐丸の恋を応援しているが、審神者の幸せが第一である。出来るならば小狐丸と審神者が結ばれてほしいが、うまくいくかは今剣にも予想がつかない。
(これは‘ぜんとたなん’というやつです)
どのような結果になろうとも、最後は審神者は心から笑えれるのならそれでよい。今剣は審神者の寝顔を優しく撫でて、そっと布団を抜け出した。もちろん、見張りのためである。
審神者には危機感がない。
無防備になる就寝時こそ守りが必要だというのに、夜まで守って貰う必要などないと口にする。護衛係にもそう言っており、決して夜警の強制はしなかったと。加州に許可を貰ったなどというが、加州もそこまで愚かではない。審神者の耳に入らぬところで、護衛係になった刀剣男士に審神者の就寝時こそ見張っておくようにと念を押している。
だからこそ審神者の部屋で寝ずに護衛係を終えて部屋に戻った――としていた刀とて、朝まで見張りはしていたのだが、審神者はそれにも気づかずに日々を過ごしている。ほら、何も起きないだろうとでも言いたげに。
何故何も起きないのか気付きもしないで。
愛されている自覚が、まるで足りていないのだ。
自分たちがどれだけ長い間我慢して、主である審神者に関わることを我慢していたのか。どれだけ声を聞きたいと願い、触れられたいと願っていたのか。どれだけ審神者を欲しているのか、審神者はこれっぽっちも理解していない。
「あるじさまがおもっているいじょうに、みな、あるじさまがだいすきなのに」
出来ることならば、一月を通して審神者が心から、気持ちを許せる相手が出来ればよい。それが叶うのならば、相手は誰でもかまわない。
後ろ髪をひかれる想いで、今剣は部屋を出て、夜警についた。
既に日は跨ぎ――波乱の一月が始まろうとしている。
[newpage]
――審神者が幼い頃から住処としていた土地は自然が多く、生き物が迷い込むことがあった。それはうさぎであったり、迷い込んできた野良犬や野良猫だったり。審神者はそのような生き物を幼い頃から何度も何度も見てきた。
けれど、どの生き物も審神者に近づこうとしなかった。審神者が近づけば怯えて距離をとり、逃げていく。飼育している鶏でさえ、審神者が近づけば逃げていく。掃除や餌やりに来た審神者の周りには、いつも不自然な空間ができていた。
昔、四摩が足に傷を負ったうさぎを見つけてつれてきたことがあった。
四摩とは、四番目に師匠の元へ来た子供で、審神者の直属の弟弟子にあたる存在だった。
『こいつ、ケガしてたからつれてきた』
狐にでも襲われたか、弱っている小さなうさぎを保護した四摩は、拙い動きで、けれど優しく包み込むように抱き上げていた。怯えながらも、助けようと決意している瞳だった。
兄弟子である審神者は、四摩に手を貸そうと近づいた。まずは傷の深さを確認しなければと、そう考えたのだ。けれど審神者は、四摩が己を睨んでいることに気がついて足を止める。
四摩が審神者に声を荒げたのは、その時である。
『――ダメだ! あっちいけよ!』
審神者が近づくことで、傷ついている身で逃げるように暴れたうさぎをかばうように、四摩は審神者に背を向けた。うさぎを、守るためだった。
決して審神者を邪険に思ったからではない。それでも、それは審神者の心の中に、しかと残った。
『お師匠さま。なぜぼくは怯えられるのでしょう……いつも、逃げられてしまいます』
小さな生き物に怯えられること、それが普通だと思っていた日々。ほぼ同時期に来た二番目の仁もそうだった。だから、それが当然のことだと思っていた。
けれど、三番目に来た三角、四番目に来た四摩、五番目に来た五識。弟弟子にあたる彼らは、審神者のように生き物に避けられてなどいない。己がおかしいのだと気付きはじめた審神者は、師匠にそう問いをかけた。
師は、事も無げに口を開いた。
『お前は特別なのだ。だからこそ、言葉の通じない生き物は恐れる。お前に傷つけられるのではないかと警戒し、逃げてしまう』
『……ぼくは、傷つけません』
『関係ない。――お前が近づくだけで、傷つく生き物はいるのだ。お前が何を思い、何をしようと、結果は変わらん』
すっと、師は指先で示す。その先には、弟弟子の賢明な看病と治療のおかげで元気になったうさぎと、四摩の姿があった。その周りには他の弟弟子が集まり、楽しそうに騒いでいる。
結局、審神者は何も出来なかった。近づけば、それだけでうさぎが怯えて弱ってしまうからである。けれど審神者は、審神者も、力になりたかった。だが、己はただ足を引っ張るだけなのだと気づいてしまえば、遠目から見ることしか出来はしない。
『傷つけたくないならば、近づかぬことだ。――大切なものとは距離をとり、見守ることが、守ることと知りなさい』
『っ……でも、ぼくにもできることがあったかもしれません』
ぎゅうっと拳を握って、審神者は賢明に訴える。欲しい答えを手に入れたかった。審神者の望む方向にあるだろう、明確な進路へと導いてほしかった。
『ぼくは、どうすればあのうさぎを助けられましたか』
そんな審神者を見下ろし、師は言った。
『お前は普通ではないのだ。近づかずともしてやれることを探しなさい。近づき手を差し出す役割は他の者に任せ、お前はお前に出来る仕事を、きちんと全うしなさい』
師は審神者をいつも導いた。師のいう言葉に嘘偽りはない。師は、いつだって善で、正しい存在である。審神者はそれ故に、師から告げられた真実に戸惑った。
『審神者となった後も同じこと。刀剣男士にとて、決して気安く近づいてはならない。傷つけたくない、守りたいと思うのなら――距離をおくのだ。良いな? であれば、お前は何者も傷つけることなく生きていけるだろう。お前は、それだけを覚えて生きなさい』
それはひどい言葉にも思えたが、師がそんな言葉を己に吐くわけがない。審神者は、その言葉を聞き入れ、頷いた。傷つけたくないなら、迂闊に近寄ってはいけないいのだと、その時審神者はやっと理解したのである。
『お前からは近づかず、助けを求められたときだけ応えてやるのだ。お前はこの学び屋の長なのだから、どの弟も、支えてやりなさい。それだけでいい。好かれる必要はない』
『っ……』
頷く。なんともいえない空っぽの空間が胸の真ん中近くにあったような、そんな気がした。そんな感覚も、師の教え通りに生きていく内に、忘れていってしまったが。
『……はい。お師匠さま』
けれど、答えは分かった。己に必要な振る舞いを、審神者はそこで理解した。
(――大切なものに近づけば、壊してしまう……)
師は審神者を導いてくれる人物だった。
だから、いつだって、いつだって正しい。
[newpage]
やけに、寝起きが良くない朝だった。頭の中に鉛があるように、重く、いつもよりも思考が阻害されているような、そんな気分であった。
「おはようございます。あるじさま」
鳥のさえずりで目を覚ました審神者は、ゆっくりと上半身を起こす。審神者は髪を耳にかけながら、声をかけられた先に目を向けた。そこではばっちりと身支度を整えた今剣が、正座をして審神者のことを見上げている。
「? ……おはよう」
審神者はきょとんとし、そしてここに今剣がいる理由を――昨晩のことを思い出して、さあっと顔を青ざめさせた。昨晩の己の失態を、失言を思い出してはいたたまれなく、何より今剣に申し訳なさを覚えたのである。審神者も正座をして背筋をのばすと、眉間にしわをつくって口を開く。
「今剣……昨晩はすまなかった。……お前に、面倒をかけてしまった」
「めんどうではありません。しんぱいはかけられましたが。ですが、そんなにきにしないでください」
今剣は少しばかり面食らったような表情を浮かべたが、柔らかな表情を浮かべて微笑む。
「きょうからひとつき、あるじさまはきっと、たくさんなやむことになります。でもあるじさまがどんなせんたくをしても、ぼくはあるじさまのみかたです。それだけはおぼえておいてくださいね」
言われ、審神者は少しの間を置いた後に、こくりと頷いた。忘れていたわけではない。けれど、ついに始まったのだと意識したのだ。ようやく、実感がわいてきたという感じだ。すうと息を吸って、審神者は口を開いた。
「――ああ。必ず、終わらせるよ。この一月を乗り越え、また、前のような本丸に……」
「まあ、それはむりだとおもいますけどね。あるじさまはおしによわいので」
「………そ、そんなことは……」
しれっと言われた言葉に反論しようと思う審神者だが、案の定、言葉は出てこない。それもそうだろう。昨晩の己の姿を思い浮かべて、それでも問題ないといえるほど面の皮は厚くないのだ。今剣がいなければ、とっくに審神者は清光に堕ちているところだったと、自覚だってあるのだ。
「ありませんか?」
「………ある」
すなおなことはよいことです。そう言って、今剣は続けた。
「ぼくはへやにもどります。そして――もう、さくばんのようにとめることはしません。ことわりたいのならば、あるじさまが、ごじぶんでことわってください」
突き放すような物言い。だが、審神者に向けられた眼差しは、とても真っ直ぐだったように思えた。今剣の言葉は尤もであり、当然のことでもある。にも関わらず、審神者は今度から己だけの力で断りきれるだろうかなどと考えて不安にもなってしまう。情けない有り様と思うほかない。
「――ああ、分かっている」
そう答えるも、緊張なのか不安なのか恐怖なのか、審神者の顔は強ばる。それを見た今剣は笑い、審神者の目の前にまで近づいた。そして膝の上に置いた審神者の手の甲に、手のひらを置いて、微笑む。
「あるじさまに、ひとつだけ」
赤い瞳が、審神者を写し、審神者はそれをまっすぐと見つめる。
「こいにかたちはありません。あるじさまが、これをこいにしたいとおもうのなら、それはこいなのです」
「……それは、どういう……?」
今剣の言っていることがやけに抽象的なように思えて、審神者はそう聞き返す。
「あるじさまがこいとなづけたのなら、それがどんなきもちからくるものであっても、それはこいになるのですよ」
しょうがないとでも言いたげにそう付け足した今剣は、にっこりと笑ったまま、立ち上がって、審神者の頬に自分の頬をぺったりとくっつけた。本当は言いたいことがまだあったかのように、少し未練をまとった視線を隠すように目を閉じて、そして審神者から離れて、瞼をあける。
そうして審神者を優しい眼差しを送り、今剣はくるりと審神者に背をむけて部屋を出ていった。それを見送り、審神者は少しの間、今剣が口にした言葉の意味を考えていた。
今剣が出て行き、審神者が身支度を整えた後。そろそろ、小狐丸が髪の手入れをしてくれと審神者を訪ねる時間だ。いや、それよりも先に、長谷部が来る頃だろうか。長谷部は小狐丸の見張りのための口実か、何か用事はないかと早朝に聞きに来ることが多いためだ。
(今日から一月か……)
仕事は普段通りに。出来ないのなら、近侍も一時的に外すことも考えている。今までと比べて、目も当てられないほどに滅茶苦茶になるということは避けられるはずである。となればきっと、朝から押し掛けられるということもないだろう。
不安なのは、清光の前で、平静を保てるかということについて。今は、それが一番心配である。
(落ち着け……とにかく、普段通りに)
何せ、昨日の今日なのだ。それは難しいことであると思いながらも、審神者はどうしても――
「入るから」
言い終わりもしない内に、ぴしゃりと襖が開けられる。あまりに急なことで、審神者は肩がはねるほどに驚き、そしてあわあわと部屋に入ってきた人物に目を向ける。声こそかけられているものの、審神者に聞かせるためではなく、返事すら聞き遂げられていないそれに一体何の意味があるのだろうか。
「っ……きよみつ…!?」
怪しい呂律であったがしかと名前を呼ぶ。上から下までばっちりと身支度を済ませていた清光は、ぎろりと審神者をにらみつけているかと思えば、ずかずかと審神者のすぐ目の前にまでやってきた。そのさながら、周囲に刀剣男士がいないことを確認しており、真剣な気迫を纏いながら、審神者の肩を両手でつかんでしまう。
「――誰にも、返事、してないよね?」
問うてはいるものの、そうであってほしいという願望が色濃くでている強い口調であった。ここで清光の言う返事が何を指すのか、など、昨日の今日で気づかないわけがない。まだ誰の告白にも首を縦に振っていないのかと、今審神者は聞かれているのである。
後ろめたいことなどなかったというのに、審神者は萎縮してしまい、頷くだけで精一杯であった。
「本当? 薬研は? 小狐丸は? 長谷部は?」
「……誰にも、何も」
今度は、なんとかそれだけを絞り出し。清光は疑うようにじっと審神者を見据え、審神者は焦りながらそれを受けている。前触れもなく、今までとは違うような勢いで清光が部屋にやってきただけでも十分驚きの対象なのに。
(こんなことは今までなかったのに……)
護衛係ついてからというもの、清光は時間こそ守りこそすれ審神者と二人きりにならないように行動している節があった。だからこそ、驚いてしまったのである。
きゅっと唇を引き結んでいた清光は、審神者の言葉が事実であると判断したのか、安堵したように深く息を吐き出した。
「……よかった」
そうして、甘えるように審神者の首もとに頭をもたれさせる。
「ねえ、主。考えてくれた? 俺とのこと、真剣に」
「……まだ、一晩しか経っていないよ」
「主にとって一晩でも、俺にとってはそれよりもずっと長い時間だったんだよ。そもそもさ、昨日今日で生まれた感情じゃないもん」
肩に置かれた腕が、自然な動きで審神者の腰に回る。肩を強ばらせて、審神者は行き場の分からない己の手をさまよわせた。嫌ではないが、困ってしまう。今清光の背中に手など回してしまえば、どんな展開になるか想像が出来ない。
「すき」
ぽつりと、自然とこぼれたような声は甘く、審神者は簡単に頬に熱を覚えてしまう。もはや、条件反射のようなものではないのかと己で思うほど、審神者は清光の言葉に心を乱されている。
嫌でも思い出すのは昨晩のこと。清光に告げられた言葉も、感触も、熱でさえ、鮮明に審神者の中に残っている。刻み込まれたといっても過言ではないほどに熱烈だったそれに、審神者は何もいえず、目を伏せた。
「俺のこと、好きになってくれる?」
審神者が何も言わなかったからだろうか。そのまま清光は顔を上げて、審神者の耳元でそう囁いた。ぞくぞくとした感覚が背中から腰につたっていくようで、耐えきれず、審神者は清光の体を己からやんわりと引き離そうとする。
が、その審神者の手はあっさりと清光に捕まった。緩く引かれ、半歩ほど、審神者の方から清光に近づいてしまう。そしてそのまま、至近距離で顔をのぞき込まれた。
(……また、繰り返してしまう)
真剣な眼差しが眩しい。審神者が咄嗟に逃げるように目をつむれば、案の定、すぐに唇に熱が落とされた。散々昨夜体に刻み込まれた熱である。みなくとも、何をされたのかは分かる。そしてそんなことがあれば、当然目を閉じたままではいられない。審神者が狼狽して目を開ければ、清光の目がいたずらっぽく細められた。
「目、逸らさないで。ちゃんと俺を見てて」
「……清光、もうこのようなことは…控えてくれ。困るんだ」
しかと断らなければ。もう今剣はここには居ない上に、いたとしても、もう看過してしまうことだろう。審神者自身が毅然と振る舞い、清光の好意を断らなければならない。
「……迷惑?」
「……その言い方はずるい。そんな風には思ってないよ」
「だよねえ。じゃあ、いいでしょ?」
「だが、何度も言っているが私は誰とも……」
塞ぐように、指先が審神者の唇を綴じ合わせてしまう。
「よくそんなこと言えるよね。昨日散々、この口で俺を受け入れたのに。……忘れたんなら、思い出させてあげようか?」
唇こそ弧を描いているものの、その目は至って真剣で。だからこそ怒るに怒れず、また、清光の言葉がもっともであるからこそ、審神者は何も返す言葉がなく。
「っ……」
かといって、このまま清光のペースに呑まれてしまえばお終いである。弄ぶように唇をなぞられて、審神者はうろたえて視線を泳がせてしまいそうになった。
「いつだって俺のこと煽るような目で見ておいて、本気で嫌がりもしないのに、それでも俺を受け入れてくれないなんて、ほんと、ひどい」
「……そんな、つもりは」
「ない? だろうね。自覚がないから困るんだよ。他でもそうしてるんじゃないかって。……まあ、言ってたもんね、主。他のやつともこんな風にしてるんでしょ?」
口では突き放すようなことばっかり言うくせに。そう付け加えて、清光は切なげに審神者のことを見た。
「だから、悠長に構えてられない。あんたをどうしても、誰にも渡したくないから。急かしてごめん。でも、待ってやれない」
審神者は困惑し、なんとかこの状況を乗り越えなければと考える。だが、やはり清光を拒絶することも出来ずにいる。清光が嫌なわけではない。それは審神者とて分かっている。清光が笑ってくれているのなら、それだけで構わないと思ってしまう。
(清光が喜んでくれるのなら……だが、そんな感情で選んではいけない。他の刀にも示しがつかない上、そもそも、これは恋などでは……)
そう考えた矢先、ふと、先程今剣に言われた言葉を思い出す。どんな感情からくるものであろうとも、審神者が恋だと思うならばそれは恋であると。あれから考えてもいまいちピンと来ていなかった審神者であるが、ようやく、少しでも今剣の言いたかった事に気づけたような気がした。
(ああ、そうか…)
気づけたからと言って、審神者が今すぐその答えを出すことなど出来ない。今だって、清光の気持ちに応えてしまいそうになる審神者には、そもそもじっくり考える余裕すらない。
じりじりと焦げ付きそうになるほどに熱い視線を送られて、熱烈に言葉を並べられて。それに翻弄されて嬉しく思う気持ちは、本当に相手が清光だからだろうか。だが審神者は、他の刀に思いを告げられた時だって、少なからず心をかき乱されているわけで。
基準など分からない。審神者にはどれが恋でそうでないかなど判断が出来ない。どうしてもこの一振りでなければと思わない時点で、審神者はこれを恋だとは断定できない。
(今剣は、見極めろと、そう言っていたのだな……)
清光に応えることなどしてはいけないと、理性はきちんと理解している。流されて受け入れることはあまりにも不実で、例えここで応えたところで、その先にあるものはきっと幸福ではない。
「………清光。時間を、くれないか」
板挟みにされたような感覚。応えたいと思う反面、応えてはならないと思う気持ちが、審神者を苦しめていた。そう切り出した審神者に、清光は静かに目を鋭くした。「どうして?」と返された言葉に、審神者は小さく唾を飲み込んだ。
「今は、応えられない。昨晩も言ったが、僕にはお前に向ける気持ちが何なのか分からない。分からない以上、お前の気持ちに応えたところでその先などない」
審神者の言葉に、清光は静かに眉をひそめた。
「……こんな状況でなかったら待ってあげたかもね。でも、こんな目を離せない状態で待つなんて出来ない。――誰にもとられたくないんだよ。分かって」
「……聞いてくれ、清光」
審神者は、唇に触れていた清光の手首を引き離し――今度は、その手のひらに、己の唇を押し当てた。審神者よりも若干堅い皮膚の厚みの感触を唇に覚え、その後、清光としっかりと視線を合わせ、口を開く。
「主…?」
適当な言葉では伝わらない。拒絶も出来ない以上、審神者にはこれしかないような気がした。言わなければならないと、そう考えた。
「応えるのならば、きちんと応えたいんだ。言わされたわけでも流されたわけでもなく――僕が、僕自身の意思で、お前を選びたい」
声が震える。言わなければならないという意思はあったが、頭の中で整理して言葉にしているわけではない。だからこそ、己が次に何を言い出すのか、審神者自身もよく分からなかった。
「欲しいと言われるがままに渡すことはできない。それでは意味がない。――審神者としてではなく、個人としてお前たちに向き合うと言ったのはずなのに……駄目だな、僕は。この期に及んで、大事なことを忘れてしまっていた」
自嘲するように笑って、けれどそれは笑顔と呼ぶにはあまりにお粗末だったことだろう。審神者はこの期に及んで不抜けていた己を情けなく思い、同時に、己を好いてくれた刀たちに申し訳なさを覚える。
終わらせるための期間として始めて、長谷部との約束のせいで行き着く先は決まっていると、どこかで呑気に構えていた部分もあるだろう。きちんと断ってみせると言いながら、いとも簡単に受け入れてしまいそうになるのはおそらくそのせいだろう。
「なあ、お前が、本当に僕個人のことを好いているというのなら、頷かせるのではなく、僕自身の言葉で、きちんと言わせてくれ。相手はお前でなければいけないと、そう」
挑発するようであった。清光は審神者の言葉に小さく目を丸くして、そして、少しの空白を作った後に、ふっと笑う。
「……何それ。生意気」
「――……元々、僕はこうなんだ。従順な方が好みならば、他を当たってくれ」
「どっちでも良いよ。どんなあんただって好きだって、俺いったでしょ?」
ぎゅっと抱きしめられて、清光は続ける。
「不安しかないよ。すぐに流されるくせに、ちゃんと俺を好きになるまで待てるの? 他の奴を選んだりしないよね?」
「…………ああ。頑張るから、」
「頑張らないといけないとか嘘でしょ!? やっぱやだ! 待ってたらとられるやつじゃん!」
抱きしめるを通り越して締め上げられるような力加減である。審神者は低い声をこぼし、訴えかけるように清光の服を掴んでぐいぐいと引いた。
「お前の時のように、簡単に流されたりなんかしないよ」
「……どうしてそんな風に言い切れるの」
審神者の訴えに気づいたのか、ほんの少し力加減をゆるめる。すりすりと審神者にほおずりをしながら、清光は問いかけた。
審神者は言葉を選びながら、すうと静かに息を吸い込んだ。
「――……その理由を、これから考える。それがきっと、お前への返事になるから」
「もったいぶって……だから俺、そんなに待てないって……」
「なら、他の刀に僕が応える前に惚れさせてくれ」
己でも整理できていない以上、これより先、いえる言葉などないだろう。
高飛車な物言いであることは承知の上でそう口にする。これで呆れられて興味を失われてしまうのならばそれでも良いかと、そんな気持ちがあった。
かちんときたのだろう、清光の動きが一瞬止まった。
「……上等。ぜってー言わせるから」
低い声で言う清光の瞳はぎらぎらとしていて、挑発してしまったと多少の後悔もあった。だが、もう後には引けない。
きちんと向き合おうという審神者の気持ちに偽りはなかった。
例え、誰も選ばないだろう結果が同じだとしても。
「……ああ」
逃げ切る、などという意識ではきっと意味がない。
しっかりと一振り一振りと向き合って、その上で断らなければ、きっと終わりなどないのだ。一月だけだと銘打っても、実際にその言葉が守られるかどうかも怪しいところである。
「もう逃げないよ。ちゃんとお前とのこと、真剣に考えるからな」
考えたところで、清光を選んだところで、既に約束があるため、簡単な話には決してならないものの、それでも審神者がきちんと向き合って答えを出すことに意味があるのだと思いたい。
清光はふうと息をついて、吹っ切れたように、薄く笑みを浮かべてみせた。
「――なら、ちゃんと俺との時間も作ってよね。マークされたくないから約束とりつけなかっただけで、俺だって主とちゃんと過ごしたいんだから」
そう付け加えられ、審神者は顔を強ばらせた。あまりに時間が多いのも、少々困る。審神者とて、長い時間を清光のそばで過ごしてきたのだから、そりゃあ、それなりに清光を憎からず想っているというものだ。
先の今でなんだが、審神者は絆されてしまうような予感を既に感じてしまっていた。
「分かった。……だが、加減をしてくれ。お前に迫られると、頭が真っ白になって、全て受け入れたくなる」
「それが目的なんだけど! 何言ってんの!? じゃあ、今すぐ受け入れてよ!」
再び顔をのぞき込まれて、鼻先がちょんと触れる。うっと言葉に詰まった審神者を、じいっと見つめる清光の圧といったら。
その目に期待されているものが明確に分かる分、困る。目を逸らしたいと思うが、逸らしてしまえば何をされてしまうのかも分かっている。故に、逃げることも出来ず、ふるえる瞳を清光に向けるしかない。
「……俺、少しは主の特別になれてる?」
問われ、審神者は小さく目を丸くした。
「お前が特別でなかったことなどないよ」
答えれば、今度は清光の方が目を丸くする。
「……そう」
そして、ゆっくりと近づいた唇に、審神者は慌ててしまう。もう散々してきたことで、今更避けたところで、というような行為ではあるが、黙って受け入れることも出来ない。というよりも、ここで受け入れてしまえば、なし崩しにどこまでしてしまうか分かったものではないのである。
「……清光、やめ、」
けれど、言い掛けた言葉は、あっさりと飲み込まれた。
審神者は目を見開いて、触れた箇所からじんじんと熱くなるのを感じ取る。物申そうとするも、すぐに塞がれるせいで止める言葉すら吐き出せない。絶妙なタイミングで触れてくる清光は、審神者を困らそうとしているように思えてならなかった。
「やめない。あんたがぐずぐずになるまでこうしてるから。他の奴のことなんて忘れるくらい。覚悟しててよね」
好戦的に言う清光は強気で、この状況を楽しんでいるようにも思えた。
(……勝てるだろうか、)
決して勝負をしているわけではないのに、既に負けを感じ取っている己がいることが不穏だった。目的は穏便に皆に審神者との恋路をあきらめてもらうこと。それだけは変わっていないというのに、少しずつ、状況は審神者にとって良いものではなくなっているようなそんな気がしてならなかった。
――小狐丸が乱入するまで、後少し。
- 28 -
mae top tugi
index