「どうかこのまま――俺と、逃げてくれませんか」
その懇願に、審神者は静かに目を丸くした。真面目な気性である長谷部からこんな言葉を聞く日が訪れるなど、予想すらしていなかった。
ただ――長谷部が追いつめられていること――それだけは、その一言だけで十分に理解できた。
審神者は己の腕を引く長谷部の前に膝をつき、そして不安に揺れる瞳を真っ直ぐに見据えて、言った。
「それは出来ない」
そう、はっきりと。縋る余地さえも与えないほどに。
突き放しているかのような物言いで告げた審神者の言葉に長谷部は息をのみ――そして、諦めたように肩を落とす。知っていた、分かっていたと、そう思わせるような薄い笑みに、審神者は何ともいえない切ない気持ちに駆られた。
「そう……ですよね」
長谷部が審神者の腕を掴んでいた手を離し、感情を殺すように審神者から目をそらす。微かに動いていたものの、何も紡がなかった長谷部の唇は何かを伝えようとしていたのかもしれない。けれど、それが何かを考えるよりも先に、審神者には伝えなければならないことがあったのである。
「――だが、」
言って、距離をとろうとしていた長谷部の手を、今度は審神者の方から捕まえる。予想外だったのか、驚きを含んだ表情で顔をあげた長谷部に、審神者は優しく微笑んだ。
「少しだけ、遠回りをして帰ろうか。長谷部」
[chapter:審神者は全て終わらせたいE]
「長谷部。行きたいところはあるかい? どこでもいいよ」
弟弟子の八と、共に遊んでいた柊と蓮に別れを告げて、一足先に学びやを後にする。そうして向かう先は深く考えていなかったと、歩いていた審神者は何でもないように長谷部に問いかけた。
長谷部といえば、審神者の考えていることが分からない、とでもいうように困惑してしまっているようだった。状況を理解できていないのは、どちらかといえば、審神者ではなく長谷部の方なのかもしれない。
「俺は……貴方がいるところなら、どこでも。行きたいところがあったわけではないんです」
「――目的地も決めていないまま、逃げようと持ちかけたのか?」
審神者は小さく笑って、「それでは、すぐに捕まってしまうな」と冗談めいた声で続けた。審神者の言葉にしゅんと肩を落とした長谷部は、あのまま素直についてきたとはいえ、自身の発した言葉に少々落ち込んでいるようであった。
「……すみません。護衛として主についているというのに、あんな思慮に欠けた言葉を……俺は、自分が自分で情けないです」
その姿からは、あの時の大胆な台詞は咄嗟に出てきたものだったのだろうことが伺えた。
(……それだけのことがあったのだろうと、今声をかけることは野暮なことなのだろうな)
もしも審神者の提案を受け入れたことを今更であっても後悔しているのであれば……何故あの言葉を吐くに至ったのか、その理由を既にここに来るまでで告げているはずである。けれど、長谷部は審神者の提案を断ることも辞退することもせず、審神者についてきているのだ。
つまり、長谷部にとってはそれだけのことがあったということ。
「お前は私の大切な刀だよ。大事にしたい。言いにくいこともあるのだろうが、それでも、私にとってお前が大事であることには変わりがない。だから、たまには甘えてくれ。……私も、それを望んでいる」
長谷部が言いやすくなるように、責めないようにとそう口にして、審神者は足を止めて振り返る。正面から長谷部と向き合い、審神者はそっと問いかけた。
「長谷部。折角だ。お前のやりたいことをしよう。行きたいところや、食べたいものはあるかい? 何でもいいよ」
「俺の…ですか? ですが、これ以上主に……」
「構わない、と言っているだろう」
融通のきかない長谷部の頬を両手で挟み、むにむにともんでやる。感情の起伏があまりない己のことを棚に上げて、長谷部の仏頂面をなんとかできないものかと、そう思っていた。
「今は、お前のわがままを聞いてやりたい気分なんだ」
ぱちぱちと瞬きを繰り返して気の抜けた表情を浮かべる長谷部に、薄く笑う。手をはなして長谷部を解放してやると、審神者はそのまま続けた。
「護衛の褒美、とでも思っておけばいい。長谷部、お前の本音を出来れば聞かせてほしい。今お前は何を思っている?」
長谷部が葛藤や苦痛を一人で抱え込んでいるだろう状況が、審神者には耐えられないことでもある。だからこれは、審神者としても本音に近い言葉だった。できれば本丸に戻る前に長谷部が師に言われたことと、言われて長谷部がどのように感じたのかを――その両方を聞いておきたかった。
言いにくいことであっただろう、長谷部は口を閉ざしたまま、眉間にしわを作って目を細めた。
そして、ゆっくりと手を伸ばし、今度は審神者の頬に触れた。手の甲で、ゆっくりと頬の輪郭をなぞるように。それを、審神者は甘んじて受け入れた。それが何を計るための行動かは分からない。特に目的もないのかもしれない。しかし、それでも構わなかった。
そして真っ直ぐながら熱を帯びた視線を審神者に向けながら、長谷部は震える声で口を開いた。
「――貴方と、二人きりになれる場所へ。誰にも邪魔されない場所へ、貴方を連れて行きたいと……そう、思っています。不敬であることは、自覚していますが」
「不敬なものか」
今度は長谷部の手を捕まえて、審神者の方から手の甲に頬を寄せる。
「私が構わないと言っているんだ。だから、これは私の望みでもあるのだと、しっかり理解しておくように」
そう告げて、審神者はそのままその手を掴んで歩き出す。それに長谷部も歩幅をあわせてついてきた。
(お師匠様は、一体長谷部に何を言ったのだろう。ここまで長谷部が取り乱すことなど、今までにもなかっただろうに)
ふつふつとこみ上げてくる感情は、果たして本当に焦燥感だけだろうか。
相手は師なのだから、きっと何かしらの考えがあるのだろう。きちんとした目的があり、長谷部を護衛に指定して呼び出し、そして話をしたのだろう。その理由は未だに審神者の知るところではないが、己の刀剣男士をこのように乱されてもなお、審神者が師に従うつもりは――なかった。
師を信頼し、師に従う気持ちは変わらない。けれど審神者は主として、必要ならば師に物申すこととて必要だと思う気持ちがある。故に浮かぶ感情を――長谷部には気づかれてはいけないと、そう思っていた。
「しかし、二人になれるところか。ここも道とはいえ、一応二人なのだが……ここでは話もしにくいか」
どこか場所を移し、静かに話を出来る場所――審神者には心当たりがない。何せ、最近こそ外に出るようになったものの、あまり外には詳しくないのだ。知っている知識を総動員して、審神者はふと、昔小狐丸に言われたことのある言葉を思い出した。
「宿にでも行くかい?」
何でもないように提案して、審神者は長谷部の反応を伺った。誰にも邪魔されずに個室で二人きりになれる環境だ、きっと静かに話も出来るだろうと。そう考えた上での発言だったが、長谷部はなにやらぎょっとしていて、目に見えて困惑しているようであった。
「や、宿……ですか? 何故……」
「何故とは…? ゆっくり話も出来るだろう? 邪魔もされず二人になれるだろうし……良い案だと思ったのだが……」
「それは……そうかもしれませんが……」
「そうだろう? 以前、小狐丸に強請られていたことがあったと思い出したんだ。二人でゆっくりしたい、泊まりでなくても日帰りで利用できる宿もあるらしいと」
今となっては下心を感じただろう提案だったが、審神者が皆に歩み寄り始めた時は、小狐丸はただの甘えたがりだった。長らく関わることをしなかった審神者と距離をもっと近づけたいと、あの誘いも、そういう意図だったに違いない。
「あの頃は皆に歩み寄り始めたばかりで、時間の配分がうまく出来ずに断っていたが――……ある程度慣れた今なら、それくらいの融通はつけられる。お前も、清光のように近侍として手伝ってくれているしな」
「……そうでしょうが、俺が言っているのはそういう問題ではなく……」
「では代わりの案をくれないか? 私はきっと、お前よりも外に詳しくないから、お前より良い案を出せないよ」
困った表情を浮かべて長谷部を見やる。そろそろ、行き先を絞っておきたい。もうしばらくは分岐も先だが、計画はある程度立てておきたいところだった。
「……それは……」
妙案があるなら出してほしい。何より、長谷部の希望の方が審神者にとっても良いのだ。そんな気持ちで問いかけた審神者とは裏腹に、長谷部はなにやら困り顔だ。審神者以上の困り顔である。
審神者の提案に物申したいことがありながら、他に良い提案が出来ないというように見えた。
「……小狐丸は、下心をもってそういった誘いをしていたのだと思いますが」
そう指摘された言葉に、審神者は静かに眉を寄せる。その話は、今気にするような内容だろうか。という感想が一番初めに思い浮かぶ。
「今ならばそう感じたかもしれないが、これは僕がお前達と仲良くなりたいと思った頃の話だよ。ずっと前の話だ。それは考えすぎだろう」
「っ……貴方は本当に、自覚が足りていない」
「そんなことはない。が……とにかく、今は小狐丸のことは関係ないだろう。お前はどう思っているんだ? 温泉のある宿も、料理を出してくれるところもあるらしいぞ。お前は、そういうことに興味はないのか?」
どうせなら少しぐらい楽しんでも罰は当たらないだろう。かつて小狐丸に勧められた利点を追加してそう問いかければ、長谷部は足を止めて、審神者の手を振り切ってしまう。
「そんなことはどうでもいいんです!」
何事かと足を止めると、長谷部は詰め寄るように、審神者の両肩を上から押さえつける。
その強さと勢いに肩を強ばらせる審神者に構うことなく、長谷部は先ほどまでのしおらしさを全て投げ捨てたような圧で審神者のことを睨みつけた。長谷部を怒らせるような発言をしたつもりがない審神者なだけに、その反応はあまりに予想外であった。
「〜〜貴方は、俺が、貴方をどう想っているのか、知らないわけではないですよね?」
あまりの剣幕に呆気にとられている審神者の返事を聞く前に、長谷部は次々とまくし立てていく。
「俺をからかっているんですか? それとも試しているんですか? 二人きりとはいえ、そんな……そのような申し出をされて我慢できるほど……俺は……」
そこまで言って耐えるように口を閉ざす長谷部に、審神者は困惑を隠せないまま口を開く。そこまで嫌がるのであれば、無理して通す提案でもなかいが……ならばどうすれば良いのだろうか。
「……なら、どうする。お前はどうしたい? 本丸に戻って、離れで出来る話であるなら、皆に命じて二人で話も出来るが……それでお前は良いのか?」
そう問えば、長谷部の表情はますます険しくなった。
「嫌だと言ってるわけではありません! 正直にいえば、誰にも邪魔されることなく貴方と二人になれる場所にいきたい……ですが、貴方は、俺が貴方を想っているという自覚がまるでない! 何をされても俺が何もせずに大人しくしていると、そう思っているんですか!?」
――……何故、己は今怒られているのだろう。
審神者は訳がわからないまま、理不尽な気持ちも抱えていてそれを聞いていた。
「宿で二人になったら、お前は僕に無体を働くつもりなのか」
長谷部がこのまま審神者を連れて逃げたいと、そこまで追いつめられていると思ったから、審神者は気を利かせたのだ。本丸ではしたくない話ならばと、あまりない知識を活用して良い提案をしたつもりだったのだ。
長谷部は追いつめられているのだから、その原因が己や己の師が関わっているのならば、そうする義務が己にはあるのだと、そういう気すらあった。
「お前は僕と話をしたいのではなかったか」
だというのに何故、はっきりと具体的にああしたい、こうしたいと言わぬ相手にここまで言われなければならないのだろうか。審神者の提案に不満があるのであれば、代替案を出すのが筋だというものだろう。なのに、何故こうも審神者の自覚が足らぬと他ならぬ長谷部に詰め寄られなければならないというのだ。
「僕だって、お前と話がしたかっただけなのに……何が不満なんだ」
眉を下げて、審神者は肩を落とした。長谷部が審神者を想っていることは知っている。身をもってよく知っている。だからといって、それだけの理由で今の長谷部を遠ざけるようなことは、主の立場としてするべき行動とは思わない。
「不満など……」
ふつふつと、怒りのような感情がわき上がってくる。
「ないなら構わないだろう! お前はそもそも、僕が他を選ばぬ限り手を出さないといいながら、すぐ手を出してくる! 一番はじめに押し倒してきたのも脱がしてきたのも、舌を入れてきたのだって、今思えば全部お前だった!」
「っ……! いえ、それについては、その……」
「お前の手の早さくらい、とうに熟知している! 何故何もかもお前が我慢している前提なんだ! お前もそこそこ勝手をしているぞ!」
今度は審神者の勢いに長谷部が圧されていく。続けざまに審神者に放たれた言葉に分かりやすく取り乱した長谷部は、顔を羞恥に染めながら口をつぐんでいった。
「……だが、今はそんなことよりも、お前の憂いを早く取り除ければと……この方がお前にとって良いだろうと……ただ、そう思って……」
感情の勢いに任せて、言わなくてよいことまで口走ってしまった。後悔が先に立ち、審神者の声も段々と小さくなっていく。しょんぼり、という単語が似合うまで身を小さくした審神者は、そっと呟いた。
「………帰るか?」
「っ〜〜」
控えめに問う。すると、長谷部は言葉を失った様子のまま、諦めたように審神者の肩の上に頭を預けた。降参、という言葉が浮かぶような動きであった。実際、そうであったらしい。
「……帰りません……俺も、ちゃんと貴方と話をしたかったので……」
白旗を上げたらしい。そう口にした長谷部は、大きくはあとため息をついた。
「貴方がちゃんと自覚しているのであれば……もう構いません」
「分かっている。お前にも何度も言われているのだから」
「はい……すみませんでした。俺の思慮が足りず……」
「構わない。僕の日頃の行いにだって、問題がある」
おそらく、大いに問題がある。先程はカッとなってしまったが、よくよく考えれば長谷部がそう感じるだけのことを、審神者は今までしてきてしまっているのだ。長谷部を責めるような口調になってしまったことは、反省しなければならない点であると思っていた。
「でも折角だから、温泉にも入って食事もして帰ろうな」
そうと決まれば、少しくらい堪能してから帰っても構わないだろう。小狐丸からきいていた、露天風呂とやらにも入ってみたいものだ。
そう口にした審神者に、がっくりと長谷部は脱力した様子だった。
「……貴方は本当に……」
なにやら諦めた様子であったが、それ以上審神者は追求しなかった。小狐丸から聞いていた情報から宿を特定するために、記憶を遡っていたからである。勧められていた複数の情報をまとめていた審神者は、こうして初めての計画外の寄り道とやらをするに至ったのである。
[newpage]
「……立派な部屋だな。畳の匂いが心地良い」
「そうですね。掃除も行き届いていますし……」
予約もせずに入った宿であったが、運良く部屋は空いていたようで。元々、審神者がよく使う町の中の施設だ。飛び込みで刀剣男士と審神者が利用することも多いのだろう、急とはいえ、宿の人間も対応が慣れていたものだった。
「良かった。曖昧な情報ばかりだったから、探し出せるか不安だったんだ」
露天風呂があって日帰りで利用できて、食事もできる、庭園が見事な宿。たったこれだけの情報でここを探し当てることができたことは幸運だった。宿の名前は聞いていなかったが、小狐丸が話していたのはこの宿で間違いないだろう。
案内された部屋の奥まで見回って、審神者は肩の力を抜いた。思っていた以上に静かな部屋で、これならば邪魔をされることなどないだろう。きっと、長谷部も余計なことを考えずに済むはずである。
窓から見下ろせば、聞いていたとおりの、見事に整えられた庭園が見える。よく手入れが行き届いているのだろう、精錬された調和は目の保養で、審神者は振り返って長谷部を呼ぶことにした。
「長谷部、おいで。良い景色だよ」
微笑めば、長谷部は浮かない表情で審神者の元へ歩いてくる。そうして、審神者の背後に立つような形で庭園を見下ろし、そして複雑そうな声で口を開いた。
「日帰りとはいえ、主と二人で温泉宿とは……皆にバレたら俺は殺されますね」
「大袈裟だな。そんなに心配なら、わざわざ言う必要もないだろう? 用事が長引いた……と説明すればいいさ」
それも嘘ではない。正直に理由を話せばきっと皆も騒がないと思うのだが、わざわざ騒ぎを大きくする必要もあるまいと、審神者はそう軽く流してしまった。
「お前の気持ちも分かるけれど、ここまで来たのだから、少しくらい楽しんだとしても罰は当たらないだろう?」
「ですが……」
「今日はお前に苦労をかけてしまったしな。急に護衛に指定され連れ出され、そのままお師匠様と話をして――疲れてしまっただろう。褒美だと思って、ゆっくりするといい」
庭園を見下ろしながら、審神者は不謹慎ながら、心が浮いているような感覚を感じていた。
「……こんなところに来たのは初めてだ」
ぽつりとこぼれた言葉は、己でも自覚できる程度には、弾んでいたように思えた。審神者は長谷部を見上げて、そして素直な気持ちを吐き出した。
「お前と来ることが出来て嬉しいよ」
そう告げると、長谷部は諦めたように笑った。まるで、審神者の微笑みが移ったようである。
「……もう深くは考えません。来てしまったのですから……そうですね。俺も、楽しむことにします」
「そうしてくれると、私も嬉しいよ」
「後で、あの庭園を散歩しましょうか」
「ああ、行こう。楽しみだな」
浮かれてした返事に、ようやく、長谷部の目尻が柔らかく下げられたような気がした。
「お茶を入れますね。少し、ゆっくりしましょう」
「ああ、頼む」
勝手を知っているのか、備え付けられていた茶葉と急須を取り出した長谷部の言葉に甘える。慣れた手つきで茶を入れる長谷部の姿を見ながら、審神者は静かに思案した。
(少しは気を抜いてくれたのだろうが……お師匠様とどんな話をしたのか、今聞いても良いものだろうか……いや、まだ早いか……?)
初めて利用するこの場所が新鮮で気が浮く――ということは事実。とはいえ、審神者はここまで長谷部を連れてきた目的を、決して忘れてはいない。
出来ることならば、すぐに長谷部を問いただしたい。師とどのような話をして、一体どのような思いをしたのか。それが分からない内は審神者とて対応などできるわけがないというもので。だが、言い渋る長谷部から無理矢理に問いただすつもりも微塵もないのだ。難しいところだった。
「どうぞ。熱いので、気をつけて下さいね」
「ああ、ありがとう。長谷部」
テーブルを挟んで差し出された湯飲みを受け取り、審神者はその水面をのぞき込む。そこに写った己の顔をぼんやりと見下ろし、長谷部に師とのことを追求するかどうか悩んだ末――審神者は大人しく茶を飲むことにした。
(――まだ、尚早か)
まだ宿についたばかりである。長谷部とて、考えを整理する時間と、少しばかりの心の余裕を必要とするだろう。やきもきとした思いを抱えながらも、審神者は口を噤むことにした。
「主」
呼ばれ、審神者はハッとして顔をあげる。長谷部の方から話を切りだしてくれたのかと、一瞬そう感じてしまったためである。
そうして顔を上げた先で、長谷部は静かに審神者のことを見つめていた。目が合わさった審神者は、姿勢を正し、長谷部からの言葉を待つ。
「俺は貴方を尊敬しています。勿論、主として」
「……? ああ、ありがとう」
急に何を言い出すのだろう、と。長谷部からの言葉を嬉しく思う以上に、怪訝に思う。此処から先どのような言葉が続くのだろうかと、審神者は静かに唾を飲んだ。
「……貴方の幸せを願います。俺は貴方に、不本意な未来を迎えてほしくはありません。貴方のことを大切にしたい、この身に変えても守り抜きたいと、そう思っています」
その言葉も瞳も真っ直ぐで、迷いがない。きっと長谷部にとって、嘘偽りのない言葉であったに違いない。
不穏を感じつつも、ここまで真っ直ぐに伝えられた言葉には気恥ずかしさを覚える。長谷部が審神者をどう思っているかはさておいて、そのような話をするためにここまで長谷部を連れ出したわけではないのだから。
「……嬉しいが、あまり、そう気を張るものではないよ。嫌なことならば断る。説得力はないのだろうが、でも、自分の意志で物事を決めようと思っているのだから……不本意な未来など、きっとこない」
現状の審神者についての苦言なのだろうが、審神者とて、覚悟ならとうに出来ている。実際有言実行できているかという点はさておいて、そこまで不本意な未来と悲観されるほど、結果に不満を持つことはしないだろう。
「……断れますか? 俺達刀剣男士ではなく――それが貴方の尊敬する師から命じられたことであっても」
多少の居心地の悪さを感じていた審神者だったが、その長谷部の言葉に察して、真剣な眼差しを長谷部に返す。長谷部が指していたのは審神者の現状ではなく、師から審神者に対しての命であったと、それにようやく気づいた審神者だった。
「――必要ならば断る。相手が誰であっても」
「ですが、主は仰いました。『お師匠様のすることに間違いはない』と」
「ああ、言ったな。現にお師匠様は潔白な方だ。道理を違えた命などしない」
そうは言いながらも、審神者は猜疑心を抱く。この長谷部の物言いには、明らかに師に対しての不信感が含まれている。長谷部がどのような会話を師と交わしたのか、審神者は分からない故に、要らぬ感情ばかりが湧いてくる。
「長谷部。差し支えがないのであれば……今此処で、お師匠様に何を言われたのか、聞いてもいいだろうか」
とにかく師が長谷部と話した内容が分からない内には、どうにも出来ない。少しの焦りをのせてそう聞けば、長谷部は言いにくそうに、くしゃりと表情を歪め、黙り込んだ。
「……今すぐ話すことが辛いというのであれば、無理強いはしない。まだ時間はあるのだから、」
「いいえ。今……貴方に伝えておきます。時間を置けばきっと俺は、このまま貴方に甘えて、口を閉ざしてしまうでしょうから……」
そして苦しげな呼吸を繰り返した後、長谷部は口を開いた。
「主の師は、主である貴方に話を通せと、俺に仰せつけました。更なる人材の獲得、未来への投資のため――……」
ざわざわと、心が騒ぐ。審神者は嫌な予感を覚えた。そしてこういう時の審神者の予感は、嫌なほどに的中するのだと、過去の経験から審神者は知っていた。
「かつて貴方のそばにいた妹御――七子様を貴方が娶り、夫婦になるように。俺に、そのための手回しをしろと」
何を言われたのか、その言葉を飲み込むまで、審神者は呆然としていた。頭の中は真っ白になり、どんな表情を浮かべればいいのかも分からず、無言で、無表情で、長谷部の言葉を咀嚼している。
「………どうして……」
そうして全てを理解すると、審神者は眉間に深くしわを刻みこんだ。話を己の中でまとめ、それでも何故、何故と怒りばかりを感じている。
こんなふざけた話があるだろうか。審神者の本丸での事情を知らないとはいえ、そのような話を、よりにもよって長谷部にするなどと。それを師から命じられた長谷部の気持ちを考えれば、審神者は平静ではいられなかった。
「それから――主の師は、主の置かれた状況を、全て把握していました」
「っ……」
だが、それ以上の言葉を紡ぐよりも先に長谷部が続けた言葉に、審神者は絶句する他なかった。二の句を告げないまま、唖然と長谷部を見つめるだけである。
「貴方が刀剣男士に恋われていることも承知の上で――その上で俺に、貴方に婚姻話を了承させ、話をまとめるように、と」
――顔から、血の気が引いていく。
気が遠くなって、視界がぼやけていった。審神者は唇を震わせ、湯飲みを持つ手は覚束ない。なんとか湯飲みをおろし、けれど気を持ち直すには時間がまるで足りない。審神者は青ざめているだろう己の顔を隠すように手のひらで覆って、口を閉ざした。
「……こんのすけを通じ、貴方の様子は全て報告されていたそうです。貴方のことを案じていました。そして、貴方が絆されそうであると聞いたのでしょう。即刻手を打たねばならないと、貴方に想いを寄せながらも、貴方には迫ることをしない俺を呼び出したそうです」
唇を強く噛みしめる。師に対してこのような感情を覚えることは初めてで、審神者はこの気持ちを明確な言葉にすることが出来ないまま。口の中には鉄の味が広がっていた。
「他でもない俺がまとめた話ならば、他の刀剣男士も文句はつけられないだろうと」
鼻で笑い、立ち上がったのだろう。衣の擦れる音と共に、とん、とん、と、畳越しに小さな振動が徐々に審神者に近づいてきた。
「――そんなわけがない。俺が主の婚姻話を進めようと、それをあいつらが受け入れるなんてありえないことですよ。むしろ、婚姻話が成立する前にと、こぞって貴方に迫るだけでしょうね。――こればかりは、主の師であろうと、見抜けなかったようですが」
審神者の真横で足は止まり、顔を覆っていた審神者の手首が掴まれた。そのまま引かれ、審神者が顔を上げた先で、長谷部は悲しそうに笑っていた。長谷部は手袋を外し、そっと、審神者の唇に指先を当てる。
「……血が、」
己がどんな表情をしているのかも分からぬまま、出血していた唇を割るように触れてくる長谷部の指を受け入れる。その様に触れられたことで、審神者はやっとその口を開いた。
「――必ず断る。それは僕に不要な話だ。お前も、お前以外の皆に対してもそうだ。受け入れることなどしない」
そもそも、婚姻話の相手はかつての妹弟子だという。
確かに、審神者には一時期、その妹弟子の面倒をみていた時期があった。素直で好奇心、探求心があり、皆に優しく振る舞うことの出来る、天真爛漫という言葉がぴったりの少女だった。よく覚えている。
違う本丸で世話になると行ったきり、連絡をとることもなかったが。
「ましてや、妹を相手にする気など――……お師匠様は一体何を考えているのか……!」
声を荒く、吐き捨てるようにそう口にした審神者を、けれど長谷部は何の反応も示さないままに、黙って目を細めた。
それは審神者の言葉に悲しみも喜びも怒りも何もなく、審神者のその発言がまるで無意味なものであると、そう判断しているのかと思うような視線であった。
「主。貴方の師から教わった誓いを覚えていますか。朝の挨拶と寝る前に、貴方は師に対して必ず誓っていた筈です」
その言葉に、審神者は黙ったまま目を丸くする。誓いの言葉。たったその一言だけで、審神者が長谷部が指定している言葉が何なのかすぐに理解した。
「今ここで言って下さい。言えますよね? 貴方は何度も何度も、それを誓ってきたのですから」
あわあわと震える唇が、過去に何度も何度も、何度も何度も口にした言葉を紡ぎ出そうとする。その言葉は審神者にとって、何のために生きるのか、何が己の喜びであるのか示してくれる大切な指針だったのだ。
けれど、口にする度に己に指針を教えてくれていたはずのその言葉が、今はまるで、鉛のように重い。
「……あ……っ…」
けれど揺らぐ気持ちと裏腹に、言葉が這い上がってくる。
「――……僕、は、決して欲を持ちません。お国に尽くして…お国のために戦います。お国の役に立てることは、僕の誉れ……です」
青ざめた顔で、今にも掻き消えてしまいそうな声で口にした言葉に、じっとりと、背中を汗が伝っていく。苦しげに顔をしかめた審神者に、静かに長谷部は問いかけた。
「――『この婚姻話は、お国のため、未来を繋ぐことを目的とする。国に育てられた者には、国のために子孫を残す義務がある。霊力に恵まれた人間からは、同じく霊力に恵まれた子が生まれやすいため――これは国のために戦う身として、当然の責務である』」
何も口を挟めずに、審神者は長谷部をただ見上げる。審神者への好意を散々口にしてきたその唇から放たれているのは、間違いなく師が長谷部に告げた言葉である。これは、師から審神者に対して告げられた‘命令’だった。
「――……貴方に、断れますか」
確認するように問われたものの、その声は厳かで。審神者は長谷部の口から紡がれた師の言葉に、今まで信じてきた生き様に背けるのかと、そう聞かれたような気がした。
――勿論、断る。断るに決まっている。お前達を傷つけてそのような表情をさせてまで、受け入れるわけなどない。当然だろう。
そう吐き出したかったその言葉は、けれど石が詰まっているかのように喉より上に進んでいくことはない。審神者は息苦しさを抱えたまま、再び、強く唇を噛んだ。
肯定の言葉を出せなかった己の今の態度は、否定ととられても仕方がない。審神者は、逃げるように、視線を床に落とした。同時に、審神者の手首を握る手から力が抜け、支える手をなくした審神者の腕がだらりと下に落ちていった。
「……貴方を刀剣男士にとられることは、我慢ならなかった。……けれど相手が人ならば、俺も諦めがつきます」
力が抜けた審神者の体を、長谷部は優しく包む込むように抱きしめる。審神者は長谷部の胸に頭を預けながら、その言葉に目を丸くした。長谷部にそのような言葉を吐かせていることが、何より審神者に、師の命に抗うことが如何に難しいことであるかを気づかせてしまったのである。
長谷部は知っていたのだ。審神者が国のためだと口にする師の命に従うだろうことを。だからこそ言うに言えず、こうして審神者に告げた後も、そんな言葉を口にするのだ。
その献身が、気持ちが、審神者には有り難くもあり――同時にそれがひどく残酷な所業にも思えた。もしも長谷部が審神者の婚姻を反対し、全力で嫌がったのならば、審神者にはまだ断る余地があったのかもしれない。
「ですからせめて――ここにいる間は、貴方を想うことを許して下さい。ここより外に出たのならば、俺は貴方の、誰よりも忠実な刀に戻りますから……どうか……」
その長谷部の言葉に頷くことも首を横に振ることもしないまま、審神者はただ、静かに目を閉じたのだった。
ただ、長谷部の言葉は強がりだと、そう気付いていた。
(お前は僕に――共に逃げてくれと、そう言ったじゃないか)
我慢ならなかったのだろう。嫌だったのだろう。受け入れられなかったのだろう。だからあんな表情で、審神者に懇願したのだ。
それが分かっていても尚――審神者は長谷部の望んでいるだろう言葉を吐き出すことが出来なかったのである。
[newpage]
「……まだ、時間があります。どうしますか? 温泉も自由に入れるそうですが……良い気分転換になると思いますよ」
何も言えないまま、されるがままの審神者を気遣うように、長谷部がそう口にする。この献身的な気遣いが、いっそう審神者の胸をしめつけるようで。審神者は顔をくしゃりと歪め、けれどそれに甘えるように長谷部の服を握りしめた。
確かに宿には来たばかりである。このままじっとしていては、時間がもったいない。審神者は頷いて、同時に意思表示をするように、緩く長谷部の服を引いた。
「……そう、だな……なら、入りに行こうか」
無理にでも表情を繕おうとするも、上手く出来ていたかどうかは自信がない。審神者がそう答え、長谷部の顔を見上げた先――長谷部は目に見えてぎょっとしたようだった。
「……一緒に、入りに行くつもりですか?」
「……? それは、そうだろう」
言っている意味が分からないと、そう聞けば、気まずそうに、長谷部は審神者から目線をずらす。
「一緒はその……色々と問題が……」
「問題とは?」
「ですからそれは……貴方と裸の付き合いは少々問題が……」
「それの何が問題だと言うんだ……」
長谷部が言いたいことが、まるっきり審神者には理解できない――ということはない。その言葉の裏に隠された感情を、審神者とて察することは可能である。
「お前が僕をどう想っていようと同じ男同士だろう……裸の付き合いに何の問題があるんだ」
「ですから、そんな単純な想いではないんです」
「そうはいうが……お前は男の体に興奮するわけではないだろう? 現にお前は他の刀とも同じ風呂に入っているじゃないか。それなのに何故、僕だけをそう頑なに嫌がるんだ…!」
「嫌がっているわけではありません。それは俺が、貴方のことを……」
「他の刀は普通に同じ風呂に入っていたぞ。薬研など、少しも動揺せずに平然としていたじゃないか」
「あいつらと比べないで下さい! 俺には俺の事情があるんです!」
納得できないまま、しかし、審神者はぐっと言葉を飲み込む。その事情とやらが審神者には感覚として理解が出来ない。とはいえ、己が理解できないからと相手の心を無視することは良くないわけで。ましてや、ここまで己の事情に巻き込んでしまった長谷部が相手である。
確かに、静かに考えを巡らす時間がほしい。気分転換でもすれば考えもまとまるかもしれない。だとするなら、一人で行くこともおかしなことではない。
「ならお前を置いて、一人で行けと言うのか?」
感覚として理解できないだけに長谷部の気持ちがいまいちよく分からないが、一緒に過ごして我慢をさせることは審神者とて好ましくない。だが考えていたこととは裏腹に、自然と審神者の口からはそんな言葉がこぼれていた。納得できないまま、まるでふてくされたように口にした言葉に、審神者は自分でも少し驚いてしまった。
「……すまない」
慌てて口を押さえ、そして落ち着いた声で言い直す。己も冷静ではいられていないらしい。これは適切な言葉ではなかったと、後悔した。
「それでは、先に一人で入ってくる。それとも、お前が先に入りに行くか? それならば、帰ってくるまでここで待っているよ」
「……いいえ。俺が主より先に入るわけにはいきませんから。お先にどうぞ」
「……分かった」
その返事を聞いて、審神者は立ち上がる。この部屋に案内されたとき、備え付けの浴衣の場所を聞いていたため、そちらに向かっていった。そして己に合うだろう大きさの浴衣とタオルを抱えた審神者は、ちらりと、長谷部を見下ろした。
(一緒に入れるものだと、楽しみにしていたのだが……)
長谷部は審神者と目が合ったものの、気まずそうに目をそらしてしまった。
「そのような目で見ないで下さい」
審神者の考えていることも見通されているらしい。審神者はむっとして、けれど何とかこらえるように長谷部に背を向けて口を開いた。先程の後悔はどこへ行ったのか、口からついて出る声は当てつけがましいものであった。
「……そもそも、お前は護衛としてついてきたのだろうに、僕を一人にしてもいいのか? あんな丸裸になるような無防備極まり場所で、僕がどうなっても知らないぞ」
そんな心配はしていない。対人間ならば、審神者は己が不覚をとるとは微塵も思わず、一切の心配さえもしていない。審神者が利用することも多い宿であるだけに警備もしっかりしていることも、審神者はこの宿に来る道中で耳にしていた。
だからこれは、ただ単に、長谷部への当てつけに限りなく近い言葉であった。
「っ……貴方は……護衛されて守られることを嫌がるくせに、よくもまあそのような言葉を口に出来ますね」
多少は耳に痛い言葉であったが、審神者は気にしなかった。
「では、扉の前で待っています。何かあればすぐに突入しますから……」
「それは宿の迷惑にならないか? お前にはここで待つか、共に入るかのどちらかしか選択肢はない」
「共に入る選択肢を入れないでもらえますか…? 断ったはずです」
そこまで長谷部が衝動的に動くとは思っていなかった。確かに他の刀剣男士に張り合う気質はあったものの、場所を問わずに無理を強いることなどしないだろうと、そう考えていたのである。現に先程長谷部は、審神者が人と婚姻を結ぶことにも賛成したではないかと、審神者はどこか楽観的に構えていたようだった。
「どうしても嫌か……?」
駄目元で問えば、今度は、長谷部が苛立ったような表情を見せる。そして少しの沈黙の後、審神者を呼び戻すように、目の前の畳を叩いた。
「主。此方へ」
「何故だ」
「何故、ではないでしょう。早く来て下さい」
不満を感じながらも、審神者は浴衣を抱いたまま、長谷部の前に正座をする。そんな審神者を、長谷部は険しい表情で見つめている。
「行く気になったのか?」
「なりません」
一蹴されて、審神者は肩を落とす。もう諦めて、一人で向かうしかなさそうである。
既に心は一人で露天風呂に入るのだと決めている審神者は、説明された露天風呂までの道のりをぼんやりと思い出していた。長谷部はそんな悪気も何も一切感じさせない審神者の肩を掴み、その勢いで審神者は我に返る。
何事かと真っ直ぐ長谷部と目を合わせた矢先――
「犯しますよ」
――審神者の呼吸が一瞬止まった。
固まって、審神者は呆然と長谷部を見やる。こめかみに青筋を浮かべている長谷部は、真っ直ぐと審神者を睨みつけていた。
何を考える余裕もなく、かつて長谷部にそんな直情的な言葉を吐かれたことのない審神者は、ただただ、微動だにせずにいる。
「俺は、自覚を持てと言っています。確かに俺は貴方に忠義を尽くすとは言いましたが、そう何度も試されるような真似をされては困ります」
「試すなど……お前は……僕には手を出さぬと言っただろう…」
「言いました。けれど手を出さぬからと何をされても許すわけではありません。貴方は一度痛い目を合わなければ学習しないのではないですか? 俺が何度も何度も、どれだけいっても、そうやって無防備に隙を作り……おちょくっているのだと思われても仕方がないと思いませんか!」
「共に風呂に入ろうというだけの話だろう……そもそも、お前は直接僕を脱がしたこともあるのだから、僕の裸など……別に珍しいものでもないだろう」
そうだ。こうやって口にしていて思うが、審神者はそもそも卑猥なことをしようと誘っているわけではないのだ。それを無防備だ何だと言われ、仕舞いには犯すとまで言われ、そこまで言われる筋合いがどこにあるのだと、審神者が真っ先に思い浮かべる感情はそれである。
「なあ、お前は僕を女扱いしてはいないか? お前にそこまで言われるほど非常識なことを言った覚えがないが」
「そんなつもりはありません…! そうではなく、俺が言いたいのは……」
少しばかり腹が立ち、審神者は話の途中である長谷部の口を塞いでしまう。そうして、ずいと顔を近づけて続ける。
「……お前がいなければ、楽しくないだろう」
そしてそう言い放てば、長谷部は目を丸くしてしまう。
「……ここまで来たのだから楽しもうと、お前だって言ったじゃないか。一人で入ろうが構わないが、こういうところに来たのは初めてで……お前と一緒に行けたらと、そう思って……」
そう言って、審神者は長谷部の口から手を離す。
じっと長谷部の反応を伺えば、長谷部は更に険しい表情を浮かべていた。一目見ただけで、長谷部の発言を待つことなく地雷を踏んでしまったのだと、審神者はすぐに理解した。
とはいえここで急いで距離をとろうとすれば、何だかそのまま追いかけられて捕まってしまいそうな予感がして、動くに動けずにいる。
「貴方の気持ちはそうでしょう……結局のところ、貴方は俺を好いているわけではないのですから。俺がどれだけ貴方を想っているのか……どれだけ我慢して耐えているのか……」
その言葉に返事をする前に、審神者の視界が反転する。長谷部が審神者の体を畳の上に押し倒したからである。
長谷部は片手で審神者の肩を押しつけたまま、もう片方の手で審神者の顎を掴んだ。痛みはそれほどでもないが、多少乱暴な手つきなそれに、審神者は困ったように眉を下げた。
「俺は貴方を、ここで如何様にも出来るんです。それでも尚、そうやって無防備に俺に近づいてくるつもりなんですか」
こうして下から長谷部を見上げるのはもう何度目だろうか。審神者はぼんやりとそんなことを考えて、そして、手を伸ばす。そのまま長谷部の頬を両手で包み込んで、真っ直ぐとその目を見つめたのだった。
真っ先に審神者が抱いた感情は、疑問であった。
「――……なあ、長谷部。お前は本当に、僕を諦められるのか? もしも僕がお師匠様の命に従い、誰かを娶るとして――それで本当にお前は平気なのか? 一緒に風呂すら入れず、近くにいたいとするだけでこうも取り乱して――……相手が人ならば良いと言ったくせに。そんな目で、僕のことを見るくせに」
長谷部の瞳が、怯えるように揺らいだ。図星をつかれたと思っているのかもしれないと、審神者はそんなことを考えた。
主に顕現されるということは、刀剣男士にとって呪いのようなものなのかもしれない。こうも心乱されるほどの理由が己にあるとは、審神者は今も思ってはいない。揃いも揃って審神者に想いを寄せ、誰も報われることもない。なんと空しいことなのだろうかと。
「……貴方には分からない。狂いそうなほど誰かを想う気持ちなど……それこそ誰彼構わず簡単に感情を二転三転させる貴方には、永遠に分かることではありません……」
「……そうか……そうだな……」
そんな男に惚れている長谷部はいっそ哀れだと、審神者はそんなことを思う。「駄目な主ですまない」と、そう謝罪すれば、長谷部に鼻で笑われた。
「貴方は主としては申し分ない方ですよ。ただ、一人の人間としては――……どうしようもない人だ」
「……ならもう、一人の人間など捨て置いて、主としての僕だけに付いてきてはくれないか? その方がお前も――……」
「出来るものならやっています」
唇をなぞられ、血がにじんでいた箇所にゆっくりと爪を立てられた。痺れにも似た痛みに声をこぼすことはないが、眉間に作ったしわを、少しずつ、深いものにしていった。
「もう、遅い」
愛憎、という言葉がある。愛も憎しみも密な繋がりを持っているのだろう。長谷部は審神者を愛しそうに見るというのに、その反面、時折、審神者のことを憎らしそうな目で見るのだ。今にも乱暴に唇を重ねてくるかと思ったが、何もせずに押し倒したままでいるところを見ると、葛藤でもしているのかもしれない。
「なあ、長谷部」
ふっと、審神者は小さく笑った。
「お前は嫌がるかもしれないけど……僕はお前に親近感を抱いていたんだ。僕は周りに堅物と言われていたし、そういった自覚もあったから……お前と僕は、似たもの同士なのではないかと――だから、お前と仲良くなれたらと、そうずっと思っていた」
何の話なのか、と。怪訝そうに眉を潜めた長谷部に、審神者は柔らかく目を細めた。そのまま両頬を包み込んでいた手を更に延ばし、長谷部の首の後ろで組んでしまう。
「――もっと早く行動に移していたら、お前の心に気づいて、対応が出来たのだろうか……と、そう思うよ。僕はいつもそうやって、僕を想ってくれる刀ほど傷つけてしまうから……」
「……貴方が何を言いたいのか、分かりません」
そう言われた言葉に、審神者はくすくすと笑う。それもそうか、と。
「だろうな。僕もよく分からん」
そのまま審神者は思い切り腕に力を込めて、体勢をひっくり返した。己の力では出来ないかと思っていたが、長谷部が気を抜いていたのか、あっという間にひっくり返って、今度は審神者が長谷部を押し倒すような形になった。
「案外、簡単に押し倒せるものなんだな……」
興味深いとばかりにそうつぶやき、間にあった浴衣を横に放る。そして、審神者は指先で長谷部の胸をついた。呆気にとられた長谷部の表情に、くすりと小さく笑って。
「お前は行動が直情過ぎる。小狐丸をお前は危険だと言うが、僕にとってはお前の方が脅威だな。物分かりが良いように振る舞いながら、お前のその目の奥は喉笛を食いちぎろうと言わんばかりに……」
「そこまでではありません!」
すかさず飛んできた言葉にまた笑い、審神者は、上から下に向けてなぞるように、指を滑らせる。ぴくりと反応した長谷部の表情をじっと見下ろし、審神者は――諦めたように、静かに微笑んだ。
「……犯していいよ、長谷部」
放たれた言葉は小さく、けれど確かに長谷部の耳に届いたようだった。何も言えず、耳を疑っているだろう長谷部に、審神者は続けて言った。
「お前がそうしたいのなら、もう、構わない。どうせ、こんな……」
投げやりに掠れて消えていった声――……審神者は、視界がぼやけていくことを感じ取った。このままではみっともない様を晒してしまうだろうことは分かっていた。それでも、己の意志では止められなかった。
「皆を振り回しておきながら……お師匠様の命に背くと、たったそれだけのことすら言えないんだ……妻は娶らないとお前達にいった……そう言ってきたのは、僕だったのに……」
ここには長谷部と己しかいない。にも関わらず、納得できない命には抗議をすると言っていたその口が、既に震えている。それがお国のため、未来のため、それが己の審神者としての義務である――そんな言葉が首に巻き付いていて、否定の言葉を吐き出させてはくれない。
「そんな僕に何の価値がある……? お前が望むなら、ここで、今すぐ手ひどく犯してくれて構わない。それでお前の気が少しでも軽くなるなら、こんな体……いくらでも使ってくれていい……」
ぼやけた視界からぽたりと落ちた滴は、長谷部の頬を濡らした。それに気づいた審神者は鼻をすすって袖で己の目を拭うと、そのまま隠してしまった。
(……僕は、一体なんなんだ……)
一貫性もなく、周囲を振り回すだけ振り回した。自分の目的は、初めから良い審神者となることだけだった。そのはずだったのに、いつの間に、こんなにも変わってしまったのか。
恋われるようになり、迫られるようになり、それを諫めて止めてくれる刀剣男士でさえ振り回し――己は今、ここで一体何をしているのだろう。誰も救われない。誰も報われない。
今となっては――自分の意思さえも分からない。
何もかもが空虚のようで、空っぽである己がひどく醜く思えた。なのに、それと裏腹に、皆は審神者は空っぽではないという。中身を愛していると言う。それらがひどく矛盾して、全てが偽りのように思えてきた。
「……主」
延ばされた腕が、審神者の腰に回る。そのまま上半身を起こした長谷部が、そのまま強く審神者の体を抱きしめた。
「言い過ぎました……貴方を、泣かせるつもりは……」
戸惑いを隠せずにいた声と共に、審神者の背が撫でられた。まるで泣く幼子をあやすかのような振る舞いに、審神者はくしゃりと目を細めた。まるで、というより、そのあやしかたは幼子に向けるものそのものであったに違いない。
審神者とて、泣くつもりなどなかった。泣くほどのことを、長谷部に言われたのだとも思わない。けれど、自分でも自分の一貫性のなさに絶望したのだろう、悔しくて情けなくて、涙がこぼれてしまった。
これ以上泣かぬように堪えながら、審神者はぐりぐりと長谷部の肩に顔を埋めた。
「すまない……泣くなど思わなくて……」
「いいえ、気にしないで下さい……俺の方こそ、すみませんでした」
ぽんぽんと頭を撫でられて、いよいよいたたまれない。審神者は鼻をすすって、長谷部の肩から頭をどけると、涙で震えた、今にも消えてしまいそうな小さい声で呟いた。
「……犯していいぞ…」
「っ……」
長谷部が声に詰まり、何かを堪えるように視線を斜め下に向けてしまう。
「……い、今の貴方相手に、出来るわけないでしょう……そもそも俺は、貴方に危機感を持たせたかっただけです! 大体、貴方は具体的に何をされるか分かっているんですか?」
呆れたように問われ、数秒。
「……多少、は」
「具体的に、と聞きました」
「知らん……作法も何も……したことがない」
「だったら二度と口にしないで下さい! 絶対に! 他の刀にはそれを言わないで下さいよ! いいですね!」
そもそもお前が言い出したことだろうと、そう口にする元気すらなかった。審神者は納得できないながらも頷いて、そして犯されはしないことに安堵して肩を落とした。
「……」
「……」
「……長谷部」
「……なんですか」
審神者は長谷部の首に腕を回すと、そのままぎゅうと抱きしめた。
「すまなかった。お前を困らせた……風呂には一人で行くから、お前はここでゆっくりしててくれ」
流石に、ここでまた長谷部に一緒に入ろうと言える度胸はなかった。そう言って審神者は体を離し、長谷部の上から退こうとした。すると、着物を着たまま長谷部の上に跨がってしまったため、すっかり着崩れてしまっていることに気がついた。どこまでも情けない様だと、未だ涙目の姿でその崩れを直す。
「っ……」
大きくため息をついた長谷部は、審神者に呆れたのかもしれない。すっかり己に向けられたため息なのだと思って、審神者はいたたまれなさに俯いた。
身なりを直し、放っていた浴衣を拾い上げた審神者が、逃げるように部屋を出ようとした矢先、長谷部が引き留めるように言葉を発する。
「――俺もいきます」
足をとめて、長谷部を振り返る。長谷部はがしがしと頭をかきながら、決まり悪そうに振る舞っていた。
「……良いのか? もう無理はしなくても」
「貴方を一人にするのは危険だと思いました。いくらこの宿が審神者御用達として、警備が万全だったとしても」
「一緒だがいいのか? 出入り口で待つという話ならば……」
「一緒に入ります」
ただ、と続けた長谷部に、審神者は静かに首を傾げた。
「先に行って下さい。俺は、準備がありますので……後から向かいます。先に風呂に入っていて構いません。すぐに追いつきます」
「? ……だったら此処で待つよ。準備などそうかからないだろう」
「かかります。先に行って下さい」
「しかし……」
「先に、行って、下さい」
「……わかった……」
長谷部が何を考えているか分からない。脱ぐ時にそばにいなければ問題がないとでも思っているのだろうか、と。そんな予測をしながらも、審神者はそれ以上の追求はしなかった。
言い過ぎた償いみたいなものだろうか。そこまで気を遣ってくれずともいいのだが、一緒に風呂につかれるのは嬉しい。
「先に向かっている」
そう言って部屋を出た審神者は、部屋に残された長谷部は今まで以上の深く盛大なため息をついていたことなど、知る由もなかった。
[newpage]
(……おそらく、もう来ないだろうな)
結局体を洗って露天風呂に審神者が浸かった後も、長谷部がやってくる気配はなかった。やはり審神者と共に風呂に入ることは、長谷部にとって不都合なことだったらしい。長谷部はずっと嫌がっていた。しつこく誘って怒らせてしまったのは審神者の方だった。怒りは感じない。ただただ申し訳なさがあった。
(……僕も、随分とムキになってしまった)
普段ならば、審神者は断られたことに対してしつこく食い下がるような真似をしない。それが審神者として必要なことでないのであれば、の話だが。だというのに、あの時はどうしてか諦めきれずに声をかけてしまった。こうして一人になって思い返すと、あの時の己がどれだけ幼稚だったのか、嫌でも自覚してしまう。
(長谷部には、すまないことをしてしまった)
号泣というほどではない。けれど、少しばかり涙を流して、取り乱してしまった。長谷部も、そんな審神者の様子に終始呆れていたように思う。審神者は肩を落として、そのまま湯船に深く浸かった。
乳白色の湯は心地よく、熱めの水温がじんわりと体を温めてくれる。庭園の一部が見えるように造られている露天風呂から見る景色は綺麗で、この景色を長谷部とも共有したかった――などとは、考えるだけ無駄なことであった。
「……全ては、お国のため……か」
ぽつりと、呟く。審神者はとうの昔からお国のために生き、死ぬことを受け入れていた。何せ、幼い頃から日常的に言葉にして師に誓っていたのだから。
――お国のために戦って死ぬことは、審神者にとって誇りであった。
けれど、審神者の考えるその‘お国のため’には、子孫を残すことなど含まれていなかった。それどころか、審神者は妻を娶り子を成せば弱みが出来る――そうなれば未練が出来て戦えなくなる――そう考えていた。だから誰も娶る気はないのだと、周囲にもそう宣言していたのである。師も、それを良しとしていた。
だが、今になって師は、国の為に子孫を残せと、そう言う。かつての妹弟子まで巻き込んで、審神者の意思など関係ないと言う。
(弱みを作らないことは良い心がけだと――お師匠様は僕の考えを否定しなかったのに……どうして……もしも僕の本丸の有り様を知らなくても、お師匠様は僕に同じことを命じてきたのだろうか……)
ここに他に誰かがいれば気も紛れただろう。けれど、審神者の他に露天風呂を利用する者は誰もいなかった。静けさの中、湯の流れる音だけが聞こえている状態だと、嫌でもそういった考えだけが先行した。
(何故直接言ってくれなかったのだろう……そんな話、僕にはまるでしてくれていなかった。にも関わらず、僕の本丸の事情を知りながら、どうしてよりにもよって長谷部を――……あまりにも無神経で、長谷部を傷つける命になると、本当にお師匠様は思わなかったのだろうか……!)
ぎりっと奥歯をかみしめる。こんなことをここで考えていたとて、なにも問題は解決しない。遅かれ早かれ、審神者は師に直接連絡をとらなければならないだろう。このまま知らぬ存ぜぬを通せるとは、審神者とて思っていない。
(………だが、なんと言えばよいのか……僕自身、気持ちが定まってもいないというのに……)
――貴方は師には逆らえない、と。先程暗に長谷部にそう言われた言葉は、審神者を深く揺さぶった。この身に染み着いた誓いを、審神者は刀剣男士のために捨てることなどできないのだろうと、そう言われていたようで。
つまるところ、見透かされていたのである。
そこまで考えて、納得がいった。
(……ああ。僕は、図星をつかれて取り乱したのか……)
であるから、耐えられなかったのだろう。だから普段は見せないような恥を長谷部を相手に晒してしまった。それが分かったとて、今更なにも変えられないのだから、もうどうしようないのだが。
後ほど、この件については、長谷部にきちんと謝罪をしなければならないだろう。
カラカラと、戸が開くような音が審神者以外に誰もいない露天に響く。人の気配が近くにくることに気づいて、審神者がその音の主を探すために首を動かそうとした瞬間――
「そのまま」
背後からぴしゃりとそう投げかけられ、審神者は考えるよりも先に反射としてじっとする。その声の主は間違いなく長谷部のものであった。近づいてくる足音に耳をすませて少しした後、隣で誰かが入湯する気配を感じ取った。水の振動が伝わり、審神者は言われたとおりにじっとしていたが、口だけは大人しくしておくつもりはなく。
「……もう、来ないものかと」
「後から行くと言ったでしょう。俺は嘘はつきませんよ」
「そうか……?」
そう言って、少しの沈黙。
「……もう、お前をみてもいいのか?」
好意があろうとなかろうと、同じ作りの体である。過剰に反応するようなものではないと思っている審神者には理解しがたいことではあるが、できるだけ長谷部の意志を尊重しようというつもりでいる。先程は長谷部を前に取り乱して振り回してしまった分、審神者も慎重な行動を心がけていた。
「もう、構いませんよ」
言われ、ようやく隣に浸かっていた長谷部のことをみる。
髪は濡れておらず、ただ身を清めてきたのだろうことが推測できた。長谷部はじっと審神者を見つめており、審神者は何度か瞬きをした後、おずおずと口を開く。
「その……すまなかったな、長谷部。勝手を言った……」
「……そうですね。貴方は物事を軽く考えて、俺を振り回す悪癖があります。今後は、特に気をつけてください」
「……わかった」
ふう、と、疲労感を伴うようなため息を吐き出す長谷部からは、審神者に対する呆れのような感情が見て取れた。立場上、主として手本とならねばならない審神者にとっては、応える反応であった。
いやな沈黙が再び流れ、審神者はいたたまれなさに長谷部から視線をそらした。白く濁った湯を見落とし、肩を落とす。
「良い景観ですね」
「っ…そうだな。庭園もそうだったが、ここは取り分け、眺めが良い」
「はい。俺もそう思います。後で、散歩でもしましょうか?」
「ああ、行こう。まだ時間もあるしな」
けれど良い感触の反応に、少しだけ心が救われたようだった。少しだけ声が弾んだ審神者に、つられるように長谷部の声も柔らかくなる。
「主。妹弟子……七子さま、でしたか? 一体どのような女性だったのですか?」
そして突飛のない質問をされ、審神者は目を丸くした。何故そのようなことを聞いてくるのだろうと思ったものの、よく思い返せば、審神者の妻候補としてあげられている相手は妹弟子であったと気づいた。
審神者は少し考えて、昔を懐かしむかのようにぼんやりと庭園を眺め、そしてゆっくりと口を開いた。
「……七子は、心の清らかな妹だったよ。好奇心旺盛で思いやりに長け、その根は優しく、皆に好かれていた」
きちんと上の者の言いつけは守り、けれど自分の意見ははっきりと口にする。疑問を疑問で終わらせず教えを請う姿勢は、審神者にとって妹であることを抜きにしても好感を持たせた。きちんと面倒をみるようにとの師の命令だったが、審神者はそれをしかと遂行できていたように思う。良い関係を、築けていたと。
「主は、彼女を好いていたのですか?」
「妹として、人として、好いていたよ。七子はきっと良い審神者になる。よその本丸に一人だけ移動したきり連絡は途絶えたが――元気にやっていてほしいとは、ずっと思っていた」
お互い審神者となった後は、いずれ会う機会があるかもしれない、とは思っていた。まさかその時が来るよりも先に、妻にしろと言われる日が来るとは、夢にも思っていなかったけれど。
「可愛らしい方ですか?」
「ああ。雛鳥のように僕の後をついて回る姿は小動物のようで、そうだな……可愛らしかったな」
「雛鳥……女性として意識したことは……?」
「あるわけがないだろう。妹だぞ」
少しばかり不機嫌に眉を寄せ、けれどそうきっぱりと言い切ると、長谷部は安心したように息をついた。
「……主は、本当に俺をこんなところに連れてきて良かったのですか?」
そしてそのまま問われた質問に、審神者は怪訝に眉を寄せた。
「どういう意味だ?」
「俺を護衛として連れていくことについて、あいつらから釘を刺されていたことを知っています」
「あいつら……とは、ああ、清光達か」
「はい。俺も、幾分と釘を刺され……用が済んだら寄り道せずに早く帰ってくるようにと」
確かに、長谷部の言うとおり、審神者は審神者に想いを寄せている刀剣男士達に釘を刺されていた。長谷部を共にすることで、長谷部との間に何かあるのではないかと心配してのことだった。
「まあ、言われてはいる。皆心配性だからな……というより、僕が信頼されていないからと言った方がいいか。すまない、長谷部。お前には嫌な思いをさせてしまった」
「いいえ、主だけのせいでは……」
「気を使わなくてもいい。それに、この寄り道は必要なことだったよ。お前にとっても、僕にとってもな。もうここまで来てしまったのだから、そう難しく考えるな」
すっと長谷部に視線を向けて、審神者は目を細めた。
「加えて、この件に関してはお前は被害者だよ。何から何において、お前に非はない。審神者と刀剣男士との一線を越えぬようと堪えてくれているお前に、お師匠様は非道な真似をした。それは間違いないことだ」
「そこまででは……主の師は、少なくとも、貴方のことを大事にしていると思います」
その言葉に、審神者は疑問を覚えた。長谷部の立場からすれば、師は好意的には思えないような言動しかしていなかったはず。長谷部とて、師には思うことがあるように振る舞っていたような覚えがある。何故そんなことをいうのか、それを審神者が問うよりも先に、ぽつりと長谷部は口を開いた。
「――……貴方を審神者として恥じぬ人間に育て上げたのは、決して刀剣男士の慰み者にするためではないと、そう、言われました」
その語尾が震え、掠れていく。
「言い返せるものなら言い返したかった。けれど、貴方の意志より自らの心を優先し、想いを遂げようとする俺達は、きっと、正しくはない……貴方の師と対面して、俺は自分を恥じました……返す言葉が何もなかったんです」
審神者は言葉を失い、ただただ、じっと長谷部を見つめていた。
「貴方はあの時、俺に言いました。縁が繋がっていない状態でも、数ある人間の中から自分を好きになったのかと……貴方の言うとおりです。繋がりが何もない状態でも、迷わず貴方だけを好きになる自信は、俺にはありませんでした」
ただ、泣きそうに揺れた瞳の周りに水の膜がはって、その内それは静かにこぼれ落ちていった。
「俺の、貴方への気持ちは紛い物です。貴方を困らせて、傷つけてしまうだけのものです。……貴方に尊ばれるような感情では決して、ありませんでした」
それは水面の上に落ち、それを見た瞬間に、審神者は考えるよりも先に手を伸ばした。指先であふれる滴をすくいあげるように触れ、そしてそれにつられるように審神者は口を開いた。
「……お前は、あの時も泣いていたな」
かつて、審神者が長谷部を誘って酒を飲んだときの夜のことを思い出した。
今は長谷部は酒を飲んでいない素の状態だ。それでも、泣き顔は一緒なのだと思ったのである。審神者はぎこちなく笑って言った。
「僕は、嬉しかったよ。お前達に好かれることは嬉しかったと言った、いつかの言葉に嘘はない……あの時の問いが、お前を追いつめていたのだな……すまなかった」
そこまで言ってふと、きゅうと、胸の奥が締め付けられたような感覚がした。
ただ無償に、その涙を愛しいと感じてしまった。
「っ――…あるじ……一体何を……」
手の平をおろし、そのまま長谷部の胸の中央へ当てる。そっと位置をずらして目的のものを探し当てると、審神者はふっと笑って、耳を澄ますようにそこへ胸を寄せた。
それから、両腕を長谷部の背中に回して、そのまま腕を組んでしまう。ぴったりと長谷部の胸に耳を当てて、そして口を閉ざした。
「主! ですから貴方は何度いえば……」
「――音がする」
「は……?」
ぽつりと呟く。動きを止めた長谷部は、困惑が隠せていないようだった。
「以前、不思議に思ったことがあったんだ」
審神者は、長谷部の胸から伝わってくる心音に、困ったように笑った。
「食事も排泄も睡眠も――刀剣男士は皆、人の身と同じように行う。本体さえ無事ならどんな傷もたちまち元通りになり、その姿形は成長も劣えることもしないのに――どうしてこんなにも人と似ているのだろうな……と」
口を閉ざし、審神者はすりと、頬を寄せる。その感触は鋼にはほど遠く、温かな人肌でしかない。この人の体が抱く心を、結局は刃なのだと捨て置くような質問をしたあの時の己の疑問は、本当に正しかったのだろうか。
どくんどくんと、伝わる心音は、間違いなく長谷部の中にあるものなのに。
「――ふっ、鼓動が早くなった。こんなにも反応するのか、面白いな」
「っ〜〜〜〜〜!」
審神者が長谷部の体に密着すればするほど、いっそ面白いまでに鼓動が早足になっていく。それが何だか面白いとそう呟いた審神者の肩をつかむなり、長谷部は乱暴に引き離してしまう。
「ですから! からかうような真似はおやめくださいと何度も――…!」
「違うよ。からかったわけではないよ、長谷部」
そう思われても仕方ないとは分かっているけれど。しかし審神者にはその気はなく、とはいえきちんとした理由があるのかと問われれば返すことのできる正当なものがあるわけでもない。
審神者にも、わからない。衝動的に動いてしまった根底にある理由が何であるのか――それはもはや審神者にとっては未知の領域に近い。
「……すまない。僕にも……よく分からないが……」
肩にのせて審神者を引き離した長谷部の手をとり、審神者はそのまま、その手のひらに頬を寄せる。湯に浸かっていた手のひらは熱く、審神者の頬からその温度が伝ってくる。
「……僕が主だから好きになったのはきっと、確かにそうなのだろうなと、思う……でも、その気持ちが紛い物なのだとお前が言うのは、嫌なんだ。仮にその気持ちが上辺を取り繕った紛い物というのであれば、心臓がこうも慌ただしくはならないだろう?」
己に向けられる長谷部の好意を受け入れる気などない。けれど、長谷部のその好意が嘘だ紛い物だと、そんな風には思えなかった。
「……貴方は、俺の気持ちに応えるつもりなどないくせに……勝手なことばかり……」
手を振り払い、長谷部はそのまま審神者の体を突き放すように引き離した。そしてそのまま、視線を審神者から逸らすようにそっぽを向いてしまう。
「これが紛い物でなかったら何だと言うんですか! 偽物だろうと本物だろうと、貴方に返してもらえない感情なら、何の価値もない……!」
そうして吐き出すように言われた言葉に、審神者は困ったように黙り込んだ。審神者は誰かを好きになったことがない。狂ってしまいそうな程に恋い焦がれてしまったことがない。そう言われてしまっては、どうしても言葉に詰まってしまう。
「……安心してください。この感情は、表には出しません。いずれ貴方が誰かを娶り、その方と家庭を築いても、俺は祝福します。そうしてずっと、貴方の良き刀として貴方に尽くします」
きっと、睨みつけるように審神者を見据える。返す言葉もなく呆然とする審神者から目をそらすことなく、長谷部はそう言い放った。
「――それ以外に、貴方が俺に何を望むと言うんですか」
審神者は小さく目を丸くして、けれど、何も言えず。沈黙したまま、それでも長谷部から目をそらせないままでいた。ただ、涙を浮かべていた藤色の瞳は今では激情を秘めていて、今にも審神者に斬りかかってきそうだと、そのような印象を受けていた。
「何も俺に捧げられない貴方が、不用意に俺に触れないでください」
その中には怒りや悲しさと共に、悔しさや苦しみもあったように思えた。今の審神者には、今の長谷部にどんな言葉をかければ良いのかが分からない。
確かに、そうだ。変わらず審神者に忠誠を誓ってくれる長谷部の姿勢は、審神者が己に好意を寄せる刀剣男士全員に望んでいた姿だった。
長谷部は審神者の望みを汲み、審神者の願いを叶えてくれている。これほどに忠義に溢れた刀剣男士がいるだろうか。
――だが、それは、長谷部の本当の望みではない。
分かっていて、審神者は手放しで喜ぶような真似など出来なかった。
「――……それで、お前は本当に良いのか……?」
乾いた声で問う。長谷部は不満を含んだ視線を審神者に向けていた。
「良いも何もないでしょう。俺がここで何を言おうと、貴方は俺に何も与えられない。そんな質問は無駄です」
口を閉ざす。そんなことはないとは、嘘でも言えなかった。
「……貴方と二人で、このような場所に来れた思い出だけで、俺は十分です。それ以上はもう、何も望まない……焚きつけるような真似はしないで下さい。お願いします」
その言葉に、審神者は頷くことしかできなかった。
[newpage]
その後向かった庭園は、部屋からも露天風呂からも見たとおり、実に見事であった。細かいところまで手入れが行き届いて、流れる水や風に揺れる葉の音が心地よい。
「良い庭園だな。細やかなところまでよく考えて作られてる。歌仙が見たら、きっと喜んだだろうな」
「そうですね」
石畳の道を長谷部と共に歩き進みながら、露天風呂での会話などなかったかのように会話を交わしていく。はじめはやはり気まずさはあったものの
、長谷部もその方が良かったのだろう、何事もなかったかのように話をするために、今はすっかり普段のような会話が出来ている。
審神者の肩の力も、抜けてきたところだった。
「俺は雅なことには疎いですが、歌仙がこの庭園にいたらまず間違いなく雅だと喜んだでしょうね」
「だろうな。この宿のこと、今度それとなく教えてみようか」
長谷部をつれて行ったと言えば角が立つかもしれない。あくまでその事実に気づかれぬように、素敵な庭園があるらしいと、そう遠回しに伝えてみよう。
「歌仙は雅、雅とうるさいですからね。正直俺には、雅が何たるかは分かりませんが」
そんなことを考える審神者に、長谷部はしれっと口にする。ふっと笑みをこぼし、審神者は目を細めた。
「僕もだよ。歌仙には雅とは、とよく説かれる。些細な雰囲気や違いで変わるのだから、奥深いものだな」
「深く考える必要などありませんよ。見事だと思ったのなら、それだけで事足りています。やたらと雅さにこだわる方が、かえって無粋というものです」
先ほどから、少しつんけんとした口調になっている。分かりやすいと、審神者は長谷部に軽口をたたくように問いかけた。
「さては、お前も雅でないと言われた口だろう?」
「……ええ、まあ」
少しだけ気まずい表情で、長谷部は続けた。
「小鉢が多く、やたらと盛りつけに時間をかけるので、手っ取り早く一皿に全部盛れば早いし時間を無駄にしないと言ったら、杓子で殴らそうになりました。厨を仕切るのは歌仙なので引きましたが――今も納得できていません。品数多く膳に盛りつけるよりも、一カ所にまとめて各々についで回らせた方が合理的です」
ぶつぶつと文句を口にする長谷部に、審神者は気が抜けて、声をあげて笑ってしまう。笑ってはいけないのかもしれないが、その様を想像してついつい頬がゆるんでしまうのだ。
「――お前らしいな」
「っ……俺は、もっと時間と手間を減らせる方法を、と思っただけです。……そもそも、主が歌仙に料理を教えたそうですが、盛りつけも主仕込みなのですか?」
「盛りつけか? まあ、基本的なことはな。だが、僕は料理を作品のように盛りつけたことなどないよ。だから、あれは歌仙の趣味だ」
ずっと厨を仕切ってきた厨長の特権、とでもいえばいいだろうか。
もしかすると審神者が盛りつけを大事にしていたかもしれないと危惧していたのだろう。伺うような態度から一転、長谷部の目つきがきりっと変わる。
「では、やはり本丸に戻ったら抗議をします。これから刀剣男士の数も増えるのですから、もっと合理的な手段を使うべきです」
「はは、そうか。まあ好きにするといい。だが、杓子で殴り合うようなことはせず、話し合いで決めるようにな」
「歌仙にいってください。あいつはあれで血の気が多いんですよ」
他人事のように笑っていた審神者の笑みが、ぎこちなくなる。そうして今度は審神者の方が気まずそうにしてしまう。
「それはまあ……知っている。歌仙はしっかりと自分をもっているからなあ……」
激高すると、歌仙は手に持っているものをそのまま使おうとしてしまう――ことは、以前包丁を持ったまま追われかけていたので審神者も知っている。背筋が凍るような思いとはあの時のことをいうのだろうか。あれがなければ、審神者は屋根の上に避難などしなかった。
まあ、今はそんなことは気にしないでおこう、と。審神者は小さく首を振った。
「せっかくだ。一周して見て回ろうか。このような機会も滅多にないしな」
「はい、そうですね」
カラカラと音のなる下駄の音を楽しみながら、長谷部と歩いていく。まるで探検をしているようで、ただ散歩しているだけだというのに、自然と楽しさを感じていた。
「比べるものではありませんが、うちの本丸よりも広いですね」
「そうだな。あの本丸も、庭は広くあるのだが……流石にここまでくると比べるのも気後れするな。流石、庭園が素晴らしいと銘打つだけある」
雅のなんたるかと理解していないのは、審神者も同じである。だが、そんな自分でもこの庭の美しさは理解できるのだ。それはきっとすごいことなのだろう。
「……皆にも、見せてやりたいな」
ぽつりとこぼれた言葉に、長谷部は少々呆れたように肩を落として笑った。
「貴方は、違う刀のことばかり考えますね」
「え?」
「……本丸に、帰りたいですか?」
指摘されて、初めて自覚する。審神者は困り顔を浮かべた。
「……すまない。そういうつもりではなかったのだが……無神経だったか?」
「謝ることではないですよ。ただ貴方はどこまでも審神者なのだと、そう思っただけです」
「……いや。僕にはそもそも、他にするような話題がないというか……」
決して長谷部に不快な気持ちをさせたくはなかったのだが、審神者が何を付け加えようとしてもどうにも、うまく伝わらないような気がした。
「お前とここに来れたことは、純粋に嬉しいんだ。理由が理由ではあったけれど、僕は審神者と刀剣男士という関係を抜きにしても、お前の性格を好いているのだし……先も言ったことだけれど、お前と仲良くなりたいと思っていたことは、僕の本音であったし……お前をないがしろにしているわけでは……」
そこまで言い掛けて、長谷部は手早く審神者の口を手のひらで塞いでしまった。まだ言いたいことの途中であると長谷部に訴えるように視線を向けるも、照れを含ませたしかめっ面がそれを受け付けてはいなかった。
「もう十分分かりましたから……」
もう喋るな、と言われている。審神者はむうと口を閉ざし、そしてこくりと頷いた。長谷部がもういいと言っているのだから、それに従うべきである。
気まずそうにしている長谷部に、審神者は思案しているような表情でぽつりと口にする。
「お前は意外と、分かりやすいな。感情がすぐに表にでる」
大きな声ではなかったが、しっかり長谷部は聞いていたらしい。少しばかり面白くなさそうな顔をして、審神者の頬を控えめにつついてしまう。
「気づいていないのかもしれませんが、貴方も感情がよく表にでますよ。俺に悪戯した後の笑みも不服だと拗ねる表情も、怒ると言葉が乱暴になる様も。貴方だってとても分かりやすいです」
「っ……それは、本当に僕のことを言っているのか? 誰かと間違えていないか?」
「全部、間違いなく貴方です」
それを聞いて冷静に考えるが、長谷部の言う人物像と、自己評価が一致しない。審神者になってから確かに表情は豊かになったと言われることはあったが、だが、そこまで子供じみた振る舞いをしていたつもりはなく――事実、審神者は幼い頃から無愛想を度々指摘されていたのだ。それ故に戸惑って、長谷部がここまで断言する理由がなんであったかと思い返す。
「自覚がありませんか?」
「うっ……い、いや、少しは……? だが、そこまで言われるほどか…?」
「ああ、そうですか。やはり無自覚だったのですね」
納得したような声で告げた後、長谷部は柔らかな微笑みを浮かべていた。
そして長谷部は審神者から手を離して、審神者の少し前を位置どって歩いていく。その後ろを少し遅れて歩きながら思案する審神者に、何でもないことのように長谷部は口にした。
「……俺はどんな態度をとられても構いませんが、女人はどうでしょうね。貴方の機微の読めなさと、自分に向けられる好意に鈍感なところと、色事において圧倒的に気の回らないところは、衝突の原因になるかもしれませんね」
池にかけられた石の橋を歩きながら、淡々と口にする長谷部の表情は、審神者からは見えなかった。けれど、どういった心持ちでそのようなことを口にしているのかは、審神者にも察することが出来るというものである。
察することが出来るからこそ、審神者は言葉が出てこなかった。
「それから、貴方は細かいことは気にせずに、相手の失敗や狼藉をすぐに許しますね。それで自分がどれだけ傷つこうと、それは何でもないことであるかのように受け入れてしまう。貴方を好いている相手にとって、それは耐え難いことであることを忘れないで下さい」
続けて告げられた言葉。審神者は足を止めて、審神者を置いていくように歩き続ける長谷部の背を見つめる。同じ場所にいるというのに、一人で長谷部が遠くにいってしまいそうな、そんな錯覚を受けた。
「――何より貴方は素直なようでいて、本当は頑固で融通のきかない人だ。知らず知らずの内に、相手を振り回してしまうこともあるでしょう。加えて迂闊で、懐に入れた相手にはすぐに何でも許してしまう。――ですから、何においても線引きを守ることを忘れないで」
ふと、長谷部が足を止める。そして審神者の方を振り向くことをしないまま、続ける。
「それが守れるのであれば、命じられた上での結婚だとしても、貴方はきっと……いえ、必ず幸せな家庭を築けます。それを邪魔するような輩がいるのならば――この俺が必ず、」
それ以上の言葉を、審神者は言わせなかった。足を踏み出し、長谷部を追いかけて、そしてそれ以上は先に行かせないというように、本音を隠そうとする背中を抱きしめて、引き留めたのである。
「もういい……もう何も言うな……」
今の長谷部の言葉を軽い気持ちで聞けるわけがない。長谷部の気持ちに甘えて、長谷部の傷に塩を塗り込むような真似など出来るわけがない。
「この先、どうなるかなど分からない。けれどお前が、その役目を担うことはしなくていいんだ。……もう、やめてくれ」
ぎゅうと、まるでどこにも行かないでほしいと縋る子供のように。強く抱きしめた審神者の腕に、少しの時間を置いてから、長谷部の手が重なった。
「……主。貴方は、あいつらのどんなところを好いているんですか?」
ふと、問いかけられた質問。質問の意味は聞かずとも分かる。あいつら、という言葉が指している人物も、その意味も。分かるが故に、審神者は返事に困ってしまうのだ。
「いえ……あいつらの何に絆されかけているのか、と。そう聞きたかったんです」
それを察したのか、長谷部が言葉を選ぶようにして言い直す。
言い直されたとはいえ、返事に困ることには違いがなかった。審神者はうっと言葉に詰まったまま、視線を泳がせて、どう答えたものかと思考を巡らせた。
「……何だろうな……」
好いていると言われた。特別な距離を望まれた。これからの未来も、共にありたいと。どこまでも真っ直ぐな好意は、これでもかというほどに審神者の心をかき乱した。
誰にでも、というわけではないが。それでも、それぞれの刀において、お前でなければならないと、審神者がそう感じたことなど一度もない。
己でも適した言葉は浮かんでくることはなく、審神者が言葉を選んでいる間、長谷部の方から審神者を急かすようなことはしなかった。
「……皆、僕のことを、受け入れてくれた……からだろうか」
長谷部の手が震え、それに気づいた審神者は一度口を噤んだ。けれど、これは言うべきことであると考えて、審神者はゆっくりと口を開いた。かつて己を好いていると言ってくれた者達との出来事を思い返しながら。
「僕の駄目なところも、情けないところも含めて――……それでも、僕でないといけないと――僕と未来を共に歩みたいと、そう言ってくれたから……だからきっと僕は……僕も、その未来を想像してしまったのだと、そう思う」
言って、審神者は長谷部から手を離し、一歩後退する。
それから視線を斜め下に向け、鯉の泳ぐ池の水面を何を探すでもなく見つめたのだ。
「……絆された理由というのであれば、きっと、それなのだろうな。誰と共に生きることになっても、僕は嫌とは思わなかった」
ただ一人の相手であると思うことはないから、頷くとまではいかなかった。だが、時間をかけられればかけられるだけ、審神者はお前がいいと返事をしてしまいそうになるのだから、難しいところだ。
他の誰にもとられたくない、独り占めしたい。もっと触れたい、抱きたいと、そんな気持ちを審神者が刀剣男士に抱いたことなど一度もない。
「これは恋ではないけれど――僕の中でお前達はやはり、特別なのだろうな。僕の持つものを与えることにも譲ることにも抵抗はないのに……やはり違うんだ……きっと、」
だからわからない。判断がつかない。
「だが最近は……本当にその考えであっているのかと……少し不安に思う瞬間がある。その時に、全部受け入れてしまいたくなる衝動にかられてしまったり……情けない話だけれど」
この感情は恋である、愛である。その判断を総合的にできるほどの根拠は、審神者の中には今もない。審神者の腕から長谷部の手が下ろされて、不安を感じるような沈黙を長谷部が破った。
「……主」
「……なんだ?」
「……貴方を好いているというあいつらの気持ちを、迷惑には思わないのですか? あいつらは主に無体を働いて、気持ちを押しつけて、強引に貴方を手に入れようとしているのに――……嫌にならないなんて嘘でしょう? あいつらからの好意は迷惑で、これからも当たり障りのないように、今はただ上辺を取り扱っているだけなのでしょう?」
その言葉に、審神者は小さく目を丸くする。長谷部からされた指摘に、ただただ言葉を失った。まるで長谷部は、審神者に自身の言葉を肯定させたがっているように思えてならなかった。
「……何を言い出すんだ。そんなことを思ったことは……」
「俺はここでの出来事を誰にも漏らしません。貴方が何を言おうと、何をしようと。ですから、正直に答えて下さい」
ぎりっと、下ろされていた長谷部の拳が強く握られる。震えるその手から長谷部の揺さぶられた感情を感じ取って、審神者は身を強ばらせた。
「主は刀剣男士を受け入れる気などない――師の命令に従って、人間の女人を娶る気なのでしょう? そう、言ってください……でなければ、そう…でなければ……」
嫌な予感がして、審神者の視線はその手から離せないでいる。
長谷部の握られた拳から、赤い滴が伝っていた。
「俺はどうやって……貴方を、諦めればいいんですか……」
「長谷部っ……手が…」
それに気づいた審神者は、慌てて長谷部のその手をとった。そうなると、必然的に長谷部を振り向かせるような形になり、やっとみれたはずの顔ではあったが、審神者は構わずに長谷部の傷を癒すことだけに意識を費やしていた。
「動くな、じっとしていてくれ」
強引に拳を開かせると、やはり、爪が手のひらに傷をつけていた。審神者は顔をしかめて、すぐに手入れを始める。
ここまでするほど追いつめられた長谷部に、審神者は己をつくづく情けなく思った。審神者は長谷部の好意に甘えてしまっていた。師と向き合う覚悟も何も出来ていない審神者の味方になると、そういってくれた長谷部の首を絞めてしまっていたのは、他ならぬ己だった。
せめて長谷部が審神者に他の刀剣男士のように迫ってくれていたら、こんな風に自分を責めることもなかっただろうに。
「……お前達の返事と、お師匠様への返事はまた別の問題だよ。繋がっているわけではない」
すぐに終わった手入れだが、審神者はそのまま長谷部の手を離しはしなかった。ぎゅっと握ったまま、既に伝っていた血が庭園に零れ落ちぬように手で拭った。普段なら手拭いを使うところであるが、今は手元になかったのである。
自傷するほど自分を追いつめた長谷部に何をしてやればいいのか。審神者には正解が分からない。
(我慢しなくて良い、他の刀のように自分の気持ちを出しても良いのだと言うのか? 結局は選ばないというのに……何のために?)
それとも、師の命に従い、人間の女性を娶るといえば、長谷部は救われるとでもいうのだろうか。ほんの少しでも、審神者は長谷部の気が楽になるように動きたい。これ以上長谷部が傷つく姿を見ていたくはなかった。
「……長谷部。お前は、僕が女人を娶れば、もう悲しまなくて済むのか? お前は、僕にそうあってほしいのか?」
くっと悔しそうな声が漏れる。
「そんなわけがないでしょう……ですが、俺は貴方を誰よりも大切に思っています。自分の感情ではなく、貴方を何より大事にしたいんです。そう思えば……俺は、俺が、望んでいるのは……」
じわりと、悔しげに滲んだ藤色の瞳。審神者の手を両手で包み込むように握りしめて、長谷部は続けた。
「……俺だって本当は、あいつらのように……」
けれどそれ以降の言葉は続かず、掠れて消えていく。審神者はそれでも長谷部の気持ちが手に取るように分かって、けれど適当な言葉で返事をするわけにもいかないと、審神者はたまらない気持ちになってくしゃりと表情を歪ませた。
「貴方に愛しているのだと、伝えたかった……」
審神者は己の手を包む手の熱に、泣いてしまいそうになった。もしも己が問いかけた通り、長谷部が認めたとおりに――その感情が審神者と刀剣男士の関係になってしまったから生まれたものなのだとすれば――なんとひどい話だろうかと、やるせなくなる。
戦う為に顕現したというのならば、何故刀剣男士に、人と同じ肉体を与えたのだろうか。
「……長谷部。部屋に戻ろう」
長谷部の背中越しに、自分たち以外に誰もいなかった庭園に足を踏み入れた他人の姿が写った。今の状態の長谷部とここにいることは良くないことのように思えて、審神者は静かに長谷部の手を引いた。
長谷部は何も言わず、審神者に着いてきた。何も話さずに。何も示さずに。
[newpage]
部屋に戻るなり、審神者は長谷部の手を両手で包み込むように触れる。そうして正面から向き合うと、今にも崩れてしまいそうな程に思い詰めた表情を浮かべる長谷部に向かって口を開いた。
「長谷部、大丈夫か?」
大丈夫ではないことなど見れば分かる。けれど、そんな当たり障りのない言葉しか発せないのは、審神者も平常心でいられていないからだった。
長谷部は審神者の言葉と師からの言葉――その両方に好意を否定されている。そんな状況下で想い人の婚約話をまとめろなどと――その心がどれだけ追いつめられたかなど、おそらく言葉では言い表せられないようなものなのだろう。
「……問題ありません。醜態を晒しましたが、俺は……貴方を困らせるつもりは……」
青ざめた顔色で口にした声は、ひどく冷たく、審神者は寒気すら覚える。審神者はぎゅうと手のひらに力を込めて、口を開いた。
「構わない。本音などしまわなくていい。言いたいことがあるのなら、全部きくから、自分を責めるような真似だけは、どうかしないでくれ」
もう自分で自分を傷つけることをしないように。審神者は長谷部の手を握ったまま、離そうとはしなかった。
そして、少しの沈黙の後、審神者は唾を飲み込んで、真っ直ぐと長谷部の目を見た。唇が震え、顔は強ばり、微かに手が震える。それだけ、審神者が今から発する台詞は、審神者にとっても重いものだったのである。
「――……長谷部。あのな、」
これが正しいのかも分からない。国の為に生きなければならない己がこんなことを許されるのかどうかも。けれど、ここまで刀剣男士を追いつめるような真似をしてでも師の命に従っては、審神者は審神者らしくはいられないと、そう思ったのである。
「断るから――それがお師匠様からの命であっても、必ず、断るから。だからお前は、婚約をまとめなくてもいいんだ」
そして祈るように、審神者は長谷部の手を己の額まで引き寄せた。
「……もう、このようなことはするな」
「……主…」
今度は審神者の方が泣きそうな声をしていたような気がする。長谷部は審神者の手から自分の手を引こうとしたものの、審神者はそれを許さなかった。逃げるように思えたその動きが、長谷部がまた自傷してしまうのではないかと、そう思わせたからだった。
「……貴方を困らせるような真似はもうしません。どうかこの手を……」
「僕が困るから言っているわけではない……これ以上、お前が、お前を責めてしまうことが嫌なんだ」
審神者の言葉に、長谷部はぎゅっと唇を噛みしめた。
「ですが俺は……」
言い掛けた言葉はあったはず。けれど、長谷部はそれ以上何も言わずにいた。また自分の中に感情を押さえ込んでいるのと気づき、審神者は眉間にしわを寄せて、そのまま、長谷部の胸に頭を預けるようにもたれかかった。手は握ったまま、額を浴衣越しにすりよせて。
(何を言えばいい……?)
長谷部に我慢しなくて良いといえばいいのだろうか。けれど、ここで長谷部が審神者に告白してきたところで、審神者から返す返事は他の刀剣男士に向けたものと変わらない。何をやったところで、審神者が長谷部を選ぶことなどない。
ここまで追いつめられた長谷部の気を楽にできる言葉とは一体なんだろうか。
「……僕は女人を娶らない。それに、もしも他の刀剣男士の気持ちに応えることがあれば、お前に全てをと言った気持ちに偽りはない。だから、お前が失うものなどない。そこまで思い詰めるような必要なんてないんだよ」
結局、口に出来たのはそのような言葉であった。長谷部との約束を違えることのない今、結局は誰のものにもならないか長谷部のものになるか、その二択しかないわけで。そう考えれば長谷部の立ち位置はある意味――……
「――それが何だと言うんですか」
そう言われ、審神者は目を丸くした。長谷部の言葉に、どうしても疑問を覚えざるを得なかったのである。
「っ……? 長谷部、これはお前が……」
言い出したことなのだが。と、審神者が付け加える前に、長谷部が審神者の手を静かに払う。そしてそのまま審神者の腰を抱くと、強く抱き寄せて言った。
「仮に誰かを選んだ貴方を手に入れて、それで、一体何が満たされるんですか。俺のものになった貴方の中に――既に他のやつがいるというのに! そんな貴方を手に入れたところで、俺が貴方に愛されることなど生涯ないじゃないですか……!」
「長谷部……」
審神者は困ったように眉を下げて、言葉に詰まってしまう。
(その条件を出したのはお前じゃないのか……)
何故今更になってそんなことを言い出すのかと。審神者は釈然としないままである。自分で出した条件に自分で文句を言っている長谷部に、審神者は一体どんな言葉をかければいいのかと、そんなことを考えている。長谷部をここに連れてきた時とは、また違う心持ちである。
「……うん。なら、取り下げるか……?」
「……はい?」
刀剣男士と適切な距離を保つ良き審神者であってほしい――それが出来ずに、刀剣男士と深い関係を審神者が築くというのであればその時は自分が――という話だった気がするのだ、長谷部との約束は。
すぐに圧される己が未だ陥落されていない理由の中には、長谷部との約束があったからということも含まれているだろう。だが、審神者の方からその約束を強いたことはなく。いっそここまで思いつめるというのであれば、とそんなことを考えての発言であった。
「他の刀剣男士を選んだときは――という約束は取り下げて、他の刀のように僕に迫って口説いておけば、後々悔やむこともなくなるのではないだろうかと……そう、思って」
とんでもないことを己が口走っていることは全て自覚しているが、審神者には他に思いつく案がなかった。審神者は長谷部を知らず知らずの間に振り回しているというが、長谷部は長谷部で全て自分の中に閉じこめてしまう性質を持っているのだから、審神者が迂闊を口にするくらいが丁度良いのではないかと、そんなことを考えてしまう。
「〜〜ですから貴方は、ご自分が何を言っているのか自覚が――…」
「ある。自覚している。自分でも、どうかとは思っているんだ」
だが、と付け加えて、審神者は長谷部の背中に腕を回して、きつくきつく抱きしめた。ともすれば長谷部が痛い、苦しいと訴えてくるのではないかと思うくらいに。
「けれど、お前が思い詰めるよりマシだろう。お前だって言っていたじゃないか。僕にその……伝えたかったと……」
また妙なことを口走っている、と。そう判断した長谷部が審神者を突き飛ばす可能性もあった。けれど、長谷部もここまで自分の心情を吐露しては、そこまですることが出来なかったらしい。
審神者は長谷部の心臓の音に耳を澄ますように、耳を胸に押し当てた。
「なら、お前の気持ちを全て教えて欲しい」
その気持ちに応えるかどうかはまた別の話だが、審神者はそう口にした。審神者がそう付け加えると、長谷部の心臓は一際うるさくなり、言葉では出さない長谷部の感情がより分かりやすく伝わってくる。
「どうせ、この一月の間だけのことだ。悔いがないように、お前も全力でくるといい。だからな――……」
ここまでくると、もはや開き直りの域である。
言っている方も辱められているようなものだと思わないではなかったが、今はその感情を心の隅に追いやっておく。照れたら負けである。
審神者は少しだけ長谷部から顔をはなし、背に回していた手を引いて――そのまま長谷部の顔を包む込むように挟んで言った。
「……――あ、愛しているなら、ちゃんと言え…」
いっそ誰か殺してくれと、そう思った。言葉に詰まって、すらすらと言えなかったことが羞恥に拍車をかけていく。
それはそれで悲しくはあるが、こんな傲慢な態度に長谷部が幻滅し、熱も冷めてくれたらいうことはない。けれど、そうはならないだろうと、審神者は薄々分かっていた。
審神者の幸せのために。そう口にしてはいたものの、長谷部はここに来てから、来る前からずっと審神者に好意を向けていた。他の刀剣男士を選ばなければ何もしないという言葉を守ってくれようとはしていただろうが、危ない瞬間は何度もあったわけで。
「――ッ……!」
頬に、性急な動きで手のひらが触れてくる。愛しそうに撫でられた手のひらは、どこか感触が違っている部分があった。審神者はそれを血が乾いてしまった後なのだと、頭の片隅で冷静に考えた。
上から真っ直ぐとのぞき込んでくる瞳から、理性の色が徐々に薄れていく。それに伴い、警鐘は審神者の中でどんどん大きな音を立てていった。
(要らぬことをした……)
自覚があるだけに、もう何を言っても長谷部に届いてくれるかどうか分からなかった。
だが、これでもう、長谷部は我慢をしなくて良いと思った。何もかも自分の中に仕舞う必要などないというのに、元来責任感のある長谷部は簡単に自分で自分の首を絞めていってしまうから。
審神者はそれが嫌だった。おそらくこれからろくな目に遭わないだろうことを理解していても、今のままで長谷部を放ってはおけなかった。
くしゃりと、長谷部の表情が崩れていく。
「――俺は、俺は貴方を……貴方が俺の主だから、愛しているわけではありません……」
「……? それは……」
だが予想していた類の言葉は続かず、審神者は呆気にとられてしまう。少し置いて、道中己が告げた言葉を思い出す。審神者と刀剣男士としての縁が繋がっている状態でなくとも、己を好きになったのかと、そう問いかけた――その話と繋がっているのだろう。
「あれからずっと考えていました……俺はただ、貴方が主になったから好いているだけなのだろうかと……」
審神者の頬を撫でる手に力がこもる。審神者は己の迂闊な発言を思い出し、そうして顔から血の気が引いていくのを感じ取った。
「……お前を困らせたかったわけではないんだ。どうか忘れてくれ」
「忘れられるわけがないでしょう。……俺があの時はっきりと言えなかったから、貴方にあのような表情をさせてしまったんです」
「……確かに、ずっと疑問であったが……そんな大袈裟に捉えなくても……」
審神者は困惑を隠せないままそう口にする。
「ですが貴方は、ずっと気にしていたのでしょう? 主でなければ好きになってもらえないと。貴方は今日もそうやって弟弟子のことを引き合いに出して、自分に価値はないと、何度もそう伝えようとしていたように思います」
「……それは……」
言われてみれば、思い当たる節はあるもので。そのつもりがあろうとなかろうと、図星をつかれては返す言葉をなくしたようなものだった。
口を閉ざし、審神者は手を下ろすと、そのまま持て余すように浴衣を掴んでしまっていた。
「気にしている、というほどでもないのだけれど……いや、まあ……それは前提としてあるのだと……そう理解はしているから……」
そこまで気にしていたのかと指摘されてしまえば気まずくなるもので。目を逸らしかけたものの、頬を挟まれていてはそれも難しく、視線をすぐに長谷部に戻されてしまう。
「……だって、実際はそうだろう……お前も納得していたはずだ」
震える声で告げれば、長谷部からの視線が鋭くなった。
「……確かにそうかもしれません。あくまで、きっかけは」
すり、と頬が撫でられ、審神者は逃げるように、距離をとるように長谷部の胸に手を当てる。すると、浴衣越しでも分かるほどの熱が手から伝わってきた。
「貴方が主だからこそ興味を持った。もっとそばに行きたいと、もっと貴方に触れたいと思ったのは、貴方が俺の主となったからです。そうでなければ、俺は貴方に進んで近寄ろうと思わなかったでしょう」
「………ああ、そうだろうな」
知っていることだ。今更直接長谷部に言われたからといってなんということもない事実でもある。分かっていても、その続きを聞くことは、審神者にとっては億劫に思えることだった。
けれどその審神者の心情を理解した上でなのか、決して長谷部は審神者から目を逸らすようなことはしなかった。
「――…貴方にとっては、その事実が受け入れられないのでしょう? 触れられることは嫌ではなく、何をされても構わないと思いながら、それでも誰も選ぼうとしない理由はただそれだけのはずです」
嫌な感じがした。嫌な風に心臓がうるさくなって、眉を寄せる。
「馬鹿を言うな……そんな理由で……」
言い掛けた言葉は、誰に邪魔をされたわけでもなく、審神者自身の気持ちで閉じこめられる。沈黙した審神者に、長谷部は睨みつけるように眼光を鋭くし、そしてそのまま審神者の体を抱き抱えて歩いていく。
まるで幼児を抱くように、尻の下に腕を入れて片腕であっさりと抱え上げられた審神者といえば、驚くばかりである。
「っ……何を、」
「大人しくしていて下さい」
そうやって奥の部屋に連れて行かれると、壁際でその身を下ろされた。乱暴ではなく、慈しむような優しい所作ではあったが、急にそんなことをされては困惑を隠せないというもので。
「……自分で歩ける。言ってさえくれれば僕は――」
「俺が、こうしたかったんです」
審神者を睨みつけるような眼光は変わらず。けれど触れ方は驚くほど優しかった。指先で審神者の唇を閉ざし、そのまま顎を持ち上げるようにして顔をのぞき込んできた長谷部は、静かに目を細めた。
「俺が貴方に惹かれたのは、貴方が俺の主だったからですよ」
そしてそう断言された言葉に、審神者は氷ついたような感覚を受けた。
「それだけは間違いなく――縁が繋がっていない状態で貴方とすれ違ったとしても、俺が貴方に目を奪われることなどありません」
それは審神者が散々長谷部に言ってきたことであった。にも関わらず、審神者はその長谷部の言葉に衝撃を受け、まるで傷ついたかのように、くしゃりと表情は崩れていく。
「……だろう、な」
長谷部から嘘偽りない言葉。間違いなど何一つとしてなく、審神者が傷つくなどお門違いというものなのに。
「けれど、それは貴方にとっても同じことでしょう」
ふと、審神者は長谷部を見た。
「貴方がへし切長谷部という刀を顕現していない状態で、例えば多くの俺が並んでいたとして――貴方は、今ここにいる俺を捜し当てることができますか? できないでしょう? 顕現していない以上――元より、俺のことなど知りはしないのだから。好きになりようがない」
そうして、続けられる。
「貴方が俺の主となったから、貴方は俺の特別なんです」
顎に添えられていた指が離れ、長谷部がすっきりしたような表情を浮かべる。そうして審神者から距離を置くと、正座をして背筋を伸ばし、そうして口を開いて言った。
「――とはいえ、主なら誰でも見境なく好意を持つわけではありません。あの弟弟子のところの俺を見れば分かることでしょうが――忠心と恋慕は全くの別物です! ……ああ、ようやくすっきりしました。これでようやく、俺も正直に気持ちを伝えられるというものです」
きちんと座ることも出来ないまま、呆然と長谷部を見上げている審神者の姿が面白いのか、長谷部は小さく笑った。
「……何を驚いているんですか? 俺が引くとでも思いましたか? 主だから好きになったのなら意味がないと言うとでも?」
長谷部が手を伸ばす。審神者はよく状況を理解できぬままに、そっとその手に己の手を重ねていた。
「……そういう話かと思った」
「愚かですね。まだ俺の気持ちを見くびっている」
「そんなつもりは……」
審神者も長谷部を真似るようにきちんと座り直し、もごもごと口を閉ざしてしまう。
あの時、自分の感情を自分の中に閉じこめて感情を殺そうともがいていた長谷部は、もうそこにはいなかった。まるで審神者の全く知らない長谷部がそこにいるようで。審神者はどぎまぎと、視線を逸らしてしまう。
「俺が貴方を好きになったのは貴方が主だったから――けれど、貴方はこうもいいましたね。きっかけはそうでも、貴方に向ける好意は紛い物ではないと」
ぎくりと、審神者の背筋が小さく震えた。
確かに審神者が長谷部に言ったことではあったが、今はただ己の首が締まる思いだった。
「俺は貴方の短所をよくよく理解しています。貴方は軽率に俺を振り回し、誰にでも色目を使い、すぐ誰それに絆されようとして! おかげで俺はいつもやきもきして――……目を逸らさない! きちんと目を見て話をして下さい!」
「っ……す、すまない……」
気まずくて見れないが、長谷部のいうことは至って正論である。
おそるおそる、審神者は顔を上げて長谷部を見た。
「っ……」
そうして目があった瞬間に、長谷部が柔らかく微笑んでいるものだったから、審神者はすっかり言葉を失ってしまった。この部屋に入ったときと立場がまるっきり入れ替わっているようで、審神者はすっかり長谷部の調子に乗せられている。
「――……俺は、貴方を愛しています」
だから、だろうか。
たったその一言で、何故だろう、審神者は泣いてしまいたくなった。その理由は審神者にもよく分からない。驚いているのか傷ついているのか、なただ泣きたかったのか、はたまた嬉しかったのか。
分からないまま、静かに滲んだ涙を拭ったのは、長谷部の指だった。そのまま引き寄せられるように抱きしめられて、審神者は静かに目を閉じる。
(また泣いてしまった……)
何を考えるでもなく、そんなことを思いながら。審神者はただ控えめに長谷部の服を掴んで、肩の力を抜いた。
「あの日を覚えていますか? 貴方が俺を呼び出して、酒を飲もうと誘ってきたあの日の夜を」
「……覚えている。お前が夜伽に呼ばれたと思いこんで……馬鹿なことをした……」
「っ……そういう目的かと思ったんです。決して俺が主に邪な思いを抱いていたわけではありません」
どうだか、と審神者は思う。あの時は忠心が勘違いのせいで暴走したと思っていたが、今思うと、本当にそうだったかどうかは怪しいところである。
「……僕はただ、お前と話をしたかっただけなのに……本当に手が早い奴だ。長谷部、お前は」
「……その説は、申し訳ありませんでした」
困ったような声で謝罪して、けれどくすりと笑みをこぼす。長谷部は審神者の頭を撫でて、続けた。
「あの日俺は確かに、貴方の役に立ちたい、必要とされたいと思う一心で暴走してしまいました。それは認めます」
静かに、審神者は目を細めた。
「あの日から貴方を意識してしまったのも事実です。けれど、貴方を好きなのだと思ったのは、それが理由ではありませんでした」
「……理由?」
「はい。理由というほどのものではありませんが……けれど俺が惹かれたのは、きっと俺の知らなかった、想像していなかった貴方の姿の方だと思います」
訳がわからない。そう思った審神者は、少しだけ長谷部から身を離し、その顔を見上げる。何を言っているのか顔を見れば分かるかと思ったが、長谷部はなんでもないような顔で微笑んでいるだけで、その言葉の意図は全く分からない。
「俺は貴方を、清廉潔白な方だと思っていました。甘えを嫌い、節度と礼節を重んじて、誰であろうと毅然とする方であると。戦ごとでしか貴方と関われない間、俺はずっとそんな貴方のことを想像しては、いつかお役に立てる時がくるまで精進しようと思っていたので」
すっと、頬を指先で撫でられる。まるで愛玩動物を愛でるときのような触れ方に、審神者はくすぐったさを覚えた。
「ですが実際に話して、俺が不用意に触れた後の貴方は――俺の想像していた姿と随分と違いました。菩薩のように何でも許すかと思えば、強く怒りを見せることもありましたし――年端のいかぬ童のように不機嫌になることも、悪戯しては無邪気に笑う様も、俺の想像とはあまりにかけ離れていて――……」
「そこまで酷くない……だろう? 僕は最低限、きちんとした対応を……」
「審神者としては、主は完璧ですよ。ですがそれ以外は――……」
何という言い様だろうか。審神者はなんともいえない複雑そうな表情で、静かに眉を潜めた。
「――前々から思ってはいたが……お前は本当に僕のことを好いているのか? お前の気持ちを疑っているわけではないが……ただ、その、お前は趣味が悪いのではないか……? 不完全な相手を何故好むんだ」
長谷部は、審神者の短所をやたらと上げ連ねるところがある。それ自体に怒りといったような感情は感じないが、やはり疑問ばかりが審神者には残るのだ。こればかりは何度否定されても、疑問に思ってしまうところであった。
「……かもしれませんね。世間では、駄目なところを多く持つ相手に惹かれるケースもあるそうです。この駄目な人には自分がついていなければ――と比較的真面目で世話焼きの人物が、よく引っかかるそうで……」
「お前のことじゃないか……」
複雑な面もちで呟く。それならば納得がいくものの――妙な納得の仕方をしてしまったと、審神者は肩を落として悲壮な声で口を開いた。
「相手は何から何まではっきりしない男だぞ。断言する。お前は絶対に苦労する。引っかからずにいた方が幸せだぞ、長谷部。手を引いた方が良い」
「嫌です。俺か貴方の最期まで添い遂げるつもりです」
「っ……お前、先との態度が違いすぎるだろう……」
間髪入れずにそう言われて、たじろぐ。
「貴方が我慢するなと言いました」
「うっ……それはそうだが……」
あの涙目で震えていた長谷部は一体この短時間の間にどこに消えてしまったのだろうか。
「……完璧だから好きになるわけではありません。反対に、不完全だから好きになるわけでも。貴方に惹かれる明確な理由なんて、正直なところないんですよ」
真っ直ぐと向けられる視線に、迷いは一切なかった。
「俺はただ、ころころと表情を変える貴方を、一番近くで見ていたいだけです」
その真っ直ぐな視線がまぶしくて、審神者は長谷部から離れようと身を起こし逃げようとする――が、すぐに捕まった。というより、壁際に追いつめるように、長谷部が両手を審神者の両側についてしまった。
両側のどちらにも逃げられないと気づいた時には、既に長谷部は審神者のすぐ目の前にまで移動してきていた。
「目は逸らさない。礼儀ですよ」
じわじわと熱くなる頬に気づかれたくない。目をそらそうとした審神者だったが、そう言われたことで、逃げ道を塞がれてしまう。礼儀を、と説かれてしまえば、審神者が抵抗出来るわけもない。すっかり見透かされていて、手のひらで踊らされているような気分だった。
「っ……」
「はい、そうです。よく出来ました」
「子供扱いをするな……」
恨みがましく言うが、長谷部は楽しそうに笑うばかりだった。
そうして、そっと、審神者の浴衣の衿から割り込むように手のひらが入ってくる。
「な、何を……」
直に地肌に触れられる感覚に慣れず、体が小さく震えた。すす…と浴衣の中に入った手が降りていくと、審神者の声も意図せず震えていく。
これは間違いなく――そういう意図をもって触れているのだと、そう思わざるを得ない触り方であった。
「こういうことは……長谷部、こまる……」
確かに、審神者はこの部屋で長谷部を相手に犯してもいいと言った。あの時は半ば自暴自棄であったわけであるが、今となっては頭も大分冷えているわけで。前科があるだけにきっぱりと拒絶できない己が恨めしい。軽々しく口にするなと言った長谷部の意図は、こういう状況下を想定してのことかもしれない。
その相手がやはり長谷部であるというところが救われないが。
「……そういうこととは? 何を想像しているんですか?」
やんわりと長谷部の胸を押しながら(といっても効果はないに等しかったが)そう口にした審神者を、長谷部はからかうように笑った。長谷部の手のひらは審神者の丁度心臓の上で止まり、そこから移動しようとはしない。
「ふっ――確かに、こちらの音の方が分かりやすいですね。貴方は素直ではないから、此方の方がお喋りなのかもしれません」
その言葉でようやく長谷部の行動の意図に気づいた審神者は、己が無自覚に想像していた事態を想像して、羞恥に頬を染めた。首より上――どころか、体全体が熱くなったような気がする。
「あ……」
このような辱めは初めてだと、怒りや羞恥が混ざり合った感情に、涙目になってしまった。
「っ〜〜ちがう、僕はただ……」
「なんですか? 俺が貴方を犯そうとしているとでも? それが貴方の望みなら――」
「望んでない!」
「そうですか。ああ、また鼓動が速くなりましたね」
くすっと笑い、長谷部は審神者の心臓の上に触れたまま、ゆっくりと顔を近づけてきた。審神者は後ろに逃げようとするも、すぐに壁に当たり、それ以上は逃げられなくなってしまった。
胸に触れている手のおかげで逃げる範囲は出来たはずではあるが、長谷部の余裕を含んだ表情を警戒して行動に移せない。
「……確かに我慢しなくて良いと言ったのは僕だが……いくら何でも……」
「今の俺は、気に入りませんか? また少し前のように、貴方のために自分を押し殺した方がいいと?」
「そんなことはない! そんなことはないが……」
ドクドクと心臓が慌ただしく動いていることは、審神者自身よく理解している。この音を聞かれているのだと思えば、妙な恥ずかしさばかりが先行する。
「……なんですか?」
審神者の言葉の続きを急かすように言う長谷部の声は軽やかで。散々振り回されている己にとってはいたたまれない空気ばかりが周りに満ちていく。
「……どうすればいいのか分からなくなるから……その……やはり手加減はしてほしい……」
手始めにこの体勢をどうにかしてほしい。そんな願いを込めてそう告げた審神者に、長谷部はきょとんとした後――更に距離を詰めてきた。ぎょっとしたのは審神者の方であり、慌てて長谷部の胸を押す。
「話、話をちゃんと聞いていたか!?」
「……聞いていました」
「だったら何故…! 僕は離れてくれと、そう言っているんだぞ……」
「優しく触れれば良いということでしょう?」
「言ってない!」
理解力がないわけではないだろう。おそらくは、理解する気がそもそもないだけである。
「都合の良いように受け取る耳だなっ!」
「いいえ。今のは貴方の言い方は悪いです。今のは誰が聞いても煽り文句ですよ」
「っ……馬鹿をいうな…そんなわけが……」
引き離そうと腕を突っ張り棒の如く延ばそうとする審神者と、構わず近くに寄ろうとする長谷部。当然分があるのは長谷部であり、すぐ目の前に、長谷部の顔が迫ってくる。鼻先が触れそうな距離で、長谷部は悪戯に笑った。
「……相手が俺であっても、意識はして下さるんですね?」
なぞるように胸を撫でて、吐息がこぼれた審神者に、長谷部は本当に嬉しそうにしている。場の雰囲気に伴っているとはいえないような――いっそ無垢にさえ思えるような表情に、審神者はくらくらとしてしまいそうになる。
「……し、してない……」
逃げるように壁に背を強く押しつけ、震える唇で必死で言葉を探し、けれどそれはかなわず、出てきたのは強がりのような言葉だけである。
けれどすぐにその嘘は見抜かれ、今度は壁についていた手が審神者の腰に回り、強く引かれてしまう。それと同時に今度はくすぐるように胸を撫でられ、反射的に身をよじった。
「また、鼓動が速くなりましたね。――面白いですね。とても、分かりやすい」
審神者の言葉など気にもとめていないらしい。まさかあの時の審神者の行いをそのまま返してくるとは思っていなかった。
「っ〜〜!」
審神者はたまらなくなって、恨めしげに長谷部を睨みつける。けれどこのような状態で睨みが効果をもたらすわけもない。ただそのまま、今にも唇が重なってしまいそうな距離で、ぴたりと長谷部は動きを止める。
「――……触れてもいいですか?」
そうして今度は、切なさを帯びた瞳が懇願する。しっとりした声にぞくぞくと背中が粟立って、審神者はぐっと言葉に詰まった。文句を言いたかったはずの唇が、何も言えないまま震えている。
良い、などというわけがない。許すものか。
審神者の心は変わらない。確かに、長谷部に振り回され、気持ちを乱されていることは間違いない。それは認める。けれど、だからといってこの場で長谷部を選ぶようなことはない。
(ない――けれど、どうしよう……なんと言えばいいのか……)
嫌だ、触れるなと言えばいい。そんなことは分かっている。分かっているのに、返事に詰まってしまう理由とは一体何なのだろう。そんなことをぼんやりと考え、審神者はせめてもの抵抗にとでも考えたのだろうか、長谷部の胸元にあった手で、強く長谷部の浴衣を握りしめた。
「――…… 」
それでも何かを、と足掻こうとした唇からは、何の言葉も出てこなかった。ただただ、己の心臓の音ばかりがうるさいような、そんな気がしただけだ。
ふと、審神者は手のひらで、長谷部の心臓を探して触れる。浴衣の袴から審神者が手のひらを差し込んだとき、ぴくりと長谷部の体が動いたことを感じ取った。けれど長谷部はそれについては何も触れず、ただじっと審神者の返事を待っていた。
「――…熱い」
音を聞くよりも先に、そんな言葉をこぼす。それを聞いて、長谷部は喉の奥で小さく笑った。更に距離を縮めるように腰を引く手に力を込めながら。
「貴方もですよ。浴衣越しでも分かるほど熱くて、溶けてしまいそうです」
「そこまでじゃない……」
「いいえ、本当ですよ」
そんな冗談に顔をしかめて、けれどすぐにその表情は引っ込んだ。
手のひらから伝わる心音に意識を持って行かれたからである。その音は審神者に負けず劣らず忙しなくて、審神者はごくりと唾を飲みこんだ。
「……本気か?」
気付けば、そんなことを問いかけていた。今更、という気がしないでもなかったが、長谷部は気を悪くした様子もなく、唇を緩ませていた。
「はい。今までも、これからも。ずっとそうです」
きゅうと、胸の奥で何かが詰まったようだった。審神者はそれを堪えるように唇を綴じ合わせた。
言葉でいくらなんと言おうとも、心臓の音は嘘をつかない。それは審神者が言ったことで、長谷部が審神者に向ける感情も嘘偽りではないと、そう言ったのも審神者であった。
長谷部の心臓が奏でる音が、その返事以上に審神者に想いを告げている。
「………そう、か」
正直に言うのであれば、審神者は今長谷部にこれ以上触れられることを良しとは思わなかった。けれど、そうなっても構わないと、そういった思いがあることは間違いがなかった。
いっそ審神者の返事など待たずに、長谷部が強引でも触れたのであれば構わなかったのだが、長谷部はそうしようとしなかった。
他の刀剣男士と向き合ったときとは違う。どこまでも、長谷部は審神者からの許しの言葉を待っていた。
「……時間を、くれ」
掠れていた声は、審神者の気持ちの表れだったのかもしれない。拒絶できないまま、受け入れることもせず。誰も選ばないといいながらそんな返事をする己には、不可解だと思う。自分のことであるのに、何をしたいというのだろう。
「お前のことも、ちゃんと考えるから……だから今は、もう許してほしい……」
「……許す、ですか。俺は、貴方を責めているわけではありません。貴方が嫌と言えば、それ以上は何もしませんよ」
少しだけ、むっとしたような様を見せる。
長谷部を愚弄するつもりなどなかった審神者は若干の焦りをのせ、慌てて口を開く。
「……嫌じゃないんだ。嫌じゃないから、やめてほしいだけで……」
決して責めるようなつもりはなかったが、そう聞こえてしまったのなら己の言い方が問題であったのだと、審神者は必死で言葉を選び、その言葉を吟味する時間も勿体ないと、続けて口を開いていく。
「恥ずかしくて、どうにかなりそうなんだ……お前を責めているわけでは……」
長谷部の胸から手を離し、今度は己の顔を隠してしまおうとする。
完全に主導権が長谷部にある状態でいつまでもいれば、審神者も何を口走るか分かったものではなかった。
「……貴方は本当に……」
くっと喉をならし、長谷部はそう呟いた。そうして長谷部は審神者から体を解放して――少しの時間を置くと、完全に視界を遮るように顔を隠した審神者を見下ろし、唾を飲んだ。
(茹でられているみたいだ……)
解放して貰えた安堵と、どうにかなってしまいそうな感情。審神者は今し方己が口にした言葉を振り返る余裕もなく、そんなことを考えた。
息をつく音と、審神者の体から少しだけ遠ざかる気配。審神者はそれを察したものの、顔を出す気にはなれずにいた。ただ体に力も入らず壁に全体重をかけたまま、なんとか平静を保てるようにと呼吸を整えいるだけである。
「――いいですよ。元より、これ以上は公平ではないと思ってはいましたから」
そう聞こえ、審神者二、三呼吸を繰り返した後、おずおずと顔を隠していた手を下ろす。そこでは、密接とまではいかないものの、長谷部はまだ審神者の近くに座っていた。長谷部が薄く笑って、けれど、真剣な眼差しを審神者に向けている。
「公平……?」
何をさして言っているのか分からず、童のように同じ言葉を繰り返した審神者に、長谷部は手を差し出した。はじめはその意図が分からなかったが、その手が審神者の手をつかまえたことでようやく察することができた。
審神者はされるがまま長谷部に手を引かれ、背をのばす。壁に体重をかけることをやめて、きちんと座り直したのだった。
「……貴方が刀剣男士の中の誰かを選んだのであれば、その時は俺が貴方を貰い受けるという約束でした。その代わり、俺は貴方には手を出さないと――……なら、ここで俺が貴方に迫ることは許されない不義理かと」
「それは……今更ではないのか……」
「ええ。貴方がやたらと他の刀に体を許すので、仕方なしに、俺が手を出すこともありました」
「……お前も随分と我が強いな……」
審神者の立場から物申したいことなら山ほどあった。けれど、たったそれだけの言葉で済ましたのは、そこが話の焦点ではなかったからである。
「何とでも言って下さい。迷いのなくなった俺には、痛くも痒くもありません。ですから、もう我慢もしません。貴方を本丸に送り届けた後は、俺も貴方に正直な気持ちを伝えて――その答えも貰います」
話を己の中でまとめる。
「――あの約束も元々は、俺が一方的にさせたようなものです。ですから、本丸に戻った後はあの約束を撤回します。そして他の刀と同じように、俺も、悔いが残らぬように貴方に気持ちの全てを伝えます」
概ね審神者がまとめていた内容と同じことを、長谷部が宣言する。予測は出来ていたとはいえ、こうも直接的に言われると言葉を失ってしまう。
「それは……僕が仮に他の刀剣男士を選べば、お前は身を引くことになるということだよ。制約がなければ、お前は……」
「――覚悟の上です」
今度は、へらりと笑った。それは、あまりに様々な感情が入り乱れているような笑顔だった。喜びも不安も、全てをひっくるめて、それでも長谷部は覚悟を決めたのだろうことを、審神者はひしひしと感じとっていた。
「それでも俺は、貴方に俺を選んでほしいんです。約束だから仕方なく、ではなく、俺が良いと貴方に言わせたい」
「俺も、あいつらのことを悪く言えませんね」と続けて、長谷部は審神者の手を優しく包み込んで、そして静かに目を細めたのだった。
「貴方も、覚悟を決めて下さいね。本気になった俺は、もう加減はしませんから」
いつの間にか不適なものに姿を変えた笑みに、審神者はきゅっと唇を噛みしめる。長谷部はこのような冗談は口にしない。大真面目に、これを宣言しているのである。それが何を意味しているのか分からないほど審神者は愚かではなく、今し方簡単に手玉にとられていた己の姿に、籠絡されてしまいそうな己の未来の気配をひしひしと感じていたのだった。
じわじわと熱くなる顔を隠す手は長谷部に捕らわれていて、審神者はただただ無様を晒してしまうこととなったのである。
――その後食した豪勢な料理の味も、余裕をなくした審神者の舌ではよく分からず――そんな審神者の様子を見て、長谷部は終始楽しそうに微笑んでいたのだった。
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