進む度、ふと、まるでこの道を使っていたのがつい最近だったように思う。ここ一年は、通ることもなかった道であるというのに。
(また、この道をたどることになるとは……)
なつかしいような、そうでもないような。そんな思いを馳せながら、審神者は斜め後方へと目を向けた。目のあった相手は、静かに審神者の言葉を待っていた。
「――長谷部。私から離れないように。危険はないが、はぐれてしまえば迷う可能性はある」
そうして、念を押すように口を開く。
これから向かうのは、幼い頃から審神者が学び育った場所である。先日師から呼び出しを受けた審神者は、指定された通りに護衛の刀を一振り連れて、そこへ向かっていたところだった。
「迷うような道には思えませんが……」
「一見はな。だが、迷わせるように出来ている」
審神者の連れてきた護衛――へし切長谷部は、微かに怪訝な表情を浮かべていた。見通しの良い道を前に、それは至極当然の疑問であった。
[chapter:審神者は全て終わらせたいD]
先日、師から送られた指令。内容は、簡潔にいえばこうである。
――護衛を一振りつれて、かつての学びやにくること。
たったそれだけ。詳細といえるような情報は何も開示されていなかった。故に審神者は、現地で直接対面して話さなければいけないことがあるのだろうと、そう推測した。だからこそいくつか浮かんだ疑問も飲み込み、全ては現地で解決するだろうと見込んで従うことに決めたのである。
そして、それが今に至る。
(しかし……何故お師匠様は長谷部を護衛に指定したのだろう……?)
最初は、護衛を一振りとされていただけで、刀種さえも指定されていなかった。けれど数時間を置いて――新たに追加の指令がおりてきたのである。‘尚、護衛の任にはへし切長谷部を優先的につけるように’と。審神者は意図の読めぬその指令を疑問に思いながらも、受け入れた。断る理由はなかった。
「長谷部。今更だが――面倒をかけてすまない。お師匠様との話が済めば、なるべく早くお前を本丸に返すから、辛抱してくれ」
誰が審神者の護衛としてつくか、という件については、正直揉めたのだ。故に長谷部が指定された時、審神者は安堵したものだった。長谷部は自身が護衛に指定されたことに驚いていたものの、首を縦に振ってくれた。嬉しそう、というようには見えなかった。戸惑いの方が遙かに大きい、そんな反応だ。
それもそのはず。このような突飛な話、何か裏があるのではと考えることが自然だ。審神者とて、引っかかる部分がないとはいえない。
「どうかお気になさらず。俺は、主のために尽くすことが出来れば本望です。面倒などとは思いません」
その言葉は嘘ではないのだろう。長谷部は静かに微笑み、そう答えた。長谷部が審神者に想いを寄せているという前提さえなければ、きっと審神者は深く考えることなく喜んだことだろう。護衛を頼んだことにやましいことは何もないのだが、審神者は己に向けられている感情を知っているが故に、少しの後ろめたさを感じてしまうのだ。
「なら、良いが……」
そう答える審神者は、なんとなく、長谷部から視線を外してしまう。
「ところで、先程主が仰っていたことですが――…迷わせるように出来ているとはどういうことでしょうか?」
小さな砂利を踏む音と共に進んでいきながら、審神者はああ、と呟いた。
「これから行くのは、将来審神者となる子供を育成するための場所だ。元々厳重に守られてはいたんだが、私の代で一度、外部の者の侵入を赦してしまったことがあってな。以降、足を踏み入れるためにはいくつかの手順が必要となった」
「あえて、この平坦な景観にしているということですか?」
「そうだ。お前は賢いな」
「っ……いえ、そんなことは……」
ふっと唇で弧を描く。
「だからこそ、お師匠様はお前を指定したのかもしれないな」
察しの良い相手だと説明も随分と楽なものだと、何故か審神者の方が誇らしい気持ちになってしまう。
「……主」
少しの沈黙を挟んで、長谷部が審神者を呼ぶ。その声のトーンが真面目なもののように思えて、審神者は足を止めた。雑談、というわけではなさそうだったからだ。そうして少し下から長谷部を見上げると、静かに言葉を待った。
目のあった長谷部はぐっと息をのみ、そして、迷うように視線を泳がせた。
「俺で、本当に良かったのでしょうか」
「? ……お師匠様がお前を指名したのだから、良いに決まっているだろう。むしろ、お前でなくては」
「いいえ、そういうことではなく……俺が、護衛であれ何であれ、貴方と二人になっても許されるのだろうかと……」
妙なことを言い出すものだと思ったものの、すぐに長谷部の意図に気づく。だが、それで納得もできず、むしろ何故そんなことを危惧するのだろうかと思ってしまう。
「……何の問題がある。私と二人は嫌か?」
「っ、違います。俺は、主の護衛として供を出来ることを光栄に思います」
「なら、構わないだろう。……僕に、何をしようと思っているわけではないのだから」
己に好意を向けられていることを前提とした台詞。薄ら寒い気持ちを覚えたが、審神者はそれを振り切るように淡々と言い切った。
そもそも、審神者が他の刀を選ばない限りは手は出さぬと口にしたのは長谷部の方である。ちょいちょい手を出されていたことはこの際置いておいて、審神者が長谷部を警戒する理由はないのである。
「私としては、お前とゆっくり話をする機会が出来て嬉しいよ。出来ればお前も、同じ気持ちならば良いのだが……」
他の刀を選べばこの身全てを捧げるという誓いはあるが、審神者は誰とも結ばれてはいない。故に、長谷部と深い関係になるといったことはありえないのである。
「……嬉しいですが、同じ、にはなれないでしょうね。主への気持ちは――……きっと、貴方が俺に向ける気持ちとは異なるものですから…」
悲しげに揺れた瞳に、審神者はどのように写っているのだろう。審神者は長谷部の言葉に苦い表情を浮かべ、遠慮がちに、長谷部の頬に手のひらを当てた。
「約束を違えるつもりはないよ。僕は、ちゃんとお前の物になる。他の刀を選べば、な」
そう告げても、長谷部は表情を変えない。むしろ一層、悲哀に表情は崩れていくのだ。これ以上何と言葉をかければよいというのか。審神者の困惑を余所に、静かに長谷部は話し始める。
「……嫌でも、耳に入ってくるのです。貴方の心が、どれだけ揺れているのか……移ろっているのか」
「それは……」
耳が痛い。心当たりがあるだけに、審神者は言い淀んでしまう。
「否定は、しないが……でも、選んではいないぞ……」
段々と語尾が小さくなっていき、最後の方など蚊が鳴くようなものであった。比例して責めるように長谷部からの視線が鋭くなり、審神者はいたたまれなさに肩を小さくすくめてしまう。
「情が移ったのではないですか」
ぴくりと指先が震え、審神者はとっさに手を引く。そのまま隠すようにおろした手は、袖に隠れて見えなくなった。震える唇から、審神者は絞り出すように言葉を吐き出した。
「……そうかもしれない」
手痛い指摘だ。すっかり見透かされてしまっている。居心地の悪い思いと共に、審神者は続ける。
「あんなにも真っ直ぐに気持ちをぶつけられては――それに応えたくなってしまう……正直に言えば、危うい、かもしれない」
過去にあった出来事を思い出しては、体温が上がり――ついには耳まで赤くなる。事実、審神者はもう何度か、選びかけてしまっているのだ。
審神者ではなく個人として、共に歩む未来を。
「――誰、ですか」
熱に浮かされてしまいそうな審神者とは裏腹に、実に冷え切った声で、長谷部が問う。審神者は数度の躊躇の末、熱を隠すように顔の半分を覆いながら、口を開いた。
「……その、全員に…だな」
「は?」
「いや、違うんだ。いや違わないが……その……」
慌てて口を開く。
「あんなにも想って貰えていると、知れば知るほど愛しくなって……ならばそれに応えたいと――……僕の持つ全てを渡したいと……そんな風に、感じてしまった」
みなくとも分かる。長谷部が審神者の爆弾発言に絶句していることは。審神者はその無言の叱咤を否定するように首を振る。
「だがその感情は特定の一振りを相手にしたものではないから、なんとか、もちこたえている。問題はない」
「問題しかありませんが……」
「心配するな。何とか持ちこたえるつもりだ」
じいと向けられる視線が訴えている。お前にはそれは不可能だと。審神者は痛いほどその主張を感じながら、視線を泳がせる。事実、審神者は師から緊急の指令としてこんのすけが乱入してこなければ、うっかりそのまま返事をしかねないところだった。
「……何度もいうが、お前との約束を破るつもりはない。もしも他の刀を選んだとしても、お前が望むなら、その時はお前のものに、ちゃんとなるから……」
もう開き直るしかないほどの尻軽具合である。審神者としては真剣に向き合った上の結果だとしても、己の情けなさにいたたまれなくなる。己でも思うのだ。矛盾と不純なこの感情で語る言葉は軽薄で勝手で、信頼に値するものではないと。故に、信じてくれとは、とても言えない。
見る勇気が湧いてこない。けれど、おそるおそる、審神者は長谷部の反応を伺う。
「――…… ですか」
「長谷部?」
聞き取れない音量で、けれど何か言葉を発したのだと理解する。視線を合わせた長谷部は眉間にしわを集めて、まるで納得できないとでもいうように、悔しそうに唇を引き結んでいた。
己の発言の問題も自覚しているが故に、どんな文句も言われて当然と思っている。けれど、いざ言われるとなれば構えるものだった。
長谷部は一度口を開きかけ、躊躇うようにまた口を閉じた。
まるで、口に出してはいけないと、自身に言い聞かせているようだった。
「――……想いの強さならば、俺が――……誰より貴方を慕って、愛しているんです。余所見など、しないで下さい」
途切れ途切れに言い直されたらしい言葉に、審神者は困り顔を浮かべる。どんな反応をすればいいのか、審神者にはもう判断がつかなかった。
「貴方の言葉はまるで信用ならない。きっと今に、他の刀を選んでしまう。それが分かっているから、気が気ではないんです。毎日、誰かに貴方が奪われることを想像して――俺は、どうにかなりそうです」
「……長谷部。すまない。お前を傷つけたいわけではない――が、言い訳にはならないな」
少し思案した後――そっと、審神者は長谷部との距離を詰めた。そしてそのまま、問いかける。
「なあ、長谷部。聞いても良いか?」
長谷部は返事をしなかった。けれど、その視線は審神者の言葉を待っている。
「もしも僕がお前の主でなかったとしたら――お前の縁が他の審神者と繋がっていたとしたら……お前は、それでも僕個人を好きになったか?」
その問いに、長谷部は小さく目を丸くした。審神者を真っ直ぐと見つめるその視線は、確かに揺れていたように思える。
「それは――……」
困らせてしまう質問だったと、審神者には自覚があった。
人の身に顕現した審神者と顕現された刀剣男士の繋がりは深いのだ。それこそ相性もあるのだろうが、刀剣男士にとっては非常に強固な従属関係が出来るほどに。
誰よりも審神者を愛しているといった長谷部にそんな問いかけをしてしまったのは、審神者がそれを疑問に感じてしまったからだ。そのままの、ありのままの己を好いているといった三振りにも、この問いは通ずるものかもしれない。とはいえ、このような直接的な問いをしたのは、長谷部相手が初めてだった。
「――あのな、長谷部」
一歩、長谷部に詰め寄る。
「僕には、弟がいるんだ。正確には弟弟子。血は繋がってないから、特別な絆は何もない。お前は知っているだろう?」
こぼれ落ちるように口から出てくる言葉は、考えていたものではなく。審神者の頭の中には、過去の弟弟子の姿だけがあった。
「はじめはな。弟も僕を兄様と呼んで、慕ってくれていたんだ。けれど時間が経つにつれて、態度が素っ気なくなってな――そして八が僕たちの元へやってきてからは……弟はアイツの方によく懐くようになった」
確実な好意など存在しない。最たる親愛を向ける相手は、随時変わる。より適した人物が現れたのなら、どれだけ長い年月を共にしていた相手がいたとしても、すぐに飽きられ、見限られる。それが人の感情であり、心である。
審神者はそれを知っていた。よくなつく、自分を慕ってくれていたようだった弟の態度は時が経つにつれて変化し、己よりも人間性が優れた相手を好み、選ぶようになったこと。たったそれだけのことだが、審神者はそのことを、何故かたまに思い出すのだ。好かれる必要はなく、助けを求めた弟を助けることが出来れば、兄としての使命は全うできるのだから構わないはずなのに。
それなのに、その事実が心のどこかで、ずっと尾を引いている。
(四摩は、アイツを慕っていた。審神者となった後も、八とは連絡をとりあっていたと言っていた。……だが僕に連絡を寄越したことなど、一度もなかった……ただの、一度も)
困ったときはいつだって、己の方に四摩は来た。けれど楽しそうに笑うのは、いつだって八のそばにいるときだ。
「……何を、仰りたいんですか」
呆然、としたような印象を受けた。頭でまとめて話しているわけではないため、審神者は己の話が分かりにくかったのだろうとすぐに思い直したが、言い直すことは中々に難しかった。
少しの沈黙を要し、そして、告げる。
「……僕は、それだけつまらない人間なんだ。長い年月を過ごしていても、代わりが見つかれば、すぐに切り捨てられるような……そんな、」
「俺はそんなことはしません。ありえません。貴方より優れた審神者がいれば、そちらに心変わりをするだろうと、そう言っているのでしょうが――……」
「違う。長谷部、そうじゃない」
胸に手を当てて、審神者は口を開く。
「もしも、誰に顕現されたわけでもなく、お前が数いる人間の中から自由に主を選べたとして――……それでも、お前は僕を選んだか? 僕でなければならない理由などないだろう? ただ僕がお前を顕現し、お前の主となっただけだ」
審神者にそう問われた長谷部は、審神者の言葉に時を止められてしまったかのように動かなかった。静かに揺れた瞳は審神者を捕らえているものの、小さく震える唇はそれ以上動くことをしなかった。
「いきなりこんなことを聞いてすまない。困らせてしまうことも分かっているんだが……だが、お前はどうして僕なんだ? お前は、主だから好きになったわけではないと言っただろう? なら、数ある人間の中で、僕との縁が繋がっていなくとも、僕を好いてくれたのか?」
「……貴方が、俺の主でなかったら…?」
「そんなわけがないと言うのだろうな。だが……だったら、どうしてと……思っただけだ」
じっと目が合っていることに耐えきれずに、審神者はそのまま目を伏せる。
「それは……」
そして長谷部から戸惑いを含んだ声を聞いたものの、そこから先の言葉は降りてくることもなく。審神者は自嘲するように眉をゆるめて、そして言った。
「……すまない。困らせてしまったな」
そのままくるりと背中を向けて歩いていく。既に審神者と刀剣男士として主従の関係が出来ている以上、このような問いをしたところで無駄であることには変わりがない。答えたいとどれだけ思っていたとしても、長谷部には答えようのない質問だと分かっているのに、審神者は聞いてしまった。
分かっていても、知りたいと思ってしまったから。
審神者は己が出した欲で、長谷部を困らせてしまったことを反省し、同時に残念にも思った。己のことを唯一だと言ってくれた長谷部なら、審神者の愚かな部分も好いてくれていると言ってくれた長谷部なら、何か答えをくれるのではないかと、そんな期待を抱いてしまったからだった。
「っ――待って下さい!」
腕を引かれ、審神者は振り返った。強く握られた指先は、審神者をこのまま行かせるつもりはないと、そう言っているようだった。
「……俺は……その……なんといえばよいのか分かりませんが、でも……」
懸命に審神者を見つめるその瞳には、焦燥以外の感情も確かに含まれているかのように思えた。審神者は己に向けられた視線に息をのみ、素直に足を止め、長谷部が続ける言葉を待った。
きっと、考えに考えを重ねて言ってくれるのだろう、長谷部の思いをただひたすらに待った。
「っ……少なくとも、俺はっ――」
「………」
「あ、貴方の顔は、好みだと思いますっ……! 貴方が、主でなくとも俺は――……」
それ以上は続かず、長谷部はぱくぱくと口を開いては閉じてを繰り返し、そして完全に唇を閉ざしてしまう。必死に紡いだ言葉を、吐き出す長谷部本人が信じ切れていないように思えたのだろう。審神者には、そのように思えた。
そして沈黙が流れると、審神者はふっと口角を吊り上げて、笑った。
「――……顔か。それは確かに、確実なものかもしれないな」
真剣な言葉で必死に練り出された言葉が意外で、でも、納得もしている。全く繋がりのない状態で好きになる要素があるとするのならば、それは外見以外にありえないからである。考えて出された答えだとするのであれば、一番的を射た意見かもしれない。
己は一体、どのような答えを長谷部に望んでいたというのだろうか。
審神者の反応が意外だったのか呆けている長谷部に、審神者は手を伸ばす。そのまま長谷部の両頬を手のひらで包んで、それから――ぎこちない笑みを向けた。笑っているようで笑えていない、そんな笑みを。
「だが、僕はいずれ老いる。この顔は崩れて、お前の好みから離れていく。そうなったとして、それでも――…お前は僕を好きでいてくれるのか? 主であること以外に、僕の外見以外に、お前は僕のどんなところを好いてくれる? 僕でなくてはならない理由は、僕がお前の主であること以外に、何かあるのか?」
そうして投げかけた問いの答えを聞かないまま、審神者は今度こそ長谷部に背中を向けて歩き出す。返事を待つ必要はない。なぜなら、審神者の言葉に、長谷部は苦渋を飲んだような表情を浮かべていたからだ。審神者の意地の悪い問いに、振り回されて、戸惑っていたからだ。
長谷部にとって答えられない問いであるのなら、審神者はそれ以上求めるつもりなどなかった。きっと、それが答えなのだ。
その証拠に、審神者の少し後ろを、遅れた足跡が追ってくる。追ってくるのはそれだけで、声がかけられることもない。審神者は、それ以上何も追求することなく歩き続けた。
[newpage]
似たような道が続く中、ほんの少しの目印を見つけたら、そのまま横にそれて歩き続ける。その、道と呼ぶには微妙なわき道を進めば、やがて池にたどり着くのだ。その池の中から顔を出しているいくつもの岩こそが、入り口への最後の道である。
気まずい沈黙を埋めるように、審神者はそんなことを説明しながら歩いていく。
「――面白いだろう? 決められた岩の上を踏んで、初めて中に入れる」
「……厳重ですね」
そう説明していると、背後の長谷部はそんな風にぽつりとつぶやいた。相づちではあるものの、どこか心あらずといったところだろうか。その理由を知っているが故に審神者は深くつっこめず、間を埋めるように話を続けてしまう。
「そうだな。ちなみに、失敗しても特になにもないが、失敗したことが速やかに中に通達される。逃げるにしても迎撃するにしても、初手を打てるということが大事で――……」
目的の池にいざたどり着いた、というとき、審神者は足を止めた。呆けているとはいえしかとそれに気づき、審神者にぶつかる前に足を止めた長谷部は、審神者の視線を素早く目で追った。
「おせえっ! なにチンタラやってんだ。待ちくたびれたぞ!」
そこにいたのは、全身ずぶぬれの男と、傍らで複雑そうな表情を浮かべている男。
「――何故お前がここにいる。八」
小さく目を見開き、眉間にしわを作る。間違いなく、弟弟子であった。弟弟子は手ぬぐいのようなもので頭を雑に拭きながら、キッと審神者を睨みつける。
「オメーと一緒だろうが。こっちもジジイに呼びつけられたんだよ! 何の話か説明なしで、詳しい話はそこでだとよ。もったいぶりやがって! そのせいでこっちはずぶ濡れになっちまった! くそが!」
「……お前もか。ということは、他の者も呼びつけられているのか…?」
「それはねーだろ。そんな連絡きてねえし」
今度は袖を絞りながら、弟弟子は審神者と、その後ろの長谷部を確認する。そのまま舌打ちを一つすると、吐き捨てるように口を開いた。
「そっちも長谷部か……」
「その様子では、お前も長谷部を護衛に指定されたようだな」
「まーな。テメェにはジジイも説明してたか?」
「いいや。僕も詳細は知らされていない。だがお師匠様のことだ。なにか意味があるのだろう」
止めていた足を進め、弟弟子の元へ向かう。手ぬぐいを取り出しながら弟弟子の長谷部に向かって視線をやった。
「久しいな。元気にしていたか?」
「……ああ。問題ない」
「そうか。それは良かった」
相変わらずのようだ。審神者は薄く微笑み、そして手ぬぐいを弟弟子に差し出した。すかさず無言で審神者から手ぬぐいをひったくり、弟弟子はがしがしと顔を拭いていく。
そのそばで、審神者は呆れたように息を吐いた。
「それで、お前は道を忘れて立ち往生していたのか」
「仕方ねーだろっ! 一年ぶりだぞ一年ぶり!」
「だとしても忘れる奴があるか。……おい、もっとしっかり拭かないか。風邪を引くぞ」
「ああっ、もう触んなうぜえ!」
伸ばした手は振り払われ、審神者はやれやれとため息をつく。実年齢が己よりも上だといっても、中身は成長せずに昔のまま。年下の己のいうことなど聞かぬという強情な態度は何も変わらない。
「主。あまり刺激するのはどうかと」
「あっ? ……うおっ! おお……そうだな……」
「? どうした?」
長谷部からの耳打ちで驚いた後、急に萎んだような声に代わり、大人しくなる。その変貌ぶりを審神者は怪訝に思い、長谷部と弟弟子の視線を追う。そして、その視線の先にいるのが己の長谷部だったことに気づき、弟弟子の反応の意味を理解した。
「長谷部。いつものことだ。あまり気を立てるな」
静かに殺意のような鋭い感情をまとっていることが、審神者の目から見てもすぐに分かった。弟弟子に対して、元々良い印象も持っていない長谷部からすれば、この今の状況は審神者がないがしろにされているようで面白くないのだろう。
ましてや、以前長谷部は弟弟子に対して何かしらの忠告をしていたはずだ。その詳しい内容までは、審神者に知らされることなどなかったけれど、敵対と呼べるほどの感情を持っているだろうことは、審神者の目にも明らかであった。。
「……俺は貴方の刀です。弟だろうと何だろうと、貴方を邪険に扱う輩は許せません」
「許せとは言わないが……ん、お前の気持ちもわかる。有り難いが、こいつは昔からこういう奴なんだ。むしろ、礼節をこいつが弁えていたら腰を抜かすぐらい驚くというか……」
「お前も大概口がわりいわ…長谷部。なんとか言ってやれ」
「言っても無駄では? そうですね……気になるようでしたら、主に刀を抜く前に斬り捨てますか?」
「やめい! お前もその血の気の多さなんとかしろっ!」
今度は審神者が長谷部を宥める図となり、お互い示しあわせたわけではないのに、審神者と弟弟子は同時にため息をつく。
(お師匠様は何故長谷部を指定したのだろう……)
考えても無駄だと分かっているのに、審神者はそんなことを考えた。だが当然答えが出るわけはなく。審神者は場所を変えようと、己の長谷部の腕を引いて池の前に立つ。
「長谷部。私がどの岩を踏んで進むのか、覚えておいてくれ。私の後をすぐについてきてくれてもいい。――お前もよく見ておけよ、八」
「俺は長谷部の後に続くからいい。長谷部、覚えとけよ」
「はっ。お任せください」
「それくらい自分で覚えないか……」
記憶力がないわけではない。そもそも覚える気が弟弟子にはないのだ。呆れたように言いながら、審神者はすうと息を吸って、勢いよく足を踏み出した。手前の岩を踏み、そのまま左の岩に。一つ飛ばして前の岩から、今度は二つ飛ばして左の岩――そのように決まった岩を決まった順番で踏んで、最後に行き着く入り口は、一見何もない――水の上の空間である。
「っ――主!」
そのせいか、焦った長谷部の声がすぐ後ろで聞こえる。
驚かせてしまったことに気づきつつも、審神者は正しい順路を進んでいたため、焦ることはない。ひやりとした空間を抜け、審神者が足を着いたのは、見慣れた学びやの敷地だった。審神者は懐かしい空気にほんのわずかに目を細め――けれどすぐに後ろを振り返る。
おそらく、すぐに長谷部が後ろから来るはずだ。
腕を広げ、受け止めるように構えれば、焦った表情の長谷部が飛び込んできた。審神者の姿をとらえた長谷部は僅かに安堵したようで、けれど勢いを止められなかったのかそのまま審神者に抱きつくように飛び込んできた。
両腕でそれを受け止めるように抱きしめて、審神者はくすくすと笑った。
「……ご無事で何よりです。でも、どうか飛び込む前に一言ください……心臓に悪いです」
「驚いただろう? 何もない場所にわざわざ飛び込む侵入者はいないから、これはとても有意義な仕組みなんだ」
本気で焦ったのだろう。審神者の腰に手を回し、はあと長々とため息をついた長谷部に、審神者はぽんぽんとあやすように背中を叩いてやった。
「久しぶりにお前の驚いた表情を見た。新鮮で、少し楽しい」
「からかわないでください……」
ぎゅうっと引き寄せられるように抱きしめる力が強くなり、長谷部は少しばかり拗ねたような声を浮かべる。それが妙にかわいらしいもののように思えて、審神者は申し訳ないと思いつつ笑ってしまうのだ。
前もって長谷部にこのことを伝えておけば良かった。けれど、どうしてだろう。ついつい、審神者はこうして何も言わずに来てしまった。
「だが、すぐに追ってくれたのだな」
「当然です。俺は主の護衛ですから」
「ああ、そうだったな」
胸に頬を寄せそうつぶやく。審神者がそろそろ離れようとしたとき、長谷部の背後で微かに空間が揺れたのを確認した。
「来るぞ――避けろ、長谷部」
後続とぶつかってしまうことを懸念した言葉だったが、長谷部はすぐに反応した。すぐさま審神者の体を抱き寄せるなり、俊敏な動きで横にそれていったのである。審神者は己は己で避けるつもりだったので、一瞬で地から浮いた感覚に小さく目を丸くした。
つい先ほどまで審神者達がいた場所に、正しい順路で通ってきたのだろう、弟弟子とその長谷部の姿がいる。二人は周りを見渡し、審神者と長谷部の姿を確認した。
長谷部は顔をしかめ、弟弟子は呆れたような表情を浮かべた。
「いちゃこいてんじゃねえ!」
言われ、しかと己の長谷部と抱き合っていることに気づいた審神者は、気まずい思いで慌てて離れたのだった。
「で? お前結局長谷部とくっついたのか」
「馬鹿を言うな。誰も選んでいない」
後ろを並んでついてくる長谷部たちの前を、審神者と弟弟子は並んで歩く。水を吸っているからか、弟弟子の足音は審神者よりも大きい。塗れた感覚が不快らしく、その口調は苛立っている。
「じゃあ順調っつうことか。本当に大丈夫なんだろうな? ……こっちでも心配してんだぞ。お前は刀に弱いから断りきれんだろうってな」
「……問題ない」
「おい、目そらしてんじゃねえよ。マジで断ってんのか? お前のことだから自覚なしで煽ってんじゃねえのか?」
「問題ないといっているだろう」
詳しい事情を知るものではあるが、詳細を報告したいわけではない。ましてや、後ろに長谷部がいるこの状況で、この話題を続けたいとも思わなかった。
変わる話題でもあればよいのだが、なんて考える審神者の願いを叶えるように、弟弟子は視線を審神者から外し、そして驚きを含んだ声とともに口を開いた。
「おい、見ろよあれ」
審神者が不思議に思い弟弟子の視線を追えば、その先にいたのは幼さが色濃く残る子供が二人。きっちりと着込んでいたが、服を着ているというよりも着られているという印象が残るような、そんな幼い存在であった。
「子供か……」
「知ってんのか?」
「知らないが、予想は出来る。おそらく、僕たちと同じように育てられている子供だろう」
「ほー……つまり、俺らの後輩ってことか」
「まあ、そうなるな」
子ども二人は、審神者と弟弟子を気にかけているような視線を見せたものの、身を隠すように、物陰の中へと隠れていってしまった。
「おーい! ちょっとお前等こっちに……って、隠れちまったな」
大きな声を出したが逆効果のようだった。
それきり、子供は顔を出さなかった。
「警戒されているな。僕達が此処に来ることを知らされていないとは思えないが……物珍しいのだろう。此処には、外部の人間はそう来ないはずだ」
「そうかあ? 俺は積極的に声かけてたけどな。声かけたら大体菓子くれるし」
「ああ、お前はいつもいの一番に飛び出していたな。……菓子目当てだったのか?」
「ったりめーだろ。珍しい話を聞けることも多いし、何よりかわいがられるのはやっぱいいもんだ。元気よく寄ってくる子供ってのは、それだけで可愛いからな。お前は顔は良いが愛想がないと不評だったぜ。この仏頂面が問題だな」
無遠慮に延びてきた手を払いながら、審神者は静かに眉を寄せる。反論はない。確かに審神者には、笑みを浮かべて接する……ということを進んでやっていた記憶はなかった。聞かれたことだけ返事をする――そんな子供であった。弟弟子の言葉は正当なものといえるだろう。
「ちったあ笑えんものかと思っちゃいたけどなあ、笑うようになったらなったで野郎に口説かれはじめてなあ……やっぱあれだ。おめーは、はよ嫁さんもらえ。既婚者になれば、言い寄る奴も減るだろ。嫁さんはいいぞ? 人生が一気に豊かになる」
「……知ったようなことに言うな。交際が始まったばかりとは聞いたが、もう嫁にもらった気でいるのか?」
「へへっ、そりゃあアレよ。結婚を前提としたおつきあいってやつだからよお、もう嫁さんみたいなもんだろ? お互いの本丸で刀剣男士にも挨拶してんだぞ。公認だ公認」
「……それは目出度いことだが」
弟弟子のせいで揉めた審神者の本丸であったが、その甲斐があったとでもいえばいいのか。とにかく、あの出来事が全て無駄なことにはならなかったと思えば、ほんの少しぐらいは報われるというものである。
――出来ることなら、このまま問題なく弟弟子が愛する者と結ばれて、幸せな家庭を築くことができればいい。
そんな思いで、静かに目を細めた。今度こそ、弟弟子が望む家族を手に入れてほしい。そんな審神者の気持ちを知ってか知らずか、弟弟子はばしばしと審神者の背を叩きながらまくし立てていく。
「とにかくだ! お前があいつらとの交際をきっぱり断ったら、俺が出会いの場を作ってやる。何も、今日明日で交際しろとはいわん。とにかく身内以外との出会いも積極的にしていくべきだってことだな」
「何度も言っているが、僕は誰を娶るつもりもない。出会いなど……」
「いいや! お前は他の審神者との親交を深めるべきだ! 何も恋人探せってんじゃねえぞ? 友人の一人や二人、いたほうがいいに決まってるってことだ! いいか? 誰かと関わることで、人間ってのは自分の良いところにも悪いところにも気づけるんだ。つまりだ! それは、自分の本丸の悪いところも良いところにも気づきやすくなるってことなんだよ」
またか、と呆れていた審神者だったが、予想していなかった弟弟子の説得に、考え込むように唇をとじ合わせる。
「お前は俺の本丸に来るまで、自分の本丸での問題にちゃんと気づけていないどころか、向き合うこともできなかった。それはな、一人でいることで、視野がせまくなるからだ」
不躾に指をさす弟弟子の癖は、何度指摘しても直らない。しかし、いつものようにそれを指摘する余裕もないまま、審神者は静かに弟弟子の言葉を聞いていた。
「――お前は外を知れ。恋愛じゃなくても、友人を作れ。そうやってちゃんと外界と関われば、今よりちったあ、上手く立ち回れるってもんだろうよ」
言われ、審神者は静かに目を伏せる。そのまま弟弟子の言葉を己の中で整理して、そうして、ゆっくりと口を開いた。
「――……考えておく」
己に足りないものが何か分かっても、それをすぐに補える器用さが己にないことを知っている。己が正しいと思ってとっていた言動が間違いであったと、後悔することも審神者には多々あった。悔しいが、他者との関わりや立ち回りは、この弟弟子の方が圧倒的に上手なのだ。故に、先程の言葉には重みがあった。
(もしも、この一月が無事に過ぎていったのならば……そうすることも、僕には必要なのかも知れない)
少しの悔しさを乗せてきゅっと唇を噛んだ審神者のことを、弟弟子が見ることはなかった。横から、小さな足音が審神者と弟弟子の元へ駆け寄ってきたからである。会話を止め、審神者と弟弟子はその人物に目を向ける。
「おー! ガキ共!」
先程姿を見せたかと思えばすぐに隠れてしまった子供が二人、手には衣服とタオルを抱えて目の前にまでやってくる。足を止めた二人の前に移動した子供は、緊張をのせた声で口を開く。
「お、おまち申しあげておりましたっ」
「お会いできることを楽しみにしていて、その、とりあえずこれでお体を拭いてください」
「気が利くじゃねえか! ありがとうな! お前ら名前なんて言うんだ?」
全身塗れている弟弟子にタオルを渡し、子供はまた一歩下がっていった。
ぺこりと辿々しくされたお辞儀に、自然と審神者の表情は和らいだ。
「ぼくは柊ともうします」
「ぼくは蓮ともうします。そちらが一さまと、八さまであっていますか?」
「ああ、あっている。出迎えてくれたのだな。ありがとう」
まだ辿々しい言葉遣い。まだ声変わりもしていないような幼子が大人びた言動をしようとしていることが、とても微笑ましい。
「いいえ、その、もったいないお言葉です……」
「八さまが池に落ちていたので、急いでごよういしました!」
「そうか。それは仕事を増やしてしまったな。八、お前も……」
それは隣にいる弟弟子も同じことかと思ったが、どうやらそうではないらしい。不思議に思って見れば、納得していないような表情で、露骨にふてくされている。
明らかにこの場にそぐわない。審神者は、眉をひそめた。
「柊と蓮だあ〜? なんだそのかっけー名前は! くそジジイめ、俺らの名前は番号でテキトーにつけたくせに!! なんでそんなしっかり名付けてんだくそが!! 植物か! 植物シリーズか!」
「やめろみっともない。子供の前だぞ」
機嫌悪くまくし立てる弟弟子に、子供二人があからさまに萎縮して後ずさる。自分たちの言葉で弟弟子が不機嫌になったことに、不安を覚えている様子であった。それに気づいた弟弟子は、しまったという顔をしてから、へらへらと笑って見せる。
「わりいわりい! 俺はこの名前が犬みたいでどうも気に入らなくてな……いやすまん! お前たちは悪くない! タオルも服も助かった! ありがとうな! 後でいっぱい遊んでやるからな!」
「わ、本当ですか?」
「ぼく、色んなお話聞きたいです!」
素直に受けて止めて喜ぶ子供に、満足げにうんうんと頷く弟弟子。
「よぉーしよーし! いっぱいしてやるぞ! あとなんか……あー、長谷部、菓子。菓子もってねえか」
そのまま背後にいた自身の長谷部に向けていえば、少しの間をおいてから、長谷部は自身のポケットに手を入れた。そうして取り出したのは、銀紙に包まれた菓子だった。手のひらの上にいくつも乗っていたその量が、どうやってそのポケットに入っていたのかと思うほどの量である。
「飴と…チョコがここに。主が空腹で不機嫌になった時に与えてくれと、皆から渡されております」
「おー! さっすが俺の刀だ! よしよこせ!」
当然のように交わされた会話に、審神者は静かに眉を寄せる。何なのだこの会話はと思い詳細を尋ねたくなったものの、なんとなくはっきりとそれを口に出来ぬまま、二人のやりとりを見守っている。
(僕の弟は未だ空腹で不機嫌になるのか……? ここを出て審神者になってから、一年以上も経っているというのに。もうすぐ妻帯者になるというのに……?)
理解が追いつかぬままである。
「ほらよ、全部やる。仲良く食えよ」
「ありがとうございますっ」
「ぼく、あめ大好きです」
だが喜んでいる子供たちの様子を見れば、己の疑問を今此処で解消することが無粋なことであることははっきりしている。審神者はぐっと言葉を飲み込んだ。
自分の長谷部に衣服とタオルを持たせ、子供たちにはお菓子を持たせた弟弟子に、子供たちは続けた。
「おししょうさまから伝言をあずかっております」
「着替えたら、二人で奥の間までくるようにと。いつもの場所だといえばわかるといっていました。それから、お連れの刀剣男士様は居間で待っているように、とおっしゃってました」
「? ……わかった」
「おー。じゃあ着替えたら向かうわ」
そう返事をきくと、「ではこれで」と二人ともぱたぱたと早足で去っていく。与えられた役目を果たして気が抜けたのだろう。弟弟子から貰ったお菓子を宝物のように抱えて去っていく背中に、審神者は少し考え込んだ。
(次は僕も、何か持ってこようか)
そんなことを思いながら、審神者はふと、思う。確かにああやって笑顔で迎えてくれる子供の方が、無愛想にしていた子供よりも可愛げがあるのだろうと。先の弟弟子の言葉に納得がいった。必要がないからと笑いもしなかった己は、さぞ可愛くない子供であったに違いない。
「それにしても、長谷部を護衛に指定おきながら、居間で待たせておくなど……」
「ジジイのことだからどーせくだんねー理由だろ」
「馬鹿を言うな。お師匠様のすることには、必ず理由がある」
「オメーのその盲目なんとかなんねえのかよ。仁も三角も、揃いも揃ってばかみてーだ」
そう言いながら、弟弟子は足を進めていく。馬鹿にしているというよりも、本音で話しているように見えた。
「ほいじゃー着替えたら行くか」
弟弟子がここに来たのは子供といえどそれなりの年齢になってからだった。故に師に突っかかることも多い、そんな子供だった。今更、その態度をおかしいとは思わない。審神者はどんな言葉をかけても意味なしと判断し、それ以上は何も言わなかった。
それよりも、一年ぶりにあった師は、今の己を見て何を思うだろう、と。そんなことをぼんやりと思った。
[newpage]
「――では、これで失礼します」
膝をついて辞儀をした後、襖を閉じる。それから長い廊下を居間に向かって歩きながら、審神者は小さく息をつき、隣を歩いていた弟弟子はがしがしと頭を掻いた。
「あ――――――めんどくせっっっ!!」
「声が大きいぞ。静かにしろ」
「なんだよ、てめえも同じだろ。別に呼び出す必要なくね?って思っただろ? なあ?」
「思わない。今回の件については、対面したかったのは僕達ではなく長谷部だった、という話だろう」
弟弟子と並んで師と対面し、何故長谷部を護衛に指定したのかを問うた時、師はこう返事をした。
『刀剣男士にはそれぞれに個性がある――だが、その性質は仕える審神者や環境によって、ある程度左右される。中でもヘし切長谷部という刀は、それが顕著に表れる刀剣男士である。お前達の意見を聞くよりも、お前達のヘし切長谷部を見ればお前達が審神者としてどう振る舞っているかが分かるというものだ』
審神者はその返事をきいて納得したものであった。審神者の質によって、へし切長谷部という刀は性質が左右される。主への忠心という、根にあたる部分は同じであると感じるのに、確かに己の審神者と弟弟子の長谷部では性格もまるで違うように思えるのだ。
隣で理解できないという表情を浮かべていた弟弟子は、やはりその師の言葉に納得していないようである。
「じゃ何で後から長谷部指定してきたんだよ。どうせくっだらねえ思いつきで、大した考えがあったんじゃねえよぜってー!」
「やめないか。……それよりも、僕達に関係あるのはその話題ではないだろう」
ともあれ、別件で話された内容の方が、この先の己の本丸について深く関わってくる。審神者にとっては、そちらの方が目下気になることであった。それは弟弟子も同じだったらしい。ああ、と思い出したように呟き、ため息をつく。
「長々とジジイは語っちゃいたが、要するにだ。本丸襲撃への対策として、俺とお前の本丸にコンビを組ませるって話だろ! 普段から交流をもって? お互いの本丸の危機にはすぐにかけつけ? 審神者に何があった場合の代行もお互いにする!? んなもん、こんのすけに言えばいいだろ――――!!」
「だから、静かにしろと言っているだろう。声を落とせ」
「そんなら俺がずぶ濡れになる必要なんてなかっただろうがっ!!」
「それはお前が道を覚えておけば良かっただけの話だろう」
「うるせー!」
審神者とて師の考えについて静かに情報を整理したいというのに、年甲斐もなく騒ぐ弟弟子のせいでそれが阻害される。
師からされた話といえば、今し方弟弟子が話したとおり。最近何件か続いている本丸襲撃への対策案についてである。これから、審神者と弟弟子の本丸は協力関係に置かれ、互いの有事の際には速やかに動けるように連携を日頃からとるようになる。ついては、数日間お互いの本丸の管理をし、互いの刀剣男士との交流を深めることを指令として出されたのだ。
そして話が終わって今度は、師は居間で待たせているヘし切り長谷部を呼んでくるように、と。それが終わり次第帰還して良いとのことだった。
「……しかし、お師匠様は長谷部に何を聞くつもりなのだろうな……」
「知らん! やましいことはねえんだ! 考えるだけムダだムダ! 終わったら飲み行くぞ! 飲まなきゃやってられん!」
「僕は帰る。長谷部を連れてきたことで、本丸が騒がしくなっていたからな。早く帰してやりたい」
淡々と答える。そうして長谷部達が待機している居間につくと、茶を出されていたらしい、二振りの姿が見えた。
「すまない。待たせたな」
「っ……主!?」
こちらを見る長谷部達だが、審神者の長谷部は驚きを見せていた。そんなに驚くようなことだろうかと不思議に思いながら、審神者は続ける。
「? 話は済んだが、お師匠様はお前達の話を聞きたいとのことだ。この廊下をまっすぐ進んだ突き当たりの部屋だ。……行けるか?」
「は、はい。もちろんです」
「長谷部、なにかその……驚かせるようなことをしてしまったか?」
「いいえ、そんなことは……」
弟弟子の長谷部は、シラケたような表情をして立ち上がる。このやりとりには興味がないと、そう示しているようだった。自分には全く関係がないとでも。
「主。では、後ほど」
「おう。気楽に行け気楽に」
「はい」
スタスタと審神者の長谷部を待つことなく歩いていく。その姿を怪訝に思いながら、審神者は立ち上がった己の長谷部に視線を向ける。
「……では、俺も行って参ります」
「ああ。あまり緊張しなくて良いよ。お師匠様は刀剣男士を尊ぶ方だ。悪いようにはされない」
「はい、ではまた」
頭を下げて居間から出て行った長谷部を見送り、審神者と弟弟子は入れ替わりに居間に入って腰を下ろした。自然と、口からため息がこぼれる。自覚はあまりなかったが、己は師の前で気を張っていたらしい。肩の力が抜け、弟弟子は大の字になって寝ころんだ。
「あー……つっかれたわ」
「そうだな。だがまあ、悪い知らせでなくて良かった」
「まーな。しっかし気が抜けたわ。よーするにお前の本丸でお前の刀と遊べばいいんだろ」
「……まあ、そういうことに……なるか。今回は」
あまり諸手を上げて賛成できないが、まあ、そういうことになると言えなくはない。否が言えずに神妙な表情を浮かべてしまう審神者の姿を見ながら――弟弟子はがばっと体を起こし、審神者のことをじっと睨みつけてきた。
少しばかり雰囲気が変わったようで、審神者は何事かと背筋を伸ばす。
「なあお前よ……さっきは長谷部がいたから詳しく聞けなかったが、実際のところどうなんだ」
「どうとは……ああ、返事のことか? 先も言ったが、誰も選んでいない」
「うっかり返事しそうになってないだろうな? 思わせぶりなことを言ったり……」
睨んでいるわけではなく、弟弟子なりに神妙な表情を浮かべているだけなのだと、その時になってようやく審神者は気がついた。真剣な問いに悩みながら、審神者は、困ったように視線をそらす。
「………そんなことは……」
加州清光の強引さも、小狐丸の真剣さも、薬研藤四郎の熱も、審神者にとっては心臓に悪いものばかりである。断言できるほどの自信といったようなものもないが故に、歯切れの悪い物言いになってしまった審神者に、弟弟子は、察した様子であった。
「ぜってー頷くなよお前! っていうか尻に突っ込まれるんだぞ! 冷静になれ! 顔がいいからって流されてみろ、二度とクソ出来ねえ体にされるかもしれん自覚あるか!? いってえぞ絶対! あいつら桁違いだからな!」
「……下世話だぞ……大声で言うことか……」
頭痛がしそうだ。審神者は額を押さえ、そして苦い表情でため息をつく。
「詳しいことは知らん……作法など何も……お前は詳しいのか?」
「俺も詳しく知ってるわけじゃねえけどお前……尻を使うならそうだろ……あいつらと風呂入ったことねえのお前。あるだろ? なあ、あるだろ。見たことあるだろ! あいつらの股間にぶら下がったご立派様をよお!」
「……お前と話していると頭が痛くなる。そんなところをじろじろと見るわけないだろう。知らん。この話はやめろ」
抱かれてもいいと思っているが、じっくりと考えたくないことでもある。そもそも、審神者の方からしたいと思ったことはない。あくまで、求められたのならしてもいい、というだけの話なのだ。であれば、それは恋ではなく。結果として何も起こらない。
それにしても、この下品な会話はどうにかならないだろうかと。そんなことばかりを今は考えている。今ここにいるのが二人だけで良かった。
「何カマトトぶってんだ。それも含めての付き合いだろ。口吸いで満足なら、別に恋仲を望む必要もないんだからな」
「そうかもしれんが……お前とそんな話をするのは……」
「俺だって身内とこんな話したくねえわ! お前がぽんこつだから言ってんだバカ!」
がっしりと肩を掴まれ、乱暴に揺さぶられる。
「いいか。絆されるなよ! あいつらはあくまで、主になった男の見目が良いからムラっとしてるだけだからな!」
「なんだその理屈は……見目なら刀剣男士の方が良いだろう。刀剣男士の器量と比べれば、僕など腐った卵のようなものだ」
「腐った卵でも主なら特別なんだよ! わかるか!? あいつらは腐った卵が大好きなんだ!!」
「まあ、言いたいことは分かるが……」
揺すられて気分が悪くなってきたと、審神者は弟弟子の手を振り払った。そしてため息をつくと、ゆっくりと口を開く。
「――分かっている。分かっているんだ。どれだけ僕個人のことを好いているといわれても、僕が主であるという前提がなければ――そんな感情を抱くことなどなかったと、理解している」
皆から向けられる感情は嘘ではない。偽りでもない。本物だ。だが、審神者として主として巡り合わせたという前提は何よりも大きい。ヘし切長谷部という刀もそうだ。長谷部の‘主’へ献身は、とても分かりやすい例である。
「心配ない。ここに来る前に、長谷部とも話をしてな――長谷部もやはりその自覚はあったらしい。……どうにもならない。問題ないよ」
言えば、その言葉は弟弟子よりも審神者自身の心に染みていくように広がっていく。ああ、大丈夫だと。この前提さえあれば、己はこれ以上気持ちを揺さぶられるようなことはないはずである。妙な安心感さえあった。
「………まあ、ならいいが……」
未だ訝しそうに顔をしかめている弟弟子だったが、これ以上の追求は諦めたようであった。
柊と蓮がお茶を持ってきてくれるまで、弟弟子は審神者を疑うように視線を向けていた。
(昔、似たような光景を見ていたな……)
広い庭で楽しそうに駆け回る三人を眺めながら、審神者はそんなことを思った。ここには子供が遊べるような玩具といったものはなく、遊びといえば、走り回ったりするようなものしかない。鬼ごっこ、隠れ鬼といったようなものである。
茶を持ってきてくれた子供――柊と蓮は、話もそこそこに、弟弟子に連れられて遊びに行った。待っている間暇だからつき合ってくれといえば、二人も遠慮なく遊べると踏んだのか、それともそこまで考えていなかったのか。弟弟子は子供の誘い方が上手であった。
「はち様! こちらです!」
「まだ僕は走れますよ!」
「おーおー! 俺から逃げようとは良い度胸じゃねえか! 待ってろすぐ捕まえてやるからなー!」
今日が初対面だというのに、楽しそうにきゃあきゃあと声を上げている二人は、いくら大人びた振る舞いをしようと、まだまだ幼いのだと感じさせる。あの中に混じれる自信がなく遊びは辞退したが、その判断は正しかったようだ。
(……アイツは本当に、誰とでもすぐ仲良くなるな)
昔からそうであった。審神者のいたこの学びやは、年齢を問わず、先に来たものが後から来たものの面倒を見る決まりがあった。弟弟子は審神者にとって特に面倒をみるようにとつけられた‘弟’であり、弟の不始末は兄がつける――ということで、散々苦労させられた覚えがある。弟でなければまず近づかないだろう性格の相手だが、弟である以上、自分は面倒をみなければならない。好きではないが、そんなことは関係なかった。
そんな相手ではあった弟弟子だが、ただ一つ、審神者には真似できないと思う長所があった。それが、誰とでも仲良くできるという点である。それは審神者にはないものであり、実際に八という弟弟子は――他の弟達とすぐに仲良くなった。
己ではなく弟弟子に懐き、後をついて回る――その姿を、審神者は遠くから見つめていた。その輪の中に混ざることなく、何をするでもなく。その時の記憶を思い出すと、審神者は少しだけ、ほんの少しだけ――……そこまで考えて、やめた。
(いいや、やめよう。僕が好かれる必要などはなかった。僕が兄弟子としてやらなければならないことは全てやった。だから、その結果など、関係ない)
審神者は考えを振り切るように薄く笑い、目を閉じる。そうしてまたすぐ瞼を開いた先で、誰かが居間に足を踏み入れる気配を感じて、視線をそちらに向けた。そこには審神者の長谷部が立っていて、なにやら呆けたような表情で審神者を見下ろしていた。
「……長谷部。話は終わったか?」
そう尋ねれば、長谷部は少しの沈黙を乗せて、ぎこちなく微笑んだ。
「……はい」
それだけを口にして、黙り込む。師と話した内容を語る様子はなく、どうやら気落ちをしているようにも見える。審神者はそれに思うところがあるものの、問いつめるのは尚早であると、隣を手のひらで叩き、長谷部に座るように促した。
「ここへ。話が終わったらお前を連れて帰って良いと言われているが――少し、ゆっくりしていこう」
「はい。……失礼します」
躊躇いながら、それでも静かに腰を下ろした長谷部は、姿勢良く正座をする。とはいえ、どこかその背は丸くなっているようで、それは審神者に不安を与えるには十分であった。
「八の長谷部はどうした?」
「まだ話があるそうです。俺は……これ以上する話もなかったようなので、先に」
「そうか」
一人ずつというわけではなく、己の長谷部だけ帰されたことに、審神者は不穏を感じる。刀剣男士は神である、と刀剣男士を尊ぶ師が長谷部に不躾なことをするとは思っていない。だが、この様子、何かあったに違いない。
けれど、隣に座っても、長谷部は口を開こうとしなかった。その様子を見ながら、審神者は、雑談代わりに口を開く。
「長谷部。あの二人の子供は僕と同じ、審神者となるべくここに住まい、学んでいる子供らしい。今は二人だけで、審神者になるべく励んでいると」
「……ええ、そう仰ってましたね」
「僕達の代は九人だったんだ。その内の一人は女人だったから幼い内に移動して、ここにいたのは八人ということになる」
特にオチのない話である。だからこそ、長谷部も深く考えずに聞いてくれるだろうと思っていた。
「審神者となる子供が五人を越えることなど滅多にないらしくてな、僕達の代は豊作だと、お師匠様が言っていたことがある。だからこそ数が多くて規律が乱れてはいけないと、僕は兄としての振る舞いを特に教え込まれたわけだが――……」
ただの雑談。審神者も特に深くを考えてはいなかった。
それがいけなかったのだろう。
「だが、人徳ばかりはついてこない――見えるだろう? 後から来たアイツに、弟達は皆なついて仲良くなった。ちょうど、あの二人のようにな。まあ、一人例外はいたが……多くがアイツを好んだんだ」
子供と遊んでいる弟弟子を指して、審神者は自嘲するように目を細める。何故そんなことを口にしたのか、審神者にも分からなかった。まるで、愚痴を言っているようではないかと思う。案の定、長谷部は顔をしかめている。
「……それは、何の話ですか?」
「ん……何の話、だろうな。そうだな――僕には、あいつのように他人を引き寄せる力はないと、そういう、話かな。すまない、こういう話をしたかったわけでは――……」
話題を変えようと言い掛けた言葉は、そっと塞がれた。手袋越しの感触が、審神者の唇を閉ざしている。ゆっくりと視線を長谷部に向ける。すると、長谷部は寂しげに、目を細めた。
「俺は、貴方に惹かれます。ただ、主の弟があの男と似た性質を持っていたというだけかと」
目を丸くして、長谷部の言葉を己の中に咀嚼して飲む込む。何だか気恥ずかしくなり、審神者は困ったような表情でいた。長谷部の指が唇から離れると、逃げるように視線を己の膝に落とした。
「そうか……その、すまない。気を遣わせたな」
「本音です。気は遣っていません」
「っ……そうか、」
ほんのりと、頬に熱が籠もる。参ったと頬を冷やすように手のひらを当てて、審神者は本題に入ろうと、口を開いた。
「……お師匠様と話をしたのだろう?」
「ええ、まあ……厳格な方だと、思いました。主を審神者らしくと育て上げたのは、あの方なんですね」
「そうだよ。立派な方だろう? お師匠様はいつも正しいんだ」
ふっと微笑みが浮かぶ。師を褒められて、嫌な気などしなかった。
「……それは、どうでしょうか」
だが、肯定が返ってくるかと思ったというのに、長谷部が口にしたのはそんな言葉だった。審神者は目を小さく丸くして、長谷部を見やる。そこでは――今にも崩れてしまいそうな、そんな不安定な表情を浮かべた長谷部がいた。
「……すみません。主の大事な方に向かって……」
「……いいや、構わない……」
不安が、確信に変わる。審神者のいない場所で対面した師と長谷部の間に、何かが起きたのだと。審神者は言葉を選びながら、そっと長谷部の頬に手を伸ばした。そのまま長谷部の頬を撫でて、優しく告げる。
「長谷部、何があった? 何か傷つくようなことを言われたのか? それは、僕のせいか?」
「……いいえ、主のせいでは……」
「僕のせいでなくても、お前が嫌な思いをしたというのであれば言ってくれ。相手がお師匠様であろうと関係がない。抗議をしに行く」
「いいんです! 抗議など……そういった類の話ではないのです。ですからどうか……」
なら一体何だというのだろう。明らかに、長谷部は何でもないという雰囲気ではない。審神者は眉を寄せて、長谷部をじっと見つめる。ここで、長谷部が自分で気持ちを語らないからと、深く追求はしないという選択肢は、審神者にはなかった。
「どうか……」
言い淀んで、そのまま口を閉ざす。視線でどれだけ話すように促そうとしても、長谷部は従わなかったことだろう。
「……僕には、話せないようなことなのか?」
静かに問う。長谷部は、肯定も否定もせず。けれど苦しそうな表情で黙り込むそれは、審神者にとっては肯定でしかなかった。審神者はそれを受け取り、そして静かに長谷部から手を引き、立ち上がる。
「分かった。ならば、直接お師匠様に聞きに行く。長谷部、帰り道は分かるだろう? 先に帰っていて構わないぞ」
まだ詳細は分からない。何かあったことは間違いないといっても、師が不躾な真似をする人間であるとも思っていない。怒りはない。だが、このまま何もしないという気は全くない。近くに本人がいるのだ。長谷部が話しにくいことだというのであれば、審神者が直接聞きに行くまでである。
「っ……待ってください」
ぱしりと掴まれた手首は、逃がすつもりがないような力加減であった。審神者が足を止め長谷部を見下ろせば、長谷部は困惑した様子で、続けていった。
「違います……無礼をされたわけではないのです……ですが、ですが俺は――……」
くしゃりと表情が歪み、縋るような視線だけが審神者に送られる。というのに、何も言わぬまま――否、言えぬままに、逃げるように顔を下に向けた長谷部は、今にも霞んで消えてしまいそうな声で呟いた。
「主――……お願いします。無理は承知の上です。ですが、どうか……」
ぐいと、審神者の手が引かれる。審神者は目を丸くした。
強く握られたせいでじんじんと痛む手首から、熱い温度が伝わってきて、それが長谷部の感情の強さを物語っていた。
お願いします。縋るように繰り返されたその言葉。その悲痛に満ちた声に、審神者は静かに目を丸くする。
風が吹けば消えてしまいそうなほどに弱々しい声で、長谷部は審神者へ懇願した。
「どうかこのまま――俺と、逃げてくれませんか」
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