夜が明ける前に・昏いうちに
>>3の元親青ルートネタバレ
まさか夫の首を改める日がこようとは、嫁いできた時には予想だにしなかった。名前は生まれつきあまり良くない目を凝らして、炎に照らされた箱を見つめた。
嫁いだ後に「お前さんはそんなことも知らんのか」と呆れられ、教えこまれたはずの首実検の作法はすでに朧げで、ゆっくりと漆の箱を開ける。普通の女がそんなこと知るわけなかろうと逆ギレしたら、わかったわかったと全然わかっていない顔で宥められ、翌日には教本片手に床の間の壺を首がわりに手解きされたのだった。
箱に挿し込む指先は震え、その冷たい肉に触れたときに名前はああ、あの人だと如何しようもなく理解した。のし掛かられると重たくて仕方なかった大きな体に反して、持ち上げた首はあの日の壺と同じくらい軽かった。
夜毎朝毎に触れて確かめよと許され、指に覚えこまされたその輪郭は、紛れもなくあの官兵衛のものであった。目が悪いために夫の顔貌は指先の方が詳しく知っている。冷たい息を押し殺した。
「どうだ、間違いねえか」
我が背を討った男の静かな声にようやく名前は押し殺していた息を吐き出す。自分が何のために呼ばれたのか思い出し、軍師と呼ばれた官兵衛には遥か及ばない頭をはたらかせた。しかし夫のようにはうまくはいかず、早々に諦めた。
軍師の名をほしいままにし、自らもかたった我が背ならば、すぐさま生き延びる術を弾き出しただろうと名前は思った。名前は必死になって嫁いでから何度か触れた官兵衛の思考の軌跡をなぞる。
そうはしてみたものの全くうまくいく気配はなく、名前は自分の指で紅をさした唇を震わせた。名前は目が悪いために化粧もへたくそで、いつもは呆れた官兵衛が意外にも器用に枷のついた手で名前の口に紅を塗りつけていた。自分で四苦八苦しながらなんとか支度をした今日は、左右非対称に歪んでいる。名前はようやく決心がついて口を開いた。
「わたくしには、わかりかねます」
「……何だって?」
「ご存知かと存じますがわたくしはめくらに加え、官兵衛はあのような風体にござりまする。わたくしは暗いところではものがよく見えませぬ。官兵衛の身代わりをあなたに仕向け、そのものが死化粧を施され此処にあろうとわたくしにはその真偽のほどはわかりませぬ。ですから、あなたが……これは黒田官兵衛よと申されるなら、それは間違いなく黒田官兵衛の首にござりまする」
これでよいか、としかめっ面の首に名前は心の内で聞いた。
名前が答えから逃げたために、自身に判断を委ねられた海神の領主は、その言葉をゆっくりと噛んだ。長曾我部が黙っているのをいいことに、名前は推定・官兵衛の首をじっくり眺めた。口元はわずかながらの苦悶に歪み、聞きなれた声でいつものように口惜しい口惜しいと、今にも恨み言を零しそうな、紛れもない黒田官兵衛の首だった。
「そうか、なら仕方ねえな」
海神の男はあっさりそう口にし、恐ろしいほどに大きな錨を(きっとそれは名前の背の腹を、腕を、それから首を抉ったのだ)担ぎ上げた。
官兵衛の自業自得だとわかっているからか、恨みや憎しみは一切なく、名前は懐の重みに手をつける気すら起きなかった。背は「万が一小生の尻拭いをお前にさせるような時は、お前には悪いが諦めて大人しく投降してくれ」と名前に忌々しい約束を課していたので、名前は死んだ背の後を追うために舌を噛むことも、すぐそばに広がる海に身を投げることも、或いは仇を討つために懐の小刀を取ることも許されない。
「これからお前の処遇を決めてくる。なに、悪いようにはしねえ。此処で待ちな」
掠れた声で返事をした後にこの男には自分の小細工など全てばれていたのだとため息が出た。百戦錬磨の国主相手には、常日頃屋敷の奥で静かにしている女の嘘などちっとも通用しない。名前は軍略轟きわたる軍師の妻とはいえ場数も知恵も策も、これっぽちも持ち合わせていなかった。
男が外に出て行ったのを待ち、名前はずるずると膝で首の元まで擦り寄った。箱の中にたまった血臭が鼻を刺す。自分の目が悪いのと血や煤に汚れているのとで、わかりにくくはあるが、紛れもなく背の顔であった。
「馬鹿素直に実行犯だと認めたのだね」
名前の責める声に何も答えない。陣幕の外で甲冑の擦れる音がした。
「虐殺も兵糧攻めも、厭わぬくせに……変なところで律儀になるから……だから御前はそうして、天下から遠ざかる」
いくら詰っても首は答えなかった。とっくに死んでいるのだから当たり前のことだが、いつも名前が悪態をつくと叱り、逆ギレした名前を宥め、取り成すために百の言葉が返されるものだから、ひとりで文句を言うのは虚しかった。
「御前はいつも詰めが甘い。不運だなんだと御前は言うが、枷も、此度もすべて御前の甘さが招いたことだ。自業自得だ……そのくせ、御前はこうして人を巻き込んで……」
冷たくなった首に手を這わし、長ったらしい前髪を持ち上げると、ついぞ閨でしか見るのことかなわなかった顔が無防備にさらされた。官兵衛の顔が常に長い前髪に覆われていること、名前の目が日が強すぎる昼や極度に暗い夜には役に立たなくなることを理由に、背の顔を見ることは決して多くはなかった。顔貌のことなら、目より指先の感覚の方が余程確かであった。
「御前、私の処遇をどう思う。私は首を切られるか、仏門か、再嫁か……きっと、御前の後を追うことは許されないね」
生きていれば前髪に隠れた思慮深い瞳で、官兵衛は容易く名前の未来を言い当てただろう。官兵衛のような慧眼を持ちえぬ名前には自らの行く先が見えなかった。
名前は考えてもわからない自分の行方を考えるのをやめ、この首の行方を考えた。あの四国の主は情深い将と聞くが、自らの領地を壊滅に追い込んだ実行犯を手厚く葬ることは決してないだろう。だからこの首を持ち出すことは叶うまいと考えて、名前は泣きたくなった。官兵衛に嫁いでからというもの、我が背相手にさんざ悪態をつき、差し伸べられたその手を幾度となく跳ね除けることはあっても、名前は一生穴蔵暮らしでもいいかなと思うくらいには官兵衛のことが嫌いでなかった。
この首がほしい、と名前は思った。織田信長は義弟浅井長政の髑髏に漆と金を塗って酒の席に並べたという。漆も金も要らないから、背の首がほしいと名前は思った。それかあつく弔うことがかなわないなら、この首を抱えて死にたい。
泉下にて、後を追うなとの言いつけを破った名前を、官兵衛は叱るだろう。それでも背に焦がれて根の国まで追った名前を仕方がないやつだと呆れながら、そこまで小生に会いたかったのなら叱るまいと、苦笑してきっと抱きしめてくれる。そうだ、水底に沈み、背の待つ黄泉に下ろう。今までの散々な態度を謝って、幾久しく愛しているとこの唇で告げよう。名前は立てられたままの首を大事に抱えあげた。切り口から血がぼたぼたと落ちて名前の藤の着物を汚した。官兵衛が死んだのを思い知らされるようで涙が出た。
名前はそうっと天幕から出た。夜明けまでどれくらいあるのかはわからないが松明から離れるとすぐそこに暗闇が広がっていた。連れてこられた時には見張りがいたはずだが、今は誰もいなかった。見張る価値もないという意味なのかもしれない。名前は既に頼るべき人間をすべて喪った身であったから、利用価値は無いに等しかった。名前は縺れる足を必死に動かして逃げ出した。
「御前、見えるか。ご覧、海だよ」
名前は誰に追われることもなく、生首を抱えて真っ暗な海辺に辿り着いた。自分は海を見たことなど数えるほどだが、豊臣の手足となりあちこちを飛び回った官兵衛は何を今更と言うだろうか。
「全て塩の水……これだけあるなら、塩が取り放題でしょう。どれほど国が潤うだろうね。御前、穴掘りの次は塩で儲けるのはどうだい」
冷えた首は何も答えなかった。博識な背のことだから、いつもならあれはならんこれはならんと名前の提案にあれこれ文句をつけるだろうに、冷えた首は静かにしていた。いつもうるさい男がこんなに静かなのは初めてだと名前は首を抱えて走ったせいで息を弾ませたまま、浜辺をそぞろ歩いた。
「御前、今から御前の首を土産に……御前が待つ泉下に下ります。御前なしで生きていけない私を許して」
足先を夜の波に浸すと冷たさが脹脛を這い上がる。どこまで進めば黄泉に行けるのだろうと考えながら名前は海を進んだ。
後ろから叫び声が聞こえた。胸まで浸かったせいで体がぶるぶる震えて何を言っているのかわからなかった。だんだんと意識が白く儚くなり、名前は強張る指先でしっかり首をかかえなおした。塩辛い海水が口と鼻から入る。
「馬鹿野郎!何してやがるッ!」
首根っこを思い切り掴まれて景色は海から空に変わった。鼻に潮水が思い切り入って名前はえずいた。
「大人しく待ってろって言っただろうがッ!死にてえのか!?」
「……死にたいよ」
夫のかたきに何を馬鹿正直に言ってるのだろう。寒くて、痛くて、頭がおかしくなったのかもしれない。
「こ、殺してください。このくにを蹂躙した男の身内です、まとめて一緒に殺してください。何も罪のないあなたにこんなことを頼んで……でも、どうか……お願いします、私を夫の元に送ってください……」
自分の冷静な部分が、半狂乱になって長曽我部に縋り付き殺してくれと頼む自分を嗤った。頼まれてくれる義理もない男に何を頼んでいるのだ。死にたいなら自分の舌を噛めばいい、懐には刀だってある。自分の首を切ることも、あるいは目の前の男に切りかかって正当防衛で斬り伏せられることだってできる。
「何の罪もないと思うか」
「え?」
さっきまでの怒声が嘘のように静かな声だったので、名前は慌てて顔を上げた。海水を跳ね上げて暴れたために前髪から水が滴った。
「何でもねぇ、忘れな。だがよ、入水するなら今は止せ。家康の顔を見てからにしな」
「徳川家康の……?」
「知り合いか?家康の態度じゃ随分と親しげだったんだが。おまえの処遇はあいつが決めるとよ」
「何度か顔は合わせているけど……」
「そうか。それで、くにを荒らしたやつの身内に態々言ってやる義理もねえが、どうしても死にてぇみたいだから教えてやるよ」
片方だけの目がぎろりと名前を睨んだ。官兵衛もこの目を見たのだろうか、と意識が逸れた。それを咎めるように長曽我部の脚が海を蹴る。
「死んで償えると思うなよ、死んだ野郎どもの命をその肩に乗っけて……刻み付けて、死ぬまで忘れるな」
まるでご自分に言ってるようですね、とは流石の名前も言わなかった。一言多いのは官兵衛の専売特許だ。いつも騒がしいはずの官兵衛が、首だけになって静かにしているので名前は漸くひとりぼっちになったことを受け止めて、神妙に返事をした。もう誰も、名前をまもってくれる人はいないのだ。長曾我部は持ち出した官兵衛の首を取り返すことも、持ち出したことを叱ることもしなかった。
今だけは、徳川の手に握られている己の処遇も、目の前に立つ長曽我部のことも、忘れてしまいたかった。あんなに大きな身体をしていたのに軽くなってしまった首をかかえて名前は泣いた。極悪人の夫をこの後誰も弔ってくれないのがうっすらと察せられたので、真っ暗な海に浸かってひとりで泣いた。
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