麦を踏みつ君を待ち

仁姫と出会ったのは放課後の図書館だった。朝から晩まで部活に明け暮れる生徒代表のような彼女がこんな時間に図書館にいるのは珍しかった。窓際の席で勉強道具を広げ、頭を抱えて唸る彼女を図書委員の当番は遠巻きに見ている。課題に難航しているのは明らかだった。

「こんにちは。課題はどう」
「アンタ……」
「苗字名前です」
「花田仁姫。ゴメン、うるさかった」
「ううん。俺が気になっただけ」
「そう」
仁姫はすぐ片付けるよ、と言って問題集に付箋を貼った。

「どの問題」
「え?」
「どの問題で困ってたの」
「あ、ああ……これ」
「英作文だね。手伝おうか」
「いいの?」
「お急ぎなら答えだけでも」
「順番に……」
「ええ」
彼女が悩んでいたのが英語でよかった。物理とか化学だったら、手も足も出なかったに違いない。危うくかっこ悪い先輩だと思われるところだった。さらにラッキーなことにこれは先日後輩に教えたのと同じ長文問題だ。英文は初見と2度目以降では段違いに読むスピードも上がる。仁姫のクラスではまだだったのだろうか、それともこの間の公欠のときの範囲だろうか。俺は勝手に仁姫のシャープペンシルを拾って勝手に問題集に線を引いた。使う構文がどれかわかるとすぐに仁姫はシャーペンを取り返す。この日から仁姫の課題を手伝ってやるようになり、俺はすぐに仁姫のことを好きになった。


「仁姫」
名前の声が好きだ。静かな声で名前を呼ぶ。男の人の声なんて、部活の時の厳しい指導や試合の雄叫びばっかり聞いているから、名前の穏やかな声に名前を呼ばれるといつも心臓が跳ねる。

部活おわりに、ロッカーで名前からの短文メッセージを見てドキッとした。「いつものとこで待ってる」ただそれだけ。

部活が終わるのは夜遅いのにいつも名前はどこかで時間を潰しているらしかった。校門に寄りかかる名前の指先には、今日も単語帳が引っかかっている。以前ちらっと見たら到底高校では習わない長い単語が並んでいて驚いた。単語帳も同じものをずっとやるのではなくすぐに覚えて次にいく。先週は青いカードリングだったのが今度は赤に変わっている。すぐに覚えてしまうから簡易な暇つぶしとして愛用しているらしかった。もう少し時間がかかる時は薄い洋書を片手に待っている。名前の英語は大学受験の範疇をとっくに超えていて、仁姫の課題なんてすぐ解けてしまうのはそういう理由だった。

「ごめん、遅くなった」
「ううん。今来たところ」
名前はいつも大きなカバンで通学している。何が入っているのか、肩紐がちぎれそうなくらいものが詰まっている。隣に並ぶ名前を見下ろすと、名前が「どうしたの」とそれに気づいて視線を合わせた。綺麗な顔をしている。色が白くまつげが長い。繊細な内面そのままの名前の顔。

「……いや、なにも」
「チューしますか」
「チュ、チュ……」
「てっきりそういうつもりかと」
「そんなわけないだろう!!」
「ダメですか」
「だ、ダメにきまってる……こういうのは、恋人同士で」
「俺は仁姫と恋人になりたいので、先回ってみたのですが、ダメだったか」
「き、聞いてないよ……」
名前は「困らせるつもりはなかったのだけど、仁姫を困らせてしまった。さてどうするか」という顔をした。名前は口数は少ないけど、その綺麗な顔は案外表情豊かだ。

「うちの部、男女交際禁止なの知ってるだろ」
「そんなのバレなければなんとでも」
「名前……」
「男柔の金剛寺も彼女いるよ」
「え!!いや、やっぱりダメだ……!顧問に見つかったら」
「じゃあやめよう。仁姫が次の試合に出られなくなるのは本意でない」
名前が案外あっさり引き下がったので少し驚いて、同時にがっかりした。
「でも俺、仁姫が好きだよ」
懲りない名前に思わず手が出た。背中を叩かれた名前は大きなカバンを地面に落とした。カバンの中身は分厚い洋書や辞書が詰めてあった。



旧現代において全人類が石化した時、仁姫の恋人は大学生だった。制服を脱いだ名前は本人の希望の通り英文学を学んでいた。来年からは海外の大学に留学する予定だった。

石化を解かれた仁姫は思いの外すぐに名前の石像を見つけた。トレードマークの眼鏡を失って石像になっていても、名前が名前だと仁姫にはすぐにわかった。

仁姫は何もしなかった。優しい恋人をこの世界で、司の元で目覚めさせることが正解だとは思わなかった。仁姫の恋人は特別な能力やパワーを持つ人ではなかった。ただの優秀な文学青年で仁姫にとっては誰よりも特別な人だったけれど、ただそれだけだった。

仁姫は今晩も寝る前に名前のことを考える。石像は雨に当たらないところに動かして、二度と顔を見に行くことをしなかった。ただでさえ、敵に手を貸すなどという危ないことをしているのだ。石像のままの名前を巻き込みたくなかった。

仁姫はもう音だけしか覚えていない英文法のフレーズを寝床の中でたどる。名前が教えた英単語を英文を、今となってはいくつ覚えているだろう。憧れだったラブレターも名前がくれた。たくさんもらったのに、もうひとつも残っていない。風雨に晒されてただのひとつも無事ではないに違いなかった。

それから怒涛の何年かが経って、仁姫は恋人よりも先にアメリカに降り立った。アメリカで仁姫が何を成し遂げたか聞いた時、名前はどんな顔をするだろう。仁姫の優しい恋人は、まだ目覚めない。

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