狗丸トウマのこれまでとこれから

>> 狗丸トウマさん×961プロから出向してきてNO_MADの押しかけ雑用してた夢主


今朝は新聞を見て、朝食の片付けもせずに自宅を飛び出した。新聞の一面記事は自社の看板アイドルの話題で、彼らは芸能界を昨晩のうちに引退してしまったのだ。しばらく会社を離れてNO_MADの専属で仕事をしている私は何も知らなかった。慌てて会社に連絡をして、私はその日のうちに出向を取りやめることになった。961プロも大変な騒ぎで、私は慌てて出向先の社長とNO_MADのメンバーに別れを告げることになった。

どうしよう。頭の中は騒動の中にいる961プロのことより、NO_MADのことでいっぱいだった。NO_MADも大変な時期だ。実力をつけて、ちゃんと仕事に取り組んでいるのに人気に翳りが見えている。それが原因でメンバーの仲もギクシャクしている。そんな時に彼らを放り出して、961プロに戻らないといけないなんて。心の中は荒れ狂い、しかし私はサラリーマンで黒井社長に恩のある身だ。961に戻らないと言う選択肢はなかった。どんなに否定したくても、私はNO_MADを見捨てることを選んだ。NO_MADの皆には何と言おう。できれば、全員のいるところで話がしたい。

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「社長、残念ですが私今日をもってこの事務所を離れることになりました。お世話になりました。NO_MADがこんな状態で、現場を離れることになり申し訳ありません」
「何だって……?」
最悪のタイミングだと思った。出向先の社長に報告した瞬間、まさか狗丸さんが社長室のドアを開けるなんて、思いもしなかった。何てタイミングの悪い人なんだろう。社長が止める間もなく狗丸さんは私に詰め寄った。

「どうしてだよ!辞めるって……名前さん、NO_MADのこと、ずっと……ずっと好きだって、力になりたいって言ってただろ!」
「ずっと好きだよ。でも……私もサラリーマンだから。わがままでこっちの事務所に来てたから、元の会社の上司に言われれば戻らなくちゃいけない。ニュース、見たでしょう? 961プロいちばんのアイドルが事務所を辞めちゃった。あんな辞め方したから、社内は大変なことになってる。私も戻って尻拭いをしないと」
「だからって、そんな……!今じゃなくてもいいだろ?せめて、せめて……そうだ、週末のライブまでは!ハコは確かに空きがあるけど、俺全力で歌うから!」
狗丸さんがこんなに焦った顔をしているのは、ここ最近のことだ。歌はどんどんレベルアップしているし、ダンスレッスンも怠らずメンバー内で振りも揃ってきている。MCもそつなくこなすし、ファンサービスも手厚い。アイドルとしては申し分なく成長している。なのに、人気は上がるどころか停滞している。理由はわかっている、最近台頭してきた八乙女事務所のTRIGGERに仕事のポジションもファンも奪われていっていること。狗丸さんと、メンバー、それから彼らのマネージャーの間に埋められない溝があること。

「NO_MADが、俺が、TRIGGERより人気がなくなったからやめるのか……?」
「そんな言い方やめてください!NO_MADは魅力あるグループです!年末にはブラホワの防衛もあるのに、リーダーのあなたが弱気でどうするんですか……!」
「弱気にもなるよ、これからブラホワだって時に、最悪のタイミングであんたが辞めるっていうんだから」
「それは……申し訳ありません。ただ、961プロも今ちょっと混乱していて……」
「わかってるよ、俺らが961プロから人手を借りられるほどのグループじゃなくなったってことだろ」
「狗丸さん!」
「出ていってくれよ。NO_MADは、今日からあんた無しでやっていくんだから」
出て行けと言った癖に、社長室を出ていったのは狗丸さんの方だった。傷ついた顔で、背筋も曲がって、ちっとも強がれていなかった。俯いた顔の唇が震えて、私は聞き逃さないようにと一歩踏み出した。

「……俺がもっと、魅力的だったら違ったのかな」
「何も違わない!あなたを失望させたのは、ただ私が力不足だったからです!」
「……そうかよ」
「狗丸さん!」
今度こそ狗丸さんは振り返らなかった。廊下を曲がって、階段を降りる足音がした。階下にあるのはレッスン室だけだ。失望してもまだ、狗丸さんは歌うつもりなのだと知って、私は少し安心した。出向先の社長が、恐る恐る私に声をかける。出向関係の手続きは後にして、すぐに荷物を持って出て行かなければならない。私には狗丸さんを追いかける暇も勇気もなかった。


荷物をまとめながら、NO_MADのことを考える。狗丸さん以外のメンバーとマネージャーも話を聞きつけて挨拶に来てくれた。急な話で残念だけど、と口にしても誰も引き留めはしなかった。寂しいけれど、賢明だと思う。彼らにとって、今の私は「突然看板アイドルを失ったよその事務所」の人間だ。自分たちも人気が失速し、ついに先日脱退を申し入れたメンバーもいるという状況では、私みたいな人間はさっさといなくなった方がありがたいに決まっている。

結成したばかりのNO_MADを知った時、一目で好きになった。居ても立っても居られなくて黒井社長に直談判して961プロを飛び出して、あなたたちの手伝いをさせてほしい、と申し出た。マネージャーもいるのに何をしにきた、と言われるかと思いきや、狗丸さんをはじめとするメンバーは「大手事務所の人が手伝ってくれるなんて心強い」と歓迎してくれた。私も張り切って歌やダンスのレッスンにつきあい、小学生が考えたみたいなサインを添削して、MCのネタのために一緒になって頭を捻った。油性ペンで指先を真っ黒にした狗丸さんと「このカッコいいサイン、たくさんのファンの人に書ける日が来るように頑張りましょう!」と手を取り合った。レッスンが辛い時は励まして時に叱咤して、NO_MADはどんどんパフォーマンスの質を上げていった。狗丸さんの歌が好きだった。彼が真剣に歌えば、それを聞いた人は皆ファンになった。彼の歌と振りの揃ったダンスはたちまち業界で話題になった。彼の真面目で朗らかな人柄を知れば、皆が口々に彼の評判を語った。無事に昨年のブラホワも獲って、NO_MADはなにもかも順調なはずだった。

そんな中デビューしたTRIGGERは、歌もパフォーマンスも一流だった。でもNO_MADだって、負けてなかった。ただ八乙女社長肝煎りのプロモーションを前にして、見劣りしたのも確かだった。そこで八乙女事務所に負けないくらいの大きな仕事をNO_MADに持って来れなかった、マネージャーと事務所の責任だった。だから、狗丸さんが責任を感じる必要なんて無かったのだ。

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ダンボールひとつだけを抱えて961プロに戻ってくると、早速社長室に向かった。黒井社長は一生懸命売り出していたアイドルがあんな辞め方をして落ち込んでいるかと思いきや、開口一番「売り出し方が悪かったな。マネージャーの力不足だった」と言った。961プロにはマネージャーも、プロデューサーもいない。どのアイドルも社長が直々にプロデュースしていた。

「何のことです」
「何って……お前がご執心だったNO_MADとかいうアイドルのことだが」
「ああ……ご存知でしたか」
「お前があれほど熱をあげておきながら、八乙女の息子にせり負けるとは。プロモーション不足ではないか?無能なマネージャーが仕事をとってこれないなら、お前がしゃしゃり出て代わりに仕事をとりに行けば良かったものを……」
「そんなの、」
私が1番わかっています、と言うべきかできるわけないじゃないですか、と言うべきか迷って言葉にするのをやめた。

社長はブツブツ言ったまま、チェス盤を片付け始めた。相変わらずゲームの体裁を成していない盤面だが、これは純粋にゲームをしたいのではなくインスピレーションや雰囲気を求めてのものだと知っているから口を出さないでおく。

「暫くは不眠不休で倒れるまで働かせてやる。その男を忘れるくらいにな。次の仕事だ」
優雅な仕草で黒井社長が指差した先には資料が置かれていた。近寄って手に取ると、仕事上すっかり見慣れたアイドルの履歴書だった。証明写真の画質でも損なわれることのない美貌がこちらを強い眼差しで見つめている。一癖も二癖もありそうな予感がする。私はため息をこらえて、社長お得意の手書きPRを読み込むことにした。今は仕事に専念する時、会社のために働かなければと必死に言い聞かせて。

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ーーIt’s a show time!
渋谷の街にざわめきが広がるのが画面越しでもわかった。恐ろしいことが始まる予感がする。

「オレたちの歌が聞きたいか」
「オレたちと踊りたいか」
「今日まで見てきたものは全部忘れろ」
「昨日までのものは全部壊せ!」
「この名前だけ、覚えていればいい」

狗丸さんがテレビに出ている。周りにいるのはNO_MADとは違うメンバーだ。すぐさま手元のタブレットで調べて、心配になった。ŹOOĻ、Poisonous Gangster。狂気と破壊のテトラルキア。メンバー自ら作曲した反社会的なギャングスターの歌で鮮烈なデビューを飾る。パフォーマンス中のこわい顔、MC中の攻撃的な態度、「全員引き摺り下ろしてやる」誰に向けたのか、分かりやすすぎる宣戦布告。足が震えた。最悪の方向へ、狗丸さんを引っ張ったのは誰だ。この人が、自分から仲間を集めてこんなことをするはずがないという確信があった。

よその心配をしている場合か、と社長が資料の束を寄越した。必然的にテレビから視線を外し、履歴書を見ると今度は可憐な少女が写っている。履歴書には「この世界の片隅から、今飛び立ちます」とキャッチコピーが添えられていて、ついにデビューするのかと思った。彼女の歌声の美しさなら私もよく知っている。狗丸さんも彼女のように思うままに心から、歌えたらいいのに。

タイミングを見計らったかのように電話が鳴った。

私の社用・個人用携帯のどちらでもなかった。代わりに黒井社長が電話を取って、険しい顔で私を見る。
「月雲了だ」
それが電話の主であり、狗丸さんを悪の道へと誘った男の名前だと分かった瞬間感じたのは、血の湧き立つほどの怒りだった。

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「ああ、キミがトウマの?話はよーく聞いてるよ。トウマからね」
月雲了に呼び出された。仮にも天下のツクモプロだ。法に触れるようなまずいことにはならないだろうと、私は大人しくツクモの社長室に足を踏み入れる。あの怒りと憎しみにかられた狗丸さんがこのビルの中にいるかもしれないというそれだけで、私は平常心ではいられなかった。

わざわざ黒井社長に電話をかけてまで呼び出したのに、月雲了の要件は狗丸さんに会ってほしいと、ただそれだけだった。

どうして?狗丸さんを裏切って、961プロに戻ってきた私と面会しても、狗丸さんの怒りや憎しみは増大するだけだろう。私にも狗丸さんにも何のメリットはない。じゃあこの男は?この男は狗丸さんの怒りを、絶望をより掻き立てて何がしたいというのか。

「反抗的なトウマにわからせてやるのさ。次に「悪いこと」を考えたら、大事な彼女がどんな酷い目に遭わされるか……ってね。リハーサルだよ。いい子にしていれば本番の幕は上がらない。いい子でいられなかったら、愛する恋人の順調な仕事もプライベートも何もかも!崩壊するんだよ。それはトウマの行動次第ってわけ」
「お断りします」
「……どうして?」
彼は私が断るのをわかっていたようだった。思う通りに話が運んで嬉しそうなのを隠しもしない。

「私は狗丸さんの恋人でもないし、私がどんな目にあっても、彼は……今の復讐に取り憑かれた狗丸さんの心には響きません。無駄足でしたね」
「本当にそうかな?」
恐ろしい笑みだと思った。金色の瞳が爛々と輝き、口は弧を描く。ヤバい、この男。本気だ、本気でやるつもりだ。成果が得られなくても、何が何でも一度狗丸さんを絶望させなきゃ気が済まないって顔だ。

「じゃあ、試してみようよ」
その瞬間、熱い衝撃に襲われて、一拍後に後頭部が弾け飛んだかと思った。床に倒れ込んで、ようやく硬い棒か何かで思いっきり頭を殴られたのだとわかる。吐き気を堪えて社用携帯のSOSコールを起動させようとポケットを探るが、その手を革靴で踏みつけられた。声にならない悲鳴が出て、痛いよりも先に体が自由に動かせないショックで涙が滲む。

「賭けでもしようか?勇者はいったい何分でお姫様を助けに来るかな?楽しみだね」
うるせえ。同業他社の人間に暴行加えて、ただで済むと思うなよ。とにかく頭が熱くて気持ち悪くて、声になったかわからない。月雲は「おー怖い。じゃあね、頑張ってー」と私の背中で靴を拭って去っていった。絶対許さない。喉の奥から苦いものが迫り上がってきて、私は抵抗することもできず意識を失った。

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うるさい音がして目を開けた。頭が痛い。あれだけ力いっぱい殴られたのだから当然だが、人生でいちばん具合が悪い。あの男、絶対に許さない。

暗い室内を見渡すと、誰もいない工場だか倉庫のようだった。入り口を叩く音はまだ続いている。敵か味方か知らないが、どうにか脱出して病院に行かないと。幸い社長の携帯の番号ならわかってるからどこかで電話を借りたい。

今の状況を確認すれば椅子に座らされて、体を縛り付けられた状態で地面に転がされている。最悪だ。足は無事だから、不格好だが椅子に座ったまま逃げるしかない。入り口を叩き壊そうとする音はどんどん大きくなる。早く逃げなくちゃ。

ガンッと一際大きな音がして、入り口が開いた。思わず身構えるが、現れたのは狗丸さんだった。安心するより先に怒りが勝った。無理やり倉庫の扉を開けたのか、狗丸さんの顎を汗が伝って落ちた。
「名前さん!無事か!?」
「何しにきたんですか!」
「何って」
愚かなことに、狗丸さんは単身でこの場に乗り込んで来たらしかった。息を荒げて、何のつもりか手には鉄パイプを握っている。

「了さんが……名前さんを誘拐したって言うから」
「馬鹿なことを!」
言葉を遮る大声に狗丸さんは怯んだ。やめろと言うのに近寄ってきて、彼はわたしの前で膝をつき、そこで初めて私が頭から流血していることに気づいて「!怪我してるじゃねえか」と動揺した顔を見せる。動揺している場合か。狗丸さんが椅子ごと体を起こしてくれて、私は礼を言うより先に怒りに任せて口を開く。

「嘘だったらどうするんです!本当だとしてもこんなところにひとりでノコノコやって来て!危ない目に遭うかもしれない!あなた、アイドルなんですよ!自覚が足りない!あんな売り方されておいて、つけ込まれる隙を自分からつくって、何のつもりですか!今度こそ、今度こそŹOOĻの仲間を大事にするんだと思っていたのに……!」
狗丸さんは怒鳴り散らすわたしを呆然と見て、それからようやく口を開く。

「アイツらは、仲間じゃない」
「何を」
「目的のために組んでるだけだ。俺に仲間は、もういない」
「馬鹿なことを!」
「アイツらだってそう思ってる。了さんだって、俺らの目的を果たすために利用してるだけに過ぎない」
「本気で、本気でそう思ってるんですか……!」
狗丸さんは「……本気だ」とそれだけ言って、黙ってハサミを握る。なんでハサミなんか持っているのかと思ったが、狗丸さんが何も言わないのでこちらも黙っていた。

適当なボロ布で縛ってあっただけのようですぐに解放されたが、私はそれどころではなかった。

「まだ、本気で……真剣に歌えば傷つくだけだって、皆離れていくなんて思ってるんですか」
「NO_MADを、俺を、捨てたあんたがそれを言うのか!?」
狗丸さんが今日初めて声を荒げた。なのに顔は泣きそうで、椅子に座ったままの私の膝に着いた両手は震えていた。
「NO_MADをあんたが、捨てたから……!どんな気持ちで俺があんたを見送ったかわかるか!?ファンが離れて、メンバーも脱退する気で……!あんただけは俺の味方で、最後までいてくれるって信じてたのに……」
堪えきれずに狗丸さんの瞳から雫が落ちた。ただの泣き顔なら、NO_MAD時代にレッスン中やステージ裏で何度か見た。ただ、怒りと抑えきれない憎しみを表情に浮かべているのを見るのは初めてだった。認めたくなくても、私のせいだった。

「狗丸さん」
「呼ぶなよ、二度と……二度と、会いたくない」
二度と会いたくないなどと言うくせに、膝についた両手を握っても振り解かれなかった。狗丸さんが私の膝に縋って泣くなんて初めてのことで、私は黙ってそれを見ることしかできなかった。

「あのね、狗丸さん」
「うるさい」
「私、あなたが好きです。アイドルの狗丸トウマさんが大好き」
「黙れよ……」
かわいそうなことに、この人は骨の髄までアイドルだ。NO_MADに見切りをつけて、さっさとひとりで歌手としてデビューしてしまえばよかった。伝手を使えば実力派バンドのボーカルになることだってできただろう。でも、望まれてアイドルになったこの人は、乗りこんだ船が沈んでもまた次の船に乗ることを選んでしまった。かわいそうな人、人に望まれて人の望みに応えて、その先に自分の夢があると思ってる。自分が完璧じゃないしいちばんじゃないのを知ってるのに、一生懸命人の望みのために走ってる。私は息を吸う。これが響かなかったら、もう二度と狗丸さんには会えないだろう。

「どこかにいるかもしれない完璧なアイドルより、ここにいて、ファンの前で歌ってくれる、完璧じゃないあなたの方が好きです」
「頼むからもう、黙ってくれ!」

悲鳴のような叫びも、聞く人は私しかいなかった。好きなだけ泣けばいい。利用されて、歌を歌って、自分の心を傷つけて、それでも歌が好きだと、自分はアイドルだと思い知ればいい。

私の膝が涙で濡れた。狗丸さんは啜り泣くばかりで、私や事務所への恨み言は聞けなかった。

「あなたの歌が人を不幸にするなんて、そんなわけないのに」
狗丸さんは何も答えない。

力いっぱい殴られた頭がまた痛み出したが言い出せる雰囲気ではなかったので、私は黙って狗丸さんの丸い後頭部を撫でておいた。誰が呼んだのか、救急車のサイレンが遠くに聞こえた。

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狗丸さんが、ŹOOĻが、ブラホワで負けた。あの時とは違って今度は挑戦者の立場だった。

年末の忙しい時にこんな番組をやるせいで、自社のアーティストは参加しないと言うのに、気になって気になって仕事が手につかなかった。当然大晦日も元日も仕事に休みはなく、私は社長室の大きなテレビでŹOOĻとアイドリッシュセブンの対決を見守った。社長はこんな時に限ってなぜか追加の仕事を寄越さなくて、私はテレビに釘付けだった。

いちファンとして見れば、歌が上手い、パフォーマンスの完成度も高い。曲がいい。これまで以上に仲間の結束力が強くなったのを感じる。今までと違ってメンバー全員が同じ方向を見ていることは誰が見てもわかる。そして、同業者としてアイドリッシュセブンに何が劣っていたか考える。魅力や気迫、訴求力、感情に基づく要素はどれも得点化しづらい。アイドル同士の対決は結局感情論だ。

勝利したアイドリッシュセブンの横に並ぶŹOOĻの4人を見た。負けても、こんな清々しい顔をするんだと思った。先日の海外フェスでの評判はもちろん耳に入っていた。その成功だけでなく、私の知らないどこかできっと前進しているのだと、見るだけで分かった。悔しくても、達成感に満ちた表情をしている。今なら狗丸さんは、ほかのメンバーを仲間と言えるのだろうか。

表彰式の中継が終わってニュース番組に変わったが、相も変わらずブラホワの結果を放送している。主に勝利したアイドリッシュセブンの話題だが、ŹOOĻの映像も流れた。カメラに向かって吠える姿に思わず息が止まる。「俺は俺さ、騙せるわけねえ!」本当に、その通りだ。

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それから季節は巡って、仕事が忙しいのは相変わらずだがŹOOĻの活躍はずっと見ていた。幸い黒井社長は近頃男性アイドルのプロデュースに手を出しておらず、競合の意識は薄い。

一度社長が険しい顔で電話に出ているのを見たことがある。「うちにはNO_MADに割く時間も予算もない」社長室に踏み入れようとした足が止まった。かつて共に頂点を夢見たアイドルの名前だ。かつて。NO_MADの狗丸さんと出会って、961プロを飛び出した。そして、961プロの危機を理由に放り出した、私の罪の名前。

「名前さん?」
かわいい詩花の声が社長室の前で立ちすくむ私を動かした。
「名前さん?どうしたんですか」
「あっ……」
可愛らしい微笑みを浮かべて、何も知らない顔で私を見上げる、今の私の希望の光。もう二度と、放り出さない。逃げ出したりしない。この子を守って、この子の助けになって、私は今度こそ誇れる私になりたい。

(誰に?)
「ごめん、社長電話中みたい。お茶でも飲んで、出直そうよ」
笑顔は引き攣っていなかっただろうか、不自然に上擦った声は聞き流してもらえるだろうか。
「はーい」
顔色を伺うより先に詩花がくるっとスカートを翻して、歩き出す。鼻歌はお気に入りのロボットアニメの主題歌だ。唯一無二の私の宝。何者にも邪魔されずに大好きな歌を歌い続けてほしい。私のいちばん大事なアイドルはもうNO_MADじゃなくて、彼女たちなのだ。

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ドラマ、新曲、バラエティ、ŹOOĻの活躍はファンを名乗れるくらいには追いかけたが、現地のイベントに足を運ぶことはなかった。単純にイベントをするような休日には自社のアイドルもイベントが入るからである。

961プロに戻ってからの数年、私は玲音と詩花のマネージャー未満とも言える小間使いの仕事をしていたが、ŹOOĻと現場が被る機会はなかった。理由はひとつ、黒井社長が「苗字名前誘拐事件」に激怒して、自社タレントと月雲了の息のかかったタレントとの間に共演NGを言い渡したためである。月雲了が表に出てこなくなった後もそれが継続しているのはタレントを守る社長としての姿勢でもあり、万が一にも詩花が危ない目にあうのを避けたいと言う親心でもあった。私は黒井社長自身も散々悪いことしてたっぼいけどな〜と自分が961プロを離れていた頃のことを思う。

社長の小間使いとして夜も朝も走り回っていたある日、社長室で黒井社長がチケットを1枚くれた。

「なんですか?これ」
「招待状だ」
内容も見ないで聞くと、黒井社長はすごく不機嫌な顔になる。表面は特別御招待の文字、それからコンサートのタイトルと日時だけ書いてあり(たまたま詩花も玲音も予定の入っていない週末だ)ぺらっと裏返して私は息を呑んだ。「待ってます」とひとこと、見覚えのある字だ。忘れようもない、雑誌の応募者サービス用にと散々書くのを見た。狗丸さんの字、ŹOOĻのライブチケット!

「どうしたんですか、これ!まさか社長が取ってくれたんですか!?」
「そんな訳ないだろう」
黒井社長は呆れ返った顔で肘掛椅子をクルッと回した。背中を向けられて、表情は伺えない。

「じゃあ、いったいどうして……詩花の付き添いとかですか?ツクモ共演NGなのに?」
ハア〜〜ッとため息で返事をされる。やれやれと手で表現して(この人はいつも表情以外の要素で感情を表現したがる)、私はなんだかちょっと嫌な予感がした。

「そんなの持ってくるやつは1人しかいないだろう。さっき私が追い返しておいたが」
「直接!?まさか直接、持ってきたんですか!?」
「騒がしい!とっとと出ていけ!!」
「はい!30分で戻ります!!」
「帰ってこなくていい!」

慌てて社長室を脱し、廊下に敷かれた毛足の長いカーペットを踏みしめる。黒井社長の言葉が嘘じゃなければ、狗丸さんがさっきこの廊下を歩いた。走って、走って、ああ何で社長室ってどこもビルの1番高いところにあるんだろう。慌ててエレベーターを呼んで、いつもは高速に感じる下降が死ぬほど遅い。そんなに時間がかかると、剥き身のチケットが汗でしなしなになってしまう。早く、早く。

エレベーターから飛び出して、エントランスを見渡すと、見覚えのある後ろ姿がロビーで来館証を返却していた。嘘、髪型が変わった。でも、他は何も変わってない。涙が出そうだった。喉の奥が詰まって、声を出すのに難儀する。

「狗丸さん、狗丸トウマさん!!」
すごく大きい声で呼びかけたのでロビーに屯していた社員が何人か振り向いた。肝心の狗丸さんは肩をぴくっと震わせただけで振り返らない。気づいているくせに。顔見知りのアーティスト事業部の社員が息を荒げる私を気遣わしげに見た。違う、おまえじゃない。おまえの親切がほしくてこんな無様を晒した訳じゃない。私が振り向いて欲しくて呼んだのはひとりだけ。

ここまで来たら振り向くまで呼んで喚いて泣いてやろう、と思ったが運動不足が祟って声すら出ない。息絶え絶えになって本当に倒れるかと思った。961プロのビルが無駄に縦長のせいだ。狗丸さんから視線を外して、両膝に手をついて息を整える。苦しい。
「名前さん」

あわてて顔をあげると狗丸さんがびっくりした顔で立っていた。びっくりしたのは、こっちだ。「名前さん」狗丸さんは呆然としてもう一度私の名前を呼ぶ。

「な、なんですか……」
「なんでいるんだよ」
狗丸さんは幽霊か何か見るみたいな顔をしていた。
「なんでって……私ここの会社に勤めているので……」
「だよな!?!?」
「知ってて来たんじゃないんですか!?」
「いや、知ってるつもりだったんだけどさ……」
狗丸さんがフイっと視線を外した。都合の悪い時の気まずげな顔を見て、私はこの人が私がここにいるという確信もなく961プロを訪れたことを察した。

「そんなやつはいないって……」
「誰がです」
同じ事務所にいた頃みたいに低い声が出た。NO_MADの皆でそれぞれサインを考えた時、最初に提出されたそれがあまりにひどい出来だったときと同じトーンだ。
「黒井社長が」
「社長が!?!?」
黒井社長の高笑いが目に浮かぶ。絶対に意趣返しだ。往来なのを忘れて頭を抱えた。全くあのおじさんは子どもみたいなことして!

それにしてもこの人、本当に変なところでピュアだし、警戒心が足りなすぎる。ブラホワに2年連続で出るようなアイドルが正当な理由もなしに競合他社に単身ノコノコ乗り込んでくるなんて、呑気にも程がある。ツクモもそうだが961も元々ダークな噂の多い事務所だ。周りは止めなかったのか?狗丸さんはもう完全に縁の切れた他所の事務所のアイドルだというのに、NO_MADの面倒を見ていた昔みたいに説教しそうになった。

「とりあえず……事情を聞かせてください」
「……いいぜ」
私はエントランスフロアにひとつだけある応接室を社長の名前で勝手に借りて、狗丸さんを連れ込んだ。明日の朝には会社じゅうに知られているに違いない。ŹOOĻの、ツクモの、狗丸トウマと逢引きしてたとか尾鰭のついた噂になって。

「あの……チケット、ありがとうございます」
「ちゃんと届いたんだな。捨てられそうな感じだったからよかったよ」
狗丸さんが穏やかな声で笑っている。怒ってない、絶望してない、優しい声は久しぶりに聞いた。笑うと八重歯が見える。NO_MAD時代も私相手に怒ることはあまりなかったけど、こんなに穏やかで優しい顔をしてるのは初めて見たかもしれない。なんか、すごく大人っぽい。理由を検討しようとして全部、ŹOOĻのおかげだとすぐに察した。応援してるって言うなら今しかないと思った。今の彼ならきっと、怒らないで恥ずかしがらないで、ちゃんと受け止めてくれるという確信があった。

「狗丸さん、わたしずっと言いたかったことがあるんです」
「え!?いや、ちょっと待って、俺が先に言ってもいいか?」
「ダメです。わたし今日を逃したら絶対一生後悔するから」
「……わかったよ」
狗丸さんがストレートに下ろしてある髪をぐしゃぐしゃとかき回すと、なんだか昔の面影がある。ŹOOĻとしてデビューしたばかりの頃はこういう風にストレートにセットしてることが多くて、なんだか違う人みたいで寂しかった。この間のシンブラホワみたいな髪型はやっぱりちょっと、どこか懐かしい。

「あの、あなたの歌が聞けて、ŹOOĻが結成されてから私、いつも幸せです。すごく嬉しい」
「え?」
「真剣に歌えば傷つくって思ってたあなたが歌ってくれて嬉しい。だって今は……すごく楽しそうだから」
「そうだな……俺もそう思う。アイツらのおかげだ」
やっぱりそうだ。私はほっとして小さくため息をついた。

「……ライブ、来てくれるんだよな」
「もちろん!私、ŹOOĻのファンなんです。いつもテレビで見てます。曲も聞くし、ラジオも……ラジオとかバラエティはちょっとヒヤヒヤする時あるけど、大好きです。皆大好きだけど、狗丸さんが楽しそうなのがいちばん嬉しい」
「そっか……」
狗丸さんは噛み締めるように息をついて、それから右手を差し出した。ちょっと考えて握手だとわかって、同じく右手を差し出す。

NO_MADが駆け出しの頃、握手会の練習を皆でした。「NO_MAD大好き!応援してます!」とお客さん役をやった私にメンバー達はなんと返してくれたのだったか。今日の私は競合事務所の会社員じゃなくて、ŹOOĻの狗丸トウマの握手会に来たお客さんだ。差し出された手をぎゅっと両手で握ると、狗丸さんはびっくりした様子もなく残った左手で私の両手を包み込む。さすがアイドルだ。

「ŹOOĻ大好き!狗丸トウマさん……アイドル辞めないでくれてありがとう!ずっと歌ってくれてありがとう!いちばん大好き!愛してる!」
「……俺も愛してるよ」
泣きそうな顔で、狗丸さんが笑った。ライブで発するファンサービスなら何度も聞いたはずだが、声があまりにも本気に聞こえたので、私は黙って狗丸さんを見上げた。狗丸さんがもう一度愛してるよと繰り返す。手は握られたままだ。

NO_MADの握手会練習の記憶が目まぐるしく私の脳内を駆け巡ったが、メンバーが何と言ったかやはり思い出せない。こんなに切実に祈るように、愛を語った人がいないことだけは確かだった。狗丸さんは逃げ場をなくすように「本当に、そう思ってる」と続けたので、心臓が熱い。

私が困り果てて「そうですか」と言うと、狗丸さんは破顔して「そうだよ」と言った。今更「ファンサービスありがとうございます」と言える雰囲気ではなく、私たちはしばらく黙って小っ恥ずかしい雰囲気の只中にいる。

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