僕は幸せになります

あの人を好きになってしまった時のショックと言ったら。三日三晩何をするにもぼんやりするくらい、自分が信じられなかった。僕が好きになったのは、自分たちをプロデュースして舞台で輝かせてくれる人だった。

プロデューサーさんは優しい人だ。今度はこんな仕事を取ってきたよ、曲のことで思いつめすぎちゃダメだよ、ちゃんと寝てる?勉強で困ってることはない?気遣ってくれるのはとても嬉しいけれど、恋愛のれの字も彼には引っかからない。プロデューサーさんは確かに優しい、正しくはいつだって誰にでも優しい。

@@@

「プロデューサーさんに相談があって」
そう告げるとプロデューサーさんはレッスン室を確保しておいたからねと優しい声色で言った。馴染んだピアノがあった方がいいかと思って、と安心させるようにプロデューサーさんは笑う。こんなに気がきくのに、どうして気付いてくれないんだろう。

約束の時間は夜7時半、未成年に気を使った真っ当な時間だ。遅れてきたプロデューサーさんは僕にココアの缶を手渡し、自分はブラックコーヒーを飲んだ。コーヒーとかカフェインの含まれたものを飲んだら必ず水やタブレット菓子をかじるのがルーティーンで、その予想通りにコーヒーを空にすると彼はポケットからいつもと変わらないタブレット菓子をふた粒かじった。日ごろから行動の一つ一つを見すぎていて、こんなところにまで気づくようになってしまった。

「味が混ざりませんか」
「え?」
「コーヒーとミント、混ざりません?」
「ああ、確かに混ざるけど営業職だからね…」
それに、もふもふえんの子たちにくさいとか言われたら立ち直れない……とタブレット菓子を砕きながらプロデューサーさんは苦い顔をした。

「旬くんは?」
「あ、いただきます」
手に振り落とされたふた粒を並んで噛み砕く。目がさめるほどの辛さに思わず眉をしかめた。そんなところもちゃんとプロデューサーさんに見られていて、子供扱いするみたいに笑われた。「そういうところ、かわいいよね。旬も」……今、誰と比べられたんだろう。

「ごめん、本題に入るのが遅くなった」
いつもだったらその通りだと怒っていた。時間は限られていて、優先するべきことから着実に手を付けるべき。なのに僕は、目の前の鍵盤を眺めてなんて切り出すべきかと何度目かの思考に沈んだ。

「……大人の人を好きになってしまったんです」
プロデューサーさんは静かにそう、とだけ言って空き缶を潰した。
「聞いてもいい?」
「はい」
「事務所の人?」
「はい」
「……そっか。相談なら乗るからね。私じゃなくても、誰でもいいからね。もちろん、誰に言わなくたっていいんだけど、言ってくれるってことは、そうなんだろうけど……」

プロデューサーさんは優しいのに他人事で、自分のことだなんて思ってないと思うと、胸が引きしぼられるように痛くなった。悔しいのか、悲しいのか、怒りたいのかわからない。次々に溢れる涙をぬぐいながら「花吐きに、なってしまって、それで、こわくて、」と訴えればプロデューサーさんは優しく肩をさすって「ひとりで苦しかったね、たいへんだったね」と声をかけた。

自分だけに向けられた優しさが嬉しくて、ドキドキして、体の中が驚くほど熱くなって、息が荒く、喉が痙攣した。

花が、覚えのある感覚に背筋が震え、えずいて、背中を丸める。相手を思い過ぎた時、感情が高ぶって花を吐くと書いてあったのに。ちゃんと覚えていたから冷静になろうとしたのに。どうしてこの人のこととなるとうまくいかないんだろう。

プロデューサーさんの顔が寄せられて、肩を押した。近寄らないで、これ以上心を乱さないでほしい。こうなっても、落ち着けば花は吐かないで済むから。

「旬くん、教えて、誰が好きなの」
それがひどくいやらしい声で、僕は肩を押すのをやめた。代わりにスーツに縋ってぼたぼたと涙を落としてやった。涙の膜で顔も何も見えなくて、蛍光灯の明かりが滲んだ。

あなたがすきです、喘ぐようにこぼれた言葉はプロデューサーさんの口に飲み込まれた。

「……泣かないで。ほら、セーフだよ。っていうかダブルプレー?」
プロデューサーさんはげほげほと咳き込んでから銀の百合を片手に口を拭った。もう大丈夫だよ、初めて花を吐いたからか、枯れた声で死にそうな顔で、プロデューサーさんはそう言った。これが、この人の最初で最後の花。僕はそれを呆然と見てから、おしまいに涙をひとつ零した。


*前次#

TOP