光芒

「まさか、君がそこまで拗らせるとはね……」
「ご不満ですか」
「そんなことはないよ」
ほらお飲み、とレモンの輪切りが浮いた水を示され私はお代わりをコップになみなみ注ぐ。半兵衛さまの手元の水は全然減らないし、紫色の視線は教科書の文字をなぞる。その本の最初のページはたしか容量[V:8211]反応曲線だったはずだが、法学部の半兵衛さまにはどう見えるのか。薬学部1年生の名前からしたら当たり前のことだが、半兵衛さまの目にも同じように映るのだろうか。

「半兵衛さまも拗らせてるじゃないですか。大学まで秀吉さまを追いかけて法学部なんて」
「こら、その呼び方はやめたまえ」
「半兵衛”さん”も、十分に拗らせ男子ですよ」
「今更直しようがないと思わないかい?」
半兵衛は文字列から目も離さずに、面白がる声音で私に尋ねた。真っ直ぐ引けていない蛍光ペンの線をなぞられて不器用さを笑われるような気まずさがあった。

「私もそうですよ。そんな、今さら」
半兵衛さまを喪った果てに、家康殿率いる東軍の力を目の当たりにして討ち死にしたのはもう400年も前のことらしい。私は未だ天気の悪い空を見上げるたびに忌々しいあの日を思い出し、東海道新幹線では博多方面向かって右側の席に座れないというのに、世の中はとっくに過去を過去と切り捨てて進んでいる。それもまた私に忌々しいと思わせるのだ。

「半兵衛さまは、結核が治る病と知ってさぞがっかりされたことでしょう」
「それは君の方じゃないのかい」
「いえ、私は……この時代の不治の病に半兵衛さまが罹っておられる可能性を考えていたので特に今の学部に不満はありません。こうしてお姿拝見できたことに加えて……お元気そうで何よりです」
「呼び方も話し方もだめだね」
「す、すみません」

重たい教科書は全部鞄に入れると肩紐が切れそうになる。だから数冊は手に持って教室移動をするのだが、うっかりしていて階段で一冊滑り落とした。拾ってくれたのは夢にまで見た麗人で、心臓が止まったかと思った。半兵衛さまは今、普通の大学生として秀吉さまと共にこの大学の法学部に通っている。この前は学内で前田慶次らしきやつを見た。やつは半兵衛さまが言うには経済学部らしいし、戦国時代に見知った顔は広大な学内でちらほら見かける。

私は今の半兵衛さまのことを全く知らずに大学に入ったので、薬学部に通っている。半兵衛さまに指摘された通りに400年前あの白いお手を握り看取ったことが忘れられずに、今世では幼い頃から医学系の学科を目指し、薬学部に入った。結核は治るとわかっていても、私は半兵衛さまのあの、氷のように冷たい指先も、熱を帯びた手首も、もう二度と握るまいとかたく誓ったのだ。

「今生こそ、どうか長生きしてくださいね」
「君は重いねえ」
「あ、当たり前です、置いていかれる苦しみを二度も味わう気はありません」
「わからないよ?僕は君より年も上だし、男の寿命は短い。君の方が詳しいだろうに」
「それでも1分1秒でも長く、この世でそのご手腕発揮していただきたく思います」
「……驚いた」
半兵衛さまはちっとも面白くなかったであろう教科書のはじめの数ページから視線を外した。

「君もまだ、秀吉の天下があると思うのかい」
紫の瞳は爛々として、今にも天下取りに乗り出さんという気勢が見て取れる。死の前と泉下に下って後、願っても永く見ることのかなわなかったその輝きに、私は400年前に流し切ったはずの血が滾るのを確かに感じた。

「今こうして、半兵衛さまにお会いして……今世も秀吉さまの天下取りに役の立たないことが
悔しいですね。私も法にすればよかった」
「滅多なことを言うんじゃないよ」
秀吉の天下のために、君は君にできることを。半兵衛さまは紫の目に星を孕ませて強かに微笑んだ。黄泉へと見送った後に散々思い返した、軍師の微笑みだった。




/今度はわたしより長生きしてね

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