情の錨海の泡

元親が巴里に行くと言い出した時の私の心境は言葉にできない。人の集まった席で、ようやく決まった念願のフランス行きを知らせた元親の顔は晴れ晴れとして、それを讃える周りもこの上なく喜ばしいという顔をしていた。突然決定事項を告げられて喜べないのは私だけだったらしい。

ポケットに入れたスマホが震えたのをいいことにこっそりお手洗いに立つふりをして縁側からサンダルをつっかけて外に出た。メールを開くと休みの日だっていうのに職場からの指示がつらつらと並んでいて、休みなんですけどと悪態をついて画面を閉じた。こんな仕事早いところ辞めてやりたいと思うけど私のやらなくちゃいけないことはまだ山積みだ。専門職はこれだから、とため息をついて電源を切ると光源は屋敷の明かりだけになった。

楽しいことを考えよう。そうだ、巴里には何があるだろう。長ったらしい名前のチョコレート、色とりどりのファッション、シンプルだけどおいしいパン、つま先の尖ったハイヒール、有名な芸術作品、日輪の光を受けるマロニエ……そこまで考えて首を振った。上司の影とその素敵な街並みを闊歩する元親をふりはらうつもりで。

縁側に近づく誰かの足音がした。こんな所に来るのはどうせ元親の差し金だろう。私の浮かない顔と黙っていなくなったのを見て誰かを寄越したに違いなかった。聞こえなかったことにして散歩にでも行こうと庭を歩いた。
「名前」
その声に思わず振り向いてしまうと、元親が玄関に回って取ってきたのだろう履物片手に突っ立っていた。まさか本人が来るとは思わなかった。振り返ってしまったので逃げるわけにもいかず棒立ちで元親の言葉を待った。
「散歩か?」
「……うん」
「ちょっと待ってろ」
縁側に身をかがめて元親は紐と金具のやたらと多い靴を履いた。紐も金具も全部締めるのには時間がかかるので、その間に逃げても良かったけど話があるなら聞いてやろうという気持ちで長い指が慣れたように紐を通す作業を眺めて待った。

「行くか」
元親はあまり時間をかけずに靴を履き終えて、私はサンダルをぱっかぱっかと鳴らしながら元親からちょっと離れて歩き始めた。庭に植えた蝋梅が夜でも匂って、しゃがみこんで何枚か綺麗なのを拾った。元親もとなりにしゃがんだので上を向いた掌に元黄色い花弁を乗せた。二人して黙っているのは馬鹿みたいだけど、口を開いて何をいうべきかもわからないので黙って庭を出てそのまま街灯もない、潮のにおいがわずかにする田舎道を歩いた。

「怒ってんのか」
「怒ってない」
「ハァ?そんだけ不機嫌な面しといてかよ」
「元親は好きでパリに行くんだから気にせず行けばいいでしょ」
「やっぱ不満だったんじゃねえか」
「元親なんか、何処へでも行っちゃえばいいの。私が嫌がろうとなんだろうと気にせず勝手に何処へでも行けばいいの」
「名前」
元親が低い声で私を呼んで、その咎めるような声音に私は足を止めた。
「私、本気で言ってるよ。元親は元親が好きなようにしたらいいって思ってる」
そうか、と元親は視線を外した。街灯もない暗い道だから表情があまり読めなくてなんだか怖いと思った。
「元気で長生きしてくれたら、それでいいの。103年生きてとか無理なわがままは言わないし、誰と何処ででも元親が満足したならそれでいい」
「嘘ばっかりつきやがって」
元親は私の前髪を指先で直した。顔が近くなったので今度は表情が見えた。まったく面白くないという顔をしていた。

「お前は全部放りだしてパリについて行くのが嫌で、俺は仕事でパリに行かなくちゃいけねえ。名前が置いていかれるのも嫌って言ったら残るは1つしかねえな」
元親の片方のまなざしが私を捉えて、いつかと同じように歪んだ。海の漣が聴こえて、私はいつかの昔を思い出す。元就さまと向かい合った元親もそうやって目を歪めて、元就さまは海の深くへ去っていった。元親だっていつかの昔には海のどこかへいなくなった。私は元親のいう最後のひとつの選択肢は思い当たったけど間違ったら嫌なので黙っていた。

元親の足は自然と浜辺に向いて、海にたどり着く前に砂の上で止まった。私だけがサンダルを元親の横に棄ててどんどん海辺に近づいて、冷てえぞという元親の声も無視して波打ち際を追って貝を拾った。刺すように水が冷たかった。味噌汁の具にもならない、中身のない貝がらのかけらを拾っては左手に貯めた。握りしめていた蝋梅の花弁は潮水と貝がらでぐちゃぐちゃになった。

「名前、巴里に来いよ」
元親が浜辺から声をかけた。私は黙って黒っぽい貝を拾った。暗くて本当は何色かわからないが。
「あいつのとこなんか辞めて、俺んとこに来いよ」
あいつというのは、間違いなく私の上司のことだろう。やっぱり残る1つの答えは合っていた。元親とあの人は前から反りが合わない。私も前からの義理やら何やらであの人のところにいるが、あの人もまた他の人への義理やら何やらで今の仕事をしている。じきに潮時がくる、と頭のなかで銀縁眼鏡をかけたあの人が言った。私はぐちゃぐちゃになった貝殻と蝋梅を海に捨てた。
「全部終わったらね」
「……いつだよ」
元親は眉間にしわを寄せてたいへん嫌そうな顔をした。やっぱり昔から反りが合わないのだ。私があの人のいいように使われるのが元親は気に食わないし、私はとっくの昔それこそ400年前には慣れたし、あの人は自分が言う通りに私が動くのは当たり前だと思っている。あの人は今頃デスクで事業から離れるための諸手続きに奔走し、本当なら今晩私もあの人の隣でその手伝いをさせられていた。明日は今日やらなかった分にも手をつけなければ、と考えるとため息が出る。
「あと一月」
「本気か?」
「元就さまが今の事業を綺麗に降りる目処がついたら、すぐにでも追いかけていくよ」
「ハア!?あの野郎、ついに破産か?」
「違う、他の人に譲るの。あの人もともと今の仕事やりたがるような人じゃないし引き受けてくれる人がいたからこれを機に畳んで違うこと始めるみたい」
元親は思った通りの微妙な顔をして、元就さまが何を考えてるのか探るような視線をよこした。元親になら分かるかもしれないが、私にはあの人の考えることは到底掴めないので肩をすくめた。

「元就さまが本気でやったらあとひと月で余裕で退職できるの」
「いいけどよ……」
私は海から上がって砂のついた足のまま元親の横に放置したサンダルを履いた。いいけどよといいつつ呆れた顔をしてしゃがむので、私は心得たとばかりに背中にしがみついた。サンダルは立ち上がりざまに元親が両方引き抜いて器用に二足を片手にぶら下げた。
「巴里、行くの嫌か」
「全然。私第2言語フランス語だよ」
「そうだな」
元親はいつも大事なことは教えてくれないと続けた言葉は思った以上に拗ねたように聞こえて焦った。違うと否定する前に元親がよくない癖だなと続けて、私は泣きたくなって唇を噛んだ。あの時も、あの時もといくらでも数え上げることはできるけど、元親もきっと頭のなかで後悔を数えていると分かった。なので私は黙って元親の背に揺られてフランスに行ってやりたいことを考える。



/今度は私より長生きしてね

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