逃げているだけでは解決できないこともあると知ったのは、いつのことだろう。
例えば友達との喧嘩だったり、忘れてしまった宿題だったり、昔は今よりも、時間が解決してくれることがたくさんあったように思う。
だが大人になるにつれて生じた責任や立場は、私から徐々に逃げ場を奪っていった。逃げたくても逃げられない、そして逃げることは許されない。
それが社会において、お金をもらう代償であるのだと気付いたのは、新卒入社して半年ほど経ったある日のこと。私が慕っていた先輩が、仕事で大失敗して左遷された時だった。


「頑張っておいで。僕も傍にいるから」


とても1時間半程前に出会ったとは思えないほど馴れ馴れしいこの男は、私の恋人かなにかなのだろうか。広間まであと少しというところで立ち止まった私の肩に、ポンと手を乗せ微笑む青江をじっとりと眺めながら思った。
さて、じゃあそろそろ広間に行こうか。
青江のそんな言葉と鳴き出しそうな腹の虫をきっかけに覚悟を決めた私は、あらかたの荷解きを済ませた離れを出て広間へ向かっていた。
けれど、拒まれる可能性に怖気づいてしまったのだろう。ふと足を止めた私の心を読んだかのようにかけられた言葉には、悔しいけれど安心してしまった。


「……大丈夫だよ。いつまでもこのままじゃいられないし、仕事だからね」

「そう、その意気だよ」


それじゃあ行こうか。私の背中をポンと叩いた青江に続き、私は足を一歩踏みだした。そうすればおのずと広間は近付いて、私の手には緊張ゆえの汗が滲む。
数歩歩けば、あっという間に広間の目の前まで辿り着いた。
正直不安とか緊張で空腹感もどこへやらどころか吐きそうだけど、ここで尻込みしたら、きっと機会を逸してしまう。
それに、せっかく背中を押してくれた青江をガッカリさせてしまうだろう。
別に彼以外に敵扱いされたわけじゃないけれど、それでも今の私にとって、味方だと言ってくれた青江の存在は心強かった。


「さ、行ってらっしゃい」

「……うん」


すう、はあ。深呼吸をして覚悟を決めた私は、襖の向こうから聞こえてくる話し声に緊張しながら戸を開く。
すると中央に置かれた机を取り囲むようにして座る5人の刀剣が、一斉に私を見る。思わず、息を呑んだ。


「……失礼します。改めまして、本日こちらの本丸に就任致しました審神者です。先程は挨拶もままならず申し訳ありませんでした」


真摯さを示したかったのだろうか、深々と頭を下げた理由は自分でもよくわからない。
けれど私の言葉に対し、誰ひとりとして声を上げない。依然として、たくさんの瞳が私をじっとりと見つめているだけだった。


「前任者の方の件については既に伺いました。胸中お察し致します。突然のことで皆さん戸惑われていることと思いますが、誠心誠意頑張りますので、ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願い致します」


再び深々と頭を下げれば、前方から衣擦れの音が聞こえた。
心臓がどくりと鳴り、早鐘を打つ。どうしよう、まさか掴みかかられたり罵声を浴びせられたりするのでは。
そう恐怖する私の肩に何者かの手が乗り、びくりと震えた。


「いやいや、さっきは驚きのあまり失礼な態度を取ってすまなかったな!俺は鶴丸国永だ、これからよろしく頼む」

「えっあ、いや、そんな……えっと、こちらこそよろしく、お願いします」


次第に鼓動が落ち着いていくのを感じながら、目の前に立つ男を眺める。
柔らかく笑う男は鶴丸国永というらしい、なるほどどこもかしこも白いのは名前の鶴を模したものか。なんだか優しそうだし、人懐っこそうだ。
青江とはまた違う人好きのする笑みにほっと胸を撫で下ろせば、部屋の中央に座る小柄な緑色の目をした男の子が声を上げた。


「ねえ、そんなところ立ってないでこっち来たら?」

「そうだね。ほら、主」


私の背をぽんと撫で、青江が言った。
促されるように歩き出せば、つい数秒前まで張り詰めた空気が漂っていただなんて信じられないくらいの穏やかな声が私を包む。


「俺は蛍丸。これからよろしくー」

「あっ、はい、よろしくお願いします」

「……僕は小夜左文字」

「これからよろしくお願いしますね」


こちらに来るよう言ってきた緑色の瞳をした男の子は、どうやら蛍丸というらしい。その隣に座る青い髪の子は小夜左文字というそうだから、確か短刀のはずだ。

先程の鶴丸国永もそうだが、顕現させた時と比べ、随分と友好的になってくれた気がする。
私が離れに行ってから彼等の間でどんなやり取りがあったのかは知らないが、前は前、今は今と割り切ってくれたのだろうか。だとすれば私としてもありがたい。


「先程は事態が理解できていなかったあまり失礼な態度をとってしまい、申し訳ございませんでした。俺はへし切長谷部と申します。寺社の焼き討ちや家臣の手打ちから掃除まで、ご随意にお申し付けください」

「は、はい、ありがとうございます」


藤色の瞳をし、紫色の服に身を包んだ男――私が唯一苦手意識を抱いた刀、へし切長谷部に微笑まれて心臓がまた鳴った。言わずもがな悪い意味で、である。
だってついさっき私の顔を見て不愉快そうな表情をして、更に舌打ちまでしたんだ。
ほんの数十秒前まで割り切ってくれたのかな、なんて思っていたけれども、流石にこれはどうなのだろう。失礼な物言いかもしれないが、凄まじい掌返しを感じる。
とはいえそれを言葉にも表情にも出すわけにはいかないので、とりあえずは彼の態度に合わせておこう。納得はいっていないけれど。


「俺は岩融、武蔵坊弁慶の薙刀よ!しかし、新しい主は前の主よりも更に小さいなあ。今剣と同じくらいではないか?」

「失礼だぞ岩融。薬研か脇差兄弟と同じくらいだろう」

「がっはっは、そうかそうか!」


今剣、薬研。脇差兄弟とは、鯰尾藤四郎と骨喰藤四郎のことだろうか。
研修の時何度も聞いた刀剣の名前に、鍛刀部屋の片隅を思い出した。あとで刀帳を見てみよう。


「これからよろしく頼むぞ、新しい主よ」

「あ、はい、こちらこそよろしくお願いします」

「そう畏まるな、もっと楽にして良いぞ」


豪快に笑う岩融が立ち上がり、私の頭をわしゃわしゃと撫でる。髪の毛はあっという間にぼさぼさになったけれど、彼にも思っていたより受け入れられているのだと安心できた。
けれどその様子にまたしても違和感を覚えたのだろう、蛍丸がねえと小さな声で呟く。


「俺お腹空いちゃった。お昼ご飯食べようよ」

「そうだね、そろそろお昼の支度をしようか」

「え、食べるものって何かあるの?」

「さっきちらっと見てみたんだけど、畑は特にいじられてないみたいだからね。前の主の時に植えたものとかは収穫できる程度になってると思うよ」

「よし、それじゃあ着替えて収穫するか!」


そう言った鶴丸国永が小夜左文字と蛍丸を抱え、駆けながら広間を出て行く。
なるほど、最初にみんなで広間へ向かっていた時青江が離れの方を見て笑みを浮かべていたのは、その向こうにある畑を眺めてのことだったのか。野菜を収穫しみんなでお昼ご飯を一緒に作ることで、私達の距離を縮めようとしてくれたのだろう。
段々と遠ざかるにぎやかな声を聞きながら考えていれば、私のすぐ横に立った青江が口を開く。


「さて。君はなにか動きやすい服とか持ってきてるかい?」

「ううん、特に持ってきてない」

「それじゃあ収穫は僕達がやるから、君には別の仕事を頼もうかな」

「……別の仕事?」

「そんな大変なことじゃないよ。野菜を入れる籠を持っててもらうだけさ」


じゃあ行こうか。
言われるがまま歩き出した青江について行き、まだ勝手のわからない本丸をさ迷い歩く。


「みんなとはうまくやっていけそうかい?」

「……私自身にも少し戸惑いはある、けど。でも、思ってたよりはやっていけるかもしれない」

「大丈夫。僕がついてるし、みんな悪い奴じゃないよ」


その横顔はどこか他人事のようで、私の中に、また違和感が生まれた。
だってこの男は、前任者の死を悲しんでいるだろう彼らと私の距離を縮めようとしてくれて、きっかけを作ってくれて。
そんな青江が、私には“みんな”の枠の外にいる者だとはとてもじゃないけど思えないから。


「……青江も十分いい奴だと思うよ」

「ふふっ、光栄だね」


そんなことまったく思っていなさそうな笑顔を浮かべ、私の肩を抱き寄せる。……こいつは色々と、距離が近すぎやしないだろうか。
そう思いながら、馴れ馴れしいのは私も同じかと左肩に乗った青江の手の甲をつまんだ。


 
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