昔、両親の旅行によく行った宿がある。
東堂庵といい箱根に古くから聳え立つ老舗の旅館だ。母も父もその旅館を大層気に入っており、年に数回宿泊しては温泉に入り疲れを癒していた。
そしてサービスも他の旅館に比べると一品だ。流石老舗旅館。伝統に恥じないおもてなし精神だ、18歳の学生にして私もそう思えるほどの丁寧な接客とお客様の要望に応える心遣い。
何より女将が美人だ。あれでいい2児の母とは思えないくらい。一見クールビューティーな見た目とは裏腹にあたりのよい言葉遣いはいいギャップであり、好感が持てる。そして、その後ろにいてお姉さんの真似事のようにお手伝いをしていた尽八君も大層可愛かった。
初対面は、私が14歳、尽八君が6歳の年長さんの時だ。来年小学校に上がるという尽八君の初のお手伝いデビューだという座敷についたのが私達の部屋だった。格式の高い旅館故に女将や従業員も戸惑ってはいたが両親共に、一生懸命に頑張る尽八君が可愛くて仕方なかったのだろう。こちらこそ是非、一生懸命な尽八君の姿に感銘を受けお願いしたいと、立って希望したのだ。
そのお陰さまで東堂庵とも尽八君ともいい付き合いになった。

それから毎年夏の時期が来ると、家族旅行は箱根の東堂庵に決まっていて、必ず宿泊している。
それがもう5年目となった頃には、尽八君も私達がいつ来るのかを把握するようになった。
学校帰りだろう尽八君はネイビーのランドセルをぶら下げて恐る恐る部屋へとやってきた。
子供ではあるものの、旅館の関係者である尽八君が本来はお客様の間に入ることは言語道断ではあるが、私も母も父も尽八君がお気に入りなので、お手伝いデビューさながら、必ず尽八君には部屋にきてもらうように我儘を聞き入れてもらっている。
煮え切らない女将ではあったが、尽八君があまりにも弟のように懐いてるものだから、目を瞑っていた。そして、くれぐれも他のお客様の目に触れないように気をつけるようにと尽八君にキツく言い聞かせていた。

「#名前#ちゃん!久しぶりだな!」
「尽八君、久しぶり。また見ないうちに大きくなって、かっこよくなったね!」
「ハッハッハ!!そうだろう!!#名前#ちゃんも
相変わらず可憐な女性で…き、綺麗だ!」
「ふふ、ありがとう。さて尽八君、夕方まで時間ある?宿題とかあれば手伝うから終わってから今日は私と遊びに行かない?」
「…!もちろんだ!行こう!」

会えて嬉しいと言う感情が顔に溢れている。
可愛いとしか言いようのない尽八君は私に会うや否やぎゅっと抱きついてくる。
隣にいた尽八君のお姉さんの弥生ちゃんは尽八がいつもすみません、と困ったように笑う。弥生ちゃんも尽八君と共に遊べるといいのだが、「私まで遊んでしまうと監視役が居なくなりますから」と小学4年生にしてはしっかりとお姉さんをしていた。
いい年をこいた私よりも頼もしい。
まあそういう弥生ちゃんが気を遣ってくれるから、女将も安心して尽八君が出入りすることを承諾したのだろうが。


「さて、今日は何をする?」
「尽八君のほっぺ摘んでる」
「お、女の子がみだりに触ってはならんぞ!」

みだりなんて難しい言葉をよく知っているものだ。
ぷくっと膨れる尽八君が可愛くてしばらくそうして遊んでいた。
外に出かけようとも思ったのが。今日は来客が多いようで混雑したりするといけない、と縁側に座り、お茶を用意して室内でおしゃばりすることになった。
いつも通り、尽八君が近況やらを話し始めると思ったのに、一向に口を開く気配はない。
今回は珍しく半年以上振りに会ったので、積もる話はあったはずなのに、尽八君は俯いたまま、喋ることはない。
ザアッと大きく風が吹く。
伸ばしかけの髪の毛が風に揺れる。

「なあ、#名前#ちゃん」
「ん?」

強い風が収まった頃、ようやく尽八君は口を開いた。

「その…同じ学校に、好きな人はいるか?」
「えっ!」
「その反応は…、そういう対象の男子がいるのだな?」
「いやいや、ただびっくりしただけだよ!まさか尽八君からそんなこと聞かれるなんて」
「俺とて恋バナくらいするさ」
「そういう尽八君こそ好きな女の子居ないの?」
「俺には#名前#ちゃんしかおらんよ」
「いや、またまたぁ…」
「本気だ」

もう一度風が吹く。
俯いたまま話していた尽八君が今度はちゃんと私を見据えていた。