ボーダー本部 医務室長


 ボーダー本部医務室に所属しているのは医師が一人と交代勤務の看護師が三人。基本的に隊員全員がトリオン体となって戦闘を行うボーダーでの医務室の役割は、傷の手当ではなく隊員たちの体調管理とメンタルケアが主である。
 医務室長である苗字名前は会議室へ向かっていた。会議に出るわけではなく、本部長補佐の沢田に忍田本部長がそこにいると聞いた為だった。ちょっとした所用があり、早めに伝えておこうと書類整理が終わり時間のあった名前はその場に向かっていた。
 会議室前の大きな扉、扉の横のセンサーに手をかざせば、ロックが掛っていない会議室の扉はあっさりと開かれた。中には司令である城戸と名前の目的であった忍田、そして玉狛支部の林藤と迅が話しをしていた様子だった。使用中のロックが掛っていなかったため入ってきてしまったが、ひょっとして会議中だったのだろうか。そんな名前が口にする未来を”見た”のだろう迅がへらりと笑う。
「会議じゃないから安心して大丈夫だよ、名前さん」
「そう、よかった。お邪魔しちゃったのかと思いました」
「苗字が会議でもないのに来るのは珍しいな。どうした?」
「忍田本部長がここだと聞いたので」
 珍しい人選に忍田が微かに首を傾げる。基本的に室長は司令である城戸の部下であり、指示を仰ぐのも許可を得るのも城戸からである。理由に心当たりもないであろう忍田に、名前も申し訳なく思いつつ用件を告げる。
「この間の遠征後診断についてなんですが」
「ああ、診断結果の提出は今月も問題がなければ城戸さんに提出してもらえれば」
「太刀川君だけ来ていなくて」
 その言葉に忍田の表情が固まった。遠征後診断、言葉の通り近界へ遠征に行った者の体調や精神面に何らかの変化がなかったかを確認するものであり、遠征参加者は参加後に診断が必須となっている。本来ならば遠征についていけるのが最もよいのだが戦闘訓練もしていない名前が行くのは完全に足手まといであり、その為に遠征艇を大きくすることもできず遠征期間中は毎日朝晩にバイタル情報を送ってもらいそれをチェックしていた。その後の変化を鑑みて、遠征終了後すぐに一回と経過観察に半年は半月に一度程度、医務室へ足を運んでもらうこととなっている。
「慶が最後に来たのは」
「一月前です。会う度に声かけはしてるんですが防衛任務と被ってしまうようで、次に会ったときにでも――」
 既に帰ってきてからもうすぐ半年であり一月前の診断にもなんの問題もなかったので急ぎではなかったのだが、忍田は最後まで話を聞かずに会議室を飛び出して行ってしまった。話の途中ではなかったのか、大丈夫だったのだろうかと一番近くにいる迅を見てしまう。
「ああ、大丈夫だよ。次の遠征の計画練ってただけで、また後日収集かかると思うよ」
「なるほど。では私はこれで」
「あ、俺も一緒に行こうかな。いいよね城戸さん」
「話は終わっている。好きにしろ」
「はーい、それじゃいこっか名前さん。鬼怒田さんのところでしょう」
 城戸と手を振る林藤に一礼をし、名前は会議室を後にする。迅は何かを見て名前についてきたのかもしれないが、そんなサイドエフェクトを持っているわけではない名前にはついてきた理由がわからず内心で首を傾げた。


 苗字名前は迅悠一が城戸と共に医務室長にとスカウトに行った医師である。元々三門市出身であった名前は他県で医師として働いており、帰省の折に迅が彼女を発見した。丁度、元々医務室で働いていた医師が退職を希望していたタイミングもあって、城戸と直接話をしに行く運びとなった。
 三門市の現状については把握していたのだろうが、ボーダーの詳細を知らなかった彼女は説明を続けるにつれ、何故自分に声をかけたのか不思議そうであった。その問いに誤魔化さずに答えることが最善の未来へと繋がっていた。
「正直にいいますが、貴方に声をかけたのは貴方のサイドエフェクトが目的です」
 ボーダーへの就職が決まった後に、彼女のサイドエフェクトは「幸福誘導体質」と名付けられる。サイドエフェクトの名前の通り、幸福を誘導する体質であり、ボーダー内ではBランクの特殊体質に区分される。このサイドエフェクトが効果をもたらすのは彼女自身に対してではない。彼女を経由して、周りの人間にのみそれは幸福をもたらす。彼女自身に対しては何の意味もない、今の迅のように、知られてしまえばそれを目当てにさえされてしまう正真正銘の副作用。
 話を聞いた彼女は少々悩んで、迅の”見た”未来通りボーダーへの就職を決めた。副作用からか人柄か――その両方からかもしれないが――人に好まれやすい彼女は務めていた病院を惜しまれつつ退職した。そのサイドエフェクトに疑心暗鬼であった鬼怒田や根津も、その身で実感すれば文句のつけようはなかった。
 特に鬼怒田は別れた妻と共に彼女の実家で暮らしている娘と彼女が、病院で知り合い年の離れた友人として文通をしているという偶然に驚いた。その後ボーダーで働き始めてから会いに行く暇もなかった鬼怒田は、彼女から初めてもたらされた娘からの連絡にひっそりと泣いて喜んでいた。
 彼女を通して個人はもちろん、ボーダー組織そのものにも時よりもたらされる幸せに迅は嬉しくも申し訳ない気持ちになる。ボーダーに、そして今や過去の記憶の中にしかない彼らの意志を継ぐと誓って未来を見ている迅とは違う。何も知らない彼女からただ搾取しているのだと――そう思ってしまうのだ。ちらりと覗く、隣の彼女の背筋は今日もぴんと伸びている。


 視線を感じて隣を歩く迅を見る。しっかりと合う視線に迅はにっこりと笑ってみせる。彼のサイドエフェクトは未来視であって、心を読んだり考えを読んだりするものではないけれど、彼はとても洞察力に優れ、そして何より隠し事が上手い。
「迅くん、今何を考えていますか」
「名前さんとご飯食べにいきたいなって考えてる」
「いいですよ。お姉さんが奢ってあげます」
 実際の所、固定給プラス出来高払いの戦闘員である迅の方が入ってくる給料が多いこともあるのだろうし、彼もお金には困っていないのだろうけど。どうもボーダーに所属する彼らは一般人よりも大人びていて困ると、この間自販機の前で高校生にさらりと奢られそうになって肝が冷えたことを思い出す。
 問題の自販機に足を止めた。
 今隣にいる彼もあの高校生同様に妙に大人びているが、子供に変わりないのだと名前は思う。隠し事の上手い彼の本心はわからないし、彼のその言葉が実現される未来が来るのかなど未来視を持たない名前にはわかりようがないけれど、彼はまだ子供だ。
「迅くん、少なくとも私に関しては貴方が引け目を感じる必要なんてないですからね」
 白衣のポケットに裸で入っていた五百円を入れて、光るボタンをじっと見つめる。
「私の選択は私がしたものです。その過程がどうであれ、私が選択したことにかわりありません」
 ブラックコーヒーのボタンを押す。ガゴン、と音を立てて取り出し口に出てきた缶はそのままにココアのボタンを続けて押し込んだ。
「未来を決めるのは貴方じゃありません。だって私の人生は貴方のものではありませんから」
 取り出し口から缶を二つ取り出して、優しい色合いの物を彼に差し出した。私の手に残った黒く苦い飲み物は彼には似合わない。
「貴方はまだ子供です。幾ら能力を持とうとも、それを使おうとも、全ての結果の責任は貴方にはありません。それを持つのは大人の仕事です。子供とはそういうものなのですよ」
 こう言ってもその能力がある限り彼はそれを持とうとするのだろう。受け取った缶を眺めて何も言わないこの可哀相な子供が、幸せになれますようにと名前は祈った。




執筆/公開 2018.10.27


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