中
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「ここは……」
周囲を見渡せば、白と赤の彼岸花が一面に広がる、浩渺たる花畑に立っていた。地平線の向こうまで続く花の群れだが、その中に一輪のみ青い色をした彼岸花が凛と佇んでいた。
鬼の首魅が六百年探し求め、終ぞ見つけることの叶わなかった青い彼岸花は、陽光の寵愛を受け淡く輝き、得も言われぬ魅力を醸し出している。侍は惹かれるままにその花に近づき、茎に手をかけて中程から優しく手折った。
「どおりで見つからぬ筈だ、青い彼岸花……斯様な場所にあるとは」
ヒノカミの愛する花は夜の世界には咲いておらず、愛寵の届く蒼穹が広がる世界、それも黄泉にしか存在し得ぬ花なれば、なるほど、彼の方が数百年探しても見つからぬ筈だと侍は一人納得する。どうせこの身は既現世の身に非ず、と戯れに小さい花を一つ口に含めば、草の仄かな味が口内に広がり少し眉を顰めた。その次の瞬間、体を熱が走り、侍は六つの目を見開く。瓦解する感覚の後に視界が暗転した。
「……ぅえ!!」
「……ぁ!!」
顔も覚えていない家族。鬼狩りたち、そして恥に塗れた幼少の記憶。侍が声なき声に目を開ければかつて捨て去ったものたちが走馬灯のように瞬く間に流れていく。
剣を極めることも、弟を越えることも、同じ世界を見ることすら叶わなかった。透き通る世界に至っても、全てを捨てても、己は何も成せなかった。深い失意が身を包み込む。そうした中で見えたのはどうしようもないほど美しい赤い月だった。しかし如何したって地を照らすには光量が足りぬ。唯々貧弱に光るのみで太陽のように遍くを照らすことは永遠に叶わぬ。侍は全身が黒い波に浚われた。
「神に愛された弟が憎かった、妬ましかった」
「お前が笑うとき、いつも気味が悪かった」
「お前だけがなぜ特別なのだ」
「俺は……お前(日の本一の侍)になりたかった」
そこまで考えた時、はて、何故弟になりたかったのだったかと侍は疑問に思った。走馬灯が最後に見せたのは、積もり積もった怨毒と後悔が覆い隠していた穏やかな幼少期の記憶とそこに宿る感情だった。
「嗚呼、弟を守りたかったのか……」
己より強い者を守るなどと考えることは烏滸がましい。なにを馬鹿なことを、と頭の片隅で吐き捨てる自分がいる。しかし一度思い浮かんだ一つの答えは消えてはくれない。だが、思い浮かんだとてそれを成すことなど凡才な己になど不可能だった。優れた弟に対してどす黒い感情しか向けられない醜い己に侍は殊更腹を立てた。
何も成せない己は何のために生まれてきたのだ。ややもすると無意味な生だったのかもしれぬ。
「教えてくれ、縁壱(よりいち)……」
「兄上、人の生の意味に答えは出ないのかもしれません」
「縁壱……!?」
抑揚のない声が聞こえ、侍が目を覚ますと少し狭くなった視界に、つい先ほどまで相まみえていていた白髪の翁では無く、人であった頃に見た最後の姿である弟が佇んでいる姿が入った。周りの彼岸花と共に赤丹を帯びた猫っ毛の黒髪を風に遊ばせながら、何かを思い出すように彼方を見つめている。
「俺は何も成せなかった、使命であったかの鬼の討伐さえ叶わなかった……」
一際鋭い風が吹く。縁壱の声が小さくなった。
「何も守れなかった、意味の無い人生でした」
その言葉が鼓膜を揺らした瞬間に侍の胸中を占めたのは信じられぬ、その一点であった。
凡庸な己と違い、神に寵愛されし人格者である肉の片割れ。それ程の人物の人生に意味が無かった訳がない。巌勝は眉を顰める。
縁壱の独白は続く。
「妻も、生まれてくる筈だった吾子も、いくら身体が頑強に作られていても鬼の魔の手から逃れさせてやることが出来なかった。鬼の頭領を落とすことは叶わず、また新たな悲劇を生むことを許容し、兄が鬼になることも止められず、出来たのは首を落とすことだけだった」
縁壱の赤みを帯びた深淵を覗くような目が巌(みち)勝(かつ)を射貫く。そこに宿るのは、諦念と失意、後悔といった暗い感情の色であった。
「そんな人生に、何の意味がありましょう」
空は皮肉なほどに好天であるのに、天照る太陽は岩戸に隠れようとしているのか、くすんだ色を宿し、常の力強さが失われ、萎びた光を放っていた。未だ揺れる赤い彼岸花は緩やかに踊る炎ようである。