巌勝は淡々と吐き捨てられたものに返す言葉が見つからなかった。何を言っているのだこいつは。彼には目の前に居る弟が得たいの知れないなにかに見えた。
「……」
「兄上、俺は兄上が仰るような大層な人間ではありません……ただの、何も成せなかった空しい男です」
「それは……」
 は、何を言っているのだ、こいつは。死して尚、巌勝はやはり弟が何を考えているのか分からなかった。少なくとも呼吸術を広め、鬼狩りの戦力向上に貢献し、神の化身と見紛うほどの剣技を振るっていた。それで何も成せなかっただと。どこまで謙虚なんだこやつは。やはり人格者……。巌勝は腹の内でどろどろと粘っこいものが回る音を聞いた。
 そこではて、先ほどこやつは妻と言ったかと先の縁壱の言に引っかかりを覚える。そうか、妻がいたのか。弟に情欲があった事に、後頭部を金槌で殴られたような衝撃が全身を乱れ打つ。そこまで考え、己が妻子を捨てて鬼狩りに入ったことを思い出し、何ともいえぬ心情になって真顔になる。剣の道を極めんとしたことに後悔はない。後悔するくらいなら鬼には成ってはいない。ないが……。
 巌勝が思考の海に溺れている間にも縁壱の独白は続いていた。巌勝はその度に思考を宇宙に飛ばし、遙か彼方に存在するという星々が織りなす、光の川や踊る小人たちを垣間見ていた。
 縁壱は記憶を手繰るように遠くを見やった。
「俺は侍になれば敬愛する兄上のお側に居られると思い、日の本で二番目の侍になりたいと思いました……しかしその後に人に竹刀を叩き込んだ際に手に伝わった感触は、とても気持ちが悪かった」
「気持ちが悪かった……だと?」
「はい」
 初耳である。鬼狩りであった時には表情一つ変えずに鮮やかな剣技でもって鬼の首を狩っていた弟が実はその感触を疎んでいたとは。もしかしたら弟はその剣才が疎ましかったのかも知れない。巌勝は愕然とし、目を見開いたまま銅像のように固まった。
 二人の間を吹き抜けた奇妙に湿った風が肌に纏わり付くようで気持ちが悪かった。
「ならば鬼を狩り続けられたのは、妻子を失った復讐心と、人々を鬼から守るという使命感からか」
「はい。……兄上は何故鬼狩りに入られたのですか」
 巌勝は縁壱の全てを見透かすような視線に居心地が悪くなる。弟は、得体の知れない、理を壊す神の如き聖人ではなく、至高の剣技を持つ、慈しみを持つ唯の人であった。何かを恨むことが出来る、人であった。
 己はなんと筋違いな感情を抱いていたのか。やはり醜い己はこの弟の兄としては相応しくはなかった。もはや血鬼術もつ変えぬ身であるのに、自ら生成した刃が身を焦がしていく。
 弟の問いに、家臣の屍が積み重なり、鉄の匂いが充満していた悍ましい森の風景を霞がかる記憶のままに思い浮かべた巌勝は、胃が重くなるのを感じながら答えた。
「……私はお前の強さと剣技と強さを、どうしても我が物としたかった。……失望しただろう、私はどうしようもなく自分勝手で浅ましい人間……鬼、なのだ」
 縁壱が息をのむ気配がした。巌勝はバツが悪くなり俯くことしか出来ない。軽薄な己に吐き気がし、気道にせり上がる感覚を目を外界を拒むように強く閉ざすことでやり過ごす。どうしようもない嫌悪感が巌勝の全身を勢いよく血流に乗って巡っていたとき、縁壱の声がその流れに干渉した。
「……兄上、幼少の折、反応を返さぬ俺に読み書きや遊びを教え、遊びを教え、笛を与え……温かい感情を教えてくれたのは兄上です」
「あれは耳の聞こえぬと言われていたお前を哀れんでいただけだ」
「いいえ、それでも、地に足つかぬ俺をつなぎ止める切欠となってくれたのは兄上の優しさです……あれがどれだけ嬉しかったか。兄上は、決して浅ましいだけのお人ではない」
 縁壱がそこで一端言葉を切った。続く言葉は力強い声音を以って紡ぎ出される。
「せめてこれだけは忘れないでください。兄上は、優しく、気高いお人でもあるということを」
 その言葉は礫となり巌勝の水面に小さな波紋をもたらした。それは徐々に広がり、心の臓に達する。そこは怨毒と失意に侵され、凝り固まっていたが、いつしかそれを解く一石となるだろう。
 巌勝は目の周りから力を抜き、噛んでいたせいで血の味が広がる口から一つ息を吐き出す。意図せず握っていた拳も解く。そこからは赤いものが流れる感触した。縁壱はきゅっと口を引き結んでいた。

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 実際は数分だったのかも知れないが、永遠にも等しく感じられる時間が流れた。両者の間に流れるどこか緊張した空気が緩まった頃。巌勝は縁壱をしかと見つめ口を開いた。
「縁壱、これだけは言っておかねばならぬ。お前は決して空しい男ではない。私の憧れであり、至高の剣技を持つ剣士であり……優しく慈愛の心を持つ立派な者である、ということを」
 縁壱の気配が微かに揺らいだ。心なしかそわそわしているように見える。
巌勝はしかし、どこからか炎が燃える音を聞いた気がして目を伏せた。
「俺は多くの人を害し、不幸をばらまいた。……罰を受けねばならない」
縁壱は兄上、と小さくつぶやく。巌勝は微かに口角を上げて微笑んだ後、くるりと身を翻し縁壱に背を向ける。彼の足下の赤い彼岸花の花弁が数枚空間に舞った。
「私は地獄へ行く。すまなかった。……さらばだ、縁壱」
 謝っても取り返しがつかないことは分っていたが言わずにはいられず、背を向けたままぽつりと言った後、巌勝は弟に別れを告げた。
 彼はいつの間にか出現していた紅蓮に燃えさかる炎の中へとゆったりとした足取りで進んでいく。罪人を飲み込まんと踊り狂う業火が彼を喰らい、紫が赤と同化し見えなくなると幽玄のように消えていく。それを見送った縁壱は、ふと言葉を零す。
「さようなら……兄上」
 縁壱の背後には見事な虹が架かり、七つの色がそれぞれの存在を主張して鮮やかに輝く。白い彼岸花の花弁が風に踊れば、既に亡くなった筈の妻が腕に抱くことの叶わなかった吾子を慈しむように胸に抱いて、振り向いた先に立っていた。
 彼女は黒曜石のような大きい目を細め、口角を思いきり上げて鈴の音の様な声で言葉を紡ぐ。
「よう頑張ったのう、縁壱……おかえりなさい」
 縁壱は微かに笑い、足は地を蹴り、愛しき人の元へと軽やかに進む。それはさながら初めて飛び立つ雛鳥のように危うげで、楽しげな様だった。
「……ただいま、うた」
 そのままうたの横に並び立つと、虹の橋に足をかけ、そのまま体重を移動して上に乗る。七色の橋は彼の鍛え抜かれた体とうたの二人の重さが加わろうとも瓦解することなく、天への道を指し示していた。
 何処までも青く、雄大な空と遍くを暖かく照らす陽光に抱かれながら三人は七色に輝く橋を渡っていく。そうして残された花畑は、日光を吸収して柔らかに煌めき、さわさわと風に揺られて歌を歌っていた。

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時は平成。とある病院では若い母親が、正確には今にも母親にならんとする女性が悶えながらも必死に力む。そうして数時間の後に二つの産声が上がった。
 双子の先に生まれてきた方には太陽のような痣が、後に生まれてきた方には月の模様のような痣があった。彼らはそれぞれ縁壱、巌勝と名付けられ両親にたっぷりと愛情を注がれて元気に育つことになる。
 明治から双子の兄と弟の決め方は変わったため、関係性が逆となった双子はこう思ったそうな。
(私は長男ではないのだな。それにしてもまた縁壱と双子か)
(また兄上と双子になれた)
と。
 継国の一家では度々宇宙猫顔になる弟と、ほわほわを連れている兄が見られるとかなんとか。