兄上がピアノを弾く話-1

 グラウンドからは運動部の快活な声が聞こえ、校門からは帰宅する生徒たちの楽し気な笑い声が響く。そんな日が傾き始めた哀愁漂う秋の日。斜陽が差し込み、珍しく誰もいない閑散とした音楽室を茜に染め上げる。そんな中、重厚な扉を開けて室内に入りくる者が一人。
 少年から青年に羽化しかけの年の頃の一人の生徒が、外に跳ねる癖毛を躍らせながら歩みを進める。凛と侍然としたその生徒は近くにあった机に荷物を下ろし、徐に手に握っていた鍵をピアノの鍵穴に差し込む。
 軽快な音が開錠を告げると、その生徒はかすかに口を綻ばせながら黒い蓋を押し上げる。中からは黒と白の鍵盤たちが澄ましながら奏者を真っすぐ見つめていた。少年は椅子に座ると鍵盤たちの頭を一撫でする。
 冴えた呼吸音が一つ、静粛を宿す部屋に響く。彼はそっと瞼を閉ざし、現実世界とのつながりを絶った。
 小さく鐘の音が鳴る。それに呼応するように幾つかの教会の鐘が鳴った。厳かで切ない音色と共に繰り返される答えのない問いかけ。返事は返って来ぬままにそれらは夜の闇に呑まれていく。湖では精霊たちが踊る。冷たい月に照らされながら波紋を広げくるり、ひらりと蝶を思わせる動きで軽やかに舞う。憂いを知らぬと言わんばかりにどこまでも明るく湖を彩る。鐘が悲し気に響き渡った。
 静粛の後に内に暗闇を内包した風が吹き荒れる。舞っていた精霊たちは風に乗ってどこまでも陽気に歌う。
 風が大空に打ちあがる。数多の星が輝く夜空に見守られながら穏やかに踊る。そのうち、楽し気な歌が響き始めた。哀切を込められた音に気づかぬままに。
緩急、強弱。あらゆる技術を以て紡がれていく物語が微かに外に漏れ出でる。精霊たちが窓から外に飛び出していった。
 一帯の鐘たちが一斉に鳴り始め、音が重なり、喜怒哀楽が紡がれ嵐のように鬩ぎあった。湖に残された精霊が雲がかかった空を見上げ、一番近くの寂れた時計塔の鐘の音に耳を傾ける。在りし日はそれはそれは荘厳な姿をしていただろうその時計塔は彫刻は崩れ落ち、色も抜け落ちて見る影もなかった。
 時計塔の鐘は悲痛な音で湖を満たした。精霊は己の内で崩壊の音を聞いた気がした。
 教会の鐘の音は止み、時計塔の鐘のみとなる。
 精霊が目から血を流し荒れ狂う。踊りはおどろおどろしい呪歌となった。黒く渦巻く優しい風が精霊を雁字搦めにする。闇に慈しまれた彼は崩れはて海の藻屑となった内面を隠し、穏やかに舞う。顔には微笑みを浮かべ、ただただ己に課された踊りを舞った。魔性の月に照られながら、夜闇を裂く重厚な鐘の音を聞きながら、水を纏わりつかせながら天上の舞にも等しい冷涼な踊りを続ける。