兄上がピアノを弾く話-2
やがて一陣の風が湖を巻き上げると、黒い靄と共に全てが夢幻のごとく消え去る。そこには鐘が絶えず無機質な音を鳴らしているのみで生物の気配すらなかった。
ポーン……。最後の一音が名残惜し気に室内に響く。瞼を開けば時計塔の幻が消え去った。彼は詰めていた熱い吐息を一つ吐き出す。そっと指を降ろすと仕舞い込んでいた記憶の波が一気に押し寄せてくる。
数百年にわたる腹の内に抱えた猛毒に侵される日々。燦然と輝く日輪を見たあの日。命の刻限が近づき焦燥を感じていたところに見た光。月輪たる己は日には届かぬと諦めを付けた幼い日。
何度思い返しても苦い思いがこみ上げてくるが、日が傾きかけているのを思い出して、帰り支度を始める。そろそろ双子の弟が部活を終えてこちらに向かってくるはずだ、と彼がなんともなしに扉を見れば大きなエナメルバックを持った弟がいた。巌勝は短く瞬きをする。
「縁壱……部活は終わったのか」
「はい」
縁壱が小さく頷く。その拍子に赤みを帯びた髪が軽く揺れる。赤い目が物言いたげに巌勝を見つめていた。
巌勝は鍵盤たちを眠りに就かせようと赤い敷布を取り出す。
「そうか、少し待っていてくれ」
慣れた動作で敷布を広げ、片づけようとした時、どこかおずおずとした声が彼の耳朶を打った。彼は敷布に手を掛けたままの姿勢で弟の方へと頭を向ける。
「あの、兄上」
「どうした」
視線の先にはいつもと変わらぬ無表情の縁壱が居た。彼は何度も口を開いては閉じることを繰り返し、右手が所在なさげに少し上げられていた。
巌勝が彼の口が言葉を紡ぐことをじっと待っていると、彼は遠慮がちに口を開く。
「……一曲弾いていただけませんか」
「え……ああ」
そんなことか、と虚を突かれた巌勝は赤い布を再び畳むと、黒と白の踊り子たちに向き合った。虚空に目を向けた後、鍵盤を叩き始める。
微睡みを伴う春の宵。月が輝き、桜が舞い散る。どこか退屈で鈍重なその時間は刹那に過ぎない。いつかは終わる、穏やかな夢。……日常が突然に壊されるように。
哀愁漂うその曲は提灯に照らされぼんやりとした光を放つ桜の大樹と、きらきらと輝き戯れながら散っていく宵の情景を思い起こさせた。二人の脳裏に浮かんだのは、かつて戦国の世で飲んだ花見酒。満月の夜であった。珍しく二人して酔っ払い、そのまま縁側で寝、朝に様子を見に来た炎柱に起こされ赤面した。まだ痣者の寿命が判明していなかったころで、巌勝も少し心の余裕があった頃のことである。
演奏が終わると、巌勝の耳が薄く色づいていた。縁壱が視線を向けても鍵盤に目を落としたまま銅像のようになっている。縁壱は不思議に思いながら巌勝の方へ歩み寄った。
「兄上、昔花見酒で酔い潰れたことがありましたよね。その後炎柱殿に、」
「やめてくれっ」
苦笑いされながら起こされましたね、懐かしいです。と続けようとした時、顔を茹でさせた巌勝が勢いよく縁壱を振り返る。
縁壱の周りだけ一瞬時が止まったがすぐに再起すると巌勝をまじまじと見た。
「兄上、あの後何処に行かれたのですか」
巌勝は顔を背け窓の方を見やる。
「……井戸に顔を洗いに」
「そうですか」
日は既に山の端に落ちかけていた。その後、兄弟は教師に追い立てられて慌てて校門の外に出ることになるのであった。
― 完 ―